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道諦

澄子は、法華経の教えを胸に、病院での治療に専念する日々を送っていた。

最蔵も頻繁に病室を訪れ、澄子の回復を見守りつつ、法華経にまつわる話を分かりやすく伝え続けた。


ある朝、最蔵が病室を訪れると、澄子は既に起きてベッドの上で静かに法華経を読んでいた。

少し顔色も良くなり、体力が戻りつつあるのが目に見えて分かった。


最蔵: 『澄子様、体調はいかがですか?』


澄子は最蔵に向かって優しく微笑み、経典を閉じた。


澄子: 『おかげさまで、少しずつ体力が戻ってきました。法華経を読むことで、心が落ち着きますし、日々の不安も少しずつ薄れていっている気がします』


最蔵は澄子の言葉に安心し、澄子の手を優しく握った。


最蔵: 『法華経は、私たちの心を強くし、安らぎをもたらしてくれます。澄子様がその教えに支えられ、回復されていることが、私にとっても何よりの喜びです』


澄子は最蔵の言葉に感謝しながら、ふと窓の外を見た。

病院の庭には桔梗が咲いており、夏の終わりを感じさせる穏やかな景色が広がっていた。


澄子: 『桔梗が咲いていますね。もうすぐ秋が来ますね』


最蔵も窓の外に目をやり、桔梗の花を見つめた。


最蔵: 『はい、秋の訪れですね。桔梗の花は、法華経の教えにも通じるものがあります。人生の儚さや美しさを象徴する桔梗の花のように、私たちもまた、一瞬一瞬を大切に生きていくことを心掛けなければと感じます』


澄子は静かに頷き、その言葉に深く共感した。


澄子: 『そうですね。一瞬一瞬を大切に…。私も、これからはもっと自分の時間を大切にしながら、生きていこうと思います』


日が経つにつれて、澄子の回復は目覚ましく、医師たちもその回復力に驚いていた。

法華経の教えを心の支えに、澄子は身体と心の両方を癒し、力強く生きる力を取り戻していった。


ある日、最蔵が病室を訪れると、澄子はすっかり元気を取り戻し、ベッドの上で軽く体を動かしている姿を見かけた。

澄子の顔には、以前のような生気が戻り、目には輝きが宿っていた。


澄子: 『最蔵さん、今日は体の調子がとても良いです。お医者様も、もう少しで退院できるかもしれないとおっしゃっていました』


最蔵はその報告に心から喜び、澄子の手を取り、力強く励ました。


最蔵: 『それは本当に素晴らしいことです。澄子様が法華経の教えを信じ、心から回復を望んでいたからこそ、このような奇跡が起こったのでしょう。これからも、心の平安を保ち続けてください』


澄子は、最蔵の言葉に感謝しながら、これからの人生に向けて新たな決意を胸に抱いた。

そして、病院を退院した後も、法華経の教えを心の中心に据え、静かに、そして力強く生きていくことを誓ったのだった。


澄子がゆっくりと回復し、最蔵との絆が深まる中、過去の傷が次第に癒えつつあるように見えた。

しかし、最蔵が何気なく口にした一言が、澄子の心の奥に眠っていた痛みを呼び覚ましてしまった。


最蔵: 『ところで、ご家族にご連絡なさらなくてもよろしいのでしょうか?』


その言葉が発せられた瞬間、澄子の顔色がみるみるうちに変わった。

最初は困惑が浮かび、次第に恐怖と悲しみが入り混じった表情になり、手が微かに震え始めた。

澄子はその質問に答えようとしたが、声が喉に詰まり、言葉にならなかった。


心の中で、澄子はあの事故のことを鮮明に思い出していた。

高校を卒業したばかりの澄子は、家族と共に卒業旅行に出かけていた。

旅行は楽しく、未来への期待に胸を膨らませていた。

その帰り道、幸せに包まれた一家に突如襲いかかったのは、あまりにも残酷な運命だった。


玉突き事故が起きた瞬間、澄子は一瞬の間にすべてが変わったのを感じた。

車が激しく衝突し、時間が止まったかのように感じた。

意識が戻った時、周りの景色がぼんやりと見え、耳には自分の呼吸と心臓の鼓動だけが響いていた。

澄子は母の手を握ろうとしたが、その手はすでに冷たくなっていた。

澄子の心は、母の命がそこで終わってしまったことを理解するのを拒んでいた。


そして、お父さんはその事故で記憶を失った。

澄子とお母さんとの思い出、そして澄子がどれほど愛されていたか、そのすべてが消え去ってしまった。

お父さんは新しい人生を歩み始め、新しい家族を持つようになったが、澄子の中では、お父さんはもう澄子の知っている父親ではなくなっていた。


澄子はその思い出に囚われ、病室で立ち尽くしたまま涙を流していた。

言葉が見つからず、喉の奥から絞り出した声が震えていた。


澄子: 『…………家族は、もういません……。玉突き事故で…………全部真っ白に…………、私だけが生き残ってしまったんです……。お父さんは、記憶を失い……お母さんは……、亡くなりました…。今……、お父さんは再婚して新しい家族が居ます……………。連絡は、できません…………』


言葉を発しながら、澄子はその痛みが再び澄子を襲うのを感じた。

自分だけが助かったことへの罪悪感と、失った家族への悲しみが入り混じり、胸の中で渦を巻いていた。


最蔵はその沈痛な告白を聞き、澄子の痛みに共鳴した。

そして、ゆっくりと澄子に近づき、その小さな震える身体を優しく抱きしめた。

その腕の中で、澄子は次第に安心感を取り戻していくのを感じたが、それでも涙は止まらなかった。

澄子が過去の事故と家族の喪失に思いを馳せる中、その悲しみが澄子の心を蝕んでいる苦諦が浮かび上がった。

最蔵が澄子の手を取り、温かく包み込むことで、澄子は滅諦へと向かう道筋を見出している。


最蔵: 『これからは私が澄子様をお守りします』


その言葉には、単なる慰め以上のものが込められていた。

澄子はその言葉に導かれ、自分の内面の混乱から抜け出し、苦しみからの解放を目指す道諦への一歩を踏み出した。

澄子は自分自身を信じ、中庸の道を進む決意を固めた。

最蔵は澄子が抱える深い傷と、その苦しみを共に分かち合う覚悟を決めていた。

澄子のこれまでの人生に立ちはだかっていた悲しみや孤独を、最蔵が共に背負うと誓ったのだ。


澄子は最蔵の胸に顔を埋め、その温かさに包まれながら、しばらくの間泣き続けた。

澄子の涙は、これまで誰にも見せたことのない、心の奥底に溜まっていた苦しみの解放だった。

最蔵の温もりが、その全てを受け止め、澄子に新たな希望の光を与えてくれていた。


そして、澄子はようやく最蔵の肩から顔を上げ、涙で濡れた目で最蔵を見つめた。

その瞳には、これからの人生を歩んでいくための新たな決意が宿っていた。


澄子: 『ありがとうございます……最蔵さん。私、これからはもっと強く生きていきます……。お母さんが私に望んでいたように、今度こそ自分を信じて……』


最蔵は静かに頷き、澄子の言葉を深く心に刻んだ。

そして二人は、これから訪れる新しい日々に向けて、共に歩んでいくことを決意したのだった。

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