表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/80

無相の心

夜明け前の静寂に包まれた剛徳寺。

冷たい朝の風が門の古い木をそっと揺らし、境内はいつもと変わらず静まり返っている。


しかし、その静寂の中で一人の僧、楓芽が珍しく心が乱れてしまった。

薄暗い空の下、楓芽は自分の部屋の障子を静かに開け、境内を見下ろした。

視線の先には、三重県へ向かう準備をしている徳密の姿があった。

背筋を伸ばし、全てを見通すようなその佇まい。

徳密は僧たちからも一目置かれ、その知恵と精神力で皆を導く存在であった。


楓芽:『なぜ、徳密さんなのでございましょうか…』


楓芽は自分の胸の中で抑えきれない感情を噛みしめた。

最蔵にとって徳密が“特別”だということは、楓芽自身も理解していた。

しかし、楓芽が認めたくないのは、なぜ自分がその特別な存在になれないのか、という問いだった。

徳密が持つ才能や精神的な深さに対して、楓芽は日ごとに圧倒されるばかりだった。


楓芽はこれまでずっと修行に励み、誰にも負けない努力をしてきた。

しかし、徳密の存在は、その努力が無駄だと言われているように感じさせた。

徳密の前では、自分は常に“二番手”でしかないという現実が、楓芽を苛立たせ、そして嫉妬心を募らせていた。


その朝、徳密が出発する準備を整えた瞬間、楓芽の心の中で押さえつけていた感情がついに溢れ出した。


楓芽:『徳密さん!!!』


声が響き渡り、境内の空気がピリついた。

徳密は振り返ることなく、背中で楓芽の呼びかけを受け止めた。

徳密は静かに荷物をまとめ、軽く息を吐き、ようやく楓芽の方を振り返った。

目が合うと、徳密の冷静な眼差しが楓芽の心に突き刺さる。

どこか達観しているかのような徳密の姿は、楓芽にとってあまりにも腹立たしかった。


楓芽:『徳密さんばかりでは不公平でございます!!!』


楓芽の声には、怒りと悲しみが混じっていた。


楓芽:『何をどう努力いたしましても、私は徳密さんに追いつくことはできません。徳密さんがいらっしゃる限り、私はずっと影に隠れているだけ……』


徳密は静かに楓芽の言葉を聞いた。

その沈黙が、さらに楓芽を苛立たせた。

自分がこれほど苦しんでいるのに、なぜ何も感じないのか、なぜ何も言わないのか。

楓芽は、怒りに任せて一歩踏み出した。


楓芽:『徳密さんは全てを手に入れられるのでしょう。私の努力など無意味だと言わんばかりに』


徳密は、静かに言葉を紡いだ。


徳密:『楓芽さん…。楓芽さんが持っていらっしゃるものは、私には持つことのできないものです』


徳密の言葉は、楓芽にとって意外なものだった。


徳密:『私が特別だと、そうおっしゃりたいのですか?しかし、私も常に不安を感じておりました。楓芽さんが嫉妬を感じていらっしゃるように、私も楓芽さんに対して劣等感を抱くことがございます』


