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伝説のイッヌ

澄子がどれくらいの間、意識を失っていたのかは分からなかった。

ぼんやりとした意識の中で、遠くから聞こえてくる足音が次第に近づいてくるのを感じた。

最初は小さくかすかな音だったが、その音は徐々に大きくなり、公園の片隅で倒れている澄子のすぐそばで止まった。


薄れゆく意識の中で、澄子はなんとか反応しようとし、かろうじて瞼を開けた。

しかし、視界はぼんやりとしており、全身に力が入らず、再び意識が遠のいていった。

誰かが自分のすぐそばにいることは分かるのに、顔を見ようとする気力も体力も残っていなかった。


その瞬間、夢の中に響くような優しい声が耳に届いた。

どこか懐かしく、温かみのある声が必死に澄子に呼びかけていた。

澄子はその声に導かれるように、無意識のうちに安堵の表情を浮かべた。


夢の中では、その声がやがて澄子のお父さんの声へと変わっていった。

周囲を見渡すと、澄子は懐かしい比叡山の風景の中を歩いていた。

子供の頃に何度も訪れた場所で、澄子はお父さんと一緒に山道を歩いていた。


澄子:『お父さん、ここはどこ?』


お父さん:『澄子が子供の頃によう行っとった比叡山やで』


澄子:『懐かしいね、比叡山』


お父さん:『澄子、ちゃんと働いてるんか?』


澄子:『お寺のお土産売り場で働いてんで』


お父さん:『そうか、お寺のお土産売り場か。そのお寺の宗派はどこなんや?』


澄子:『うちのお墓とおんなじ天台宗やで。私の前でフンをしたカラスを見かけて、ついていったら、お寺やってん。面接を受けたい言うたら、お勉強セットを貸出されて、たったの一日で覚えてくるように言われたの。なんとか合格して、今そこで働いてる』


お父さん:『じゃあ今日は比叡山のお寺にもお参りしようか。来月、日光にも行って天海さまにも、ちゃんとご挨拶せんとね』


澄子:『天海って明智光秀ちゃうん?』


お父さん:『同一人物かもしれんし、別人かもしれん。誰にも真実は分からんのや』


夢の中でのお父さんとの会話は、あまりに現実的で、澄子は心から安心感を得ていた。


その後、澄子は柔らかな光に包まれた空間でゆっくりと目を覚ました。

見慣れない天井が視界に入ると、ここが病院の病室だということに気づいた。

身体を動かそうとしたが、まだ力が戻っていないのを感じ、僅かに頭を動かして周囲を見渡した。


その時、澄子は自分の手が温かな感触に包まれていることに気づいた。

視線を下げると、副住職の最蔵が澄子の手をしっかりと握りしめ、澄子が目を覚ますのを待っていた。

最蔵の表情には、深い安堵と同時に心配が滲み出ていたが、澄子が目を開けたのを見て、ほっとしたように柔らかい笑みを浮かべた。


最蔵:『澄子様、こちらは病院でございます。栄養失調のため、治療が必要と診断されました。空腹にお氣付きできず、申し訳ございません。治療費についてはどうかご心配なさらないでください。私が全て負担いたします』


最蔵の声は、公園で耳にしたあの優しい声と同じだった。

澄子はかすれた声で、感謝の気持ちを伝えようとした。


澄子: 『最蔵さん…………』


最蔵は、澄子の冷たく力のない手を少し強く握り返し、澄子を安心させるように、さらにゆっくりと話し続けた。


最蔵: 『イッヌ(ワンちゃん)のお散歩をしていた時に、偶然公園で澄子様を見かけました。もう大丈夫です。どうぞ、ここでしばらくゆっくりとお休みください』


澄子: 『………本当にご迷惑をおかけして、すみません…』


最蔵: 『そんなことはございません。もっと早く気づいていれば…と、申し訳ない気持ちでいっぱいです。もしよろしければ、私どものお寺で生活しませんか?安心してお過ごしいただける場所が必要かと思いますので』


