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五蘊

あれから1ヶ月が経ち、天光堂の後継者となった法照はバキュラと二人きりで過ごし、毎日欠かすことなくお勤めをしていた。

法照はバキュラを観察し、分析した。


バキュラは一般的に全知であり、過去、現在、未来をすべて知っている。

人間が理解できないような広範な視野を持っているため、物事を一度に全体的に見ることができるのだ。

一方、法照は知識や経験に限りがあり、物事を部分的にしか理解できない。

人間の視点は時間や空間に制限されているからである。


バキュラは永遠に存在し、時間や生死を超越している。

バキュラにとっては過去、現在、未来の区別がなく、すべてが一つの存在として捉えている。

人間は限られた寿命の中で生きており、時間を線形的に感じ、過去や未来の出来事を逐一経験し、記憶することが重要な生命体である。


バキュラはしばしば絶対的な道徳基準を持っており、善悪を超越した存在として、人間に道徳的な指針を与える存在である。

人間は文化や社会、個人の経験によって異なる道徳観を持ち、善悪の判断も多様だ。

また、感情や欲望に影響されやすい傾向がある。


バキュラは広い視点を持ち、ひとつひとつの出来事や人を超越して見ることができる。

バキュラの行動や考え方は、すべての存在に対する深い理解と愛に基づいている。

人間は経験や立場、背景に基づいて考え、時には感情や偏見に影響されることがある。


バキュラの意図や目的はしばしば大いなる計画の一部として理解し、人間の理解を超えた壮大な目標がある。

人間の目的や意図は、個人や社会の中での生活の中で形成され、短期的な目標や願望に基づくことが多い。


このように、バキュラと人間の思考や視点の大きな差を法照は分析し続けた。

法照はその分析を深めるうちに、バキュラの存在が超越的な力にとどまらず、人間の限られた理解を超える存在であることを強く実感した。

バキュラが持つ無限の視野、永遠の存在、絶対的な道徳基準は、法照の中で次第に敬意と畏怖の念に変わっていった。


しかし、法照は次第にその違いを受け入れるだけではなく、バキュラの存在をどのように自分の生き方に結びつけるべきかを真剣に考え始めた。

法照にとって、バキュラとの共存は学びや理解にとどまるのではなく、実際にどのように行動に反映させるかというのが、より深い問題であった。


法照は、バキュラが持つ全知の視点に対して、自己の限界を感じつつも、その視点を少しでも共有できるよう努めることが自らの使命だと感じていた。

特にバキュラが持つ永遠の時間をどう理解するか悩んだ。

バキュラにとっては、時間の流れがひとつの大きな絵画として存在するかのようであり、人間にとっての時間の縛りは、まるで重荷のように思える。


『もし、私がバキュラさまと共に過ごすなら、私はどれだけ変わるのだろうか?』


法照はその問いを自問し続けた。

人間の限られた視点、時間、経験に縛られた自分が、果たしてこの永遠の存在と共に生きていけるのだろうか。

バキュラの教えや示唆に従って生きることは、道徳的な指針に従うだけではない。

それは、自己を超えて、無限に広がる視野を受け入れることを意味する。


法照はその難しさを痛感しながらも、バキュラが示す壮大な計画の一部として、自分の役割を果たしていく覚悟を決めつつあった。

人間としての限界を感じつつも、その限界を乗り越えて、バキュラと共に歩む道を模索すること。

それこそが、法照がこれからの人生で向き合わなければならない、最も重要な課題であった。


しかし、バキュラは人間の感情や欲望、限られた視点に対して理解するものの、完全に共感することは難しいようだ。

人間が感じる罪悪感や後悔といった感情は、バキュラにとっては理解しきれない。

バキュラは智真のあの事件を、結果として受け入れていたからだ。

人間のように何かをしてしまったといった感情的な反応は、バキュラには起こらない。

むしろ、その行為が必要であったかどうか、その行為が大いなる計画の中でどのように位置づけられるかに焦点を当て、神聖な意志や壮大な計画の一部であり、犠牲や破壊が一時的に必要であると認識していると、法照は長い間にかけて考察しつづけた。

