七仏通戒偈
三重県に帰省した徳密は、約束の日が過ぎても剛徳寺に戻ってこなかった。
副住職である最蔵は、心配とともに徳密の帰還を待ちわびていた。
そこで、最蔵は徳密に向けて手紙を書くことにした。
“剛徳寺の庭に佇みて
徳密さんの声、今もなお風に消え恋しい
約束の時、過ぎ去れど
その足音、山を越えず
三重の山河に留まるか
彼の姿、影も見えず
耳を澄まし、彼の声を問う
だが、ただ秋の風のみ響く
一念三千、この一瞬に宿り
彼の声もまた、虚空の理
だが、我が心は未だ揺れ
その声を、深く求む
慈悲の鐘、遠く響かせ
徳密さんよ、帰れと願わん
彼の無事、彼の安らぎ
願わくは仏の導きを
仏法は遍く、彼の道も
いかなる時も、法に帰れと
その声、久しく聞かずとも
一如の境に、再び交わらん”
この言葉に込められた思いは、最蔵の信念であり、徳密が持つ道をあらわすものだった。
しかし、返ってきたのは絶望的なものであった。
“三重の地にて留まりし時
心はお寺にありながら
己が業の壁に阻まれ
約束を果たすこと叶わず
共に修行する日々を思い
その教え、その慈悲に倚りて
我が身、仏道を歩むべく
だが、未熟なるゆえに
迷惑をかけしこと、深く悔い
その負担、重くあらん”
その手紙を読んだ最蔵は胸が締め付けられる思いだった。
何が徳密を引き止めているのか、なぜ戻れないのかを考えざるを得なかった。
最蔵は諦めずに数度、お茶を添えた手紙を送り続けたが、返事は途絶えてしまった。
そんなある日、最蔵の元に一通の手紙が届いた。
それは三重県伊勢市にある金剛龍寺からのものであり、その文面は荒木田義徳という金剛龍寺の息子が書いたものであった。
“白き鳥に導かれし夏の日
友と共に、剛徳寺の門をくぐり
静寂に包まれ、心澄みわたり
仏前にて深く礼を捧げたり
御朱印を賜りしは藤江徳密さん
その筆に宿る誠実、清らかに
剛徳寺にて出会いしその人柄
まさに我が宗派に相応しき心持ち
『徳密さんは、私どもの寺院にふさわしいお方だと思うのですが、三重県にお戻りになるご意向はございませんでしょうか?』と
私は彼に問えど、徳密さんの心は静かに
東京へ戻ることを断ちて、今ここに
金剛龍寺を離れぬ決意、固く成し
今や徳密さんは我が弟子として
共に金剛龍寺にて修行の道を歩む
その心、仏に捧げし覚悟と共に
喜びて、彼の成長を見守る”
最蔵は手紙を読み終え、驚きと憤りが同時に湧き上がった。
自分の弟子が、他のお寺で道を見つけようとしていることに心を痛めた。
最蔵は、徳密と義徳に向けて手紙を書いた。
“弟子よ、戻れ
我が寺院の灯火よ
仏の道を共に歩む
あなたの笑顔、待ち侘びる
法の教え、共に学び
慈悲の心、分かち合おう
苦しみの波、越えて行こう
一緒に歩む、信の道
再び会える日を願い
心より、あなたを待つ
義徳さん、お願い
私の弟子を返してください
心の灯、共に育み
法の道を共に歩んだ
あなたの手の中で
光を見失ったのか
我が弟子よ、早く帰れ
慈悲の道を忘れないで
共に笑い、共に学び
一切衆生、皆一体
私の弟子を、どうか返して
その存在が、我が力なり”
その一文には、最蔵の強い意志が込められていた。
しかし、義徳から返ってきたのは冷静な返事だった。
“最蔵様へ
ご尊書を拝見いたしました。
徳密さんは、我が寺院において既に仏道を歩む大切な仲間として存在しております。
彼が選ばれた道を尊重することこそ、私の務めであると心得ております。
徳密さんが剛徳寺を離れることが、最蔵様にとって大きなご苦悩であること、深くお察しいたします。
