一切衆生悉有仏性
最蔵は両手を震わせ、ゆっくりと視線を下に落とした。
震えが止まらない。
唇を噛みしめて、何度も息を呑むが、それでもその手の震えは収まらない。
時折、手のひらに汗がにじみ、無意識にそれを拭う。
だが、どうしてもその震えは抑えきれないようだ。
『事件が発生したのは……、50年前の10月1日……でございましたね』
その言葉に、光明はわずかに顔をゆがめた。
過去がまるで今、目の前に鮮明に蘇ったかのように感じる。
全身がひやりと冷たくなり、思わず手を握りしめる。
そして声を出さずに、ただ黙って頷いた。
『……うん』
光明はその一言を、まるで石のように重く発した。
最蔵は少しの間、目を閉じて黙り込んだ。
その沈黙が、光明にとっては耐えられないほど長く感じた。
やがて、最蔵は深く息を吸って、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
『私のおばあちゃんのお名前は、明慶千代。当時27歳でいらっしゃいました。商店街でお店を営んでおられました』
最蔵の声は低く、静かだったが、その背後にこもる感情は隠しきれなかった。
光明はその言葉に、なぜだか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
自分がその場に立ち会ったときのことが、鮮やかに蘇るように思った。
目を閉じても、耳を塞いでも、逃れられない。
『私の母は明慶燈子。当時、6歳で、その日はお誕生日で、小学校に通っていらっしゃいました』
最蔵はさらに語を続けたが、その顔に一瞬、苦しそうな表情が浮かんだ。
『おじいちゃんは政治家を目指していらっしゃいましたが、燈子が5歳の時にご病気でお亡くなりになり、母子家庭となりました』
その言葉が過去に引き戻す。
光明は言葉を待っているが、心臓の鼓動がうるさくて、最蔵の次の言葉が耳に届かない。
『10月1日、その日でございました。昼時で、商店街は賑わっておりました。千代は店の前でお客さまを呼び込みなさっておりました。そのとき、突然、人々が次々に首を刺されて…………』
最蔵の声が、怒りに震え、それを隠すように言葉遣いが緩んだ。
その震えは、やはりその日の記憶をたどるにつれて抑えきれなかったのだろう。
光明の目が一瞬、見開いた。
それを見逃さず、最蔵はさらに続ける。
『千代はその場で何が起きたのかを理解して、すぐに店にいたお客さま方を事務室に避難させた。そして、あなたが現れた』
その言葉に、光明は息を呑んだ。
言葉が胸にひしひしと圧し掛かる。
最蔵の視線が鋭く、まるで心の奥まで見透かしているかのようだった。
『千代はあなたに向かって言ったそうだ。“どうしてこんなことをするの?”と』
最蔵の目が冷たく光った。
しばらく沈黙が続く。
だが、最蔵は黙っていなかった。
『その後、光明さん……あなたが何をしたか、覚えていますか?』
光明は、体が硬直するのを感じた。
心臓が鼓動を打つたびに、耳鳴りのような音が響く。
言葉が出ない。
過去の記憶が、無理やり引き出されるように感じた。
震える手で、何度も無意識に自分の腕をつかみ直す。
『………』
光明は目を閉じたまま、ただ震えることしかできなかった。
最蔵はじっと待っている。
その視線があまりに強く、圧を感じる。
それに耐えきれず、ようやく光明は口を開いた。
『………』
言葉がうまく出てこない。
だが、覚えている。
記憶が鮮明に甦る。
血の匂い、痛み、そして刃が刺さる瞬間の冷たさ。
そのすべてが、身体に突き刺さるように思い出される。
『………殺した』
光明は震える声で、ようやくその一言を発した。
言葉を出した瞬間、手のひらから汗が噴き出す。
『首に包丁を…斬りつけて…殺した』
その言葉は、冷たい刃のように空気を切り裂いた。
最蔵は無言で、じっとその言葉を受け止めた。
何も言わず、ただ光明を見つめている。
その目は、冷たく、無感情に映った。
『そうです。あなたに、私のおばあちゃんは殺されました……』
その言葉が、まるで重い鉄の塊のように、光明の胸に押し込まれた。