よって、バキュラは、自身の行動に対して人間のように倫理的な枠組みを適用せず、その行為を大義や目的を果たすために必要なものとして捉えていることになる。

バキュラの視点は、死という行為が人間の社会や秩序における破壊的なものとしてではなく、転換や浄化、成長を促すものとして理解している。

これが法照にとって、一つの学びの過程となったのである。


また、バキュラの視点は全体的であり、時間や空間を超越しているため、法照の人間的な感情や経験にどれほど深く関わることができるか。

これが二人の関係における大きな壁であった。

バキュラにとって法照の成長過程が重要だが、その過程を理解するには、法照が修行する必要がある。

バキュラは法照に対して、法照の行動を擁護するのではなく、より高次の視点や霊的な知恵を通じて、人間の感情と霊的な目的の違いを教えた。

バキュラの視点では、命の奪い方やその正当性よりも、その行動の背後にある目的や成すべき大義が重視されるため、法照にとっては新たな理解の扉が開かれることとなった。

智真の事件は人間の倫理的な枠組みの中で正しいかどうかを基準にするわけではなく、宇宙的な秩序や神聖な目的に照らし、大きな計画の中で必然的に必要な行動だったのだと。


こうして法照はバキュラの教えを受け入れ、共に過ごしながら学び続けた。


『バキュラさま、剛徳寺のいじめの犯人って誰ですか?』


『……………ギュラ?????』


『剛徳寺、いじめ、犯人、誰?』


『……………ギュラ?????』


『………くぅぅぅ…ギュラギュラ語から勉強しないとかぁぁ………お互いにお互いの言葉が分からないぃぃ………』


『……………ギュラ?????』


『バキュラさま、今日の、おやつ、無ぁ~し!』


挿絵(By みてみん)


