憧れの先輩
次の日の朝、澄子は公園の水飲み場で水筒に水を入れ、そのままスーツケースを転がしながら二日目のバイト先へと向かった。
昨夜の孤独感はすっかり消え去り、朝の柔らかな日差しが澄子を包み込み、心地よい気持ちにさせていた。
昨日の辛い夜を乗り越えたことで、澄子は少しだけ強くなったような気がした。
胸の中にわずかな自信が芽生え、歩く足取りも自然と軽やかになった。
澄子はこれから始まる新しい一日を希望を持って迎えようとしていた。
剛徳寺に到着すると、昨日よりもお寺の門が一層輝いて見えた。
朝の光が門を照らし、その威厳をより一層引き立てていた。
境内に立つスーパースターの銅像も、今日はどこか心配そうな表情を浮かべているように感じられる。
澄子は銅像に向かって呟いた。
澄子:『今日も一日、よろしくお願いします』
澄子はその銅像に向かって軽く会釈し、心の中で一日が良いものであるよう祈りながら、ゆっくりと境内へと足を踏み入れた。
しかし、ふと振り返ると、銅像の表情は依然として不安そうに見える。
澄子はその表情が気になりながらも、氣を取り直してお店に向かって歩みを進めた。
途中で必ず会う僧侶たちには、いつも通り明るい笑顔で挨拶を交わした。
その日、珍しく僧侶たちの間にひそひそ話のようなものは見当たらなかった。
澄子はその静けさに少しだけ安心しながらも、何か不安な氣持ちを拭いきれずにいた。
お店の中に入ると、仕事仲間のおばあちゃんが優しい声で澄子に挨拶してきた。
おばあちゃんの名前は照子で、照子の存在は澄子にとって大きな支えだった。
その穏やかな声と温かい笑顔に、澄子はほっと一息つき、今日も一日頑張ろうと心を新たにした。
照子:『おはよう。そのスーツケースは?』
澄子は照子にアパートの滞納で管理会社から追い出されることになった事情を話そうかどうか、心の中で悩んだ。
しかし、話せば照子が心配するだろうし、その心配をかけることはできないと考えた。
澄子は、そんな状況を誰にも知られたくない一心で、口をつぐむことに決めた。
照子の優しい笑顔を前にして澄子はその心配を自分の中に閉じ込め、仕事に集中しようと心に誓った。
照子には、今まで通りの明るい自分を見せ、何も問題がないかのように振る舞うことが澄子にとって最も大切だと思ったからだった。
澄子:『家の鍵が壊れてしまったので暫く貴重品だけは持っておくことにしました。荷物が多くて、すみません』
照子:『まぁ、そうだったの。それじゃあ、お店の更衣室にある鍵付きのロッカーに入れておいで』
澄子:『ありがとうございます。照子さん』
澄子は、自分がお腹を空かせていることを照子に知られないように、必死に手の震えを抑えながら、笑顔を振りまいていた。
お腹の空き具合が辛いのを感じながらも、接客への笑顔だけは崩さないよう心がけていた。
スーツケースをロッカーに押し込み、鍵をかけると、仕事の準備が整った。
昼間の光が差し込む店内で、照子と一緒に接客を開始した。
澄子は、空腹感がもはや体の一部になっているような氣がしながらも、その不快感を必死に押し込め、ランチタイムに訪れる客たちに笑顔で対応した。
立っているのが辛く、時折お腹が鳴りそうになっても、表面上は何も変わらないように努めた。
ランチタイムの忙しさが始まると、店内は活氣に満ちていた。
澄子は初めてのランチタイムで、慣れない手つきで食べ物の盛り合わせを運び、客たちに手際よく配膳していった。
ランチメニューは主に精進料理で、うどんやそば、おむすび、野菜の天ぷらが中心となっている。
その料理が並べられると、客たちはその美しい盛り付けに感嘆の声を上げながら、楽しそうに食事を始めた。
