自己犠牲
法照は光明の前で、心の内を吐き出した。
声が震えていたが、心の奥底にあるものを解放するかのように続けた。
『私は完璧にはなれません……。何かをしようとすると、いつも空回りしてしまって…………』
その瞬間、光明の目が鋭くなり、周りの空気が変わった。
光明は静かに法照を見つめながら、口を開いた。
『ここに居る連中は全員真面目だな…。智真というやつも真面目過ぎてバキュラを怒らせちゃったけど…、何もせずにじっとしたままバカみたいに死ぬより、何かをして空回りして次どうするか考えながら死ぬ方が気持ちよく死ねる。あの世で後悔しても何もできないから。それに俺も完璧な存在にはなれなかったよ』
光明の声は低く、確固たるものがあった。
『俺が事件を起こした理由は三つある。一つは、弱さを抱えた人間であることを世間に思い知らせるため。人は自分の弱さを直視できない。不完全さを認めることなく、ただ他者を非難する。俺の行動は、その欺瞞を暴くためのものだった。人間はどんなに美しい理想を掲げても、内面には影がある。それは無視しなくていい』
法照はその言葉を受け止めるように静かに頷いた。
『二つ目は、理論的には正しいことを言えても、実際にはトラウマや復讐心から自暴自棄になっていたためだ。俺も人間だから、過去に背負った傷や無視され続けた思いがあった。その中で自分の感情がどうしようもなくなって、冷静さを失ってしまった。正しいことをしようとする一方で、自分を壊すような選択をしてしまったんだ』
法照の心には、光明の言葉が深く突き刺さった。
自分の信念と内面的な葛藤に悩んでいたからだ。
その葛藤を他人と分かち合えることが、少しだけ心の負担を軽くするようだった。
『三つ目は、使命を果たすために必要な犠牲であったためだ』
光明の声は一定として低いものであった。
『大きな目的のためには、時には辛い決断が必要になる。人は自分の信じる道を貫くために、時として他人を傷つけることもある。それは難しい選択だけど、俺はその代償を受け入れる覚悟があった。だから、あの事件を意図的に起こしたんだよ。全ては、目を逸らすことなく向き合うための試練としてね』
法照は言葉を失い、光明の目を見つめた。
法照の中に、光明の強い意志と、弱さが交差しているのを感じた。
この瞬間、法照は自分の選択を再評価する機会を与えられた気がした。
『俺の行動が引き起こした混乱や悲劇を、どれだけの人が深く考えることができるんだろう……。だけど、それを考えない限り、成長しないんだ。だから、俺はこの道を選んだ。過去の自分を否定するのではなく、受け入れて新たな道を進むための一歩として』
法照は、光明の言葉を心に刻みながら、自分が進む道を見つける決意を新たにした。
この瞬間、困難に立ち向かう一人の人間としての責任を強く感じていた。
他の僧侶たちは、光明と法照の会話を見守りながら、複雑な思いを抱えていた。
一人の僧侶は、光明の言葉に圧倒され、苦悩や矛盾点を考えた。
光明が自分の弱さを認め、過去の行動に対する反省をしている姿に何かを感じ取っていた。
しかし、その一方で、光明の過去の事件がもたらした混乱と悲劇に対して恐怖も抱いている。
自分がもしその場にいたらどうなっていたのか、想像するだけで恐ろしいものだ。
別の僧侶は、法照の弱音に心を痛めた。
法照が抱える葛藤を察し、支えたいという思いが募る。
しかし、光明の言葉が持つ力に圧倒され、自分には何も言えない無力感に苛まれていた。
どうすれば……、と心の中で繰り返している。
また他の僧侶は、光明の行動を問い直していた。
光明の言葉に、その犠牲が本当に必要だったのか?という疑念を抱いていた。
人々に弱さを思い知らせることが、果たして正しい道なのか。
