燈火
六本木の高層ホテルの最上階、澄子は窓の外に広がる東京の夜景をぼんやりと眺めていた。
無数の光の点が、澄子にとってはどこか遠く、手が届かない場所にあるように感じた。
まるで別世界にいるようだ。
最蔵がその視線の先に置いた小さな箱は、静かにその空間に重みを与えていた。
箱の中に何が入っているのか、それが澄子の心に重くのしかかっているのは感じていたが、どうしてもそれを想像することができなかった。
そして、最蔵が優しく言った。
『澄子さん、こちらをお受け取りいただけますでしょうか』
澄子は少しだけ顔を上げ、最蔵の表情を見た。
最蔵の目は真剣で、言葉の裏に強い決意を感じ取ることができた。
しかし、澄子の心はまるで凍りついたように動けない。
最蔵はそっと箱を開けた。
箱の中には、木で作られた一つの指輪があった。
その指輪は、見るからに手作りで、どこか素朴で、温かみを感じさせるものだった。
澄子は思わず声を上げた。
『えぇっ?!凄い!』
指輪は、最蔵が一つ一つの細部に気を使いながら作り上げたものだというのが分かる。
その木目が美しく、光の中で静かに輝いているように見えた。
最蔵はその指輪をそっと澄子に向けて差し出した。
『こちらは私が手作りいたしました婚約指輪でございます。これから、澄子さんと共に歩んでいきたいと考えております。剛徳寺で共に未来を築いていければと思っております』
澄子の心はその言葉に反応し、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
しかし、その胸の内には嬉しさよりも、言葉にできない重い感情が湧き上がってきた。
最蔵の言葉は温かく、誠実さがにじみ出ていたが、それに対して澄子の心はどこか遠くに、過去に引き戻されてしまうようだった。
涙が無意識に澄子の目に溢れてきた。
だが、その涙は喜びのものではなく、胸の奥から沸き起こる苦しみ、痛みから来るものだった。
澄子は深く息を吸い、目を閉じながら一度落ち着いた。
だが、すぐにその気持ちは澄子の中で爆発した。
涙をこらえながら、澄子はゆっくりと口を開いた。
『最蔵さん……、ありがとうございます。でも……』
その言葉は、澄子の中で何度も繰り返された思いであり、長い間押し殺してきた感情だった。
最蔵は表情を変えず、冷静に澄子を見つめ、優しく静かに待った。
『お答えは、お受けできません』
その言葉が最蔵にとってどれほど重かったか、澄子自身も痛いほど理解していた。
しかし、心の中で何かが崩れ去っていくのを感じた。
澄子は涙を拭いながら、言葉にした。
『事故で、お母さんを失いました。お父さんは記憶を失い、私のことを忘れてしまいました。現在は新しい家族を持っていますが、私にとってお父さんは生きているものの、私たちの思い出はもはや私の中にしか存在しません。それにもかかわらず、私は自分だけが幸せになることができないのではないかと感じてきました。私が幸せになることで、お母さんやお父さんに対して申し訳ない気持ちが募るのです。お父さんはもしかしたら幸せかもしれませんが、私にとっては、お父さんとの日々の思い出は事故によって一瞬で奪われ、今はもう…、あの頃のお父さんは私の中にしか存在しないのです』
澄子の声は徐々に震え、言葉が涙と共にこぼれ落ちるように紡がれていった。
その過去の記憶は、どんなに年月が経っても消えることなく澄子の心に刻まれていた。
それが澄子の心の中で、最蔵の思いに応えられない理由だった。
最蔵は黙ってその言葉を聞き、目の前で澄子が抱える重さを感じようとしていた。
澄子が目を逸らさずに最蔵の目を見つめながら、さらに続けた。
『最蔵さんとご一緒させていただくことで、私も温かさや幸せを感じております。しかし、その幸せが大きくなるほど、過去の記憶が私を縛りつけているように感じます。私だけが幸せになることなど許されないような気がして…、どうしても自分を許すことができないのです』