『ギュ~~~~~ラララララ!!!!(怒)』


『これは分かるんですね…。私もこれ食べてもいいですか?』


『ギュラッ!(怒)』


バキュラは頭を振って全力で拒否した。

バキュラのおやつは、剛徳寺のあんこ入りのお饅頭なのだ。

言葉が解らなくても法照のいじわるな顔を見れば何かよからぬことを言っているのは見抜けるようだ。

法照は脳内をフル活動させ、あらゆる手段でバキュラと会話をしていたが、バキュラにも表情があることに氣づき、法照がニッと笑うとバキュラもニッと笑った。

そして、法照が舌を出してふざけるとバキュラも真似をして舌を出して叫んだ。


『ヴェェェェ!』


『……ギュラッ?』


『ヴェェェェ!』


『ギェェェ!』


『ヴェェェェ!ヴェェェェ!ヴェェェェ!』


『ギェェェ!ギェェェ!ギェェェ!』


『ぷっ(笑)』


『ギュッ(笑)』


謎のステップでお互いの顔を見て思わず笑うバキュラと法照。

これが言葉の壁を越えたプチ共鳴の瞬間だった。


一方、光明は住職の桂之助に育てなおしをされていた。


『いいかい、光明さん、1+1=2じゃ』


『……………え?』


『右手に1個のまんじゅうがある。左手にも1個まんじゅうがある。さぁ、これを合わせて何個になるかな?』


『そんなにいっぱいずるい!1人1個だよ!』


『1人1個なのに両手に持っている。これをよくばり太郎という』


『よくばり太郎』


『ほっほっ、そうじゃ、よくばり太郎じゃ。左手と右手のまんじゅう。合計何個かな?』


『よくばり太郎2』


『正解じゃ!では、まんじゅうをあげよう。休憩じゃ』


『わぁい!わぁい!』


桂之助から楽しく算数を教わる光明を見た楓芽は、子供の頃の自分を思い出しながら遠くから微笑んでいた。

剛徳寺は全体的に変わりつつある。

ほんの少しだけ明るくなったような、そんな氣がした。


ただ、変わらないのは強烈ないじめの主犯格が陰でターゲットを狙っていることであった。


一方、澄子は順調に治療とリハビリを終え、明日の退院を控えていた。


病室の窓から差し込む夕陽が、静かな時間を染め上げる。


ベッドの上で、澄子はふと目を閉じた。


思えばここへ運ばれてから、何度も不安と焦りに苛まれた。

それでも、最蔵や剛徳寺の人々が温かく支えてくれたからこそ、ここまで来ることができた。

みんなの言葉や、差し入れられた温かな食事のひとつひとつが、澄子の心を癒し続けてきた。


しかし、それを突き破るように、不意に脳裏に浮かんだのは、退院後の生活だ。

そして、澄子を追い詰めた主犯格の顔である。


澄子には、主犯格が誰か分かっていた。

あの時、智真がこいつだ…と言わんばかりにスポットライトを当てたような、あの瞬間。

自然と視線を向けた先に見たのは、法照を睨む、人を殺すような目だった。

だが、確証はない。

その僧侶が主犯格だとしても、人をいじめるメリットは無い。

鳩にまで好かれるほど人当たりがよい僧侶と評価されている為、いじめる理由も無い。

だが、澄子の中では、その僧侶が限りなくいじめの主犯格であるというのが確信に近い答えだった。


澄子の手が震え、ベッドのシーツをぎゅっと掴んだ。

病院という小さな安全地帯に守られている間は忘れようとしていたが、退院すれば間違いなく真っ先に自分のもとへ恨みをぶつけにくるだろう。


強烈な言葉、冷たい視線、陰湿な行動、澄子の心の奥に潜む恐怖が、まるで重い石のように胸を押しつぶした。

澄子はぐっと唇を噛んだ。

だがすぐに、その恐れを振り払うように息を整える。


何かあったら、最蔵さんに相談しよう。

澄子は決心した。

だが、剛徳寺の僧侶をいじめの主犯格と疑うことも苦かった。


明日から始まる新しい日々。

その先に待つものが何であれ、自分ひとりで抱え込まずに、誰かに頼ること。

それが、立ち上がるための第一歩だと信じて。


澄子はそっと目を開けた。

夕陽はまだ病室を照らし続けていたが、その光は少しだけ、澄子の心にも届いている気がした。


その日の夜、入院中に少しずつ作ったバキュラのぬいぐるみを友花に見せた。

天光堂の後継者となった法照へのプレゼントである。


挿絵(By みてみん)


友花は、手作りに愛を感じ、心がぽかぽかしていた。


次の日、いよいよ退院の日がきた。

澄子は今まで過ごしてきたベッドにありがとうを言った後、病室を出た。

廊下の窓から見える景色は、病院にいる間には感じなかった新鮮さを持っている。

どこか遠くで響いている鳥のさえずりや、風に揺れる木々の音が、澄子の心が少しだけ温まった。

自然の力は偉大である。


しかし、その反面、再び外の世界へ足を踏み入れることに対する不安を再び感じた。

退院後、自分がどのように過ごすべきか、また、あの僧侶のことが頭を離れなかった。


澄子を迎えに来る僧侶を外で待っていると、一台の車が澄子の前に現れた。

迎えに来たのは最蔵ではなく、意外にも剛徳寺のいじめの主犯格と思われる僧侶であった。

澄子は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

長い間の安息の中で過ごした病院での時間、最蔵が支えてくれた安心感から、再びあの恐ろしい現実に引き戻されるとは思っていなかった。


その僧侶の顔を見た瞬間、澄子の心臓は激しく鼓動を打ち始め、血の気が引くのを感じた。

あの時の冷徹な眼差し、そして無情にいじめた数々の仕打ちが脳裏をよぎる。

澄子は一瞬、体が震えそうになったが、必死にそれを抑え込んだ。


『おはようございます。慧心(えしん)と申します。本日、最蔵さんが急遽葬儀に出席しなければならなくなりましたので、代わりに私が澄子さんのお迎えに参りました』


澄子は一瞬、言葉を失い、目の前の僧侶を見つめた。

あの冷徹な目が、心の奥底に深く刻まれていることを思い出し、胸の中で何かが絡まるような感覚を覚えた。

しかし、澄子はしっかりと息を整え、できるだけ平静を保とうと努めた。


『おはようございます。お手数をおかけして申し訳ありません。ありがとうございます』


澄子は表情を抑え、静かに返事をしたが、その声にはわずかな震えが隠しきれなかった。


僧侶の名は慧心(えしん)