楓芽は一瞬、言葉を失った。

徳密が劣等感を?彼が?と。


徳密:『楓芽さんが私を超えられないと思っていらっしゃるのは、楓芽さんご自身がそうお決めになっていることです。私は楓芽さんから何も奪っておりません』


徳密の静かな言葉が、楓芽の心にじわりと染み込んでいく。

それは楓芽がこれまで目を背けてきた真実だった。

楓芽はずっと、自分自身を他者と比べることで、自分の価値を決めていた。

徳密という存在がその尺度になっていたのだ。

しかし、それは楓芽自身の内側からくるものだった。


楓芽:『しかしながら……私は、まだ……』


楓芽は言葉を探しながらも、自分の中で何かが変わり始めているのを感じた。

嫉妬は確かに存在するが、それが楓芽を導く道ではないことを理解し始めていた。


徳密は荷物を肩にかけ、口を開いた。


徳密:『自分の道は、自らで決めるものです、楓芽さん。私の道とは異なりますが、それが楓芽さんの価値を損なうものではありません。では、失礼いたします』


楓芽はその言葉を胸に刻みながらも、まだ心の中に残る複雑な感情を完全に消し去ることはできなかった。

しかし、少なくとも楓芽は自分の心と向き合い始めている。

徳密の背中が遠ざかるのを見送りながら、楓芽は立ち尽くし、自分が進みたい道について考え始めた。


楓芽:『お待ち』


楓芽は少し息を切らしながら、徳密の背後に声をかけた。

その場所はスーパースターの銅像の前であった。


徳密は足を止め、振り返った。

その顔には特に驚きの表情はなく、ただ静かに楓芽を見つめている。


楓芽:『………………。ずっと徳密さんに申し上げようと思っておりましたが、なかなか言い出せませんでした』


楓芽は少し視線を逸らしながらも、心の中で覚悟を決めた。

スーパースターの銅像が二人を見守っている。


楓芽:『私は、これまで徳密さんに対して嫉妬しておりました。私には持っていないものをお持ちで、それが悔しくて、私は自分を見失っておりました』


徳密はじっと楓芽の言葉を聞いていた。


楓芽:『しかし、私の行動は誤っておりました。自分の嫉妬や劣等感を徳密さんにぶつけるべきではなかったのです。本当に…申し訳ございませんでした』


楓芽は深く頭を下げた。

楓芽の声には真剣な謝罪の気持ちが込められており、言葉にこもる重さが境内に静かに広がった。


徳密:『…………………』


しばらくの間、沈黙が続いた。

ここで、強い雨が降り出した。

雨の音が徳密の耳に響いている。


そして、徳密は表情を崩さずに答えた。


徳密:『人は誰でも内に抱えているものをお持ちでございます』


その言葉に楓芽は顔を上げた。

徳密は一歩楓芽に近づき、続けた。


徳密:『私たちは同じ道を歩んでいる仲間でございます』


徳密の声は優しく、どこか温かさがあった。


徳密:『嫉妬なさることも、悩まれることも、全て自然なこと。しかし、その中から何を学ばれるかが重要でございます。楓芽さんがご自身を見つめ直し、私にこのように謝ってくださったこと、それ自体が大きな一歩でございます』


楓芽はその言葉に胸が温かくなった。

自分の中にあった重い感情が、徐々に軽くなっていくのを感じた。

徳密が楓芽に対して怒ることも、嫌悪感を抱くこともなく、むしろその心の弱さを受け入れてくれていることが、楓芽にとって何よりも救いだった。


楓芽:『しかし、私はまだ徳密さんを超えたいと考えております』


楓芽は強い決意を込めて言った。


楓芽:『徳密さんのように、強くて優しい存在になりたいと考えております』


徳密は微かに笑みを浮かべた。


徳密:『私を目標にするのは良いことですが、楓芽さん、どうかお忘れにならないでください。最終的に超える相手は、他の誰でもなくご自身でございます』


楓芽はその言葉に頷いた。

徳密の言葉はいつも核心を突いている。

自分自身を超える、それが本当の意味での成長だということを、楓芽はようやく理解し始めていた。


楓芽:『ありがとうございます、徳密さん』


楓芽は感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。

徳密は微笑みながら荷物を持ち直した。


徳密:『ひまわりの種、ありがとうございました。とても嬉しく思っております。実は、楓芽さんに対して憧れを抱いていたことがございます。ここに参りました理由の一つが、楓芽さんの存在に大変魅力を感じていたからでございます。初めて一人の方として、一人の女性として、これほど強く誰かを好いたのは、楓芽さんが初めてでございました。しかし、正直申し上げますと、それは私の理想の女性に対する憧れであり、楓芽さんの本質を心の底から理解し、愛していたわけではございませんでした。私が感じていたのは、単なる理想であり、実際の楓芽さんの真の姿を受け入れることができていなかったのです。もし、楓芽さんが私に対して嫌味さえ仰らなければ、お寺にこのひまわりの種を植えて、二人で育てましょうと提案したかもしれません。しかし、私が楓芽さんに抱いていたのは、単なる憧れであることに氣づきました。楓芽さんが本当に大切にされている価値や本質を、私が心の底から理解し、愛すことができませんでした。これが私の本当の気持ちでございます。このひまわりの種は、お返しします』


楓芽:『…………………………』


徳密:『それでは、失礼いたします』


楓芽は黙って徳密の背中を見送り、その姿が遠ざかるまで見つめ続けた。

心の中には、これまで抱えていた嫉妬や不安が消え、代わりに新たな目標と決意が宿っていた。


徳密が去った後、楓芽は自分の歩む道が少しずつ見えてきたことを感じながら、再び日々の修行に戻ろうとした。

その刹那、スーパースターの銅像に目を向けると雨が涙のようにスーパースターの瞳から頬にかけて流れ落ち、徳密がお寺から居なくなるのを悲しんでいるように見えた。

それを見た楓芽は、徳密はもう帰ってこないかもしれないような氣がした。


この日、楓芽は人生で初めて人に愛され、振られたことに後悔し、涙を流しながら自分を見つめなおすのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