澄子の言葉はそのまま最蔵の心に深く響いた。
『澄子さんのお気持ちを尊重いたします。それでも、私は心から幸せを願っております。記憶を失われたとしても、たった一人しかいないお父様でございます。どうか、ご自身を責めないでください。澄子さんが幸せになることは、お母様もお父様もきっと望んでいらっしゃると存じます』
澄子はその言葉を聞いて、深く胸に刻みながら、涙をこらえきれずに再び頬を伝った。
その涙は、最蔵に対する感謝の気持ちであり、同時に自分を許すことのできない自分への苦しみでもあった。
『私にはまだ、自分を受け入れる勇気がございません』
最蔵は落ち着いた声で静かに言った。
『澄子さんがどんなに孤独を感じられても、どんなに過去に囚われておられても、私たちがお付き合いする関係に至らなくても、私は常に澄子さんのそばにおります。もし澄子さんがひとりだと思われるのであれば、私は澄子さんにとっての“誰か”であり続けます。澄子さんがその心の重荷を降ろされる日が来るよう、私は側で支え続けます。どんな時でも力になりたいと考えております。澄子さんが感じていらっしゃる不安や恐れ、すべて共に乗り越えていきましょう。私はここにおります』
澄子はその言葉を聞いて、胸の中で何かが少しだけ軽くなるのを感じた。
しかし、それでも澄子の心の奥底にある過去の記憶は、簡単に消えることはなかった。
澄子は目を拭い、深く頭を下げた。
『ありがとうございます、最蔵さん』
その後、二人は静かに夜景を見ながら話を続けた。
『澄子さん、剛徳寺はどこにあるでしょう?』
『あちらには綱なしで建設された電波塔がありますね』
『その歴史までご存知でいらっしゃるのですね』
『東京に参りました際、ここにはどのような歴史が紡がれているのだろうと心を奪われて、学びを深めておりました。第二次世界大戦の終結からわずか13年で、こんなにも壮大な東京タワーが誕生したことには、ただただ驚嘆せざるを得ません。人々の不屈の精神と、復興への情熱が生んだ奇跡のような瞬間なのだと強く感じますね』
『本当に、戦後の日本がどれほどの努力と情熱で立ち直ったのか、改めて感じますね。東京タワーは困難な時期を乗り越えた証であり、希望の象徴でもあるので、また違った深みのある見え方になるでしょう。その歴史を知ることで、私たちが今、どれだけ恵まれた時代に生きているのかも感じることができます』
『私たちが生きるこの瞬間も、過去の痛みと共にあるからこそ、より深い意味を持つのかもしれませんね。色んな苦しみを乗り越えて、希望の象徴を築くこと、それが人の精神の成長なのでしょうね』
最蔵はしばらく東京タワーを見上げ、静かな夜の空気を感じていた。
澄子がその美しい景色に見とれているのを見て、ふと話しかける。
『澄子さん、東京タワーの話、もう少しお伝えしたいことがあります』
澄子は最蔵の言葉に微笑みながら頷いた。
『はい、最蔵さん。興味深いお話を聞かせてください』
最蔵は少し考え込みながら語った。
『実は、東京タワーには少々歴史的なエピソードがございます。それも、少し複雑な内容でございますが…』
『複雑な歴史ですか?』
『はい。東京タワーが建設された際、鉄が非常に不足していた時代でございましたが、実はその鉄の一部は、朝鮮戦争で使用された米軍の戦車でございます』
澄子は驚きの表情を浮かべ、少し言葉を失った。
『…戦車?!それが東京タワーに…………?』
最蔵はうなずきながら説明を続けた。
『そうでございます。朝鮮戦争の終結後、アメリカは余剰となった軍事物資を処分するために、戦車を解体いたしました。その鉄が日本に運ばれ、再利用されたのでございます』
澄子はしばらく黙って考え込み、東京タワーを見つめた。
