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第一歩

あれから10日が過ぎた。

澄子は、いつも通り剛徳寺のお土産売り場で照子と肩を並べて立ち、笑顔でお客さんに対応していた。

年末の近づきを感じさせる冷たい風が、時折土産売り場の軒先を通り抜け、紙袋や包装紙を微かに揺らしていく。

境内には、これからの年越しの準備や参拝客を迎えるための行事が控えているせいか、いつもよりも慌ただしい空気が漂っていた。

最蔵や楓芽をはじめとする僧侶たちは、それぞれの役割を黙々とこなしながら準備に追われているようだ。


澄子はそんな境内の賑わいを遠目に眺めながらも、目の前のお客さんに集中していた。

照子が手際よく商品を包装して渡す横で、澄子は自然な笑顔を浮かべながらお釣りを手渡し、お礼を伝える。

来る日も来る日もこうして忙しく過ぎていくが、不思議と疲れを感じることは少なく、むしろ心が温かくなる瞬間が多い。

それは、剛徳寺という場所が与える安心感と、ここで出会った人々との繋がりのおかげかもしれないと思える。


ふと、最蔵の姿が目に入った。

境内の掃除をしているようで、庭の一角で竹箒を持ちながら落ち葉をかき集めている。

背筋を伸ばし、丁寧に、そしてリズムよく動くその姿には無駄がなく、見ているだけで澄子は心が落ち着くのを感じた。

思えば、最初に会ったときから、最蔵にはどこか安心感があった。

それは、ただの優しさや親切心だけではなく、最蔵の持つ穏やかで揺るぎない人柄そのものから来るものだったのだろう。


それでも、最初の頃の澄子は最蔵に対して深く踏み込むことを避けていた。

最蔵の提案や気遣いに感謝しつつも、どこか自分の中で“この人に甘えてはいけない”という意識が働いていた。

そして、最蔵の気持ちに気づいた時も、まだ自分にはその気持ちに応えるだけの余裕も自信もないと思い、一度はその申し出を断った。


しかし、日々を共に過ごし、何気ない会話を重ねていく中で、澄子の中で何かが変わり始めていた。

最蔵の言葉はいつも誠実で、決して押し付けがましいことはなく、常に思いやりがあった。

その一つ一つの言動が、澄子の心に少しずつ染み込んでいくようだった。

最蔵がふと見せる控えめな微笑みや、境内で困っている人に自然と手を差し伸べる姿を見るたびに、澄子は最蔵の人柄に惹かれていくのを感じずにはいられなかった。


『澄子さん、大丈夫?寒くない?』


照子が声をかけた。

その言葉に澄子は、はっとして思考の海から引き戻された。


『あ、大丈夫です。ありがとうございます』


と慌てて答えながら、再び接客に集中しようとしたが、頭の片隅にはどうしても最蔵のことが残っていた。


最蔵の内面に触れる度に本当にいい人だと心の中で呟くたびに、自分が感じているこの気持ちが、ただの感謝や尊敬ではないことに気づいていた。

それでも、自分から振った相手を好きになっていく自分が怖かった。

だが、澄子はこの心の揺れ動きが、これからの自分の選択に何か重要な意味を持つのではないかと感じていた。


澄子がその日のバイトを終えて宿舎に戻ったのは、すっかり日が落ちて肌寒さが増してきた頃だった。

夕食を済ませた後、澄子は自分の中で整理しきれない感情を抱えたまま部屋を出た。

誰かに相談したい気持ちはあるものの、簡単には言葉にできないもどかしさが澄子の心を覆っていた。

しかし、ふと浮かんだのは楓芽の顔だった。


