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カラス

夕食の時間がやってきた。

澄子は、周囲の僧侶たちが食事をしている中、楓芽の様子を静かに観察していた。

食堂の明かりの下で、楓芽は作務衣の袖から小さな袋を取り出し、手品のように素早く食べ物を入れ込んだ。

澄子の心臓がドキリとした。

住職の視線が楓芽に向けられる。

楓芽は自然を装い、何事もなかったかのように食べ物を口に運ぼうとした。


『楓芽さん、今のは何でしょうか…』


住職の声が響いた。

厳しい眼差しが楓芽に向けられる。

澄子は鼓動が高まったが、同時に楓芽の状況を思うと胸が締め付けられるようだった。


『袖に隠された食べ物もお召し上がりください』


住職は真剣な表情で言った。

楓芽はうつむき、言葉を返せなかった。

僧侶たちは、楓芽の行動に呆れたような視線を向けた。

楓芽は黙ったまま、自分の中にある思いを押し殺すようにしている。


夕食が終わった後、澄子は楓芽がどんな思いを抱えているのか、よく考えた。

お土産売り場に向かう楓芽の姿を追いながら、楓芽の行動がどれほどの意味を持つのかを考えていた。

すると、楓芽は袖の中から袋を出し、照子に食べ物を恵んだ。

その様子を見ていた澄子は、カラスのことを話さなければならないのではないかと悩んだ。


ところが、どうやって皆に伝えたらいいのか分らない。

伝えたとしても、勝手に自分のことを打ち明けられた楓芽の気持ちはどうなることか。

楓芽にカラスのことを話したら誰にも言うなと言うだろう。

だが、このままでは誤解する者が増えるばかりである。

しかし、何かしたくても、不器用な自分には何もできない。

下手な行動で楓芽を傷つけることにもなりかねない。

澄子は頭の中で考えを巡らせた。

澄子の思考は雑念でいっぱいになり、整理することができなくなってしまった。


バイトが終わった後、澄子は静かに止観を試みた。

しかし、心の中は様々なことに気を取られ、落ち着くことができなかった。

眉をひそめながら、澄子は自分の心のざわめきに向き合おうとした。


翌朝、またしても楓芽は袖に食べ物を隠した。

その瞬間、住職の視線が楓芽に向けられた。


『またお隠しになっているのですか!』


住職の叱責が響き渡ると、他の僧侶たちもため息をつく。

澄子はその様子を見ながら、心の中で何かを決意した。


このままでは駄目だ。

澄子は心に強く思った。

決して見過ごすことなどできない。

この優しい心を持つ楓芽を、何とかせねばと。


食堂で、澄子は意を決して口を開いた。


『楓芽さんは食べ物を粗末にされているわけではなくて、足が弱ったカラスに差し上げていらっしゃるのです』


一瞬、食堂が静まり返った。

周囲の僧侶たちは驚きの表情を浮かべたが、澄子は続けた。


『黙ってなさる行動は良くないかもしれませんが、私どもがもっと思いやりを持たなくてはなりませんでしょう……』


すると、僧侶が提案した。


『私たちの食事を最初に一口分ずつお残しして、カラスにお渡しするのはいかがでしょうか?』


その提案に、次々と僧侶たちが賛同の声を上げた。


『そうですね、それなら楓芽さんのお考えも尊重できますし、お一人でなさるよりも皆で協力した方が、カラスの栄養も偏らないでしょう』


住職も頷き、『良いご提案ですね。私も賛成いたします』と言った。

その瞬間、楓芽の目に涙が浮かんだ。


『皆さん、ありがとうございます。澄子さんも。私が申し上げられなかったことを代わりにおっしゃってくださり、心から感謝申し上げます』


楓芽の言葉は澄子の心に響き、互いに助け合うことの大切さを再認識した。


その後、僧侶たちは自分たちの食べ物を持ち寄り、カラスの元へと並んだ。

カラスは皆の優しさに応えるように、嬉しそうに食べ始めた。

澄子はその様子を見守りながら、心の中で小さな感動を覚えた。

カラスは満足そうに食べ続け、いつもよりも喜んでいるように見える。


しかし、ふとした瞬間、カラスが翼を広げて飛び立とうとしたが、何度挑戦しても飛べなかった。

楓芽は、ずっとこの姿を見守ってきた。

周囲の僧侶たちはカラスに歩み寄って、全力で応援した。

それが二日間続いた。


そして、ついに朝日が昇る頃、カラスは再び翼を広げた。

楓芽と澄子と照子、住職と副住職、僧侶たちが一斉に声を上げ、応援し続けている。

お寺の一員が一体となる中、カラスは大きく飛び上がり、ついに青空に向かって飛び立った。

全員がその瞬間を見守り、涙を流しながら歓声を上げた。