しかしながら、彼自身が求められる道は、徳密さんにとって必要な修行の場であり、金剛龍寺での生活が彼の成長に大きく寄与しているものと確信いたしております。
どうか、彼のご選択をお汲み取りくださいますようお願い申し上げます。
最蔵様もまた、師として弟子を育むお立場にあられることから、そのお心をお受け入れくださり、徳密さんの道を見守るお力をお持ちいただけるよう心よりお祈り申し上げます。
敬具
荒木田義徳”
最蔵は手紙を読み終え、胸の奥で何かが崩れていくのを感じた。
義徳の言葉には確かな思慮があるが、最蔵の心の中で渦巻く痛みは消えない。
徳密が選んだ道は、徳密にとっての真実であり、それを尊重しつつも、最蔵には受け入れがたい現実である。
最蔵は、心を整理するために剛徳寺の庭に出た。
秋の風が心地よく、色づいた葉が舞い上がる。
そこに静かに座り、深呼吸を繰り返した。
過去の思い出、徳密との修行の日々、そして徳密が抱いていた未来への期待が、次々と脳裏に浮かんだ。
徳密の笑顔、真剣な眼差し、互いに励まし合った時間。
来年に徳密は剛徳寺の副住職になるところまできていた。
その直前でなぜ、こうなったのだろうか。
『なぜ、戻らない……』
最蔵は長い間、考え続けた。
最蔵は再び義徳に手紙を書いた。
今度は、より感情を込め、心の奥底から湧き上がる思いを言葉にした。
“義徳様へ
ご丁寧なお手紙を拝読し、深く心に留めました。
私が徳密さんに抱いております思いについて、どうか誤解なさらないでください。
彼の成長を妨げる意図は一切ございません。
ただ、もし彼が心の安らぎを求め、より良い修行ができる場所を求めているのであれば、なぜ剛徳寺に戻ることができないのか、私としては問いかけたく存じます。
我が教えは、共に歩み、共に学ぶことによってこそ、共に成長していくものと心得ております。
彼の存在は、私自身の信仰の大きな支えでもございました。
どうか、この私の声にも耳を傾けていただければと存じます。
もちろん、もし徳密さんが金剛龍寺での修行を選ばれたのであれば、その決断を止めるつもりはございません。
しかしながら、弟子としてその道を歩む以上、私の心にも何かしらの痕跡を留めていただきたく思うのです。
最後に、徳密さんが自らの道を見出し、幸せに生きられることを心より願っております。
それが剛徳寺であるのであれば、私は心よりの喜びをもってお迎えいたします。
敬具
最蔵”
この手紙が、義徳の心に響くことを願いながら、最蔵は筆を置いた。
果たして徳密に届くのか、未来は予測不可能なものだった。
最蔵は、ただ静かにその日を待つしかなかった。
しかし、義徳から送られた手紙は深刻な内容であった。
“拝啓
この度、徳密さんが剛徳寺を去るに至りました理由を彼より伺い、その内容が予想以上に深刻であることを知り、最蔵様にお伝えしなければならないことがございます。
まず、一条楓芽様の言動が徳密さんに与えた影響が想像以上に大きかったことをお伝えいたします。
彼女の嫉妬と冷たいお言葉が、個人的な感情を超えて、徳密さんの修行の道を妨げるものとなっておりました。
最蔵様はこの事実をご存知でありながら、何も手を打たれなかったのでしょうか。
彼の心の痛みを理解していたはずの最蔵様が寄り添わず、そのままにされたことに深く失望しております。
私は、徳密さんが仏道に対して抱かれている思いを尊重し、彼が新たな道を見つけられるようお力添えをする決意をいたしました。
その結果、彼が金剛龍寺で新たな一歩を踏み出すことができたことは、私にとっても喜ばしいことでございます。
