心の絆 ー前編ー
澄子と最蔵は五回目の外出を迎えた。
この日は特別な日であり、最蔵にとっても澄子にとっても大事な日であった。
澄子は最蔵の家族に初めて会うことになり、緊張していた。
しかし、最蔵は澄子を気遣いながら、あまり心配しないようにと言った。
その日は唯一一人しかいない親族である最蔵の母の兄、三神健司の家へ向かうことになっていた。
最蔵の家に向かう途中、静かな道を歩きながら、澄子は少しずつ緊張が解けていった。
お互いに言葉少なに歩いていたが、最蔵はどこか遠くを見つめながら歩いているように見えた。
その表情に澄子は少し氣になった。
そうして数分の沈黙が続いた後、最蔵が突然、澄子に話しかけた。
『澄子さん、少しお話しさせていただきたいことがございます』
その声には、どこか真剣な響きがあった。
澄子は少し驚きながら、最蔵を見つめた。
『どうしたの?』
最蔵はしばらく黙って歩き続け、空気を切り裂くように言葉を続けた。
この時、澄子は、かなり重い話だと直感的に感じて言葉を失った。
最蔵の目にはどこか苦しみの色が浮かんでいる。
そんな最蔵の姿を見て、澄子は何があったのかを想像しようとしたが、その苦しみがどれほど深いものなのか、うまく理解できなかった。
『私がお墓を蹴った日のことを覚えていらっしゃいますか?』
『はい。……覚えてます』
『私のおばあちゃん、明慶千代は、50年前の10月1日に起きた事件で犠牲となりました。当時、6歳であった私の母・明慶燈子は、その日が母の誕生日でいらっしゃいました。母は私を産んだ後から精神的に不安定になり、私に冷たく接するようになりました。食事をほとんど与えられず、物を投げられたり、頭からお酒をかけられたりする日々でございました。
母は孤独を埋めるために不特定多数の男性と関係を持ち、誰の子であるかもわからない子を産み続けました。それは気晴らしから始まり、やがて習慣になりました。母は次第に心が空っぽになり、私が母を信じたくても、冷たく遠い存在となりました。それでも、母が一度だけ見せてくださった笑顔は本物だと思いたかったものです。
しかし、私が12歳の頃の10月1日、学校から帰宅すると、家はいつもと違って静まり返っておりました。母の部屋に参りますと、母が首を吊ってお亡くなりになられていたのです。目を閉じた母のお顔には、微笑みが浮かんでいるように見えました。その場で私は何もできず、ただ立ち尽くすしかございませんでした。
母の最後は何を思っていらっしゃったのかはわかりません。ただ、その微笑みが今でも忘れられず、母を救えなかった自分を悔やみ続けております』
澄子は最蔵の言葉に思わず足を止めた。
最蔵が打ち明けた話に涙が溢れそうになったが、それでも最蔵を温めたいと思い、見つめ続けた。
二人は静かな道の途中、いちょう並木の中で立ち止まり、その場で共に涙を流した。
最蔵が背負ってきた重い過去、母の死という衝撃的な出来事に、澄子は心の中で何度も何度も最蔵を抱きしめたいと感じていた。
しばらくして、最蔵がゆっくりと口を開いた。
『母が亡くなった後、私は伯父さんに引き取られ、育てていただきました。これからご挨拶に伺う健司さんが、私を育ててくださったのです。健司さんがいらっしゃらなければ、今の私は存在しておりません』
澄子は最蔵の言葉を静かに聞きながら、変えられない過去の痛みがじわじわと伝わってきた。
どれほど孤独で心の中で戦ってきたのか、親を失う痛みの大きさは計り知れないものがある。
その一方で、澄子の心は悲しみと痛みでいっぱいになった。
最蔵は遠くを見つめながら、あの日々を振り返るように語った。
『健司さんは私にとってはまさに父親のような存在でいらっしゃいます。健司さんの支えがあったからこそ、私は今こうして生きているのでございます』
澄子は最蔵の手をしっかりと握った。
それは言葉では表現できないほどの温かさと安らぎを感じた。
澄子の目に涙が浮かんだが、それは最蔵の過去を知ったことによるものだけでなく、最蔵がどれほど強く生きてきたかを理解したからこそ溢れ出てきた涙だった。
『最蔵さん……』
澄子は静かに声をかけ、優しく最蔵の顔を見つめた。
『あなたはとても強い人です。私、最蔵さんの過去を知って、もっとあなたを大切にしたいって思いました』
最蔵は一瞬驚いたように澄子を見つめたが、その後、深く頷いた。
『ありがとう、澄子さん』
二人はしばらく黙って歩き続け、澄子は心の中で最蔵に寄り添いたいという強い気持ちを抱きながら、静かにその歩みを共にした。
そしてついに、健司の家の前に立った。
