伝説の入学式
輝が見た夢は、残念ながら現実となってしまった。
父上は大阪でヤクザの組長を務め、裏社会での仕事が日々忙しかった。
この日も重要な用件があったため、決して欠席するわけにはいかないようだ。
一方、母上は地元の病院で看護師として働き、患者たちのケアに心を砕いていた。
貴重な入学式の日であっても、命を救うことに責任を感じて、仕事を欠かす事はできなかった。
輝:『………』
入学式に両親が姿を現さず、輝にとって深い悲しみに打ちひしがれた。
それが“我慢”という苦痛である。
輝は心を重く感じながらも、入学式の会場へ向かった。
心は孤独と失望で満ちていた。
両親が輝の特別な日に姿を現さない現実が輝にとって深い傷となっていた。
胸の内には悲しみと孤独感が渦巻き、気持ちはどん底に沈んでいくようだ。
親と子が手を繋いで歩く姿を見る度に輝の足取りは重く、前に進む事が苦しく感じた。
静かな心の中でこの日を乗り越える覚悟を決めた。
学校から最寄りの駅前に到着すると段ボールに入った真っ白な犬が置き去りにされていた。
秋田犬だ。
小さな子犬が人に助けを求めるように首を伸ばして見つめている。
しかし足元が見えていない通りすがりの者達の殆どには犬の存在に気付かなかった。
急いで仕事場へ向かう者も多く、歩くスピードも速い。
朝の歩道は余裕がない顔をしている者が死んだように歩いている。
秋田犬が入ったダンボールは何度も蹴り飛ばされてしまう。
それに気付いたとしても人は見ぬふりをして前へ進んでいく。
面倒だと認知すると触れないように逃げていく。
平和な世の中にも冷たい世界がある。
労働という自由の無い世の中がおかしくさせているようだ。
『やめてよ!やめてよ!ここに犬が居るんだよ!蹴らないでよ!クソ人間!』
とある少年は蹴り族に同じように蹴飛ばしたが、冷たい雨のような眼差しで睨まれている。
自分よりも何倍も身体が大きい大人相手に蹴飛ばされながら、その少年はボロボロになっても全力で犬を必死に守り続けていた。
輝は、この光景を見て人生に大きな衝撃を受けた。
それはまるで冷たい雨の中に優しさと勇気と救われる温かい雨のような、そんな気がした。
そしてついに霧聖私立学園小学校入学式会場へ辿り着いた。
校内には桜が満開に開花し、新しい始まりを感じさせた。
『きたきた、ヤクザの子』
『視線を合わせちゃだめよ』
会場へ向かう一人の入学生から人が避けるように道を作っている。
保護者は子供に目を合わせないように厳しく指摘している姿が見える。
まるで捨てられた小動物でも見るかのように。
『可哀そうに…。子供は親を選べないって、ああいうのをいうのね』
『目つきが悪いのも例のお父様の血を引き継いでるのかしら』
『違う学校にすれば良かったわ』
心の無いヒソヒソ話が耳に直撃した。
人は見た目で判断し、第一印象で全てを決め付ける事が多い。
この世の悪い癖だ。
形姿だけで全てを覆せるのなら、それは生きている力が沸騰している証と言えるであろう。
だが、この程度では動じない。
人の陰口など雑音でしかない。
人間に恐れられているのは織田輝という者だ。
なんと入学式にアニメのキャラクターTシャツを着てド派手にご登場。
独特なインパクトを全開に放っている。
安定の謎多き魔王である。
しかし誰一人として、この人物に近付く者も居ない。
威圧的な目で睨みつける保護者と怯える生徒達の目線にも動じず、重い汚染の中を掻き分けるように堂々と、ど真ん中を歩いた。
背筋を丸めて端を歩くなど有り得ないのだ。
会場の入り口にはクラス表が貼られている。
輝と同じクラスの者の殆どが絶望的な顔で俯いた。
喜ぶ顔を隠す生徒は怖いもの見たさでわくわくしている。
それもお見通しだ。
輝に友達ができるなど、到底叶わぬ夢なのかもしれない。
『ああ…俺の大切な蟻ちゃんが…!選りに選ってこんな奴に…!クソ…クソ人間!』
輝の背後から1人の少年が追いかけてきた。
保護者と生徒達が口に手を当て、魂消た瞳で恐る恐る輝を見ている。
少年は輝にガンを飛ばした。
そして突然、力強い拳が輝の頬に激突し、強烈を物語る打撃音が校舎中を響き渡らせた。
