淡
楓芽はおでんを食べ終え、義徳と徳密にお礼を言って帰ろうとした。
静かな夜の空気が、世界を包み込んでいる。
周りにはひと気も少なく、冷えた風が楓芽の肌に伝わった。
そのとき、徳密の声が響いた。
『楓芽さん、待って…』
その呼びかけに、楓芽は足を止め、振り返らずに答えた。
『何ですか?』
冷静に返事をする楓芽。
徳密は少し緊張したような声で言葉を発した。
『実は…私、楓芽さんのこと…………、誤解してました』
楓芽はその言葉に一瞬驚き、眉をひそめた。
徳密の表情には悔しさと真剣さが浮かんでいた。
何を誤解していたのか、楓芽は尋ねることなく待っている。
『澄子さんから、私宛に金剛龍寺にお手紙が届きました。実は私は楓芽さんが食べ残しをしとったこと知っとったんです。この手紙が来る前まで、私はてっきり楓芽さんはお寺に慣れて、ありがたみが薄れて食べ残したのやと勘違いしてました…』
楓芽は表情を変えずに聞き続けた。
『せやけど、澄子さんからの手紙を読んで、その食べ物は飛べやんカラスに分けとったんやと知って、私が誤解しとったことに気づきました』
その言葉に、楓芽は軽く肩をすくめ、わずかにため息をつくような顔をした。
『だ……、だから何?私は特別なことをしたわけではなく、ただカラスちゃんに少し食べ物をお分けしただけでございますっ!カラスちゃんもご自分で食べ物をお探しになっておりましたが、ワシちゃんと争いになって、落ちた場所がお寺でございましたので、お寺のお掃除が毎日きちんと行われており、食べ物がございませんでした。それで、私は少しだけカラスちゃんにお手伝いさせていただいたということです』
楓芽は全ての生命に対して、平等に善意を持って接することが何より大切だと思っていた。
しかし、その善意が誤解を招いたことに少しだけ驚いたが、すぐにそれを気にすることなく、すべてを受け入れる強さを見せた。
『やっぱり、楓芽さんは私が想像しとった通りの人や……』
『このような時に僧侶としての品位が欠けていらっしゃいますね』
『すみません』
いつも通りの厳しい表情が戻った楓芽を見て徳密は安心したような表情で返事をした。
徳密はそのまま、何か言いたげに口を開いた。
『楓芽さん…、今日から千日後にこれを使ってください』
徳密は慎重に鍵を差し出した。
徳密の手がわずかに震えていた。
それに気づいた楓芽は、何か大切なものを託されたと悟った。
楓芽はその鍵を手に取ると、想像以上の重みを感じた。
義徳は、徳密が渡した鍵をじっと見つめていた。
その眼差しには、何かを知っているかのような深い思索の色が浮かんでいる。
『これは何の鍵?』
『今はまだ、詳しゅう教えることはできません。私は、これから修行に集中するため、今はどうしても言えません』
楓芽は鍵をじっと見つめ、何か予感めいたものが胸に広がったが、言葉にはできなかった。
そして、やがて決心したように頷いた。
『わかった。千日間待つわ』
その言葉には、まるで時間がどれほど長くても構わないという強い意志が込められていた。
徳密はそれを理解したかのように、穏やかな表情を浮かべながら口を開いた。
『ありがとうございます。では、そろそろお開きにしましょう』
その言葉に、楓芽は微笑みながら返事をした。
『はい。義徳さん、徳密さん、長時間お付き合いいただき、ありがとうございました。これでお開きにさせていただきます』
その後、楓芽は二人に向かって軽く頭を下げ、ゆっくりとその場を後にした。
夜の静寂の中、剛徳寺への道を歩きながら、楓芽は心の中で少しの不安と、期待を抱いていた。
千日後、あの鍵の真実が明らかになることを、どこか楽しみにしている自分がいた。
楓芽が帰っていくその背中を、徳密と義徳はしばらく見送っていた。
一方、澄子は一ヶ月の入院を言い渡され、治療とリハビリ三昧の日々を送っていた。
