破壊
澄子は、桂之助から語られた過去の出来事に深く心を揺さぶられた。
玉突き事故によって人生が狂った澄子にとって抉られる話である。
光明が抱える孤独や悲しみは人の群れがある存在を知った瞬間から始まったのだと感じた。
彼の心の奥底に潜む暗い影を理解するには、澄子もまた時間をかけなければならなかった。
事件が起こった当初、世間は冷酷で光明に対する厳しい批判が吹き荒れていた。
無情な視線や非難の声は、光明をさらに孤立させ、心の傷を深めていた。
澄子はその様子を思い浮かべると、桂之助がどれほどの勇気を持って光明に寄り添っていたのかを改めて実感した。
世間が光明を非難する中で、桂之助だけが光明の存在を否定せず、理解しようとしていた。
その行為は、光明にとってどれほど大きな救いであったのだろう。
澄子は、桂之助の存在が光明に与えた影響を想像し、涙が浮かんだ。
孤独な心に寄り添う人がいることは、どんなに心強いことか。
光明が桂之助によって少しでも救われたのなら、彼の存在はまさに光そのものであったに違いない。
澄子は自分の過去を振り返ると、同じような痛みを抱える人々に手を差し伸べることの大切さを強く感じるようになった。
合唱が始まると、澄子はその思いを胸に込め、声を合わせた。
その声は、痛みを抱えた人々への共鳴の証でもあった。
言葉以上に深い感情を伝える力を持っている。
その旋律の中で、澄子は光明の孤独に寄り添い、桂之助の優しさに感謝し、そして自分自身の心の闇とも向き合っていた。
合唱は澄子の心を解放し、新たな一歩を踏み出す勇気を与えた。
澄子は、その瞬間、最蔵の姿が信じられないほど変わってしまったことに驚愕した。
最蔵の目は普段の穏やかさを失い、怒りと悲しみが交錯した鋭い光を放っていた。
周りにいた僧侶たちも言葉を失い、まるで時間が止まったかのように、その場の緊張感が一気に高まった。
最蔵は光明のお墓の前に立ち、拳を握りしめながら、その墓石に力強く蹴りを入れた。
乾いた音が響き渡り、周囲の空気が一層重くなった。
澄子は愕然としてその光景を見つめ、心の中で言葉を探すが、何も出てこない。
ただ、胸の中に沸き起こる混乱と痛みだけが広がっていく。
『この事件に関わった沢山の遺族の魂が剛徳寺に眠っています。私の祖母もその中の一人です。買い物中にこの男に無差別に殺されたと聞いております。殺人犯の美化など絶対に許されません!』
最蔵は声を震わせながら続けた。
その言葉には、家族を失った者としての重みがあった。
最蔵の祖母が無差別に殺されたその痛みは貫く深い傷となっていたのだ。
『このお寺には私のご先祖様も三代続いて眠っています。今日中に撤去願います』
その言葉が澄子達の耳に響く。
最蔵の怒りは、失ったものへの深い悲しみから来ているようだ。
最蔵の背後には、数多の遺族たちの無念が立ちはだかっている。
光明のお墓に込められた思いとは裏腹に、最蔵にとっては、そこには自分の家族を奪った存在がある。
澄子は、最蔵の気持ちがどれほどのものかを考えると、胸が締め付けられる思いがした。
周囲の僧侶たちは何も言えず、ただ静かにその場に立ち尽くしている。
彼らの目には困惑と戸惑いが浮かび、最蔵の怒りを理解しようと必死だった。
澄子は、最蔵の心の内に潜む苦悩を想像し、最蔵の気持ちに寄り添いたいと思ったが、その言葉をどう発することもできなかった。
澄子はただ、最蔵の肩が震えるのを見つめていた。
一瞬、最蔵の顔が緩み、何かを思い出したかのように目を閉じた。
最蔵の心の中には写真だけしか見たことがない祖母の笑顔が浮かんでいた。
澄子はその瞬間、最蔵の怒りの裏には計り知れない悲しみがあることを感じた。
『最蔵さん…』
澄子は声をかけるが、その言葉は最蔵には届かない。
最蔵は再び光明のお墓を睨みつけ、怒りの表情を崩さなかった。
周囲の僧侶たちは、事態を収拾するための言葉を探すが、誰もが言葉を失っている。
澄子は、自分自身の無力感を感じながら、最蔵の心の痛みを少しでも理解しようと努力していた。
最蔵は再び声を張り上げた。
『これは私だけの問題ではない。彼奴の罪は私たち遺族全員の傷を生むのだ!』
澄子の心は、最蔵の叫びに共鳴していた。
最蔵の言葉は苦しみを超え、他の遺族たちの叫びでもあると感じた。
澄子は最蔵に寄り添おうとするが、光明の心の闇にも共鳴している為、今の最蔵にどんな言葉をかけても傷が大きくなりかねない。
最蔵の怒りは、もはや制御できない感情の奔流となっている。
その場の空気は、まるで嵐が訪れる前の静けさのように、張り詰めた緊張感に包まれていた。
澄子は、最蔵の背中を見つめながら、最蔵の心に寄り添いたいと願った。