これだけ強い痛みを食らっても歯は折れなかった。
輝:『どっちがクソ人間だ?理不尽な暴力に価値など無い』
輝は蹌踉けながら立ち上がった。
『何が理不尽だよ!!!!お前は気付いてないかもしれないけど今、俺の大切な蟻ちゃんを踏んだんだよ!!やっと歩けるようになったのに!!!酷いよ!』
そこに居たのは朝見た少年だった。
少年は蟻を踏んだ輝の顔を見ないように後ろを向いた。
輝:『すまん、わざとではない』
『そんなのは分かってるよ…。でも蟻ちゃんが死んじゃった…。せっかく歩けるようになったのに……』
輝:『すまん』
『何その謝り方。すまん?それで謝ってるつもり?自分でおかしいと思わない?謝罪の要求の理由ちゃんと判ってる?』
輝:『蟻を……………』
『蟻を?』
輝:『蟻を……知らない間に踏んでた……』
『お前、自分が悪いなんて全く思ってないみたいだね。その様子だと相手の気持ちを読み取ったことなんて一度も無いんじゃない?』
少年は呆れた顔で輝を見ている。
輝は少年を怒らせてしまった。
生徒や保護者は輝を恐れて離れていた為、少年は蟻を踏まれたから輝に怒ったという肝心な理由が聞こえなかった。
少年は涙を浮かべ、動かなくなった蟻をそっと土と一緒に掌にすくい上げ、そして謝りながら桜の木の下に埋めた。
輝も手伝ったが少年は輝を許せず、気が散るからあっちへ行けと追い払った。
当然だ。
2人は入学式に間に合わず、クラス票を確認してから20分遅刻で会場に登場した。
生徒達は完全に親に毒され、白目をむいている。
まるで壊れた人形だ。
それは地獄のような入学式である。
突然、後ろからど突かれる輝。
振り返るとニタニタと不気味な笑みを浮かべながら輝を見ている男が立っていた。
それを見た輝は、朝の少年と同じクラスである事を知る。
早速、目をつけられた。
その男の名は艦咲亨。
いい名前だ。
目の前で蟻を踏み潰され、トラウマを抱えてしまったあの少年である。
亨:『同じクラスでラッキー。あとでツラ貸してよ。ね?続きをやろう』
さっきとは違い、どういうわけか笑顔だ。
輝:『さっきはすまん…』
亨:『言葉だけで済むと思われるのイヤだなぁー。身体で謝ってもらおっか』
輝:『面倒臭い妖怪は獣に牙を剥けられるぞ』
自分が悪いと思いつつも煩わしい相手だと感じ、一時的に感情的になってしまった。
その瞬間、終わった…と絶望し、全身の温度が一気に上昇して滝のような汗が流れた。
この会話を亨の隣で聞いていた生徒は、なるべく関わるまいと視界から遠ざけた。
必死だ。
輝の横の男はジーっと見ていたが、輝は気になりつつも相手にしなかった。
輝は自分の美しさに見とれているのだろうと勘違いしていた。
愚かだ。
そして輝の隣の男は心の中でこう思うのである。
(は?仲良しかよ、コイツら…。ヤクザの息子と、蟻をどうたらこうたら言って殴った男。ベタベタして気持ち悪いなぁ。どういう風の吹き回しなんだよ)
少年は恐る恐る亨を見た。
(あれ……)
(なんだろう、この毒の塊は…。怒り、憎しみ、寂しさがぐちゃぐちゃに溢れてる。まるで怒ったタランチュラのようだ。仲良し……いや…違う。全然そうでもないみたい……)
その後、亨と輝について情報が得られず、退屈な時間だけが刻々と過ぎていった。
見つめる少年は鷹御沢翔。
いい名前だ。
亨と輝が気になり、最後まで校長先生の長ったらしい挨拶の言葉が頭に入ってこなかった。
と、思ったら再び会話が聞こえてきた。
亨:『面白味のある威勢の良さだね。どこまで保てるか楽しみだよ。俺から逃げられると思うなよ』
輝:『今日は女の娘爆熱アイドル☆ミニラテ姫という新アニメが始まるから勘弁してくれ…』
亨:『どの面下げて言ってるんだよ?不快な言葉を浴びせたポイントをサンドバッグオプションに追加するね』
ただ分かったのは入学式後に輝がボコボコにされる事、それだけだ。
(まずい…)
盗み聞きをしている翔は二人をスパイする事にした。
入学式終了後、輝は地獄を見た。
亨は逃がさぬように輝の服を掴み、体育館裏倉庫に連れていった。
亨:『なぁ、輝。人に殴られた事ある?』
輝:『初めては貴様だ』