その生活は決して楽なものではなく、体力的にも精神的にもつらい時期が続いていた。
そこで看護師の斎藤友花に温かい言葉と最蔵たちのエールによって澄子は少しずつ自分を取り戻していった。
まだ完全には元気を取り戻していないものの、以前のような活力が少しずつ蘇ってきていることを感じることができた。
そして毎日のリハビリに励むことによって、澄子は内面からあふれる強さを感じていたのであった。
ある日、澄子は智真の葬儀に顔を出した。
澄子は智真との思い出を胸に、静かにその場に立ち会った。
そこで、智真の家族との会話の中で、智真が得度式を受けた頃の話を聞くことができた。
それは、澄子にとって智真の深い思いを知る貴重な機会となった。
智真は子供の頃から天台宗の僧侶になることを夢見て育ってきた。
その夢を追い続ける姿勢は、一見、普通の少年のように見えるかもしれないが、智真の心の中には常に仏教への深い信仰があった。
智真は、3つ年上の兄、功典と一緒に仏閣巡りをしながら、日々仏教の教えを学び、心を育んできた。
功典は智真に対して非常に優しく、弟思いの兄である。
智真が僧侶の道を歩むために必要なサポートを惜しまず、いつも智真を支えていた。
功典にとって、智真は大切な家族であり、智真の夢を全力で応援していたのだ。
智真の家庭は非常に温かく、個性を尊重する環境だった。
父の小五郎はホテルの総支配人として働いており、母の百子は小学校の教員をしている。
両親は兄弟に対して決して差別することなく、個性を尊重し、自由に育てた。
智真は、家族の愛情を受けて育ち、特にその自由な環境が智真の人格形成に大きな影響を与えていた。
智真の個性は、他の誰とも違っていた。
智真が10歳の頃、得度式を受けることになった。
その日、智真は一つの伝説を作ることになる。
その伝説とは、得度式を受けた当日に参加した滋賀ご当地限定超絶豪華景品カラオケ大会での出来事だった。
智真は、兵庫から滋賀まで来て緊張しすぎてマイクを逆に持ちながらも、堂々と“身体に良いポクポク体操”を披露。
そして、なんとその歌をお寺で覚えた知恵をいかして法華経風にアレンジして歌い、奇跡のような出来事が起こった。
智真の独特なセンスが、会場にいる全員を沸かしたのだ。
カラオケ大会には豪華な商品が用意されており、その中でも限定品として180万相当の高級仏具セットが存在していた。
それは特別賞の景品であり、そこでしか手に入らないというレアものである。
これが智真のお目当てであった。
この仏具セットを手に入れるために、智真はダンスレッスンに通っている友達やその友達、さらにはその友達の友達を誘い、バックダンサー30人を用意することを決意。
智真の目標は一つ、それは誰よりも目立ち、仏具セットを必ず手に入れることであった。
智真は人を沸かせる為にお小遣いを全額使い込み、惜しみなく努力を続けた。
智真が披露したのは、豪華な歌舞伎の衣装を着たバックダンサーたちを引き連れた華やかなパフォーマンスだった。
豪華景品をゲットするには豪華で対抗するしかない!と智真は考えたが、智真以外のゲストらは普段着で歌を披露していた。
それも、智真にとっては計算通りであった。
特別賞は上手い歌を披露するよりも観客をいかに沸かせるかがポイントと考え、智真はパフォーマンスに気合いを入れたのだ。
智真のセンスは抜群だった。
なんと智真は全身金ぴかで“今日は得度式を受けたので仏具セットは私がいただきます”と、デカ文字で書かれた赤いふんどし一丁で笑顔をふりまきまくってご登場。
勿論、得度を受けたアピールも忘れてはいない。
その姿を見た観客たちは、智真がどれほど本気で仏具セットを手に入れるつもりなのかを感じ取った。
しかし、智真はその独特のセンスで、カラオケ大会の目玉商品を手に入れることができなかった。