光明の言葉が持つ二面性に戸惑いを感じながら、今後の自分たちの行動について真剣に考え始めた。
その中で、若い僧侶の一人は、光明の過去を知ることで彼自身の道を見つけようとしていた。
自分もまた苦しんでいることを認め、助けを借りることの大切さに気づき始めたのだ。
それぞれの僧侶が抱える思いは異なり、光明と法照の対話を通じて、自分の弱さや成長への道を見つめ直すきっかけとなった。
しかし、共通して感じたのは、今後の選択が自分たちの信念と向き合うものでなければならないということだ。
今ここで何ができるのかを真剣に考える時がきた。
法照は光明の言葉を最後までじっと聞いていた。
自分の心の中にあった不安や葛藤が少しずつ和らいでいくのを感じた。
光明の言葉は、まるで闇の中に差し込む一筋の光のように、法照の心に響いていた。
『光明さん、ありがとうございます。あなたの言葉を聞いて、自分がどれだけ無力だったか、そしてそれがどれだけ自分を苦しめていたか、改めて思い知らされました。私も、自分の弱さを認める勇気を持ちたいと思います』
法照は一歩前に出て、決意を込めて続けた。
『これからのことですが、私は必ず自分を見つめ直し、仲間たちと共にこの状況を打開するために行動します。あなたのように、過去の経験を活かして、私も人々に手を差し伸べられる存在になります。バキュラの脅威を乗り越えるためには、一人ではなく、皆で力を合わせることが必要です』
法照の言葉には、かつての不安や迷いは微塵もなかった。
光明は法照の目の奥に新たな決意の光を見つけ、思わず微笑んだ。
『仲間を思う気持ちがあれば、道は開ける。自分の弱さを受け入れて、人との絆を大切にすることが、真の強さを生む。それを俺は死んでから、ここで知ったよ。死んだ後は多少の導きができたとしても、皆を見守ることしかできない。本当に生きている内にしかできないことがたくさんあるものだよ。面倒くさいと思うものほど、やっとけば良かったと後悔する。ここの連中は面倒くさくても真面目だから、面倒くさいことからは逃げないけど』
光明の言葉は、法照にとって貴重なものだった。
自分の未熟さや恐れを思い出し、何か新しい一歩を踏み出す勇気を得ようとしていた。
その時、法照は一つの質問を思いついた。
光明の言葉に引き寄せられるように、口を開く。
『先ほど智真さんが真面目過ぎてバキュラを怒らせたとおっしゃっていましたが、具体的に何をして怒らせたのかお伺いしてもよろしいでしょうか?』
光明は、その問いに真剣な表情で、ゆっくりと話し始めた。
『智真は、僧侶としての責務を真剣に果たすあまり、周囲の状況や人々の気持ちを無視してしまうことがあったんだ。特に、バキュラが宿るご神木の前では、自分の信念を貫くことが全てだと信じ込んでいたと思う。去年かな……、智真は観光客たちが木の周囲で騒いでいるのを見て、神聖な場所を汚していると判断したみたいで、特に神聖な場所を担当してきた智真にとって、許しがたい行為だったんだ。
自分の真面目さから、智真はその場を制止しようと前に出たけど、智真の強引な態度が逆に観光客たちを刺激してしまったんだよ。普段あんまり怒らない智真がその時に相当イライラしちゃったみたいで神聖な場所だと叫んで、観光客たちに対して怒りを強めにぶつけてね…。それが、観光客たちには智真の言動を不快に思って、かえってご神木を敬う気持ちが薄れちゃったんだ。智真の必死な思いは、周りの人々に冷たさとして映ってしまったんだ。
その様子を見ていたバキュラは、智真の真面目さが裏目に出て怒りを覚えてたよ。智真の強い意志が、逆にバキュラの神聖な存在を軽んじる結果となったと感じたんだ。智真の真面目さが周りの人を理解しようとしない冷たい態度として映って、バキュラの怒りを引き起こしたんだよ。智真が自分の信念に固執して、他人の感情や状況を無視した結果、バキュラの怒りを引き寄せてしまった。これが、智真を襲う契機となったんだ。