慧心の穏やかな態度と優しい言葉に、澄子は思わず胸を撫で下ろした。

どこか遠くから響いてくるような落ち着いた声に、澄子の緊張が少しずつほぐれていくのが感じた。

あの冷徹な眼差しがすぐに頭をよぎるものの、今の慧心の表情にはどこか温かさが感じられ、澄子の心は次第に乱れを取るように思えた。


『澄子さん、お疲れ様でした。長い間ご入院されていたとのこと、お身体の調子はいかがでしょうか?』


慧心が後ろの席に座る澄子に優しく尋ねた。

その問いかけには、ただ単に義務を果たしているというよりも、どこか心からの関心が込められているように感じた。


澄子は少し戸惑いながらも、慎重に答えた。


『はい、だいぶ元気になりました。最蔵さんやみんなに助けられて、氣づけばここまで来られました。本当にありがとうございます』


その言葉に、慧心は軽く頷きながら穏やかな笑顔を浮かべた。


『それは良かったです。私も澄子さんの元気な顔を見て安心しました』


慧心の声は優しかった。

確かに、最蔵や他の人々の支えがあったからこそ、ここまで来られたのだ。

だが、今ここで慧心からかけられる言葉の温かさには、少し予想外なものがあった。


澄子はそのまま車内の静かな空間に身を委ねながら、無意識のうちに口を開けた。


『あの…、慧心さん……』


『はい』


澄子の声は少し震えていた。

最蔵という人物がいなければ、何か不安が広がる気がしていたのだ。

だが、慧心はすぐに優しく答えてくれる。

慧心の穏やかさと誠実さは、澄子にとっては心強いものに感じた。


澄子は少し躊躇いながらも、慧心に問いかけることを決意した。

心の中で何度もその言葉を繰り返し、ついに口に出す瞬間が来た。


『慧心さん、ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?』


澄子は静かに声をかけた。

慧心は穏やかに微笑みながら澄子に答えた。


『どうぞ、お気軽にお尋ねください』


澄子は言葉を選ぶように続けた。


『慧心さん、人をいじめたことはありますか?』


ストレートすぎる質問が静かな車内に響き渡る。

慧心の顔が一瞬、微かに変わったように見えたが、すぐにまた優しい表情を保ちながら答えた。


『いじめ……、ですか…?』


慧心は少し考え込むように濁した。


『はい…。どうしても氣になってしまって………』


その言葉に、慧心は一瞬黙り込み、静かに答えた。


『私がそんなことを…』


その瞬間、澄子はまるで自分の意思ではないかのように、声が自然に漏れた。


『慧心さん、徳密さんにしたこと、全部知ってますよ。それを今日、みんなの前で全部話そうと思います』


澄子の声は、どこか冷静で、遠くから響くような感覚があった。

澄子もその言葉を自分の意思で発しているとは思えなかった。

まるで自分の体が別の意識に支配されているかのように感じた。


澄子の内面では、智真の声が響いていた。

智真が言葉を使って、慧心の過去の行動を暴く準備をしているような気配を感じる。

智真の意識が、澄子の体を借りて何かを伝えようとしている。


慧心は一瞬、驚きの表情を浮かべた。

普段の冷静で品のある顔が、一瞬にして曇り、眉がわずかにひそめた。

それがまた、澄子の内心にさらなる不安を呼び起こした。

しかし、智真の声は澄子の中でさらに強く響く。


『徳密さんに対するご行為は、いじめにとどまるものではございません。その際、徳密さんの命さえも危険に晒していたのです。あれほどの残酷なことをなさっておきながら、何ら悔いがないということは、いかなるご心情でいらっしゃるのでしょうか…』


澄子が発するその言葉は、まるで智真の復讐心が乗り移ったかのような冷徹さを帯びていた。

澄子の瞳は慧心を見つめ、彼の表情を見逃さなかった。


その瞬間、澄子の意識は一瞬揺らぎ、智真と自分との境界が見えた感覚に陥った。

自分の意思で話しておらず、智真が体を借りているのが分かった。


慧心は一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ。

普段の温和な態度とは裏腹に、慧心の目に浮かぶのは焦りと動揺だった。


澄子の体を借りて発せられたその言葉は、まるで冷徹な鋭さを持つ刃のように、慧心に突き刺さった。

慧心の顔色が一瞬にして変わり、目の奥にわずかな動揺が見えた。


慧心は口を開こうとしたが、言葉が出ない。

自分がかつて行った行為を、まるで昨日のことのように、澄子の口から告げられたことが、慧心にとっては衝撃的だった。


澄子はその反応を見逃さなかった。

普段は人当たりが良く、周囲からは好かれる存在である慧心が、この瞬間だけは崩れ落ちそうな様子に見えた。

澄子の心の中で何かが響き、ようやく自分が今まで恐れていたものの正体を見つけた気がした。


『どうして、あんなことをしたんですか?』


澄子は自分の意思で話している感覚があり、問いかける言葉が自然に口をついて出た。


慧心はしばらく沈黙していた。

慧心の目線が一度も澄子を向けなかった。

やがて、ゆっくりと深いため息をつき、重い口を開いた。


『私の青春が私を狂わせたのかもしれない……』


その声は震えていた。


『私は、いかなる時もトップでいなければならないと感じておりました。どなたよりも優れていなければ、自分の価値がないように思えて…』


澄子は黙ってその言葉を聞いていた。


『私は、小学校の頃からずっと学年1位を維持し続けておりました。それは成績だけに限らず、小学校、中学校、高校と生徒会長を務め、周りから期待される存在でもございました。皆からは“できる人”と見られ、尊敬されることが当然のようになっておりました』