最蔵が抱える怒りや悲しみを少しでも軽くするために、彼の隣に立ち、共にこの瞬間を乗り越えたいという思いで最蔵が居る場所へと走った。
その刹那、静寂を破るように光明のお墓が傾き、墓石が重みを増した樹木にぶつかる音が響いた。
どこか不吉な予感が漂う中、僧侶たちは驚愕の声を上げる。
『何が起こったのか……!お墓が……』
その声が響く間もなく、地面が揺れ始めた。
大地の震動が体に伝わり、日が急速に落ち始めると、空が一瞬にして暗雲に覆われ、雷が轟くような音を立てて鳴った。
まるで天が怒りを表しているかのようだ。
その瞬間、楓芽が呪文のように唱えた言葉が周囲を包み込む。
『オンキリキリバキュラウンハッタ』
その言葉が響いた直後、墓石が人を呪うかのように倒れ、地面から黒い物体が現れた。
まるで地獄の深淵から這い上がってきたかのような、真っ黒で巨大な魔物らしき姿を現した。
その大きさはなんと70メートルにも及び、背中には6本の触手が生えており、周囲の景色を一瞬にして変えてしまった。
『しまった!門の前のわらじしまったままだ!』
『いかん!あの魔物をお寺から出すわけにはいかん!』
僧侶たちが混乱する中、謎の生命体は無慈悲に光明のお墓を掴み上げ、僅か2秒で粉々に崩し去った。
墓石の破片が空中を舞い、周囲の静寂を打ち破るような音が響く。
その後も謎の生命体は容赦なく境内を破壊し続けた。
地面がドシンドシンと音を立てて揺れ、古い樹木が根元から引き抜かれ、土が舞い上がっている。
さらに謎の生命体は周囲の川を干上がらせ、河床に眠る生き物たちを脅かした。
お寺の観光客たちは逃げ惑い、恐怖に怯えた目を見開いている。
人々の悲鳴が響き渡る中、謎の生命体は無限の悪意を持って人を襲い続けた。
その場にいた者たちは全員、絶望と恐怖に包まれ、逃げ場を失っている。
謎の生命体の大きな触手が迫り来る中、人々は何とか身を隠そうと必死に走り回ったが、逃げ場がない。
大地が裂け、周囲の光景が崩壊していく様はまるで悪夢のようである。
周囲は混乱の渦に巻き込まれ、雷鳴とともに降り注ぐ雨は、まさに恐怖の象徴となった。
光明のお墓がもたらすはずだった安らぎは、一瞬にして恐怖の象徴と化し、闇が世界を包み込んでいく。
謎の生命体の怒りがどこまで続くのか、誰も知る由もなかった。
『あれは魔物ではない!バキュラという破壊神だ!触手には絶対に触れてはならん!少し当たっただけで体が木っ端微塵になる!』
桂之助が、恐怖に震えながら声を震わせた。
その言葉は、バキュラの姿を見た者たちの心にさらなる恐怖を植え付けた。
バキュラ。
それは、古い伝承に語られる禁忌の存在で、闇の力を宿した者たちが目覚めさせる恐ろしい破壊神である。
目撃した者はほとんどが生き延びることはなく、逃げることさえ不可能だと伝えられている。
僧侶はその伝説を知っていたが、まさか目の前でその恐ろしい姿を見ることになるとは思いもしなかった。
周囲が混乱し、人々が絶望の声を上げる中、バキュラはその巨大な身体を揺らし、周囲の破壊を続けた。
黒い体表には光を吸収するかのような艶があり、その眼は深い暗闇に沈んでいた。
まるで、世界を飲み込もうとしているかのように、周囲の光が徐々に消え失せていく。
『逃げろ!どこか隠れる場所を探せ!』
僧侶が叫び、仲間たちに避難を呼びかけた。
人々はそれぞれの方向に散り、恐怖に駆られて必死に逃げようとした。
しかし、バキュラはその巨体を持って、冷静に獲物を狙うように動き出した。
その足元からは大地が崩れ、空気が震え、まるで地獄の使者が歩いているかのようだった。
周囲の景色が変わり果て、破壊の連鎖が止まらない。
『どうすれば……どうしよう………どうしたら………』
僧侶たちは、心の奥底から湧き上がる恐怖と無力感に苛まれながら、何とか反撃の策を考えようと必死になった。
だが、頭の中にはただ恐怖が渦巻くだけである。
その時、楓芽が目を細めてバキュラを見つめ、決意を固めた。
『止めなければ……、私たちの力を合わせなければ……。剛光さん、あなたは金剛杵を持ちなさい。智真さん、バキュラの心を和ませるように般若心経を唱えなさい。彩雲さん、五色の護符を持ちなさい。浄光さん、水晶を持って邪気を浄化して真実の姿を見せるのです。響律さん、大鐘を鳴らしなさい。心平さん、蓮の座布団に座って瞑想しなさい』
楓芽の冷静な声は、絶望の中で少しだけ光を与えた。
僧侶たちが立ち上がる瞬間、バキュラは再び咆哮を上げ、破壊の手を伸ばしてきた。
運命は、この恐ろしい破壊神と対峙することで決まろうとしていた。
次回、諸行往生