今回も智真はタイミングや状況を考慮せずに般若心経を唱えただろ。それが襲撃の理由だよ』
智真の真面目さが、時には周囲との調和を壊す要因になり得ることを知り、法照は自分の行動を振り返った。
自分の弱さや誤りを受け入れ、今後の道を模索する必要があることを痛感した。
光明の教えが、法照にとって新たな希望の光となる瞬間だった。
しかし、そう感じた瞬間、ガラスにひびが入ったような感覚がした。
その瞬間、境内を揺るがすかのような轟音が響き渡り、バキュラの暴走が近づいてきた。
『だめだ……、逃げましょう!!!』
法照は声を荒げて叫んだ。
他の僧侶たちの目にも恐怖が映っていた。
空気が重く、まるで時間が止まったかのように感じた。
しかし、光明は一歩も引かない。
光明の目は真剣で、前を向いたままだった。
『俺はここに残る。桂之助は俺が寂しくないようにバキュラをプレゼントしてくれたんだから逃げる必要なんてどこにもないよ』
光明はバキュラを見つめたまま笑顔で答えた。
法照の心の中で、光明の強さと同時に不安も膨れ上がった。
同時に自分の無力さを痛感した。
何ができるのか、どうすればこの状況を打破できるのか。
だが、思考がまとまらないまま、事態は急速に悪化していった。
その時、境内に居た僧侶たちが動き始めた。
桂之助や最蔵が、他の僧侶たちと共に門に向かって走っているのが見えた。
バキュラが寺から出ないようにと、急いで門を閉めようとしていた。
しかし、バキュラの暴走音は、ますます近づいてきた。
まるで皆の行動が無駄であるかのように、音は強く、恐怖を増幅させている。
それでも光明は前に出てきた。
その姿はまるで神々しい光を放つかのようだった。
しかし、光明には別の危険が迫っていた。
それは大きな轟音が境内を震わせ、バキュラの姿が視界に入った時だった。
暗い影が迫り、圧倒的な威圧感が包み込む。
光明は何かを決意したかのように見えた。
『俺はバキュラを止める。その間にやってほしいことがある。法照、金剛龍寺に連絡をして刀を必ず借りてこい。あとの五人は刀を握れるやつを捜せ。伊吹山、淡路島、伊勢、福知山、田辺に別れて一人ずつ見つけてこい。バキュラを止められるのは三日のみだから、その間に頼む』
法照たちは光明の指示に従い、散って動き出した。
だが、その行動が果たしてバキュラを止められるのか、法照は心の中で不安を抱えながらも、光明を信じた。
この時は強さと弱さの狭間で揺れ動き、何が正しいのかを問うことしかできなかった。
自分に何ができるのかを問い直す必要があった。
そこに全てを賭けた決断の時が、迫っていた。
その時、光明は境内に響く轟音の中へ入り、バキュラを止める為に歩いて進んだ。
その刹那、光明は最蔵の姿を見つけてしまった。
その横には澄子も居た。
光明はバキュラの動作を止めつつも、その元へ駆け寄り、周囲の混乱を押しのけるように最蔵の前に立った。
最蔵はその瞬間、目を大きく見開いた。
その表情には混乱と恐怖が浮かんでいたが、すぐに怒りに変わった。
『お前は……』
最蔵の声は震え、封印してきた筈の怒りが滲み出てきた。
『彼奴に、よく似ている!』
自分の記憶を手繰り寄せ、祖母を奪った犯人の顔を思い出していた。
その記憶が甦るにつれ、最蔵の心に渦巻く怒りがさらに強くなった。
光明は静かに、自ら名前を告げた。
『そうだよ、俺が光明だよ。お墓を蹴ったこと土下座で謝ってくれないかな』
その瞬間、最蔵の顔が険しく変わった。
最蔵の瞳には激情が宿り、まるで過去の苦痛が貫くかのようである。
『謝るものか……。私のおばあちゃんを返せ!!!!』
『君、何歳?アイツが生きてた時、生まれてないだろ。吠えてんじゃねぇよ』