慧心は目を閉じ、その過去を思い出すように呟いた。


『その時の私は、すべてを手に入れたかのように感じておりました。しかし、それが私を狂わせていったのかもしれません…』


澄子はその言葉を聞いて、驚いた。

慧心が抱えていたものは、自信過剰や傲慢ではなく、強烈なプレッシャーと孤独だったことに氣づき始めた。


『それから、僧侶となりましても、私の欲望は止まることがございませんでした。地位や名誉を全て手に入れなければ、自分には価値がないと感じてしまっていたのでございます。しかし、どれも手に入れることが叶いませんでした。周りの方々の目は、私が持っているものに見合うものをお期待になっておられました。そして、私はそのご期待にお応えすることができずにおりました。すべてを手に入れようと必死になりました結果、私は自分を見失ってしまいました。私が他の方々を押しのけ、踏みつけるようなことをしても、何一つ得ることは叶いませんでした。私は子供の頃より剛徳寺の住職となることを夢とし、勉学や修行に励んでまいりました。自分には自信がございました。しかし、後輩である徳密さんが剛徳寺の次世代副住職として名前があがった瞬間、その事実を受け入れることが耐えられませんでした。私はいつの間にか、人を踏み台にすることでしか、自分を保つことができなくなっておりました』


慧心は、他人から認められないことに強い苦痛を感じていた。

そして、それが慧心の行動を狂わせ、徳密に対する残虐な行為へと繋がったのである。


澄子は静かに口を開いた。


『慧心さん、あなたがこれまで築き上げてきたものは確かに素晴らしいものです。その道がどれほど辛く、苦しいものであったかも理解しています。だからといって、そのために人を傷つけることが、あなたにとって正当化されるわけではございません。人を傷つけることで得るものは、最終的には何一つ残ることはございません。次世代副住職についてですが、名前があがっただけであって、実際に決まったわけではないので、その時点でまだ可能性が残されていたと思います。その後の行動や選択肢によって新たなチャンスを掴むことができる可能性が。人を踏み台にして地位や名誉を得ても、最終的にその名誉は空虚であって、得たものはただの影に過ぎません。あなたが自分を認められていないと感じているのは、確かに辛いと思います。しかし、剛徳寺の僧侶として、あなたはすでに多くの人々に認められているからそこに居ることができるのだし、尊敬されていなかったらとっくに追い出されていると思いますよ。視野を広げれば、きっともっと大きなものが見えてくるはずです。今、あなたが感じている思い込みにとらわれず、一度冷静に自分を見つめ直してみてください』


澄子は慧心のプライドを尊重し、慧心がこれまで築いてきたものを認めた上で、静かに伝え続けた。

慧心はしばらく黙ったまま、考え込むような表情を浮かべ、やがて静かにうなずいた。


『ありがとうございます、澄子さん』


その声は震えていたが、どこか覚悟を決めたような響きがあった。


『実は、澄子さんに言われなかったら、剛徳寺を燃やすところでした』


『………………っえ?!』


その言葉に、澄子は驚きと共に目を見開いた。

慧心は視線を落とし、深い苦しみを抱えた表情で続けた。


『どうしても、あの場所が私にとって何の意味もない場所に思えて……、何もかもが無駄に感じてしまってました。だけど、澄子さんが言ってくれたことで、少し冷静になれました。私が破壊していたのは、結局、自分でした……』