智真は自分が思っているよりも歌唱力があり、審査員は智真を高く評価し、見事なパフォーマンスと共に智真は優勝した。
優勝商品は滋賀県のスーパースターの銅像と300万円であり、300万円はバックダンサー1人につき10万円づつプレゼントし、智真は喜んでスーパースターの銅像を持ち帰った。
仏具セットは和歌山県からやってきた真言宗の現役僧侶がゲットしたが、智真はその人の方が合ってると納得していた。
後にスーパースターの銅像は剛徳寺に一生展示されることになる。
智真は、クラスでも非常に個性的な存在であった。
智真には、自分にしかない能力を笑いに変える強いメンタルがあった。
智真は、生まれた時から透視能力を持っていた。
この能力により、幼い頃は他人のネガティブな感情やトラウマを感じ取ってしまい、それがとても辛く感じていたが、智真には父の小五郎と兄の功典も同じ透視能力を持っており、家族はお互いに支え合っていた。
母の百子は自慢の手料理や絵本の読み聞かせ、お話を聞いて家族に光を灯す存在であり、バランスの良い家族であった。
時に父まで絵本の読み聞かせに参加(効果音など)する日もあり、笑いのたえない一家でもあった。
この絆によって、智真は次第に強くなり、透視能力をうまく活かせるようになったのである。
その能力は、学校中に良い影響を与えており、智真は多くの友達に恵まれていた。
智真の強いメンタルとユニークな個性は、僧侶になっても変わることなく、多くの人々に愛され続ける存在となった。
智真が本格的に僧侶になったのを一番喜んでいたのは兄の功典であった。
家族の中でも一緒に居る時間が長く、いつも隣で仏閣巡りや仏教を学んでいた為、智真の中でも功典の存在は特別だった。
功典は家族には比べられなくても、教師や友達から何度も智真と比べられたが、その際は弟を自慢する方向にもっていくという強いメンタルがあり、人を自然に笑わせるセンスまで家族揃って伝授されていた。
しかし、智真は笑っていても心の底では透視能力で苦しんでいたことは功典には判っていた。
それは剛徳寺に行ってから一度も笑わなくなったからである。
これを聞いた何人かの僧侶は下を向いていた。
その時に功典は遠回しに剛徳寺は強烈ないじめがあることを打ち明けた。
それは智真、本人の口から聞いたものではないが、自分の透視能力で確実に見えたものであった。
そのいじめは徳密を剛徳寺に居づらくした主犯格が居り、嫌味を言う楓芽に少しずつその罪を擦り付けるという手の込んだ狡猾な人が居るので智真の次の後継者は慎重に選ぶよう警告された。
ここで澄子は智真から託された言葉を思い出し、バキュラを祀っている天光堂の後継者に法照を選ぶことをこのタイミングで伝えなければと氣が焦ってしまい、この焦りようでは悪い方へいく予感がして、結局この場で言うことができなかった。
明日は智真の最後のお別れをするための重要な儀式が控えていた。
その前に澄子がどうしても伝えなければならないことがあったが、その重責に澄子はどうしても踏み出せなかった。
智真から託された大事な使命が、澄子にとってあまりにも重すぎたからだ。
病院に戻った後、澄子は一晩中そのことばかりを考え続けた。
どうすれば智真の意志を、そして智真の最後の願いをきちんと伝えられるのか。
何度も頭の中でシミュレーションを繰り返したが、いざその瞬間が来た時に自分がどれほど強くなれるか、自信が持てなかった。
翌朝、澄子は病室に入ってきた看護師の斎藤友花に相談を持ちかけた。
友花は日頃から澄子の頼れる存在で、どんな小さなことでも話しやすかった。
ガーゼ交換をしている友花の前で、澄子は深刻な面持ちで打ち明けた。
