和
澄子は、昼食の時間が近づくにつれ、心の中で小さな嵐が巻き起こった。
周囲のざわめきと、お寺の静寂の間で自分の心臓の音が大きく聞こえる。
澄子は、毎日のこの瞬間が、他のどんな瞬間よりも緊張を強いるものであることを知っていた。
特に、たくあんを食べる時は、音を立てないようにするのが大きな課題だった。
口の中でパリパリと音を立ててしまわないように、慎重に食べているが、いつも気が氣ではなかった。
食事中に一瞬の気の緩みがあれば、周囲の視線が集まることが怖かった。
澄子は、いつも食堂から出るまで無表情でたくあんを口に隠し、誰にも見られない場所で、こっそりとたくあんをパリッと食べている。
しかし、その誰にも見られない場所を見つけるのがまた難しいのだ。
お寺の食堂の外には、必ずと言っていいほど人が居る。
どのタイミングでどの場所でたくあんを食べるか、食べ物を口に運ぶ度にそのことばかり考えていた。
いつかはバレるだろうと覚悟を決め込んでいるのであった。
食事といえば、徳密が言った言葉が引っかかる。
楓芽の食べ残しという言葉は、澄子に何か不思議な疑念を抱かせるものだ。
楓芽が食べ残しをした姿など見たことがない。
お寺では食事が終わった後、必ず洗鉢があり、みんな完食している。
だが、何かの弾みでその瞬間を見逃しているのか……。
澄子は思いを巡らせたが、楓芽のいつもの真面目で厳しい姿が脳裏に浮かび、疑念は膨らむばかりである。
そして、その日の昼食に何かの運命のように澄子は楓芽の隣に座ることができた。
緊張でおなかが痛くなりそうだ。
食前観を唱え、ご飯を食べ始めるが、澄子はいつもより箸が震えてしまい、何度か音を立ててしまった。
澄子は、隣の楓芽の存在を感じながら、たくあんを食べるタイミングを計った。
楓芽は、穏やかな表情で、何も氣にせず食事をしている。
一口ずつ慎重にたくあんを口に運びながら、楓芽の食べ方を観察した。
楓芽は、たくあんを音を立てずに食べている。
澄子は、次第にその秘訣を探ろうとする意欲が湧いてきた。
もしかしたら、楓芽には何か特別なテクニックがあるのかもしれない。
その思考は、昼食が進むにつれて次第に強まっていった。
澄子の心の中で、徳密の言葉と楓芽の姿が交差する。
食事の時間は、澄子にとって自分を試す試練の場となっていた。
音を立てずに、そして食べ残しがないように。
澄子は、食事のたびにこの緊張と向き合い、少しでも自分を乗り越えられるよう努力していたのだった。
澄子は、楓芽の隣に座りながら、心の中でいくつもの疑問が渦巻いていた。
楓芽は、いつも通り厳しい表情を浮かべ、食事に集中し、食べ残しはしていない。
しかし、澄子はその姿に違和感を覚えた。
食べ残しという言葉が、心の奥に引っかかっている。
楓芽は決して食べ残しをするような人ではない。
いつも、最後の一口までしっかりと食べている。
では、なぜ徳密はそんなことを言ったのだろうか?
澄子は自分の周囲を見回した。
お寺の食堂は、木の温もりに包まれ、静かな雰囲気が漂っている。
澄子は、楓芽が何かを隠しているのではないかという思いが、心の中にちらついた。
もし以前、楓芽が食べ残しをしていたとしたら、それは一体いつのことなのだろう?
楓芽は今まで、澄子の知る限り、食事を無駄にしたことはなかった。
それが楓芽の性格であり、信念であった。
そう考えると、徳密の言葉には何か意図が隠されているのではないかと思えてくる。
心が入れ替わったのか、それとも何か心の葛藤があったのだろうか。
澄子は、楓芽の手元に目を向けた。
楓芽は静かに、丁寧に、一口ずつ食べている。
食べることに集中し、周囲のことなど全く氣にしていないようだ。
しかし、澄子はその様子にいつもとは違う緊張感を感じた。
何かが変わってしまったのだろうか。
澄子自身もまた、食事をしながら無意識に楓芽のことを考えていた。
昼食の間、澄子の頭の中は、楓芽の過去と今、そして徳密の言葉で占められていた。
その瞬間、澄子は決意した。
楓芽に直接聞いてみよう、と。
澄子の中で、疑念と不安が混ざり合っていたが、同時にその真実を知りたいという気持ちも強まっていた。
澄子は、楓芽の横顔を見つめながら、食事の手を止めることができずにいた。
どうすれば、楓芽に話しかけることができるのだろう。
澄子の心の中には、疑問と期待が交錯していた。
楓芽は、穏やかな表情で皿の中を見つめていた。
澄子は、思わずその視線に吸い寄せられる。
ところが、楓芽の食べる姿をじっと見つめていると住職に叱られてしまった。
澄子は、食事の時間が終わるまでに楓芽と向き合う勇気を持たなければならないと、何度も自分に言い聞かせた。