楓芽は、剛徳寺の僧侶の中でも一際毅然とした雰囲気を存在である。

年齢は澄子より少し上くらいだが、その落ち着いた物腰や厳しさの中にある優しさに、澄子は密かに憧れを抱いていた。

普段から冷静で筋の通った言葉をかけてくれる楓芽なら、自分の悩みに何かしらの答えを見出してくれるのではないかという思いが、自然と足を彼女の部屋へと向かわせた。


宿舎の廊下を歩いていると、木製の床が軋む音が静けさの中に響いた。

楓芽の部屋の前に立つと、澄子は一度深呼吸をしてから、控えめにノックをした。

中から『どうぞ』と穏やかな声が聞こえると、澄子はそっと襖を開けた。


『お邪魔します…。今、お時間大丈夫ですか?』


『ええ、どうなさったのですか?』


楓芽は座り、手元の書き物から顔を上げた。

僧侶らしいシンプルな装いの中に、どこか柔らかさを感じさせる姿に、澄子は少し緊張しながら部屋に入った。

楓芽は手元の作業を片付け、澄子に向き直った。


『何かお悩みですか?』


その言葉に澄子は少し躊躇いながらも、本題に入ることを決心した。


『実は…恋愛の相談なんですけど…』


そう言った瞬間、澄子の顔が赤くなった。

普段の自分なら絶対にこんな話題を持ち出すことはない。

しかし、楓芽にだけは、この話を聞いてもらいたいと思ったのだ。


楓芽は少し驚いたように目を丸くしたものの、すぐに微笑みを浮かべた。


『そうですか。それでは、ゆっくりお話しになってみてください』


その優しい表情と言葉に背中を押され、澄子は深呼吸をしてから、思い切って口を開いた。


『その……実は一度告白を受けた方がおりまして、その際にお断りさせていただいたのですが、最近その方のことを考えると、やはり私、その方のことが好きだと気づいた次第です。このような場合、やはり諦めた方がよろしいのでしょうか?』


澄子は楓芽に告白を打ち明け、最後の質問を口にした時、視線を机の上に落とした。


楓芽は静かに澄子を見つめていた。

その視線には、ただ答えを出すだけではなく、澄子の心の奥をしっかり理解しようとする意図が感じた。

やがて、楓芽はゆっくりと口を開いた。


『それは、相手のお気持ち次第だと思います。人によっては、一度お断りされた後、無理とお感じになり、完全に気持ちを断ち切られる方もいれば、お断りされた後でもどこかで未練をお持ちになる方もいらっしゃいます。ですので、その相手がどのようにお感じになっているかが大きな要因となるかと』


楓芽の声は穏やかだったが、その一言一言には重みがあった。

澄子は無意識にその言葉を噛みしめるように頷いた。


『ただ、澄子さん、ご自分のお気持ちを大切にされることもお忘れにならないでいただきたいのです。もし相手が未練をお持ちであれば、そのお気持ちにもう一度向き合ってみる価値はあると思います。しかし、相手が一度お断りされたことによって完全に気持ちを切り替えていらっしゃる場合、無理にお追いかけになることは、お互いのためになりません』


澄子はその言葉を聞きながら、自分の心が少しずつ整理されていくのを感じた。

自分の気持ちを押し付けることが、必ずしも正しい選択ではないと理解したからだ。


『もう一つ大切なことがございます。それは、澄子さんが本当にその方とどうなりたいのか、ご自分のお気持ちにしっかりと向き合うことです。相手のお気持ちばかりを気にされすぎて、ご自分の本当のお気持ちを見失われないようにご注意ください』