しかしながら、最蔵様方が彼に与えられた影響について、今一度省みていただきたく存じます。
徳密さんは、未来の副住職としての大きな期待を背負いながら、剛徳寺において数多くのご苦労を抱えておられました。
彼が剛徳寺を去るに至った背景には、最蔵様のご指導に何かしらの欠如があったと感じざるを得ません。
仏道を共に歩む者として、その責任をどうか大慈悲の心を持って重く受け止めていただければと存じます。
今後、最蔵様が徳密さんにどのようなお心遣いをされるのかは、彼の成長に大きな影響を与えることでしょう。
もし彼が戻ることを望まれるのであれば、何をすべきかを真剣にお考えいただきたく存じます。
最後に、徳密さんについて申し上げますが、彼には剛徳寺に戻るご意思は一切ございません。
また、私も彼をお返しするつもりは全くございません。
敬具
荒木田義徳”
これが最後の手紙であった。
これ以降、やりとりはしていない。
義徳がこの手紙を書く前、徳密は義徳と二人きりで話をしていた。
剛徳寺で起きた出来事を義徳の前で泣き崩れながら全て打ち明けた。
生きた心地がしなかった・お土産売り場のバイトの人にまで加害者の肩を持たれた・周りは誰も私の苦痛に目を向ける者は居なかった・住職が居る部屋の前で泣き叫んでも何も変わらなかった・家族に心配かけるわけにはいかず、誰にも言えず、誰にも理解されず、ただ苦しんでいる自分がみんなの前で嘲笑されているような気持ちで、私は、あの場所で自分が何者か分からなくなってしまった・仏道に従おうとしても心が折れそうで、どうしようもなく寂しかった、と途中で過呼吸になりながらも必死に訴えていた。
義徳は徳密をそっと抱きしめ、徳密の痛みを共有するようにその体を受け止めた。
徳密は義徳の温もりを感じながら、心の中の重荷が少しずつ軽くなっていくのを実感した。
その夜、徳密は義徳の抱擁の中で、少しだけ心が解放されていく感覚を味わっていた。
過去の傷を抱えながらも、新たな一歩を踏み出す勇気を少しずつ取り戻していた。
その後、義徳は徳密の告白を思い返しながら、これからどうするかを一緒に考えた。
心の痛みを理解した以上、無視するわけにはいかない。
だが、最蔵に手紙を書くことを決めたとはいえ、徳密の断りなしに手紙を勝手に送るようなことはしなかった。
慎重に徳密と話し合いながら必要な手段を講じる決意を固め、徳密から義徳に代筆をお願いした。
徳密は義徳の慈悲に心をうたれ、金剛龍寺の僧侶として生きることを決めたのだ。
一方、義徳の最後の手紙を読んだ最蔵は、自分の行動を振り返り、徳密が剛徳寺を去ることになった原因を受け止めていた。
剛徳寺の静まり返った夜、月明かりが庭を優しく照らしている。
最蔵は自室に一人座り、義徳からの手紙をじっと見つめていた。
手紙の文字は、最蔵の心に重くのしかかっている。
義徳の言葉は、その温もりの中に厳しさを秘めていた。
徳密が剛徳寺での生活にどれほどの苦しみを抱えていたのかを、まるで知らぬまま日々を送っていたかを考えさせられるものである。
手紙の中で義徳が語った徳密の孤独、苦悩、その全てが、最蔵自身の無関心を明らかにしていた。
最蔵は深く息を吸い込み、再び手紙に目を通す。
手紙の一文一文が、彼の心に突き刺さるようだった。
頭の中で反響する義徳の言葉が、まるで胸の奥を抉るように響いた。
最蔵は目を閉じ、過去の出来事を思い返す。
徳密が辛そうな顔をしているのを見たことはあった。
しかし、それを深く理解しようとすることなく、忙しさにかまけていた自分を思い知る。
最蔵は胸が締め付けられるような苦しさを感じた。