純和風木造の家屋で、庭には丁寧に手入れされた盆栽が並んでいる。
その景色に澄子は少し緊張しながらも、どこか温かい空気を感じ取った。
最蔵が鐘を鳴らすと、中から低い声で『どうぞ』と返事が聞こえた。
玄関の扉が開き、健司が姿を現した。
健司は背が高く、どっしりとした体格に穏やかな表情をしているが、その眼差しには厳しさが宿っている。
健司は最蔵と澄子を見ると、少し微笑みながら言った。
『よく来たね、最蔵。そして、澄子さんでいらっしゃいますね。お話は最蔵から伺っております。さあ、どうぞお入りください』
澄子は深く頭を下げ、挨拶した。
家の中に入ると、広々とした和室に案内された。
床の間には立派な掛け軸と花瓶が置かれており、どこか威厳を感じさせる空間だ。
三人が座布団に腰を下ろすと、自己紹介をした。
『改めまして、私が三神健司と申します』
『初めまして、澄子と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます』
健司は一瞬考えるように間を置き、重い口調で切り出した。
『もう、お話はお聞きになっていらっしゃいますか? 事件のことなどについて…』
『はい……』
澄子は緊張した面持ちで答えた。
『そうですか………』
その後、しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。
『…………………………………』
『……………………………』
やがて健司が静かに口を開いた。
『最蔵が初めてこちらにお越しになった場所が、このお部屋でございます』
健司の視線は床の間の掛け軸に向けられているが、その目は過去を振り返るかのように遠くを見つめていた。
『私は最初に生まれた最蔵だけを家族としてお引き取りいたしました。非常に冷たいようでございますが、他の子どもたちは施設にお送りいたしました』
澄子は言葉を失いながらも、健司の語る言葉に耳を傾けた。
その声には、深い傷跡が滲んでいる。
『当時の私には、全ての子どもを育てる余裕がございませんでした。しかし、それだけではなく、他の子どもたちには施設の方が適していると判断いたしました。そこは、兄弟姉妹全員が一緒にいられる環境を提供できる場所でございました』
一瞬、健司の声が震えた。
『もちろん、この決断が正しかったのか、今でもわかりかねます。しかし、最蔵だけを一人の子として大切に育てたいという意思は、非常に強くございました』
澄子は健司がこうした決断をした際にどれほどの葛藤を抱え、どれほどの自己犠牲を払ったのかを察した。
健司の決断は、人生に深い影響を与えていた。
その影響は、健司の言葉や態度の端々に感じた。
健司は少し俯いたまま続けた。
『お越しいただてるのに、突然重いお話をして、すみません』
健司は再び視線を上げ、静かに言葉を紡いだ。
『お話しいただき、ありがとうございます。最蔵さんがここまで立派に育たれたのは、決して簡単な道のりではなかったと思います。幼い頃から様々なご苦労を乗り越えられ、そして今、最蔵さんは剛徳寺の副住職となられました。それは健司さんの支えがあったおかげだと思います』
澄子は頭をふり、涙目で健司の言葉を一つ一つ胸に刻み込みながら真剣に答えた。
『最蔵さんからこれまでの歩みを伺い、改めて強さと優しさを感じました。私も最蔵さんを支えるよう、精一杯努めさせていただきたいと思います』
健司はその言葉に頷きながら、ふと目を細めた。
『最蔵は昔、あまり人に頼ることが得意ではございませんでした。しかし、澄子さんのような方がお側にいらっしゃることで、最蔵も少しずつ変わられたのではないかと思います』
『澄子さんと、…健司さん……………、いや、お父さん(伯父さん)のおかげで、今の私がございます』
最蔵はその言葉に少し照れたように視線を落としながら、心からの感謝を込めて静かにそう告げた。
その瞬間、健司が固まり、震えるように目を見開いた。
『今、なんて言った?!』
『お……お父さん……』
『それは私のことか?』
『はい』
健司はその言葉をまるで夢の中で耳にしたかのように繰り返した。
健司の大きな手が膝の上で握り締められ、その力強い指がわずかに震えている。
過去の苦悩、そして自分がした選択へ、そのすべてが一気に溢れ出したかのようだった。
『そんなふうに呼ばれる日が来るなんて……思ってもいなかった……』
健司の声は嗚咽にかき消されるほど弱々しかった。
健司の頬を伝う涙は、長い年月を経てやっと解けた氷のようだった。