『実は、智真さんから、剛徳寺の奥にございます天光堂の後継者に法照さんをお選びいただくよう、私にお伝えいただきました。しかし、それだけではございません。剛徳寺では、陰湿ないじめがあると伺っており、法照さんがそのような場所に赴かれることに、私は大変心配しております。それでも、後継者に法照さんをお選びいただくようにお伝えしなければならないのですが、どのように皆にうまくお伝えすればよいのか、全く見当がつかない状態でございます』
澄子の言葉を聞いた友花は、しばらく黙って考え込んだ後、力強い眼差しで澄子を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『澄子ちゃん、そんな顔ではだめ。もしあなたがその使命を果たす覚悟を持っているのなら、迷わず伝えなきゃだめよ。伝えないと、あなたがしっかりしないから周りも納得しないし、軽んじられてしまうだけ。怖いかもしれないけど、しっかりした気持ちで言わないと、智真さんの意志も無駄になってしまうでしょ』
その言葉に澄子は深く頷きながら、重くのしかかる気持ちを少しずつ整理していった。
逃げてはいけない。
智真が残した最後の願いを無駄にしてはならない。
澄子は決意を新たにし、看護師の友花に感謝の気持ちを伝えた。
そして、澄子は静かな病室の中、鏡の前に立った。
空気がひんやりと冷たく感じ、時計の針の音だけが響いていた。
その部屋の中で、澄子一人だけが、言葉にできない重い使命を背負っていた。
澄子の目はどこか遠くを見つめているようで、顔に浮かぶ表情はどこか不安げで、心の中の葛藤が浮かび上がる。
鏡の中の自分が、どこか他人のように見えた。
無意識のうちに澄子は深く息を吐き、顔を上げた。
しばらくその鏡の中の自分を見つめる。
どんな表情で、どんな言葉を口にすればいいのか、まるで答えが見つからないかのように。
その時、頭の中にふと、友花の言葉がよぎった。
『そんな顔ではだめ』
この言葉が、澄子の中で何かを引き起こす。
まるで澄子の内側で何かが目を覚ましたような感覚に包まれ、澄子は微動だにせず鏡を見つめ続けた。
鏡の中の自分は何かが足りない。
澄子はそれを感じ取っていた。
『こんな顔ではだめ』
自分の声が、頭の中で反響している。
澄子は一度目を閉じ、再び鏡を見た。
今度は、目を強く、鋭く見開き、口元をわずかに引き締めた。
澄子の顔に、徐々に変化が現れた。
その瞬間、まるで別の誰かが澄子の体を支配したかのような、奇妙な感覚が走った。
鏡の中の自分が、少しずつ変わっていくのが分かる。
どこか冷たく、鋭く、そして恐ろしいまでの決意を秘めた表情に。
澄子はその表情に目を奪われ、しばらくそのまま動かなかった。
時間が止まったような感覚が、澄子を包み込む。
『こうでないと使命は果たせない』
その言葉が再び心の中で鳴り響く。
澄子はその言葉を心の底から受け入れ、今度は鏡に映る自分に向かって静かに呟いた。
『これでいい』
その瞬間、澄子の表情は完璧に決まり、冷徹で不可解な力を感じさせるものになった。
まるでその顔が、自分の内面を完全に抉り出すかのように。
澄子の目は、もはや普通の人間のものではなかった。
今にも何かが起きそうな空気が漂う。
そして、澄子は静かに深く息を吐き、部屋を出る準備を整えた。
目の前の試練に立ち向かう覚悟を固め、最後の一歩を踏み出すのだと。
澄子は、思いのほか長い間、スーパースターの銅像の前に立ち尽くしていた。
目の前に広がる静かな風景と、ゆっくりと流れる時間が澄子の心を一層深く沈ませているようだ。
車に乗っても心の中で何度も反芻していたのは、智真から託されたあの言葉だ。
智真の真っ直ぐな眼差しと共に、澄子の心に刻まれたその言葉が、今まさに自分の決断を試す瞬間に差し掛かっていることを、痛いほど感じていた。
智真が言った言葉には、重い思いが込められていた。
『法照さんは、あの場所にふさわしいお方でございます。私はもうその役目を全うすることができません。今、私が申し上げなければならないのは、この決断のみでございます』