澄子は静かに、慧心の言葉を受け止めた。

慧心が抱えていた闇が少しずつ明らかになり、その内面の葛藤に触れることができたような氣がした。


慧心はしばらく黙って座り込み、突然、涙が頬を伝い落ちた。

氣づかぬうちに心の奥底に溜まっていた感情が、あふれ出して慧心は泣いた。

慧心は静かに止められない涙を拭いながら、ようやく口を開いた。


『私は何をしているんでしょうね………』


その声は、普段の冷静で落ち着いた印象とは裏腹に、深い後悔と悲しみが込められていた。

澄子は慧心の言葉を静かに聞きながら、慧心の心の中で起きている変化を感じ取った。

慧心は今、初めて自分と向き合おうとしているのだと。


『今朝、頭が真っ白で、もう何もかもがどうでもよくなって…、でも今日、あなたの言葉で目が覚めました』


慧心は少し顔を背け、涙を拭いながら言葉を続けた。


『ありがとう、澄子さん』


澄子は静かに慧心に近づき、優しく答えた。


『こちらこそありがとう。私は慧心さんが選ぶ道を応援します』


澄子の言葉は、慧心にとって一筋の光のように感じた。

慧心は初めて、自分を許し、未来に希望を見出すことができたような氣がした。


ずっと自分を認めてもらいたいという思いが強すぎたことで周りの人を傷つけてしまった自分。

誰もが持つ認められたいという気持ち。

それは悪いことではない。

そして、今の自分を少しずつ受け入れ始めている自分。


慧心は自分の心と向き合って、少しずつ歩き始めようと決心した。

焦らず、ゆっくりと。

そして、本当に大切にしたいものは何か、もう一度考えてみた。

それが見つかれば、きっとその先に新しい道が開けると信じて。


長い間閉ざしていた心が少しずつ解けていくような感覚があった。

自分が過去に追い求めていたものが、実は何だったのか、そして今何を求めているのか。

その答えを探し始める準備が、ようやく整った。

澄子の言葉が、慧心にとっての新しい出発点になった。

慧心は心の中で、今までの自分に別れを告げると同時に、新しい自分を生きる決意を固めたのである。


『ところで澄子さんは、いつ最蔵さんとご入籍なさるご予定でいらっしゃいますか?』


『…………?!』


『装飾のご準備や段取りがございますので……』


『ちょっとちょっと…、楓芽さんにも同じことを申し上げられましたが、私たちは、お付き合いしているわけではございません』


『え?!ご交際なさっていらっしゃらないのですか?!』


『最蔵さんと私は友達とか恋人とかでもない、なんて言ったらいいんだろう…、心の中で通じ合っているような存在。無条件の信頼があって、心が寄り添える絆で結ばれているのは確かで、……なんだろうな、こう、ラベルに分類できない、他の誰かとの関係よりも強い言葉以上の関係です』


『あぁ、こういう関係ですっていうカテゴリーに収まらない感じですね』


『そうです、言葉や形にないみたいな。きっと最蔵さんも同じことを思っていると思います』


この時は人には理解されにくい恋愛感情や友情の枠を超えた特別な絆で結ばれていると思っていた。

どんな時も支え合ってきたからこそ、他の人との関係とは一線を画すような特別なつながりを持っている、そう思っていた。


その後、澄子と慧心は無言のまま、剛徳寺の広大な境内に到着した。

冷たい風が車を揺らし、どこか神聖な空気に包まれていた。

その先には、スーパースター像が澄子と慧心を待っていたかのように歓迎し、静寂に包まれている。

その静けさが、まるで心の中に深く響くようだった。


澄子は一歩、足を踏み出しながら、慧心に微笑んだ。


『慧心さん、お迎えいただきありがとうございました』


『こちらこそ、お話をお聞きくださりありがとうございます。では、中へ入りましょうか。暖かいストーブと剛徳寺一あいさつに厳しい楓芽さんが待ってます』


その言葉に澄子は頷き、二人は境内の奥へと足を進めた。

剛徳寺の大きな門をくぐると、ようやくお堂が見えてきた。

大きな庭が広がり、その中心には石の灯篭がおかえりと言っているかのように立っている。

その周囲には、苔つきの石畳が並び、寒さが感じられるものの、どこか落ち着いた雰囲気が漂っていた。


慧心の表情は最初に会った時よりも柔らかく、澄子に向けられた笑顔は温かかった。


『さあ、どうぞ』


慧心は澄子を先導しながら、境内の奥にある建物へと導いた。


建物の中に入ると、温かい空気がほわぁ~んと迎えた。

火の灯されたストーブが部屋を包み、そこには一人の僧侶が立っていた。

あいさつに厳しいキビキビ楓芽だ。


楓芽は澄子を見た瞬間、厳しい表情を崩すことなく、冷静に一礼した。

その鋭い眼差しは、ただ者ではない雰囲気を醸し出している。


『お久しぶりです、澄子さん』


澄子は楓芽の冷徹な表情に少し緊張しながらも、礼をして答えた。


『お久しぶりです。ご心配をおかけいたしまして申し訳ございません』


『蛙の行列』


『?!』


澄子は驚き、思わず言葉を失った。


『これからは、後先をよくお考えの上で行動なさってください。澄子さんにとって、あれで良かったかもしれませんが、周りの方々がどのようなお気持ちになるのか、どのような思いを抱かれるのかを、十分にご配慮ください。それから、あなたの自己犠牲によって傷つかれた方がいらっしゃることを、どうかお忘れにならないでください』