その場の空気は静寂に包まれていたが、感情の波は言葉以上の熱を持って部屋全体に広がっていた。
澄子は目の前の光景に胸が締め付けられるような思いを感じながら、そっと二人の間に歩み寄った。
そして、ためらうことなく両腕を広げ、健司と最蔵を一緒に抱きしめた。
『健司さん、最蔵さん……あなたたちは、もう十分に頑張ってきました』
澄子の声は優しく、まるで暖かい春風のようだった。
その言葉は二人の心の中に深く染み渡り、これまで抱えてきた痛みをそっと癒やしていった。
最蔵は、澄子の肩に顔を埋めながら、静かに涙を流した。
最蔵の体は小刻みに震えていた。
健司もまた、澄子の腕の中で声を上げて泣いていた。
『うっ……ありがとう……ありがとう………うぅっ…うあぁぁあぁぁっ…うああぁぁぁ』
澄子は二人の頭をそっと撫でながら、母親のような温かい微笑みを浮かべた。
涙を流し続ける二人を、澄子は強く抱きしめたまま、いつまでもその温かさで包み込んでいた。
その抱擁には、過去の痛みを洗い流し、未来を繋ぐ力が宿っていた。
外では風が静かに吹き、いちょうの葉が揺れていた。
その葉の一枚が風に舞いながら、広々とした空へと消えていく。
三人の絆は、これからも新たな季節へと繋がり続けるように、永遠に続くものであった。
健司の家の仏間に入ると、仏壇の中央には釈迦如来像が安置され、右に天台大師、左に伝教大師の掛け軸が配置されていた。
その周りには浄土を象徴する蓮の花や供物が整然と並べられており、最蔵の親族の位牌が置かれていた。
仏間全体が清浄な雰囲気に包まれていた。
最蔵、澄子、健司の三人は仏壇に向かい、一礼をした。
健司が先に進み、慎重に蝋燭に火を灯し、それを使ってお線香に火を移した。
三本のお線香が燃え始めると、健司は仏壇側に二本、自分側に一本を立て、逆三角形の形に配置した。
その動作は静かで丁寧で、仏に対する敬意が伝わってきた。
次に、最蔵と澄子も順に線香を供えた。
最蔵は左手に念珠を持ち、右手で蝋燭の火を借りて線香に火をつけた後、健司と同じように逆三角形の形で立てた。
澄子も同じ手順で進め、その姿勢には真剣さと敬虔さが感じた。
三人が合掌すると、読経を始めた。
唱える声が仏間に響く中、最蔵はりんを二回静かに鳴らした。
その澄んだ音は、仏間に清浄な空気をもたらした。
澄子も最蔵の声に合わせて唱え、心を一つにして祈りを捧げた。
読経の節目ではりんが一回鳴らされ、その音は読経のリズムを際立たせ、自然と三人の心が仏に向かうよう導いていく。
読経が終わると、りんを三回鳴らし、静寂が仏間を包み込んだ。
三人は再び合掌し、それぞれの心で感謝と祈りを捧げた。
最蔵は静かに語りかけるように心の中で祈った。
『お母さん、私は仏の教えに従って修行を続けています。澄子さんと共に、剛徳寺の一員として精進していきます。どうか見守っていてください』
澄子も心の中で感謝の気持ちを伝えた。
『お母様、最蔵さんとともに新たな道を歩めることを感謝しています。どうかこれからも導いてください』
その後、三人は一礼し、その後座ったまま後ろを向き、互いに深く一礼を交わした。
健司が微笑みながら言った。
『きっと姉も喜んでいるよ。お二人とも頑張ってね』
『ありがとうございます』
最蔵と澄子は静かに頷きながら、感謝を述べた。
仏壇の前での礼拝を終えた三人の心には、それぞれの思いと共に仏の教えが深く刻まれた。
健司と別れを告げた後、最蔵と澄子は剛徳寺へ向かった。
夕暮れ時の柔らかな風が吹き抜け、二人は静かに境内を歩いた。
お寺の敷地内にある墓地に足を踏み入れると、石塔が整然と並び、その奥に最蔵の親族のお墓が見えた。
最蔵は、お墓前に手を合わせた。
その横に、澄子も静かに最蔵を支えるように見守った。
『母さん、私がこうしてここに立てているのは、あなたが私に命を吹き込んでくれたからです』
最蔵は心の中で、そう呟いた。
『いろんなことがあったけど、私は今幸せです。この剛徳寺で、母さんが望んでいたような夢以上に大きな道を歩んでいます。どうか安心してください』
最蔵の一言一言には深い思いが込められていた。
その刹那、母が最蔵と澄子に見守るようにそよ風が吹き始めた。
澄子は、その風を受けながら、そっと線香を手に取った。
火を灯し、煙が空に昇るのを見つめながら心の中で祈った。
『最蔵さんのお母様、最蔵さんを生んでくれてありがとう』
風がそよぎ、竹林の葉がささやく音が聞こえる中、二人はしばらくその場で静かに祈りを捧げた。
時間が止まったかのような穏やかなひとときだった。