亨:『ふぅ~ん。めでたし、めでたし』
輝:『朝は、すまん』
亨:『クソ人間』
輝:『………』
亨:『あの蟻ちゃんはね、蟻同士で喧嘩して瀕死状態だったんだよ。3ヶ月で、やっと歩けるようになったのに、せっかく外の世界に出れたのに、お前に踏まれちゃった。謝って』
輝:『ごめんなさい』
亨:『じゃあ大人しくしてね。今からお仕置きしてあげるからさ。殴る蹴る叩く。それで許してあげるよ』
輝:『暴力はやめてくれ!!!!日本舞踊をやってるから顔だけは勘弁してくれ!!!ごめんなさい!!!!ごめんなさい!!!!!ごめんなさい!!!!!』
亨:『すぐ終わるから大丈夫だよ。我慢しようね』
輝は亨に両手を縛られ、天井に吊るされた。
そして数十回殴打した後、亨は手の皮が剥けて痛くなり、輝を下ろして紐を解いた。
痛みに耐えられなくなった輝は床に蹲り、微苦笑を浮かべた顔で亨を睨み付けた。
亨は輝を見て一瞬我に返ったが、それを殺すかの如く輝を殴り始めた。
人は目立つだけで攻撃されるが、この男は何かが違った。
この拳は、そんな安っぽいものではない。
この男から不快な棘を感じない。
好きなものに対して純粋だ。
傷つけられたり裏切られた時は、こんな風に壊れてしまうのだろう。
正直に嘘を吐かずに真っ正面を向いている。
分りやすい男だ。
だが蟻とは違う怒りを感じた。
輝は無抵抗のまま息つく間もなく、撃たれる亨の拳を血達磨になるまで受け続けた。
口の中は無数の傷口から血が流れ、傷の数だけ非力な自分を痛感した。
目の前にいる一人の男を止める事ができない自分に。
血は、こんなにも冷たく感じるものなのだろうか。
輝:『ぜぇ…ぜぇ…、気は済んだか?』
輝は蹌踉けながら立ち上がった。
亨:『殴られただけで済むなんて、まだ甘い方だと思いなよ。俺の可愛い蟻ちゃんは死んだんだ。お前に殺されてね』
輝:『私からも一言、言わせてもらう。天に唾すれば我が身に返るなり』
亨:『因果応報。お前が蟻を踏んだりしなければ俺はこんな事してないよ。被害者面して俺を悪者にしないでよね』
輝:『ああ、だが、ここに呼び出した後の拳は蟻の怒りではない。表情を見れば判る。私の何が気に入らないのか言ってみろ』
輝が無抵抗だったのは亨を試す為の行為だ。
亨を試す事など無用だが、輝は用心深い性格である。
この悪い癖が今後、亨を怒らせる事など気付きもしなかった。
亨:『蟻の事以外で何が原因かなんて言えないよ』
輝:『そこまで言われたら答えを言っているようなものだぞ。何かあるのだろう。ちゃんと話せ。私は話せば判る人間だ』
亨:『世の中には知らない方がいい事もあるよ。寧ろ本当は何か分かってるんじゃないの?』
輝:『分からないから訊いているのだ。ここで何も分らないまま蟻の事以外で、ただ殴られただけでは納得がいかん。ここで、きっちり話すまで帰さんからな』
亨:『今日、輝の親は入学式に来てないの?』
輝:『それは今する話ではない』
亨:『俺の親は来てくれなかったよ』
輝:『今は、なぜ私を殴ったのかを訊いているのだ』
亨:『………………………』
亨は見てはいけないものを見たような気がした。
完全に見透かされている。
もう、ごまかしが利かないようだ。
これ以上、輝を見るには身が持たない。
その表情を見た亨は殴った時の狂ったような手の痛みよりも別の狂った痛みを感じた。
自分が試されている事にすぐ気付いた亨は敢えて無言になったわけではない。
隠している本当の理由が何か気付かなくても、何か隠し事をしていると見透かされた事に気付いて言葉が一瞬つまったのだ。
この時、亨は怒り狂って自分を失いかけている事に気付いた。
我に返っても消えないのは、あの深い憎しみだ。
それをぶつけている事など口が裂けても言えない。
だから輝には明かせなかった。
亨は何も発する事なくピカピカに輝くゴールドのランドセルを背負って出て行った。
ボロボロになった輝は亨の後姿を見ながら手ぶらで倉庫から出た。
親が入学式に来てくれなかった事に殴った理由のヒントがあるのかもしれないと思ったが、それが何なのか分からず輝は塞ぎ込むのである。
それは殴られた痛みよりも痛かった。