『それは…非常に複雑な背景を持つお話でございますね。戦車の鉄が日本に送られて、そして東京タワーに使用されるとは…』
最蔵はしばらく澄子を見つめ、穏やかな表情で答えた。
『確かに、戦争の記憶が深く残る時期でございましたので、これをどのように受け止めるべきかは難しい部分があったかと存じます。しかし、戦後の日本にとりましては、鉄が非常に貴重であり、こうした再利用がなければ、復興が進まなかったとも言えます』
澄子はその言葉に納得したように頷きながら、それに答えた。
『戦後の日本が必死に立ち上がろうとしていた時期でしたね。しかし、そんな時代の中で、東京タワーが象徴的に立ち上がったというのは、まさに奇跡のようなことでございますね』
最蔵も静かに頷き、答えた。
『まさにその通りでございます。東京タワーは、戦後の日本がどれほどの努力と苦しみを経てここまで来たかを物語る象徴でもございます。戦車の鉄がその一部となり、未来への希望として立ち上がったのです。その意味においても、このタワーは非常に特別な存在でございます』
澄子は再び東京タワーを見て、その壮大な姿に心を奪われた。
『最蔵さん、東京タワーの背景を知ることができ、非常に感慨深く存じます。単なる観光名所ではなく、歴史と苦悩、そして希望の象徴として、私たちに語りかけているのですね』
最蔵は微笑みながら澄子を見つめ、少し静かな口調で言った。
『その通りでございます。東京タワーは人によって、どんなに困難な時期であっても、人は必ず未来に向かって立ち上がる力を持っているのです。そして、その力が集まり、このような素晴らしいものが生まれるのでございます』
澄子はその言葉に深く頷き、しばらく静かに夜景を見つめた。目の前に広がる東京の街並みが心に強く響いた。
『最蔵さん、私も少しずつですが、過去の重荷を少しずつ降ろして、未来に向かって歩んでいきたいと思っています』
最蔵は優しく澄子の肩に手を置き、静かな声で答えた。
『私はずっとお側におります』
澄子はその言葉に温かさを感じ、少し涙が浮かんだ。
その涙は、過去の痛みだけでなく、未来に希望を抱き始めた証でもあった。
『それから最蔵さん……、あの先に海も見えますので、目の前に広がる町は港区でございます。剛徳寺はその逆側にございますので、こちらからは見ることができませんね』
最蔵は驚いたように言った。
『ぐぬぬ…、澄子さんは地理にもお詳しいのですね…』
澄子は照れくさそうに微笑みながら、続けた。
『えへへ、地図を持って滋賀から東京まで歩いて参りましたので、ある程度のことは存じております』
最蔵は目を見開いて、驚きの表情を浮かべた。
『…徒歩で……?!』
澄子は頷きながら、静かに言った。
『はい、心を整理するために大津市から歩いて参りました』
その言葉には、澄子がどれほど深く自分と向き合ってきたのか、そしてどれほどの苦しみを抱えてきたのかが込められていた。
最蔵はそれを深く受け止め、澄子を見つめながら聞き続けていた。
澄子は、窓の外の夜景を見つめながら、震える声で語り始めた。
その目の奥には、どこか遠く、もう戻ることのない場所を見ているような深い寂しさが宿っていた。
『東京へ向かった時の琵琶湖から見える比叡山は…とても見れたものではありませんでした………』
澄子の声がかすれていた。
『子供の頃、お父さんとお母さんと共に登った思い出の深い場所です…。私にとって、比叡山は家族と過ごしたかけがえのない時間そのものでした。毎年、お父さんとお母さんと一緒に登った山道、その途中でお父さんとお母さんが台所で並んで作ってくださったお弁当を食べて、お父さんが語る仏教のお話を聞きながら、幸せなひとときを過ごしていたのです。しかし、それはもう、二度と戻ることはありません………』
澄子は目を伏せ、ひとしきり息を呑んだ。
