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四重四恩

義徳と徳密が並んで歩く姿を遠目に見つめていた最蔵の胸中には、言葉に尽くせぬ思いが渦巻いていた。

自分の心に問いかけるように一瞬立ち止まったが、次の瞬間、決意を固めたかのように駆けた。


最蔵の息は切れ、頬には冬の冷たい風が刺さるように当たっていた。

それでも足を止めることなく、ついに二人の前へと立ちはだかった。

額には汗が滲み、肩で荒い息をする最蔵だったが、その眼差しには新たな光が宿っていた。


『お待ちください』


声を張り上げた瞬間、義徳と徳密は同時に振り返った。

二人の目には驚きと共に、何かを察するような柔らかな光が宿っていた。

最蔵はその視線をしっかりと受け止めると、深く息を吸い込み、震える声で言葉を紡いだ。


『ありがとうございました…。お二人がいらっしゃらなければ、私は何もできなかったかもしれません。本当に…心より感謝申し上げます』


言葉の途中で声が詰まり、最蔵は深く頭を下げた。

その背中は冬の冷気にさらされながらも、小刻みに震えていた。

だが、その姿からは、最蔵が抱える感情の強さと本心が、はっきりと伝わってきた。


二人は最蔵に深く礼を返すと、再び歩き始めた。


ちょうどその時、風が舞い、無数の落ち葉が空中を踊りながら二人を包み込むように降り注いだ。

冬の月の光を受けて輝くその葉は、まるで二人の道を見守るかのように、優しく足元へと降り積もった。


その後、最蔵はその場に集う全員に向けて深々と頭を下げた。

そして、頭を上げ、真剣な表情で、全員に向けて静かに語り始めた。


『本日、お集まりくださった皆様、心より感謝申し上げます。剛徳寺にとりましても、私自身にとりましても、皆様のお力添えがなければ、今日のような時を迎えることはできませんでした。一人ひとりのご尽力と温かいご厚情が、この場を特別なものにしてくださりました』


その声には力強さと誠実さが込められており、集まった者たち一人ひとりに届くように響いていた。

最蔵は一呼吸おき、言葉を続けた。


『どうか、このご縁が今後も続きますように。また、今日ここで賜りました祈りや思いが、それぞれの地においてさらなる善き縁を生む種となりますよう、心よりお祈り申し上げます』


最蔵はその場に集う全員に向けて深々と頭を下げた。

呼応するように、剛徳寺の僧侶たちも整然と頭を下げた。

儀式に参加した者たちの中には、遠方から駆けつけた他寺の僧侶や神社の神職たちもおり、それぞれが最蔵の感謝の意に対して静かに頷き、互いに礼を返した。


やがて解散の時が訪れると、一人、また一人と帰路についた。

剛徳寺の僧侶たちと最蔵はその全員が見えなくなるまで、冬の風に耐えながら頭を下げ続けた。

その姿には、共に場を作り上げた仲間たちへの深い敬意と感謝が込められていた。


最後の一人が病院の門から歩き、視界から見えなくなった頃、最蔵はゆっくりと顔を上げた。

冷えた空気の中で顔が少し赤らんでいるものの、その表情はいつもとは違った強さがあった。

そして、最蔵は剛徳寺の僧侶たち、そして住職である桂之助に向き直り、深々と頭を下げた。


『桂之助さん、そして共に動いてくださった皆さん、本当にありがとうございました。私一人では到底ここまでやり遂げることはできませんでした。皆さんのお力添えがあってこそ、今日のこの場を全うすることができました』