火葬場に着いた瞬間、澄子は智真が残した言葉の意味を何度も考えた。
智真がこの役目を託す相手として、誰を選ぶべきか。
特に、法照のことを思うと、胸が締め付けられるようだ。
法照は、剛徳寺の中で挨拶ができない存在であり、最近ようやく自分から積極的に人と話せるようになった僧侶である。
法照の持つ精神的な力、またその静かな強さは、確かに天光堂を背負うにふさわしいものがある。
しかし、その一方で、法照にはどこか掴み所のない部分があり、時に澄子自身がその心の中を測りかねることがあった。
それでも、智真の言葉を思い返すと、智真が求めていたのは、外面的な優れた資質ではなく、心の奥底に眠る覚悟と、その覚悟を全うするための不動の意志だったのだろう。
澄子は、自分がこの決断を下さなければならない立場にいることを重く感じていた。
後継者を選ぶことは、天光堂だけでなく、周りの人達にも大きな影響を与えることになる。
選ばれた者が、もしその責任を果たせなければ、天光堂の名はもちろん、あの地で培われてきた信頼までもが失われてしまうかもしれない。
それを考えると、どんなに慎重になっても足りないくらいだ。
その時、火葬場の冷たい空気の中で、功典は一人静かに立ち尽くしていた。
火葬炉の前に置かれた智真の遺体を見つめる功典の目は、涙で潤んでおり、その瞳は深い悲しみに満ちていた。
周りの人は静まり返り、ただただその悲しみに包まれていたが、功典はその時、声を上げることができなかった。
しかし、心の中で堪えきれなくなった感情が、次第に彼を押しつぶし始めた。
その胸の内で暴れ回る思いを、ついに言葉として発した。
『智真を燃やさないで!』
その叫び声は、火葬場の冷徹な静寂を引き裂くように響いた。
功典の声は震えており、涙が止まらなかった。
功典は智真を手放すことができなかったのだ。
あまりにも突然に、そしてあまりにも大切な存在を失ったことが、功典の心を壊しそうになっていた。
功典の目の前で、智真の遺体は静かに焼かれようとしている。
その不可避の事実を受け入れられなかった功典は、ただひたすらに、兄として、家族として、そして何よりも、智真の命が失われていくことに対して恐れと悲しみが募るばかりだった。
澄子は、その様子を見守りながら、言葉をかけることすらできず、ただ功典の心の中で渦巻く痛みを共に感じていた。
智真はもうここにはいない。
それを、どうしても信じたくなかった。
『お願い…智真を燃やさないで…』
功典は再び、その叫びを上げる。
その声を止めることができるのは澄子だけだった。
澄子は僧侶たちに止められる中、棺の扉を開けた。
それを見た功典は、これから澄子が言おうとしていることを感じ取り、涙が止まった。
そして、澄子は頭の中で天光堂がある山の頂を見つめた。
その頂には、幾世代にもわたる歴史と、幾多の人々の思いが息づいている。
天光堂を守る者として、その責任を引き受ける者として、澄子は法照が本当にその役割を果たせる人物なのか、心から信じることができるのかを問い続けた。
そして、ついに澄子は決断を下す時が来た。
智真が伝えたその言葉の真意を、澄子なりに理解したとき、智真が法照に託したかった思いもまた、澄子自身の胸の中に強く響いていた。
今、澄子の心に確かなものは、法照こそがこの役目を果たすために最もふさわしい人物であるという確信だった。
澄子はゆっくりと深呼吸を一つした。
自分の決断が間違いでないことを、心の底から信じることができるよう、最後にもう一度だけ心を落ち着けた。
瞼を閉じると、あの言葉が再び響く。
澄子は自分がどれだけ迷っていたかを思い出した。
智真から伝えられた最後の願い、その言葉を果たすためには、澄子は他の誰もが抱かないような覚悟を持たなければならなかった。
それを実行に移すことができるのは、自分だけだということが、しっかりと胸に刻まれていた。