光明は冷静だ。
周囲の喧騒が遠のいていく中、最蔵の声は次第に大きくなり、秘められた怒りが爆発した。
『お前が何を知っているというのだ! 俺の家族が、俺のおばあちゃんが、どれだけの苦しみを背負ったと思っているんだ!お前のせいで母はめちゃくちゃになって、それを埋めるために多数の男性と関係を持って私を産み落としたんだ!愛など一切無い場所でだ!土下座で謝って許されるものか!』
今にも殴り掛かりそうな勢いである。
光明は静かにその怒りを受け止めたが、その表情には一切の恐れが見えなかった。
澄子は全身を震わせ、最蔵の前に立ちふさがった。
『最蔵さん、やめて……。家族を失った悲しみは計り知れない……。たまらないわ…、とても…………。他人に家族を奪われて、人生を土足でめちゃくちゃにされて、痛くて憎くて悔しくて、どうしようもないくらいたまらないわ……。私だって、事故を起こした人を呪いたいくらいよ……。でも、怒りは何も解決しないの……。それを誰かに向けることで何が得られるっていうの? それで最蔵さんの心は癒されるの?』
最蔵は澄子の言葉に一瞬動揺したが、すぐにその目は怒りに変わった。
『あいつは俺のおばあちゃんを奪ったんだ!』
『それをぶつけてしまったら、もっと辛くなるだけよ!怒りの感情に飲まれてはいけないの!感情の暴走や怒りでどれほど傷つけて、どれだけ自分を傷つけてると思ってるの!怒りをぶつけて何が解決するのよ?痛みを生むだけじゃない』
『ふざけるな!我慢しろと言うんですか!彼奴がしたことを忘れろとでも言うんですか!事件を風化させろとでも言うんですか!できるものか、そんなこと!』
『そうじゃない………、怒りを抱えたままでいることが、どれだけ辛いか私もわかってるわ。でも、怒りに身を任せてしまったら、最蔵さんが望んでいるものには近づけないのよ。憎むことで、祖母のために何ができるのよ?何も得られないわ。それどころか、さらに深い傷を自分に与えるだけよ』
澄子は事故で亡くした家族を思い出してしまい、溝に封印していた激しい怒りを抑えながらも、怒り狂う最蔵を必死に止めていた。
『光明さんも苦しみを抱えていると思うから話を聞いて……お願い……』
最蔵の心に強烈な葛藤が走った。
怒りと悲しみが交錯し、何を選ぶべきか分からなかった。
最蔵なりに澄子の言葉を理解しようとするが、内に秘めた激情が最蔵を引き裂いていた。
一方、光明は何も動じることなく立っている。
最蔵は心の奥底には依然として怒りが渦巻いていた。
過去の傷は簡単には癒えるものではない。
しかし、その怒りが更に大きくなる事態になってしまった。
『被害者はいいよな、被害者は。俺にも譲れないことがある。俺のお墓を蹴った行為は許されるものではない。君の痛みを知ることは1mmもできないがな、俺を侮辱することは許せないなぁ』
最蔵は、その言葉に驚愕した。
『何だと?人の苦しみを何も知らないくせに、自分が傷ついたらこれか! 何が、土下座だ? ふざけるな!』
光明は全く動じることなく最蔵に返した。
『俺が何を失ったか、君にだってわからないだろ』
最蔵は言葉に詰まり、一瞬目を逸らした。
『君の怒りはわかったよ。だが、君がお墓を蹴ったことは土下座してもらわないと許せないんだが』
二人の間には緊迫した空気が漂っていた。
最蔵はその要求に対して反発した。
『お前にだけは死んでも絶対に謝りたくない』
光明は一歩前に出た。
『ちょっと、そこの女どいてくれないかな。どかないなら刺すけど、いい?』
澄子は光明がナイフを持っていることに氣づき、もうこれ以上、誰かが傷つくのが嫌だったから両手を広げて光明に向かって走り出してしまった。
二人の間には、激しい感情が渦巻き、何かが爆発する寸前のような緊張感が漂っていた。




