止観
最蔵は、楓芽との対話を終えた後、心の中に深い思索の渦を感じていた。
楓芽の言葉は、最蔵の心の奥底に潜む迷いや不安を掘り起こし、自分の心と向き合った。
剛徳寺の静寂な庭に身を置き、最蔵は一人座り、周囲の風景を静かに見渡した。
穏やかな風が木々の葉を揺らし、鳥のさえずりが耳に心地よく響く。
その自然の中で、最蔵は自分の心に目を向けた。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出し、心がざわつく中で、その波を受け入れた。
最初は、心に浮かぶ様々な考えや感情が、まるで嵐のように最蔵を襲った。
過去の自分が徳密を無視し、苦しみを理解しようとしなかったこと、また、楓芽との関係が歪んでしまったことが、思考の中に渦巻いていた。
否定することなく、ただあるがままとして受け入れようと、自分に言い聞かせた。
次第に、心の中の不安や後悔が波のように押し寄せてくるのを感じながらも、それらを拒まず、流れに任せた。
やがて、心の止の状態に達し、静寂を感じ始める。
周囲の音が遠くなり、風の優しい感触が意識を広げていく。
その時、ふと観へと移行し、過去を冷静に見つめた。
自分の過ちや無関心が、どのような影響を与えていたのかを、具体的に理解し始めた。
最蔵は思った。
楓芽もまた、私の理解を必要としているのだ、と。
楓芽が言った“特別”という言動がどれほどの孤独感を引き起こしていたのか、また楓芽が他者との関係に苦しんでいる姿を想像すると、その心の痛みが胸に突き刺さった。
楓芽が求めていたのは、楓芽の苦しみを理解し、共感してくれる存在だったのだと気づく。
この気づきは、最蔵にとって新たな道を開く鍵となる。
止観の実践を通じて、人を理解するためにはまず自分の心を深く見つめる必要があると感じた。
これまでの最蔵は人の痛みに目を背けてきたが、その逆を選ぶ日が一日でもあっただろうか。
最蔵は、頭に禅鎮を置いて更に止観を深めた。
頭の中には、徳密と過ごした日々、徳密の成長を見守っていた喜びの瞬間、そして徳密が去っていった日のことが次々に浮かんだ。
怒り・悲しみ・無力感が押し寄せ、心は乱れたまま、禅鎮が下に落ちた。
しかし、最蔵は感情に対抗せず、疑念を止め、禅鎮を拾って頭に置き、止観を続けた。
瞑想の中で最蔵は次第に、自分が徳密に対して過度な期待を抱いていたことに氣づいた。
徳密を次世代住職として理想化するあまり、徳密の気持ちや苦しみに耳を傾けることができなかった。
弟子を導くはずの自分が、徳密にとって重荷となっていたのではないかと痛感した。
また禅鎮が下に落ちた。
やがて最蔵は、ただ弟子を守るだけではなく、徳密の成長を信じ、手放すことの重要性に氣づいた。
徳密が他の宗派に行くことを選んだのも、徳密の成長に必要な道であり、これも宿命なのかもしれないと理解し始めた。
この氣づきは、最蔵の心を大いに解放し、瞑想の終わりには静かで澄んだ心を取り戻していた。
ここからは禅鎮が頭から落ちなかった。
止観を通じて自分の内面と向き合った最蔵は、徳密に対する未練や後悔から解放され、徳密が選んだ道を尊重し、静かに送り出すけじめをつけた。
指導者としての在り方を見つめなおし、これからは弟子たち一人ひとりの個性や心の声にもっと耳を傾けることを誓った。
徳密が戻ってくることを願うのではなく、徳密の成長を信じて見守ることが師としての役割であると悟るのであった。
そして、日々の生活の中で、心の静寂を保ちながら、人との対話を重ねることにした。
自分を知ること、人を理解すること、それが一体のものであることを徐々に感じるようになった。
再び楓芽と向き合う日を心待ちにしながら、最蔵はその時に備えて内面の浄化を進めていった。
過去を反省し、そしてその反省を次へのステップとする。
葛藤を抱えながらも、最蔵の心が新たな光を求めていることを実感した。
最蔵の旅はまだ始まったばかりだが、止観を通じて得られた静けさは、一歩を踏み出す勇気となる。