しかし、実際にはその勇気など出せたものではない。
自分が余計なことをしようとしているのではないかと、冷静に考え込んでしまう。
結局、何もすることもなく静かに食堂を後にすることにした。
澄子:『今はそれどころでは……』
澄子は心の中で繰り返し、自分の口の中に残ったたくあんに集中した。
口に隠したたくあんを食べることが澄子の最優先事項だった。
周囲を見渡し、人が居ないことを確認すると、大きな木の陰に隠れるようにしゃがみ込み、パリポリと音を立てて食べ始めた。
その瞬間、近くから足音が聞こえてきた。
澄子は驚き、思わずたくあんを全て飲み込んでしまった。
恐る恐る首を伸ばし、音がした方向を探ると、なんと目の前には楓芽が立っていた。
後ろ姿だ。
楓芽は澄子の存在に氣づかず、周囲を見渡しながら、何かを取り出そうとしている。
澄子は、木の間から楓芽の様子を観察した。
すると、楓芽は作務衣の袖から小さな袋のような物を取り出し、中身を手のひらに出した。
それは、昼食に出ていた食べ物だった。
捨てようとしているのだろうか。
澄子は一瞬、ショックを受けて動けなくなった。
いつの間に隠したんだろう?と心の中で考えた。
楓芽は周囲を見回し、人がいないことを確認すると、座り込んだ。
澄子は、まるで息を潜めているかのように楓芽の行動を見続けた。
しばらくすると、近くの草むらからカラスが歩いてきて、楓芽の方へと近づいてきた。
どうやら足が弱っているのかカラスの動きがぎこちない。
楓芽は、手のひらに乗せた食べ物を一つ一つ、カラスのくちばしに運んだ。
優しい表情でカラスを見つめながら、まるで家族のように。
その姿は、澄子にとって新たな発見だった。
自分が抱いていた疑念や不安が、澄子の心の中でゆっくりと溶けていく。
カラスは一口ずつ食べ物を受け取り、時折嬉しそうにくちばしを上下させている。
澄子はその光景を目の当たりにし、思わず息を呑んだ。
楓芽の優しさと、カラスに注ぐ愛情は、澄子の心に深く刻まれた。
自分が楓芽に抱いていた疑念が、楓芽の優しさによって払拭されていくのを感じた。
この瞬間、澄子は楓芽の行動が持つ意味を理解し始め、自分もその一部になりたいと思った。
そのまま見つめ続ける澄子の心には、新たな感情が芽生えた。
それは、楓芽との絆を深めたいという願いであり、同時にこの特別な瞬間を大切にしたいという気持ちだった。
楓芽の行動が自分の心を動かしたことを実感し、この静かな午後が持つ特別な何かを感じ取っていた。
澄子は、このまま静かに見守るか、話しかけるか考えた。
徳密が誤解したまま終われないが、話しかけることが思わぬ誤解を招く可能性がある。
自分だけの力では、どうすることもできない。
どんな言葉で解決するか慎重に考えたが、何もできそうにない。
楓芽の性格を見ると、食べ残しの誤解を解くには澄子の言葉ではリスクがあり、楓芽を傷付けることにも繋がりかねない。
澄子は、自分の無力さや楓芽の性格を理解し、最終的に楓芽の優しい行動を見守ることに決めた。
木の間から、楓芽の姿を静かに観察しながら、心の中でその瞬間を噛みしめ続けた。
楓芽の表情には、無邪気な喜びが満ちていた。
カラスも、その食べ物を嬉しそうに食べながら、時折楓芽を見上げている。
澄子は、まるで二人の間に信頼という絆があるように感じた。
その瞬間、澄子は楓芽の心の奥にある秘密を少しずつ理解し始めた。
楓芽がカラスに、どれだけの愛情や思いやりを注いでいるのか。
同時に命を大切にする姿勢に氣づいた。
澄子の心には、感謝の氣持ちが芽生えた。
楓芽は、誰も知らない優しさや思いやりを持っている。
自分の心の狭さを少し恥じながら、澄子はそう感じた。
楓芽の行動を見守ることで、澄子は自分自身も変わりたいと思った。
時間が経つにつれて、カラスは満腹になったのか、楓芽の周りをゆっくりと歩き回りながら楽しそうに鳴いていた。
澄子は、その光景を見つめながら、自分も何かできることはないかと考え始めた。
楓芽のように誰かを助けられる存在になりたい、と。
その願いは澄子の中でさらに大きくなった。
静かに見守ることで、楓芽から多くのことを学び取っていた。
やがて、楓芽はカラスに最後の一口を渡すと、微笑んだ。
楓芽の目には穏やかな光が宿っていた。
澄子はその姿に心を打たれ、思わず微笑み返す。
楓芽の行動は、澄子に新しい視点が生まれ、心を動かしていた。
その瞬間、澄子は楓芽と自分の心がつながったように感じた。
まだ直接的な言葉を交わしてはいないが、無言の理解が生まれた。
澄子は、この瞬間を大切にしながら、楓芽との関係を少しずつ深めていくことを心に決めたのであった。