再び濁った桜の中を一人で歩いた。
血気盛んな言葉を発していた亨の口からは最後まで何も出てこなかった。
亨の口から真実を告げられたら輝の心に何が起こるのだろうか。
亨は輝を見て、どんな小さい事にも敏感に気付く勘が鋭いタイプである事を陰ながら学んでいた。
外に出れば血塗れた輝を再び人が恐れ、避けていく。
快適とは何だ。
満たされるとは何だ。
桜は美しく風は温かいのに空気は酷く汚染している。
どういう事なのだ。
輝にはまだ判らなかった。
幸せというものを。
世間はいつもこうであると輝が常に感じてきたからである。
人は周りの意見に流され、相手の素顔を自分の目で確かめようとしない。
力の弱い威圧で押し潰されている者ばかりだ。
見えるものだけに目を向け、見えないものを見ようとせず、見えなかった大事なものを見落としている。
そんな事すら気付かず、いざとなれば相手任せで自分に意思のない死んだ人間ばかりだ。
花ばかりに気を取られ毒を持つ手を切断し、瓦礫から花を咲かせぬ者の溜まり場になっている。
ここは、そういう退屈な世界なのだと、どこかで諦めていた。
だから誰に対しても情に期待を持てぬのだ。
自分の存在意義とは何か。
そう思った瞬間が始まりなのかもしれない。
人の白い目、雑音の様な攻撃こそ、輝が輝く為の試練であり肥料となる。
輝の名は、その由来である。
父上は子が生まれた瞬間に密かに自分の子供が虐められる事を想定していた。
人が輝に対して悪く言えば言うほど輝が輝くように付けた名前である。
動じず、木の様に根強く立っていられるように。
それが父上なりの愛でもあった。
輝は一歩一歩進みながら、そう実感していた。
ある少女は入学式から、そんな輝の重い背中を見守っていた。
『輝くん!!!』
自分の名を呼ばれ、振り返る。
そこには純白のハンカチを差し出す少女が立っていた。
輝:『誰?』
輝は冷え切った瞳で、名前を訊いた。
周囲の者達は恐怖に怯えた目で見ている。
『私は同じクラスの清水愛子。これを使って。顔が血だらけよ』
輝:『ありがとう。それより私と居ると嫌な思いをするから関わらない方がいい。私は女に興味が無いものでな』
愛子:『いじわる!』
輝:『すまん』
愛子:『ねぇ、輝くん』
輝:『なんだ?』
愛子:『ステージに立ってカメラの前で歌う撮影があったとして、その時に出演者に嫌味を言われて、その圧で上手く歌えなくなったらどうしたらいいと思う?』
輝:『思い切り歌う。それだけだ』
愛子:『そうだよね。思い切りがいいよね!ありがとう、輝くん。バイバーイ!』
輝:『…………?』
輝はハンカチを受け取らなかった。
愛子は余計な事をしない子のようだ。
触れて欲しくない事を分っているのか、顔が何故ボロボロなのか訊かなかった。
そして太陽のようにキラキラと輝いた笑顔が輝の心を癒した。
輝は手を振りながらも、振り返りながら手を振って走って帰る愛子の笑顔がいつか崩れていく事を恐れていた。
それも自分の所為で……。
輝:『あの女、不思議な事に女の匂いがしなかったぞ。それに私があの女にいじわるなんて言ったか?弟にも同じようにいじわるだと思われているのだろうか………』
輝は弟が笑顔で踊る過去をふと思い出した。
当時は兄思いの無邪気で優しく賢い男の子であった。
いつからこうなったのだろうか。
もう、仲が悪いという次元でないところまできていた。
木の陰で亨が輝が落ち込む姿を睨みつけていた。
輝は言われた言葉に気をとられて亨の視線に気付けなかった。
更に亨の様子を見ている竜太が居た。
亨は輝がとぼとぼと歩く姿に気をとられて竜太の視線に気付けなかった。
更に竜太の様子を見ている黒鬼が居た。
竜太は亨に気をとられて黒鬼の視線に気付けなかった。
更に黒鬼を見ている妖精さんが居た。
黒鬼は竜太に気をとられて妖精さんの視線に気付けなかった。
更に妖精さんを見ている猫ちゃんが居た。
妖精さんは黒鬼に気をとられて猫ちゃんの視線に気付けなかった。
更に猫ちゃんを見ているおばあちゃんが居た。
自分の知らない間にムカデのように見られている場合がある……らしい!
【次回】
伝説の秋田犬