言葉にならない苦しみが込み上げ、口の中が渇く。
もう一度、すべてを謝りたくても、それを口にすることができない。
最蔵の目は、何も語らない。
ただ静かに、そして冷徹に、光明を見つめているだけだった。
部屋は静まり返り、時計の針の音だけが響いている。
最蔵と光明は向かい合って座っているが、二人の間に流れる空気は、まるで時が止まったかのように重く感じた。
光明は目を伏せ、両手を膝の上に置いたまま、言葉を発することなくじっと沈黙している。
最蔵はその姿を見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。
最蔵は静かに息を吐き、目の前に座る光明をじっと見つめた。
二人の間に流れる沈黙は重く、最蔵の心の中の揺れ動く感情を反映しているかのようである。
光明は無言のまま震えていた。
最蔵は震える手で、何度も口を開こうとしたが、言葉がうまく出てこない。
『光明さん…』
最蔵がようやく口を開いた。
その声は少し震えていたが、言いかけた言葉が自分の中で固まっていくのを感じた。
『私の母…燈子のこと、話してもいいですか?』
光明は静かに頷いた。
無理に急かすことなく、ただ最蔵の言葉を待った。
最蔵は目を伏せて、深い息をついた。
思い出すのが怖いほどの痛みが胸に押し寄せてきた。
しかし、この苦しみを光明に伝えなければ、もう前に進むことはできないような気がしていた。
『私の母は…』
最蔵がゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
『私の母は私が生まれて、どんどんおかしくなった………。私を見る目は日に日に冷たく、食べ物は殆ど与えられませんでした……。物を投げつけられたり、頭からお酒をかけられたり……、散々でした』
最蔵の声が少しずつ震え出す。
『母は…寂しさを埋めようとして、不特定多数の男性と関係を持ち続けて子供を産み続けて誰の子かも分からず、狂ってた…。最初は、気晴らしだったんだと思います。しかし、それがだんだん習慣になっていった。そして、私は母が誰と一緒にいるのかも分からなくなった。母の心が、どんどん空っぽになっていった』
光明は黙って聞いていた。
最蔵が自分の過去を吐き出すその瞬間を、焦らずに待っている。
『でも、そんな母でも、私はどこかで信じたかった………』
最蔵は目を閉じて、苦しそうに続ける。
『母が一度だけほんの一瞬、笑顔を見せてくれたとき、私はそれが本当だと思いたかった。でも…』
その言葉が止まり、最蔵は顔を上げる。
光明の目を見つめ、次の言葉を絞り出すようにして言った。
『12歳のとき、母は死にました……』
その瞬間、空気が一変した。
光明の眉が少しひそめられる。
最蔵の顔には、深い傷跡が浮かんでいた。
その傷を、ようやく他人に見せる覚悟ができたのだろう。
『10月1日に私が学校から帰ってきた日に……』
最蔵はゆっくりと話し続けた。
『家に入っても、いつも聞こえる母の声がなかった。テレビの音も、どこからか聞こえる歌声も、何も。家の中はただ静まり返っていて、何かが違うと感じました』
最蔵の声は低く、震えていた。
『母の部屋に向かうと、そこで見たんです。母が首を吊って、動かなくなっていた。ロープが母の首に絡みついていて、目は閉じたまま、しかし、口元には…微笑んでいるような気がしました』
光明の心が痛む。
最蔵が語るその言葉に、思わず息を呑んだ。
最蔵が感じた恐怖と悲しみが、そのまま光明の胸を締め付けるようだった。
『そのとき、私はただ、立ち尽くすしかなかった……………』
最蔵は声を絞り出した。
『叫ぶことも、助けを求めることもできなかった。母がどんな気持ちで最後の瞬間を迎えたのか、私にはわからない。ただ、あのときの微笑みが、今でも忘れられない』
最蔵はしばらく黙っていた。
目を閉じると、その顔に過去の記憶が浮かび上がるのだろう。
光明は、ただ静かにその痛みを受け入れるように、最蔵の話を聞いていた。
『私は…』
最蔵がぽつりと呟く。
『私は、母を救いたかった。何もできなかった。あの時、私ができたことは、ただ目の前で何もせずに立ち尽くすことだけだった』