言葉を繋げることができず、ただ、胸の奥に閉じ込めた苦しみをこらえながら語り続けた。
澄子は泣いていた。
その涙が、頬を伝うたび、過去の思い出が一つ一つ崩れていくような気がした。
最蔵は言葉もなく、ただ澄子の背中を優しくさすりながら、澄子の涙を静かに受け止めていた。
『実は、私が中国語を話せるのは、お父さんが中国出身だからなのです。毎年、家族そろって中国へ行っておりました。そこでお父さんから中国語を教えてくださり、そのおかげで、今でも流暢に話せるようになりました。しかし、あの頃は、お父さんと共に歩いた道も、お母さんと過ごした日々も、何もかもが、あの車の中で一瞬にして奪われてしまいました……………』
その言葉が、最蔵の胸を再び苦しみで締め付けたが、澄子の言葉をしっかりと受け止めていた。
『お父さんは仏教マニアで、特に天台宗を深く信仰していました。天台山に行くたびに、私にその歴史を教えてくれました。中国の天台宗の開祖の名前を間違えただけで、すぐに天台山に連れて行かれたこともありました。教科書に天台宗のスーパースターが登場した際には、すぐに比叡山へ連れてかれ、比叡山から生まれた六大宗派の開祖の名前を、全て答えるまで下山させてもらえなかったこともありました』
澄子は笑みを浮かべたが、それは苦いものだった。
『その教えを通じて、私はお父さんとお母さんと一緒に歴史を学んで、深く思いを馳せていました』
その瞬間、澄子は再び目を伏せ、心の中で何かが崩れ去っていく音が聞こえた。
『私の誕生日は偶然にも伝教大師最澄様と同じ8月18日生まれです』
『運命ですね。西暦になってしまいますが、私の誕生日も最澄様と同じ9月15日生まれです』
『えっ?!旧暦と西暦コンビだったのですね!すごい運命ですね、私たち。実は私の名前も、伝教大師最澄の“澄”から取ったものなのだそうです。お父さんとお母さんが寄り添って一緒に考えてくれた名前です。でも、それも、もう今は…、何もかも過去のことになってしまいました……………………』
その言葉とともに、澄子は両手で顔を覆い、声をあげて泣いた。
最蔵は、ただ静かにそばに立っていた。
最蔵の目にも涙がこぼれた。
『私の家族は素晴らしかった………。毎朝、4時に起きて、お父さんとお母さんが一緒にお弁当を作ってくれて…、台所に並ぶ両親の姿を見て、私は愛の深い家族の中で育ってきたんだなって、今になってやっと……………』
澄子の心の中で、あの日の記憶がどんどん鮮明になっていくのが分かる。
あの日、家族全員が幸せな未来を夢見ていた。
車の中で、両親と一緒に話した未来のこと、そしてその未来が、一瞬で壊れてしまったことを。
『最後の日も、あの車の中で、お父さんとお母さんが私にこう言ってました。いつか素敵な男性と結婚して、子どもが生まれたら、みんなで中国や比叡山に行ってみたいね…………って…。その言葉を最後に、全てが消えてしまいました…………。私の家族は、私の中で生き続けているけれど、もう二度と会えないんです……………………』
その言葉が、最蔵の胸に響いた。
最蔵は澄子を抱きしめた。
『澄子さん、その灯火を抱え、どんなに険しい道を歩んで、剛徳寺までたどり着いてくれてありがとう。どんなに痛みや悲しみに包まれても、どんなに苦しい時でも、あなたの中に宿る灯火を消さずにいてくれてありがとう。その歩み一つ一つと、あなたの強さと、諦めない心、しっかりと胸に刻みました。剛徳寺の境内に立つその瞬間、あなたが持ち続けてきた光が、今もなお輝いているのを感じます。心からありがとうと言わせてください』
澄子は最蔵の言葉に声を出して泣き、その涙は止まることなく流れ続けていた。
最蔵の肩に頭を預けた澄子は、息をつくこともなく泣き続け、何度もごめんなさいと呟いた。
最蔵は澄子がこれ以上傷つかないように、全てを受け止めようと努めていた。