澄子はその言葉に、胸の奥で何かが締めつけられるような感覚を覚えた。

自分が引き受けた犠牲が、人にどんな影響を与えたのか、改めてその重さを感じる瞬間だった。


『はい』


澄子は静かに頷き、目を伏せた。

言葉は簡単だが、その奥にある深い意味を理解するのには時間がかかりそうだと思った。


『今日は、ここで写経してください。慧心さん、あなたもここで写経しなさい』


『わ、私もですか………?』


楓芽は無言で写経用の道具を差し出した。

慧心は大きく動揺しながら受け取った。


澄子は全てを受け入れ、席に着くと、慎重に写経を始めた。

筆を取ると、墨が静かに紙の上に広がり、心の中で少しずつ静寂が広がっていくのを感じた。


楓芽と慧心もそれぞれ筆を取る。

部屋の中には静かな集中の空気が流れ、しばし無言の時間が続いた。


澄子は、その空気の中で自分の思いを整理しようとしていた。

自分の行動が引き起こした影響を深く考え、今後どう生きるべきかを見つめ直すために。


やがて、数時間が経過し、静かな写経の時間が終わった。

澄子は心の中に新たな決意を抱きながら、楓芽と慧心を見た。

どこか穏やかな表情を浮かべた二人が、静かにそれを見守っていた。


その後、楓芽は今日のことを忘れないように二人に伝えた。

自分に必要なのは、これからどう進むべきか、その道を自分で選んでいく力を持つことだと。


澄子と慧心は、その言葉を心に刻みながら、深く礼をした。

こうして、それぞれ自分の力で道を選ぶ覚悟を持ったのであった。


『澄子さん、この後、法照さんにご挨拶なさってください。今日だけ天光堂に入ることをお許しします。作法といたしましては、まず一礼をしてから門をおくぐりいただき、各角ごとに一礼をしながらお進みください。その後、お堂へお入りいただく際も、足音を立てないようご留意ください。また、くしゃみや咳もお控えください』


