こころ
澄子は、剛徳寺の静けさに少しずつ慣れつつあった。
そんなある日、住職の福智桂之助から過去の出来事を語られた。
それは50年前、桂之助が副住職として初めて人前で法話を行った日のことである。
27歳という若さで、桂之助は“こころ”というテーマを掲げ、情熱をもって語りかけた。
会場は桂之助の言葉に熱狂し、参加者たちは共鳴していた。
しかし、一人の男性が冷たい視線を向けてきた。
『何が“こころ”だ。お前の法話は、まるで悪い心を持った者を悪魔だと言っているように聞こえる。心の平和が真の力などとうたう者に愛されたことのない者の真の力など分からないだろ』
と、その男性は言い放った。
桂之助は、その言葉の裏に潜む苦しみを察知し、自身の経験を重ねて答えた。
『私は祖父母や父母、友人たちの愛に恵まれて育ちました。しかし、愛されることがないという経験もまた、悟りです。孤独や苦しみを通じてこそ、真の力や愛の意味を理解できるのです』
だが、その男性は最後まで不満の表情を浮かべ、法話のチケットを投げ捨てて会場を後にした。
桂之助は、彼の心の闇を少しでも照らすことができたのかどうか、氣にかかっていた。
数日後、その男性の顔と共に名が報じられた。
光明という名前が新聞に大きく載り、商店街で無差別殺人を犯していた。
剛徳寺からわずか15分の距離、その場所で起きた事件は、地域全体を震撼させた。
桂之助は、それを見て驚愕した。
まさか、あの時の不満を抱えていた男が、これほどの凶行に及ぶとは想像もしていなかった。
報道が進む中、桂之助は一人、静かに思索に耽った。
光明の苦しみ、光明が抱えていた孤独や怒り、その根源を理解できていなかった自分に苛まれる。
愛されないことの苦しみを理解するのは容易ではない。
桂之助は、光明が求めていたのは言葉などではないものを感じた。
その日以降、剛徳寺の空気は一変した。
事件の影響で人々は不安に駆られ、心の平穏を求めて集まる者が増えた。
しかし、桂之助は一層の覚悟を決めた。
法話は、ただの教えではなく、心の傷を癒すものでなければならない。
光明のような人々にも寄り添い、その孤独を理解することで、初めて真の愛を語ることができるのだと。
桂之助は傷ついた心を受け入れる場所でもあり続けたいと心から思った。
剛徳寺の境内は、今も静けさを保っていたが、心の奥底に沈んだ不安が漂っていた。
光明の無差別殺人事件が地域に与えた影響は計り知れず、人々は不安を抱え、平穏を求めて寺に訪れる者もまた増えた。
そんな中、桂之助は光明が拘置所にいると知り、面会に行く決意をした。
拘置所に着くと、桂之助は冷たいコンクリートの廊下を進んだ。
そこには、かつての光明の表情とはまったく異なる、怒りと絶望に満ちた姿があった。
面会室に入ると、光明は鋭い視線を向けてきた。
『お前も敵だ!』
光明の声は怒声に変わり、ガラス越しに拳を叩きつけた。
周囲の警官たちが警戒し、桂之助は戸惑うことなく冷静な眼差しで光明を見つめた。
『敵は外にあるのではない。お前の心の中にあるのだ』
桂之助は敬語を捨て、優しい声で呼びかけた。
光明は一瞬黙り込んだが、すぐに怒りが再燃した。
自分の痛みを人に向けて吐き出すことで、少しでも楽になろうとしていたのだ。
『ぬくぬくと生きたお前には何が分かる!俺には何も無いんだ!失うものが無いんじゃない!何も無いんだ!』
光明は再び暴れ出すが、桂之助はその姿を見つめ、心を沈めて続けた。
『どんなに苦しい時でも、心の平和を求めることができる。暴力は何も解決しない。心の奥底にある悲しみを直視することが、真の力に繋がるのだ』
やがて、光明の激しい感情は少しずつ静まり返り、目には揺れる影が少しだけ映った。
桂之助は、光明の心の奥に潜む痛みに氣づき、静かに待った。
その沈黙の中、光明の心が徐々に解けていくのを感じた。
『本当は、寂しかったんだ…』
光明はやっと口を開いた。
『人々を襲うことでしか、自分の痛みを表現できなかった。だから、俺は…』
その言葉に桂之助は真っすぐ光明を見つめ、こう答えた。
『受け入れよう』
光明の心に寄り添うように、共に癒やす道を示そうとした。
その後、“今のお前には何も解らないかもしれない。どんなに私が言葉にしても何も響かないかもしれない。もう一度言う。心の平和が、真の力である”と、桂之助は告げた。
しかし、光明はその言葉を理解できなかった。
心の中の闇が深すぎて、平和を感じることができないのだ。