澄子は、客たちの満足そうな顔を見ながら、自分の空腹感を少し忘れられるような気がした。
客たちは料理を楽しみながらお寺のルートを考えたり、スーパースターの歴史について語り合ったりして、和やかな時間を過ごしていた。
その温かい雰囲気が澄子の心に少しの安らぎをもたらした。
澄子が昼食の接客をしていると、二人の観光客が店に入ってきた。
二人は少し戸惑いながらも、澄子を見ている様子だった。
澄子は笑顔で接客に向かうと、スマアトフオンで翻訳アプリを開いているのを見つけた。
その画面には、“本堂はどこですか?中に入れますか?”と日本語に翻訳されたメッセージが表示されている。
澄子はその翻訳を見て、少し考えた後に中国語で返事をすることに決めた。
心を落ち着け、丁寧に発音を意識しながら話し始めた。
澄子:『本堂在从这家店出来后直行,左手边可以找到。请随意参观』
二人は澄子の流暢な中国語に驚き、喜びの表情を浮かべた。
互いに顔を見合わせてから、澄子に深く感謝の意を示した。
二人の女性の目には安堵の色が浮かび、まるで澄子の中国語が不安を解消したかのようだった。
女性A:『谢谢。你的中文很棒』
女性B:『你的中文很棒』
澄子は微笑みながら、さらに親切に案内を続けた。
澄子:『不客气。如果您还有其他不明白的地方,请随时告诉我』
二人は笑顔でお礼を言い、澄子の案内に従って本堂へ向かっていった。
その後、澄子は笑顔でその場を見送った。
その光景を通りかかった一人の僧侶が目撃していた。
僧侶は驚きの表情を浮かべながら、澄子が中国語で対応している様子をじっと見つめていた。
僧侶の目は大きく開かれ、少し口を開けたまま見とれていたが、澄子はその反応に気づくことなく、さらに他の客への対応を続けていた。
澄子にとって、客の笑顔が何よりも嬉しく、僧侶の驚きが澄子の心に影響を与えることもなかった。
ランチタイムが終わると、ようやく交代で休憩に入る時間がやってきた。
澄子は、ホッと一息つきながら、これまでの接客で感じた疲れを一瞬で忘れ、リラックスできる時を待っていた。
照子:『澄子ちゃん、1時間休憩しておいで』
照子に声を掛けられ、澄子はようやく休憩に入ることができた。
澄子は、店の奥にある狭い更衣室に向かい、そこでしばしの安息を得ることにした。
更衣室は簡素で、コート掛けと鏡の前に小さなベンチが置かれているだけの空間だった。
澄子は水筒を取り出し、冷たい水をゆっくりと口に運びながら、わずかな休息を楽しんだ。
食べ物のことを考えないようにしようと努力していたが、休憩中だけは例外だった。
澄子は頭の中で理想的な昼食を思い描き、想像の中でその料理をゆっくりと味わいながら満腹感を得ようとした。
空腹感を少しでも和らげるために、自分がどれだけ美味しいものを食べたいかを想像することで、心の中だけでも満たされようとしていた。
休憩時間が終わり、澄子は再び店内に戻った。
お土産売り場には、たくさんの客が地元の品物を楽しそうに手に取っていた。
そこには、特産品やお土産の数々が並び、客たちの笑顔が絶えない明るい雰囲気が漂っている。
澄子は、その様子を見ながら心から嬉しく感じた。
自分が働いているお店で、客たちが楽しんでいる光景を見ることが、澄子にとっては何よりも大きな喜びだった。
一日の仕事が終わると、澄子は達成感とともに店を後にした。
どんなに疲れていても、今日も無事にバイトを終えることができたという安堵感が、澄子の心を満たしていた。
帰路につく道すがら、澄子は明日もまた頑張ろうと、自分自身に静かに語りかけながら歩き出した。
照子:『おつかれさま、澄子ちゃん』