澄子は最蔵の言葉に応えるように微笑んだが、まだ自分の状況を完全に受け入れるには時間がかかりそうだった。


澄子:『その…お気持ちは本当に嬉しいです。でも、私は…』


最蔵: 『どうかご無理なさらないでください。お寺には空いているお部屋もございますし、澄子様がいらっしゃることで、私たちも心が和むと思います』


澄子は最蔵の手の温もりを感じながら、最蔵の真摯な提案を考えた。

まだ不安や迷いが残っていたが、最蔵の優しさと、最蔵が自分を心から心配していることが伝わってきた。


澄子:『………………………ありがとう、最蔵さん…少し考えさせてください』


澄子は心から感謝し、最蔵のそばにいることで、自分の心が少しずつ癒されていくのを感じていた。

最蔵の手の温かさが、澄子の冷えた心を優しく包み込んでいた。


最蔵は澄子の言葉に頷き、優しく微笑んだ。


最蔵:『もちろんです。澄子様のペースで考えてください。お寺にはいつでもお戻りいただけますし、何かお手伝いが必要なときは遠慮なくおっしゃってくださいね』


そう言いながら、最蔵はそっと澄子の手を離し、布団を整えるように掛け直した。澄子はその細やかな気遣いに、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。


澄子:『最蔵さん、本当にありがとう。お寺での生活…考えてみます』


最蔵:『ありがとうございます。お待ちしております。今はご自分の体調を最優先になさってください』


そう言うと、最蔵は少し下がって礼をし、澄子の横にあった椅子に腰を下ろした。澄子は彼が傍にいてくれることに、安堵感を覚えながらも、心の中でいくつもの思いが交錯していた。


澄子は、自分がどれほど疲れていたのかを今になって実感した。

お寺の仕事は好きだったが、生活の不安や孤独感が徐々に積み重なっていたのかもしれない。

それでも自分の限界を認めることができず、無理を重ねた結果が今回の倒れた原因だった。


『お寺での生活…』澄子は心の中でその言葉を繰り返した。

最蔵の提案に救われる気持ちもあれば、今の生活を手放すことへの躊躇もあった。


澄子:『…私、最蔵さんに見つけてもらえて、本当によかった………。見つけたのが最蔵さんでよかった……本当に……。あのままだったら、どうなっていたか…。本当は、とっても怖かったの………』


最蔵は静かに澄子の言葉を聞いていたが、澄子の声に詰まるような感情を感じ取り、優しく応えた。


最蔵:『澄子様、運命とは不思議なものです。実は普段はイッヌのお散歩は早朝にしているのですが、今日はうちのイッヌの(てん)ちゃん(女の子)が夕方のお散歩に連れてってと言ってるかのように吠え続けてまして……。何かに導かれるように私がその公園にいたのも、偶然ではないのかもしれませんね。澄子様がこのように元気を取り戻されることが、私にとっても何よりの喜びです。それから……、和尚様がお渡ししたお饅頭を他の方にお恵みになっているところも拝見いたしました。ご自身が空腹であるにもかかわらず、他の方に優しくできる澄子様は、本当に素晴らしいです』


澄子は最蔵の言葉に励まされ、心が軽くなるのを感じた。

そして、ふと、自分がもっと素直に助けを求めることができたら、これまでの苦しみも少しは和らいだかもしれない、そんな思いが頭をよぎった。


澄子:『…お寺での生活、考えますね。でも、最蔵さんのおかげで、少しだけ未来が明るく見えました』


最蔵は優しい目で澄子を見つめ、静かに頷いた。


最蔵:『それを聞いて安心しました。いつでもお待ちしておりますので、どうぞ焦らず、澄子様の心が求める道をお選びください』


澄子はその言葉に力をもらい、再び微笑んだ。

お寺の生活が自分にとってどんな意味を持つのか、そしてそこで何を見つけることができるのか、ゆっくりと考えてみようと思った。


このまましばらく病院で静養し、体調が回復したら、お寺での新しい生活を始めるかどうか、心を落ち着けて決めるつもりだった。

最蔵の温かな言葉が、澄子の心の中で静かに響き続けていた。

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