楓芽はそう言って、優しく微笑んだ。


その言葉に澄子は深く頷いた。

楓芽の言葉は澄子自身が自分の心に向き合うきっかけを与えてくれたように思えた。


『ありがとうございます。少し気持ちが楽になった気がします』


澄子はそう言って、感謝の氣持ちを込めて頭を下げた。


『また何かご相談がございましたら、いつでもお話をお聞かせください』


楓芽の言葉は温かく、澄子にとって心強いものだった。

その夜、澄子はほんの少しだけ軽くなった心で、自分の部屋へと戻った。

悩みは完全に消えたわけではないが、進むべき道筋がぼんやりと見えた氣がしていた。


その夜、澄子は最蔵の存在をより意識しながら眠りについた。

翌朝、剛徳寺は年末の準備に追われ、いつも以上に慌ただしい空気に包まれていた。

澄子もいつも通り土産売り場で働いていたが、心の中にはある決意が静かに芽生えていた。

それは、自分の気持ちをしっかりと伝える覚悟だった。


一方で、最蔵もまた別の場所で新たな決意を固めていた。

前日、同じ宗派の先輩に恋愛相談をしていた最蔵は、最初から結婚を考えるのではなく、まずは恋人としての交際を大切にするようにとアドバイスを受けていた。

その言葉が心に響き、最蔵は自分の気持ちを改めて整理していたのだ。


その日、昼を過ぎてからのことだった。

境内では、除夜の鐘に向けた準備が進み、多くの僧侶が黙々と作業に取り組んでいた。

澄子も売り場を一旦離れ、手伝いに出ていた。

澄子の指先は冷たくなっていたが、心の中はどこか温かかった。

それは、最蔵としっかり話すタイミングが近づいている予感からだった。


午後の休憩時間、澄子が軒下で一息ついていると、ふいに最蔵が姿を現した。

竹箒を片手に持ったまま、最蔵は少し緊張した面持ちで澄子に近づいてきた。


『澄子さん、少しお時間をいただけますか?』


その声はいつもの穏やかな調子だったが、どこか緊張感が漂っていた。

澄子は驚きながらも頷き、最蔵の後について境内の一角へと向かった。


二人きりになったその場所は、境内の裏手にある小さな庭だった。

冬の冷たい空気が静けさを際立たせ、庭を彩る赤い南天の実が風に揺れていた。


最蔵は澄子に向き直り、一瞬視線を地面に落としてから、しっかりと目を合わせた。


『澄子さん、突然こんな形で呼び止めて申し訳ありません。ただ、今日どうしても伝えたいことがあって……』


その真剣な表情に、澄子の胸が高鳴った。

澄子は言葉を発することもできず、ただ静かに最蔵の次の言葉を待った。


『好きです』


『…………………………!!!!!!』


澄子は最蔵の言葉を聞いた瞬間、驚いて固まってしまった。


『一度お断りをいただいてからも、ずっと考え続けておりました。私にとって澄子さんは、仲間以上の存在でございます。いきなり結婚のお話を申し上げたあの時は私は焦りすぎておりました。実は5人以上の僧侶が澄子さんに告白するようなお話を耳にしておりましたので……』


最蔵は一瞬言葉を切った後、柔らかな笑みを浮かべた。


『私は、澄子さんと共に過ごす時間を大切にしたいです。ですので、もしよろしければ、まずは恋人としてお付き合いさせていただけますでしょうか?』


その言葉に、澄子の目から一筋の涙が流れた。

澄子は暫く固まっていたが、一度息を整えてから応えた。


『………………。はい。私も、最蔵さんのことが好きです。最初は、自分にはそのような資格がないと感じておりました。最蔵さんは剛徳寺の副住職でいらっしゃいますし、畏れ多い存在でございましたので……。しかし、最蔵さんがどんな時でも私を支えてくださったおかげで、私の心は少しずつ変わっていきました。正直、プロポーズされる前は友情とか恋愛とかそういうのではなくて、言葉にはない・言葉の種類がみつからない特別なつながりを持っている関係だと、ずっと思ってました。プロポーズされてから意識するようになって、自分から振っちゃったのに最蔵さんの内面に触れる度にどんどん好きになってしまって……。今、告白されてびっくりしてます、私。夢?みたいな』


最蔵はその言葉を聞いて、目を大きく見開いた後、優しい微笑みを浮かべた。


『ありがとうございます。そう言ってもらえて、本当に嬉しいです』


最蔵は一歩近づき、澄子の肩にそっと手を置いた。

その手は温かく、澄子の心の中にあった不安や迷いを一瞬で溶かしていくようだった。


澄子は涙を拭いながら、改めて言葉を紡いだ。


『これからも、どうぞよろしくお願いします』


その言葉に、最蔵は深く頷いた。

そして、冬の澄んだ空の下、二人は静かに笑顔を交わした。

周囲には冷たい風が吹いていたが、その瞬間だけは、二人の間に温かな空気が流れていた。


その後、二人は年末の準備に戻りながらも、互いの存在がこれまで以上に身近に感じられるようになっていた。

これが新たな関係の始まりであり、同時にそれぞれの未来へ向かう第一歩となったのだった。

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