智真の顔を見た瞬間、澄子は感じた。
部屋の中の空気が、まるで時が止まったかのように重く、深い静寂に包まれていることを。
そこに集まった人々の顔を一人一人見ると、澄子はふと、自分がどれほど弱かったか思い知った。
しかし、智真が託した使命を果たすためには、どんな思いも振り払わなければならない。
そして、澄子は毅然と立ち上がり、ゆっくりとその一歩を踏み出した。
今までの自分を捨て、冷徹な表情を保ちながら、集まった人々の前に立つ。
澄子は智真の顔を見ながら智真の言葉を深く胸に刻み、ついにその言葉を口にした。
『智真さんからの最後のお願いをお伝え申し上げます。天光堂の後継者として、法照さんをお選びいただくべきだということでございます。智真さんは、私にこの選択を託してくださいました。そのご意志を無視するわけにはまいりません。何卒、この選択を尊重していただけますようお願い申し上げます』
その言葉に、空気が一瞬で凍てついた。
この時、澄子は一瞬だけ法照を睨みつけた一人の僧侶を見逃さなかった。
その僧侶は自分を抑えられなくなって澄子に向かって大きく反論した。
澄子は表情を変えずに智真の願いを伝え続けた。
どれだけ反論があっても、どれだけ疑念が寄せられても、澄子は自分の中の決意を固く持ち続けた。
その中で楓芽が澄子の横に肩を並べ、間違いなく智真が残した言葉であり、澄子の言葉に嘘はない・智真の意志を尊重し、法照が適任であることを賛成するとはっきりと意見を述べた。
その表情は澄子以上に強く、それに逆らう者は誰一人として居なかった。
桂之助と最蔵も話し合い、最終的に法照が後継者として認められることとなった。
法照は智真の顔を見ながら、天光堂の後継者になる覚悟を決めたのであった。
すると、智真は安心したような表情に変わり、それを見た功典は智真に『智真の願いやっと叶ったよ。もう安心して大丈夫だよ。ありがとう、またね』と言って扉をそっと閉めた。
火葬が始まると、静かな空気がその場を包み込んだ。
火葬場の中で燃え上がる炎が、智真の魂を送り出すように感じる。
そして、智真を見守るように手を合わせた。
焼ける音が響き渡る中で、心はどこか遠く、静かな場所へと導かれるような気がした。
みんなの思いが空に向かって放たれていく。
智真がもうこの世にいないという現実が、しばらくは信じられなかった。
だが、智真の体が静かに灰になっていくのを目の当たりにし、胸の中に一層の寂しさと喪失感が広がった。
火葬の煙が薄曇りの空に溶けていくかのように。
澄子は目を閉じ、その煙に込められた智真の思いが空へと昇っていく様子を想像した。
智真がどんなに無念で、どんなに多くの思いを抱えていたのかを考え続けた。
智真が託したもの、最後に示した決意、そのすべてを引き継ぐ覚悟が必要だ。
しかし、それが果たして自分にできることなのか、疑問が湧き上がる。
手を合わせるその手が、微かに震えていた。
その震えを感じながら、さらに深く頭を垂れた。
普段の冷静な自分ではなく、心からの祈りのように。
『智真さん…私、法照は必ずあなたの意志を継ぎます。どんなに辛くても。これは、あなたのためではなく、私の志です』
その言葉を胸の中で繰り返すたび、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた。
周りの静けさが、法照を支えているようだった。
周りの人々がどんなに口を閉ざしていても、智真との思い出が、今後の道しるべとなることを確信した。
火葬が終わりに近づいていく頃、再び目を開け、智真の遺灰に一礼した。
そして、静かに足を踏み出す。
その一歩一歩が、今後の人生を決めていくように感じたのであった。
その後、澄子は楓芽にお礼を言い、澄子は功典からお礼を言われ、それぞれ帰る場所へと向かった。