最蔵は、心の中の霧を晴らすこころと力を手に入れた。
この成長を通じて、楓芽の心に寄り添う存在へと変わるための道を歩んでいくのであった。
そして、最蔵は頭に禅鎮を置いたことを忘れ、そのまま自室へ向かった。
最蔵は静かな廊下を歩きながら、自室に向かう道すがら、ふとした瞬間に自分の頭に重みを感じた。
頭に乗せた禅鎮の感触が微かな心地よさをもたらしていたが、その存在を完全に忘却していた。
しかし、廊下を進むにつれて、何か不思議な気配を感じた。
すると、目の前に楓芽が現れた。
楓芽は姿勢がよく、その清らかな佇まいは、まるで静寂の中に溶け込むようだった。
だが、彼女の頭にも同じように禅鎮が乗せられているのを見て、最蔵は思わず驚きの声を上げた。
『禅鎮を頭に置いたまま、どちらへ行かれるのですか?』
最蔵は少し笑いを含んだ声で訊ねた。
その言葉に楓芽は目を大きく見開き、一瞬、思考が停止したように見えた。
『……えっ?!……あぁ、完全に忘れてました』
楓芽は手で頭を撫でるようにして、禅鎮の存在を確かめた。
まるで夢から覚めたかのように、楓芽の表情は急に明るくなり、恥じらいと驚きが入り混じった笑みを浮かべた。
『そういう最蔵さんも、頭に禅鎮をお置きになったままでいらっしゃいますよ』
楓芽は、くすっと笑いながら言葉を返した。
最蔵は、楓芽の言葉を聞いた瞬間、心の奥に何か温かなものが広がるのを感じた。
最蔵の頭の上にも、まさに同じ禅鎮が乗せられているのだ。
普段は真面目で冷静な最蔵が、こうして小さなほほ笑みを共有できる瞬間に、ふと人間らしさを感じた。
二人はしばらく、笑顔を交わしながらその場に立ち尽くした。
廊下の静けさが二人を包み込み、どこか不思議な親近感を醸し出していた。
最蔵は、こうした何気ない瞬間が大切な思い出に変わることを実感しつつ、楓芽との心の距離が少し近づいたことを嬉しく思った。
『私たち、すっかり忘れていましたね』
最蔵がそう言うと、楓芽は頷いてこう答えた。
『明日の朝食で後輩たちに笑われるところでした』
『………お休みになる頃には落ちているかと思いますが……、つまりその……、立ったままお休みになっていらっしゃるのですか?』
『………!!!!』
その言葉に二人は再び笑い合い、心の中に温かな繋がりが生まれたように感じた。
その後、最蔵と楓芽は『おやすみ』と言い、それぞれの自室へ向かって廊下を歩いた。
心の中に温かい感情が残る中、二人は少しずつ距離を置きながらも、互いに視線を交わした。
最蔵が部屋に入ると、心地よい静けさに包まれた。
今までの葛藤が少しずつ解けていくような氣がした。
禅鎮を静かにしまって机の上に置くと、穏やかな気持ちが広がった。
今日の出来事を思い返しながら、ゆっくりと布団に身を横たえた。
一方、楓芽も自分の部屋に入り、静寂の中で心を整えようとした。
最蔵との会話の余韻が心に残り、ふと笑みがこぼれた。
禅鎮をしまい、少し恥ずかしさを感じながらも、今後のことを考えた。
それぞれの部屋で心を落ち着ける時間が流れる。
最蔵は、明日また楓芽と向き合うことを考えながら、少しずつ目を閉じていった。
心の中に生まれた新たな希望を胸に、二人はそれぞれの夢の中へと旅立っていった。
次の日、最蔵は頭に禅鎮乗せたことを忘れたまま皆の前に登場してしまった。
それを最初に見たのは楓芽だったが、何事もなかったかのように挨拶をした。
その後、澄子や僧侶たちがやってきたが、誰も何もつっこまなかった。
楓芽は、それよりもあることが氣になり、質問をした。
『最蔵さんと澄子さんの結婚式についてですが、いつ頃の予定ですか?』
とんだ誤解に澄子は大きく動揺し、慌てて、こう言った。
『付き合ってないんで…』
『えっ?!ごめんなさい…、てっきり交際してるかと思ってました…』
最蔵は無表情のまま何も答えず、考え事をしていたが、澄子は最蔵を直視できず、白目をむいて赤面していた。
その直後、頭に乗っていた禅鎮が音を立てて地面に落ちていったとさ。