澄子は、その光景を目の当たりにし、自分の心が温かく満たされていくのを感じた。

楓芽と共に過ごした日々、楓芽の優しさ、そして仲間たちとの絆が、今ここで一つになったのだ。

この瞬間、すべてが繋がり、澄子は確かな満足感を覚えた。

自分たちの行動が、生命を救うことに繋がったのだと、澄子は心から感じた。


副住職の最蔵や僧侶たち、照子がそれぞれ自分の役割に努めに別れていく中、澄子と楓芽は静かな時間を過ごしていた。

食堂の明かりが柔らかく二人を包み込み、鳥のさえずりが聞こえ始めた。

澄子は緊張した面持ちで、楓芽に声をかけた。


澄子:『楓芽さん』


楓芽:『はい』


澄子:『本日は徳密さんがお帰りになる日でございますね』


楓芽:『…………』


楓芽は少しだけ目を伏せて、何も言わなかった。

沈黙が二人の間に漂い、澄子はその空気を打破したいと思った。


澄子:『徳密さんは、私に楓芽さんが食べ残しをしているとおっしゃったのです。それは絶対にあり得ないと思いましたが、徳密さんは今も誤解されたままでいらっしゃいます。今日、お話しされた方がよろしいかもしれません』


楓芽:『その必要はなくなりました』


澄子は驚きの表情を浮かべた。

楓芽の言葉には、どこか諦めの色が見えた。


澄子:『えっ?』


楓芽:『誤解されたままの方が徳密さんはご自身の道に集中して迷いなく進めるのですから……。大切なものを見失ってまでここに留まるよりも、私のことなど切り捨てていただいた方がよろしいかと』


その言葉は、澄子の心に重く響いた

楓芽の口から出た言葉が、心の奥にある思いを反映しているように感じる。

澄子は少し戸惑いながら、楓芽の意図を理解しようと努めた。


澄子:『それは、徳密さんがこちらにはもうお帰りにならないということですか?』


楓芽:『………………………』


楓芽は沈黙を保ったまま、何も答えなかった。

その沈黙は、澄子の心の中で疑念と不安を膨らませた。

澄子は楓芽が何を考えているのか、どんな思いを抱えているのかを知りたいと思ったが、言葉にするのが難しい。


澄子:『楓芽さん、もしあなたがそう思っているのなら……私も同じように思うことがあります。あなたの優しさが周りにどれだけ影響を与えているか、知ってほしい』


楓芽は少しだけ顔を上げ、澄子の目を見た。

楓芽の瞳は、いつも迷いや邪念がない。


楓芽:『これは私が植えた種でございます』


澄子:『徳密さんには徳密さんの道がございます。しかし、あなたもご自身の道を歩まれるべきです。お互いの思いを大切にしながら、一緒に前に進む方法を見つけられるはずでございます』


楓芽の表情が少しも和らがなかった。

お互いの思いを理解し合えることで、何かが変わるかもしれない。

澄子は楓芽との会話を続けることで、自分たちの絆をより強くしていけると信じていた。

澄子は楓芽に対する思いをさらに強く感じたかった

この静かな時間が、未来にとって大切な一歩になることを願っていた。


しかし、楓芽は徳密のことを出会った最初から天台宗の考えとは異なるものを誰よりも先に見透かしていた。

徳密が持つ思考や、ある一面を見抜いて。

それは徳密が実践する道が、真の慈悲や共生の精神が臨済宗と真言宗に完全に合っていた。

だからこそ、楓芽は心のどこかで徳密の存在を拒絶していたのだ。


その結果、楓芽は嫌味を言ってお寺から追い出そうとしたなど、口が裂けても言えなかった。


澄子との会話の中で、楓芽はそのことを思い出していた。

自分が抱えている思いを伝えられないもどかしさ、そして徳密が持つ教えと自分の信じる道との間に生まれるものが、何なのか知っていた。

それは、どんなに正しいと思えることでも、それを言葉にすることで徳密が自分の道を自分で歩む力が半減ししてしまう、という心遣いである。


楓芽:『心に留めていただきたいのは、自分の道は自分の心の声を聞き、真摯に歩むことによって見つけ出すものであり、他人が代わりに見つけてくれるものではありません。この道を歩むことでこそ、私たちは真実に近づくことができるのです。それこそが、本当の道であり、私たち一人ひとりの生きる意義でございます』


楓芽の強い信念は澄子の心に深く響いた。

心の声に耳を傾け、自分自身の生き方を見つけていくことが、他者との関係の中で得られるものなのだと。

二人の間に流れる温かな空気が、未来への希望を育んでいく。

そして、心の中の道を見つけるために、一歩ずつ進んでいこうという意志が、さらに強く結びつけていくのであった。

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