『これはまだ始まりに過ぎない。今日得たものを胸に刻み、さらに精進しなさい。智真のためにではなくだ。そして、皆と共に歩むことを忘れるな』


その言葉に最蔵は力強く頷き、全員が再び心を一つにして、一同は動き出し、病室へと向かおうとした。

澄子の病室に入ると、そこには楓芽が澄子の隣に座り、そっと澄子の手を握っていた。

楓芽は最蔵たちの気配に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

病室の窓から差し込む柔らかな朝日が、澄子を温かく包んでいた。


澄子はまだ完全に起き上がることはできなかったが、力のない手で楓芽の手を握り続けていた。


『皆、ありがとうね』


かすれた声だったが、その言葉は病室に静かに響き渡った。

澄子の視線が部屋の中にいる一人ひとりの顔をゆっくりと追う。

そこには最蔵や剛徳寺の僧侶たち、そして気遣いを見せていた楓芽の姿があった。


僧侶たちは互いに目を合わせ、うなずきながら澄子を見つめていた。

楓芽は澄子のそばに座り、手に持っていたおしぼりをそっと差し出しながら言葉を添える。


『澄子さん、無理しないで。みんな、澄子さんが元気になるのを待ってるよ』


澄子は小さくうなずき、楓芽の手を弱々しく握った。

その手の温かさに、わずかに力が戻ったように見えた。


最蔵が一歩前に進み、澄子に静かに声をかける。


『澄子さん、あなたが元気になってくれることが、私たちにとって何よりの喜びです。どうか焦らず、ゆっくりと休んでください』


澄子は涙を浮かべながら小さく頷いた。

その瞬間、病室の中には静かな感動が満ち、全員が目指すべき新たな一歩を心に刻む時間となった。

澄子は、もう一度、ありがとうとつぶやいた。

その声は小さいながらも、心から感謝がこもっていた。


外では冬の風が窓を優しく揺らし、陽の光が薄く差し込んだ。

その光が、澄子の顔を穏やかに照らし、少しだけ温かい表情が戻っていた。


その場にいる全員が、澄子の小さな声とその感謝の気持ちを胸に刻み、改めて澄子の回復を心から願ったのだった。

病室で一瞬、静けさが訪れたが、それは決して寂しいものではなかった。

そこにいる全員が、それぞれの役割を果たし、互いを思いやる温かな空気に包まれていた。


その後、楓芽は『私は十分、澄子さんにお話ししたので、お先にお寺へ戻ります……』と言い、頭を下げてから病室から出た。

しかし、剛徳寺へ向かうべき足は、逆方向へ向かっていた。

心の中で何かが引き裂かれるような感覚に突き動かされるまま、楓芽は知らず知らずのうちに大きな橋の前にたどり着いた。

潮の香りが漂い、風が冷たく頬を刺す。


そして、橋の欄干に手をかけ、海を見下ろした。

水面は漆黒の闇の中でかすかに光を反射し、静かな波音が響いていた。

楓芽の目には、智真の笑顔が浮かんでは消えていく。

冷たい風が、心の奥底に渦巻く虚無感を吹き込むようだった。

何度も耳の奥で智真の声が囁くように蘇る。

楓芽は両親の顔を思い出し、泣きそうになっていた。

しかし、襲い掛かってくるのは責任だ。


『ごめんなさい……智真さん……。あの時、私が指示しなければ………。私が間違えてました……。ごめんなさい……』


その言葉は誰に届くこともなく、車にかき消された。

楓芽は一歩、欄干の上に足をかけた。

その瞬間、背後から激しい足音が聞こえ、強い力で腕をつかまれた。


『何をしているんですか』


振り返ると、そこには徳密の慌てた表情があった。


『離して!私なんか……』


楓芽は抵抗しようとするが、徳密はさらに強く腕を握りしめた。


『いったん、落ち着きましょう』


徳密の声は震えており、今にも崩れそうだった。


『智真さんの死は、私の責任です……。私が指示さえしなかったら智真さんは生きてました……!』


楓芽の声もまた震えており、目からは大粒の涙が次々とこぼれ落ちていた。


『そのようなことをお考えの方はどなたもいらっしゃいません。智真さんも、そのようにはお思いになっていないはずです。楓芽さんがいなくなったら、智真さんの心も報われない!みんながご存命でいらっしゃることが、智真さんにとって何よりの供養でございます!』


徳密は泣きながら、楓芽の肩をつかんで揺さぶるように言った。

楓芽は徳密の言葉を聞き、崩れるようにその場に座り込んだ。

欄干の下、海の冷たい風が二人を包み込む中で、楓芽は声を上げて泣いた。

その涙は、智真を失った悲しみ、そして自分自身を責め続けてきた苦しみが溶け出すようなものだった。


徳密は静かにその隣に座り、楓芽の肩を支えた。


『さぁ、帰りましょう。智真さんの分まで、一緒に生きていきましょう』


楓芽は涙に濡れた顔を上げ、小さくうなずいた。

二人は寒空の下、歩き始めた。

その先には、かつて智真が大好物だったおでんを持った義徳が居り、楓芽にそれを渡して三人で食べた。


『空腹やとけったいなこと考えてしまう。これ食べて落ち着きましょう』


この瞬間、おでんを頬張る智真の笑顔が思い出した。

『この大根の煮え具合、完璧です!大好き!』と、智真の笑い声が、耳の奥で今にも響きそうだった。


『ありがとうございます』


『どうぞ。申し遅れましたが、金剛龍寺の荒木田義徳と申します』


『初めまして、楓芽と申します。すみません、初めましてでこんなに乱れてしまって…』


『いえいえ。さぁ、冷めないうちに食べて下さい』


『ありがとうございます。……。おでん………、智真さんの大好物……』


『はっ…、そうでしたか…』


『はい、やわらかいだいこんが大好きでした』


『せやけどあれやんな、智真さんは兵庫県出身やから、ほんまは生姜醤油をかけて食べるのが好きや言うとって、お坊さんになる前は苦労しとったね』


『得度式の朝に最後に食べてきたみたいで皆に気付かれちゃってね…』


『ぷっ…、そんなことがあったとは……』


『そうです、智真さんは真面目な顔をして夏休みの宿題をギリギリまでやらないタイプなのですよ』


『いつもギリギリやったなぁ』


『そうね、誰かさんと一緒で、いつもギリギリまで寝てギリギリまで起きてたもんね』


『わあぁ、やめて…、楓芽さん、絶対私のことやわ』


『あははは、そういえば金剛龍寺に来た日もギリギリまで寝て天志に怒られ………』


『わぁぁぁ、やめて、わぁぁぁ!』


こうして、温かいおでんの湯気が、冷たい冬の空気を包み込み、三人の間にほんの少しの安らぎをもたらした。

智真の分まで、みんな生きていく。

彼の思い出は、これからもずっと彼らの中で生き続けるのだから。

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