光明は無言で最蔵を見つめた。
何も言わず、ただその痛みを受け入れようとする。
最蔵の心に溜まった涙の重さを、少しでも軽くするために、今は何も言うことはない。
過去の傷は完全には癒えないことを知っているからだ。
『お前が犯した罪は重い。もう二度と戻れない過去だ。しかし……』
その言葉に光明が顔を上げた。
視線が最蔵の顔を捉える。
最蔵の目は冷静で、しかしどこか穏やかさを帯びていた。
『……しかし、光明。お前の中にも、仏性がある』
光明はその言葉に驚いたように一瞬目を見開くが、すぐに表情を引き締めた。
何も答えず、ただ静かに最蔵を見つめる。
『仏性……?』
光明はその言葉を反芻するように呟いた。
『それが、どうして俺に?』
『一切衆生悉有仏性。すべての生きとし生けるものには仏性が備わっているという教えだ。お前もその一部だ』
最蔵の声は静かで深かった。
光明はその言葉が胸の中にゆっくりと染み込んでいくのを感じた。
最蔵はそのまま続ける。
『お前は、自分を許せないだろう。過去の行いを、消し去ることができないと思っているだろう。しかし、仏教は教えている。過去は変えられないが、未来はお前の手の中にある。罪を背負って生きることを選ぶのか、それともその重さを受け入れて、償いの道を歩むことを選ぶのか』
最蔵の言葉は、まるで灯火のように光明の心に差し込んだ。
それは温かさと同時に、厳しさも伴っていた。
光明は深く息を吸い込み、目を閉じた。
『でも、どうして俺がその……仏性を持っているなんて、信じられない。俺は人を……あの人たちを、殺した』
その声は震えていた。
『人間は誰でも過ちを犯す』
最蔵は静かに言った。
『その過ちから学び、改めることこそが、仏の道にかなうものだ。仏性は、どんなに深い闇の中にあっても、必ず内に宿っている』
光明は目を開け、最蔵の目を見た。
だが、そこには恐れや疑念だけでなく、ほんの少しの希望が見えた気がした。
それでも、まだ心の中には深い闇が渦巻いている。
『でも、どうすれば……』
光明は小さな声で問いかける。
最蔵はしばらく黙って考え、やがてゆっくりと語りかけた。
『仏教には懺悔という教えがある。自分の過ちを悔い、心からその償いをすること。それが、人としての道を歩むということだ。そして、仏性はその心から湧き出るものだ』
光明は、最蔵の言葉を反芻しながら、ふと手を握りしめた。
目の前に、あの日の光景がフラッシュバックする。
刃が振るわれた瞬間、血が飛び散る音、そして人々の悲鳴が耳に残る。
それでも、最蔵の言葉がどこか心に染みていく。
『懺悔……』
光明はその言葉を小さく呟くと、目を閉じて深く息を吐いた。
最蔵はその様子を見守りながら、静かに続けた。
『お前の罪を軽くすることはできない。だが、もしお前が心から悔い、償いの道を歩むなら、仏性はお前を導くだろう』
光明の胸に、再びあの仏性の言葉が響く。
最蔵が言うように、本当に自分の中に仏性があるのだろうか。
罪を犯した自分が、どうしてその仏性を持っているといえるのか。
だが、最蔵の目はまっすぐに自分を見つめ、確かな確信を持っている。
『光明、すべてのものには仏性がある』
最蔵の声は、何よりも優しく、しかし力強かった。
『お前の心の中にあるその仏性を信じて、もう一度生きる道を歩め』
光明は目を開け、その言葉をしばらく黙って受け止めた。
少しの間、言葉は交さなかったが、目の奥に微かな光がともったように見えた。
『……分かった』
光明は、ようやく静かに答えた。
その言葉は、まるで重い鎖が少しずつ解けていくように、少しずつ、少しずつ軽くなっていくように聞こえた。
最蔵は黙って頷くと、ゆっくりと立ち上がり、静かに歩みを進めた。
『今日から、少しずつでもいい。仏性を信じて、生きていけ』
最蔵の声は、再び静かな温もりを帯びていた。
執筆中に意識が朦朧としました。
おばあちゃんをどうしたか質問したシーンから意識がありませんでした。
何故か四天王が見えました。
この小説の中で一番情緒が不安定になる作品でした。