自分の心の中で、あの頃の徳密の姿を浮かべる。
涙を流しながら泣き叫ぶ彼を、無視してしまった自分がいた。
住職の部屋の前での悲痛な叫びも、まるで耳の奥にこだまするように蘇ってきた。
その時、最蔵の中で何かが変わった。
自分の無関心から来る後悔を抱きしめ、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと心に決めた。
手紙を机の上に置き、目を閉じて深呼吸をした。
そして、徳密がどれほどの孤独と苦痛に耐えていたのかを考えた。
周囲の人々からどれだけ理解されず、傷ついていたのか。
そのことを深く理解し、この先どのように行動すべきかを真剣に考え始めた。
最蔵は心を決めて、楓芽を呼び出すための小道を歩いた。
楓芽の心の内を知り、直接対話することが必要だと強く感じていた。
楓芽は庭の片隅に立ち尽くし、うつむき加減で何かを考えている様子だった。
最蔵はその姿を見つけ、少し躊躇いながらも声をかけた。
『楓芽さん』
楓芽は顔を上げ、最蔵をじっと見つめながら返事をした。
『はい』
何で呼ばれているか、思い当たるのか構えたような表情を見せた。
『ちょっと来なさい』
楓芽は、きっとあのことだと思いながら最蔵についていった。
最蔵の自室に入り、扉が閉まった時、楓芽は覚悟を決め込んだ。
そして、最蔵は心を落ち着けて本題に入った。
『今日は楓芽さんのお気持ちをお聞きしたくて呼び出しました。徳密さんのこと、そして楓芽さんが抱えていらっしゃる思いを、しっかりと知りたい』
楓芽はしばらく黙り込み、風が木々の間を吹き抜ける音だけが響いた。
やがて、楓芽は重い口を開いた。
『徳密さんのことでしたら、私には特に気にかけるような話ではございません』
冷淡な口調でありながら、楓芽は冷静であった。
最蔵は真剣な眼差しで楓芽を見つめながら、義徳から送られた最後の手紙を机に置いた。
楓芽は、それを手に取って読んだ。
楓芽の表情は最後まで崩れることなく、手紙を折りたたんで返した。
『徳密さんがどれほど苦しんでいらしたか、お考えになったことがおありでしょうか?』
楓芽は一瞬だけ最蔵から視線を逸らした。
『副住職になろうとされた徳密さんに私が嫉妬しているとでもお思いでしょうか? それは全くの見当違いでございます。私が徳密さんに嫌味を申し上げたことが、そんなに大問題だとお思いですか? 徳密さんが副住職になることは、私の信念に反しております。徳密さんがこのお寺にふさわしくないのは明らかです。それを理解されない方がいらっしゃるのが不思議でございます』
楓芽は最蔵を見下すように、そう言った。
『そのお考えが、徳密さんの心を曇らせていらっしゃることにお気づきでしょうか? 徳密さんには、徳密さんの道理がございます。その信念をお互いに認め、共に理解し合うこと、それが真の成長と悟りへの道でありましょう。楓芽さんのお気持ちは、徳密さんとは異なる問題かと存じます。しかし、徳密さんを傷つけることによって得られるものは何もございません。確かに徳密さんは元は真言宗のお寺の息子さんです。ここに来る前は金剛合掌をする癖を治すために相当な努力をしたと聞いております。ですが…、天台宗に合っていない、徳密さんの思想が天台宗の教えにそぐわない、と心からそう思う者がなぜ、“知識が乏しい”などと言って皆して笑ったりするのでしょうか』
楓芽は言葉を失い、再び視線を落とした。
自分が嫉妬に狂っていることに気づいた楓芽は両手を震わせながら顔を上げ、最蔵の目を真っ直ぐに見つめた。
『猛省いたします』