ただ、絶望と怒りに押しつぶされそうになっていた。
面会の時間が迫り、桂之助は最後の言葉を告げた。
『お寺の隅になるが、将来は、お前の魂を木の下に宿そう。これが、私がお前にできる“愛”だ』
光明はその言葉の意味を理解できず、ただ呆然とした。
桂之助は静かに席を立ち、去って行った。
その後、光明は一人の部屋に残され、心の中に響く桂之助の声を思い返していた。
自分が犯した罪、自分が抱えていた悲しみ、そして、他人への理解が欠けていたこと。
ここで初めて、他人からの愛を教わったのだと気づいた。
光明は涙を流し始めた。
自分の過去を悔い、失ったもの、愛されることを求めていた自分に氣づいた。
自分の行動が人に与えた傷を思い、自分が選んだ道がどれほどの孤独を生んでいたのかを実感した。
光明の心の中で、少しずつ変化が生まれていくのを感じた。
桂之助の言葉が、光明の心の闇を照らす光となり、光明は初めて自分の痛みを受け入れることができたのだった。
こうして、光明の心に少しずつ愛の種が蒔かれていく。
光明の人生は過去の罪によって大きく歪められたが、桂之助の言葉によって、新たな道を歩む可能性を見出したのだった。
しかし、光明を赦す者は居なかった。
光明は死刑が確定した。
光明の死刑が確定した日、剛徳寺の境内は不穏な空気に包まれていた。
事件は地域全体に衝撃を与え、多くの人々が光明に対して恐れや憎しみを抱いていた。
桂之助は、面会へ行った日のことを思い出し、光明がどれほど孤独な存在であったかを思い返していた。
しかし、その孤独を理解する者は、誰一人として存在しなかった。
執行の日が近づくにつれ、光明に対する世間の視線はますます厳しくなった。
光明は自分の行いによって人々の心に深い傷を残し、その影響は消えることがなかった。
桂之助は心の中で葛藤しながらも、光明が最後に求めていたもの、愛と理解を与えられなかったことに悔いを抱いていた。
執行が実際に行われると、報道は瞬く間に広まり、光明の名前は再び人々の耳に届いた。
しかし、その名は恐怖と怒りの象徴となっていた。
光明の行動がもたらした悲劇に誰もが心を痛める中、光明に愛を与えようとした桂之助の心は深い悲しみに覆われた。
光明の身内は誰もいなかった。
愛されることなく育ち、その孤独を暴力でしか表現できなかった。
桂之助は、この事実を知った時、さらに心が痛んだ。
愛されることのないまま、この世を去るのかと思うと、無力感が胸を締め付けた。
光明の遺骨を受け取った桂之助は、無言でお寺に戻った。
重たい気持ちを抱え、裏庭にある古い木の下に向かった。
その木は、長い年月を経て、見守るかのように静かに立っていた。
桂之助はその木の根元に、丁寧に土を掘り始めた。
心の中にあった葛藤や痛みを少しずつ解消するために、深く息を吸い込みながら業者と手を組んで作業を進めた。
土の中から出てくる小石や根に触れ、自然との一体感を感じた。
その瞬間、光明の苦しみや孤独を少しでも理解しようとする気持ちが心に広がるように日が顔を出した。
墓石を建て、遺骨を納める準備が整った時、桂之助は静かに手を合わせた。
『光明、お前はこの世で愛されることがなかったかもしれない。しかし、ここに眠ることで、少しでも安らぎを得てくれ。お寺の一部として、お前の存在が忘れ去られることはない』
桂之助は遺骨を丁寧に入れ、扉を閉めた。
光明の生きた証を尊重し、痛みを受け入れることに努めた。
周囲の静寂が、心の中にも広がり、少しずつ重荷が軽くなるのを感じた。
その後、桂之助は木の下に小さな碑を立て、光明の名前とその生涯の記憶を刻んだ。
この場所が光明の魂が安らぐ場所となり、今後は光明の存在が忘れ去られることのないように願った。
『光明の魂が、ここで新たな命を育むことができますように』
桂之助は静かに呟いた。
光明の人生は悲劇であったが、その悲劇から何かを学び取ることができれば、光明の存在は無駄ではなかったのかもしれない。
その日以降、桂之助は剛徳寺で光明のことを忘れず、光明の名前を法話の中で語り継いでいくことを決意した。
光明の孤独と痛みを知る者として、桂之助はその思いを胸に、さらに深く人々の心に寄り添う道を歩むことを誓い、多くの人や僧侶からの批判や罵声の渦の中、折れることもなく真っ直ぐと進み、住職となった。
桂之助の使命は、光明のような存在が二度と生まれないようにすることだった。