『ありがとうございます、楓芽さん』


澄子は楓芽から教わった作法を瞬時に覚え、天光堂へ向かった。


その後、澄子は慎重に箱を抱えて歩きながら、剛徳寺の庭を進んだ。

冷たい風が木々を揺らし、薄曇りの空の下で、澄子は音を立てないように歩いた。

澄子が向かっているのは、法照とバキュラがいる天光堂だ。

教わった作法の通りに進む中、神聖な空気で緊張して肩が上に上がりすぎる澄子。

天光堂の扉が解放されている。

中には法照とバキュラが座っており、書物を手にしている。

その背中がまるで禅僧のように穏やかで、澄子は少しだけ心が温まるのを感じた。


『失礼いたします』


澄子が声をかけると、バキュラと法照がゆっくりと顔を上げ、にこやかな表情で澄子を迎え入れた。


『おお、澄子さん、ようこそ。今日はどうしたのですか?』


『ギュラッ?』


澄子は少し恥ずかしそうに笑って、手に持っていた箱を法照に差し出した。


『実は、法照さんにお渡ししたいものがありまして』


澄子は箱を慎重に開けると、その中から精緻なバキュラの置物が姿を現した。

細かい彫刻が施されており、バキュラは、まるで命を宿しているかのように生き生きとした表情を見せている。


『ぷふっ!(笑)』


『ギュラッ?!』


法照はバキュラの置物を見つめ、思わず吹き出してしまった。

バキュラの頬がぷくっと膨らんでおり、唇がぶぅーっとなっている表情がたまらない。

それを見たバキュラは人間の考えることが不思議でたまらなかった。


『手作りのほっぺぷっくりバキュラです。天光堂の後継者になったお祝いにプレゼントを作りました』


『わぁ、手作りとかすごく嬉しいです』


法照は置物を手に取って眺め、嬉しそうに手作りバキュラをぎゅっと抱きしめた。


『ギュラーーーッ!(怒)』


手作りバキュラに大きく嫉妬するバキュラ。

澄子はバキュラを見てかわいいと思ってしまい、クスッと笑っていた。


『ありがとうございます、澄子さん。これ、大切にします』


法照は静かに微笑んだ。


『お喜びいただけて、何よりです』


澄子は笑顔を見せた。

そして、暫くその場で過ごした後、澄子はゆっくりと立ち上がり、再び法照とバキュラに一礼した。


『それでは、失礼いたします』


法照は優しく見送りながら、澄子に微笑んだ。

バキュラは澄子にマッハ5の速さで手を振っていた。


澄子はその微笑みに背中を押されるようにしてお堂を出ると、ふと深く息を吐いた。

今日、法照にプレゼントを渡すことができて、少し心が軽くなったように感じていた。


その後、お土産売り場に顔を出し、照子に無事を伝えた。

澄子は店に入ると、照子の顔を見つけて微笑んだ。


『照子さん、お疲れ様です』


照子は澄子の声に振り向き、顔をぱっと明るくしたが、その瞬間、目に浮かんだ涙をこらえきれず、すぐに肩を震わせながら泣き出してしまった。


『まぁ!澄子ちゃん……!無事で……本当に、無事に帰ってきたんだね……!』


照子は涙を拭うこともなく、ただ澄子に駆け寄り、強く抱きしめた。

澄子はその抱擁を受け入れ、しばらく黙って照子の背中をさすった。


『ごめんなさい、心配かけて……』


澄子はやっとのことで言葉を絞り出した。

照子の涙がどれほど澄子の心に深く響いたか、言葉では表しきれなかった。


照子は、澄子を離すことなく、涙を流し続けながら言った。


『無事に帰ってきてくれて、本当にありがとう。おかえり、澄子ちゃん』


澄子はその言葉に胸が締めつけられるような気がした。

照子の涙の裏には、澄子を心から心配し、守りたかったという気持ちが込められていたのだろう。

澄子は自分がどれだけ多くの人に心配をかけ、負担をかけてきたのか、改めて実感した。


その時、楓芽が言った言葉が、澄子の心に鮮やかに蘇った。


“あなたの自己犠牲によって傷つかれた方がいらっしゃることを、どうかお忘れにならないでください”


その言葉が、まるで冷たい水のように澄子の心に染み込んできた。

自分が一人で抱え込もうとしていたことが、どれほど周りの人を傷つけていたのか。

照子の涙、そして楓芽の厳しい言葉が、澄子の心に深く響いた。


『ごめんなさい、照子さん。私、少しずつでも、周りのことを考えるようにします』


澄子はようやく、その心の中に湧き上がってきた言葉を口にした。

照子は顔を上げ、澄子を見つめながら、少しだけ安心したような表情を浮かべた。


『その言葉が聞けて、本当に嬉しい。澄子ちゃんが無事で、そう思ってくれるなら、私はもう何も言いません。でも、何かあったらすぐに言ってくださいね。私たちがいることを忘れないでね』


澄子は照子の手を握り、しっかりと頷いた。


『ありがとう、照子さん』


澄子は強く心に誓った。

自分だけでなく、周りの人を大切にしていかなければならないと。


その後、澄子は照子に無事を伝えたことが心の中で落ち着き、また一歩、周りとのつながりを大切にしようと決意したのであった。


それから1年後の12月20日、澄子は寒い風の中、六本木のホテルの前に立っていた。

空は暗く、夜景がイルミネーションと共に仲良く輝いている。

澄子は最蔵からの突然の招待に少し緊張していた。


『ここかな…』


澄子は心の中でつぶやき、ホテルのエントランスへと足を踏み入れる。

受付で最蔵の名前を告げると、スタッフは静かに微笑んで澄子を指定された部屋へ案内した。


部屋のドアをノックすると、マッハ5の速さで扉が開き、最蔵がそこに立っていた。

最蔵はシンプルで落ち着いた和服を着ており、その姿が一層の重みを感じさせる。

澄子は少し驚いたような表情を浮かべながらも、微笑んで言った。


『最蔵さん、お呼びいただき、ありがとうございます』


『澄子さん、来てくれてありがとう』


最蔵は穏やかな笑顔を浮かべ、澄子を部屋へと招き入れた。


部屋の中は温かく、暖炉の火が静かに燃えている。

大きな窓からは六本木の美しい夜景が広がり、街の灯りがまるで星のように輝いていた。

最蔵は澄子に向かって座るように促し、自分も向かいに腰を下ろした。


『少し前から、澄子さんに伝えたいことがありました』


最蔵の声は穏やかでありながら、どこか真剣な響きを持っていた。


澄子はその言葉に驚き、心の中で何か大きな変化が訪れた予感がした。


『伝えたいこと…?』


最蔵は深呼吸を一つしてから、澄子をしっかりと見つめた。

その瞳には強い決意があった。


『澄子さん、私はあなたとお会いして以来、あなたの強さや優しさ、そして何よりも抱えていらっしゃる痛みを拝見してまいりました。その中で、私自身も少しずつ変わってきたのです。あなたから教えていただいたこと、そしてあなたのお姿に触れる中で、私は本当に幸せを感じております。そして今、心からお伝えしたいことがございます』


最蔵は少し手を伸ばし、澄子の手を優しく取った。

その手のひらを感じながら、澄子は驚いた表情を浮かべた。


『澄子さん、私と結婚してください』


『…………………えっ?!』


突然の最蔵からのプロポーズに大きく驚く澄子。

澄子は最蔵の顔を見つめたまま、動揺していた。

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