澄子:『おつかれさまです、照子さん』
仕事が終わり、澄子はようやくお店を後にした。お疲れ様の意味を込めて、スーパースターに軽く帰りの挨拶をし、門を出ようとしたその瞬間、後ろから急いで走る音と呼びかける声が聞こえてきた。
『澄子さぁん!澄子さぁん!』
振り返ると、そこには剛徳寺の僧侶が立っていた。
僧侶の表情にはいつもと違う、少し慌てた様子が浮かんでいた。
『和尚さんがお呼びです。私にお付きください』
その言葉に澄子は驚きながらも、すぐに気持ちを切り替えた。
僧侶の指示を受けて、澄子はその場に立ち止まり、空腹で鳴るお腹の虫をぐっと我慢し、僧侶の後についていった。
心の中でさまざまな思いが交錯しながらも、澄子は僧侶の背中を見つめ、どんな用件で呼ばれたのかを想像しつつ、歩いた。
澄子が僧侶の後をついていくと、静かな庭を通り抜けて、やがて本堂の裏手にある小さな書斎に案内してくれた。
書斎は落ち着いた雰囲気が漂っており、壁には古びた書物が整然と並び、香り高いお香が静かに焚かれていた。
そこには、優雅で威厳のある年配の男性が一人、書物を読みながら静かに座っていた。
澄子が部屋に入ると、その男性はゆっくりと顔を上げ、温かな笑みを浮かべながら澄子を迎えた。
その笑顔は、どこか親しみを感じさせるもので、澄子の緊張を和らげてくれるようだった。
澄子は、その優しい笑顔に少し安心しながら、心の中で何が待っているのかを考えつつ、静かにその場に立ち止まった。
『あなたが澄子さんですね。ようこそ、剛徳寺へお越しくださいました』
澄子は、年配の男性の前に立ち、緊張しながらも深呼吸をした。
心を落ち着けようとするものの、自然と手のひらが少し汗ばんでいるのを感じた。
澄子は丁寧にお辞儀をし、相手に対して失礼のないように心掛けながら、自己紹介を始めた。
澄子:『はい、澄子と申します。初めまして、こちらで楽しくアルバイトをさせていただいております』
『初めまして。私はこのお寺の住職を務める福智桂之助です。夏の忙しい時期に来ていただき、本当に助かります』
桂之助は優しい眼差しで澄子を見つめながら話を続けた。
桂之助:『夏の忙しさにより、これまでご挨拶ができず申し訳ございません。澄子さんが頑張っていらっしゃると伺い、ぜひ直接お礼を申し上げたく存じます。中国からお越しになった参拝者が、お土産売り場の店員さんが中国語でご案内してくださったことに喜ばれていたと伺い、私も大変嬉しくて嬉しくて』
澄子は驚きと感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
澄子:『ありがとうございます』
桂之助は微笑みながら、机の上に置かれていた大きな包みを取り出した。
桂之助:『こちらはお礼の気持ちとしてお渡しする和菓子のスーパースター大饅頭でございます。どうぞお受け取りください。お疲れ様でございました』
澄子はその包みを受け取り、感激のあまり涙が浮かびそうになった。
澄子:『ありがとうございます。和菓子、大好です』
桂之助は暖かな声で答えた。
桂之助:『それは何よりでございます。どうぞ、ゆっくりとお楽しみくださいませ』
澄子は深くお辞儀をし、和菓子の包みを大切に抱えて僧侶と共に書斎を後にした。
澄子が書斎を出た後、僧侶と一緒に歩いていると、廊下で別の僧侶の一条楓芽とすれ違った。
楓芽は冷ややかな目つきで二人を見つめ、嫌味を吐き捨てるように言った。
楓芽:『このお寺の中で、一番知識が乏しい徳密さんが書斎に何のご用でしょうか。知識が不足しているだけでなく、感情的でミスも多く、良い点が見受けられません。これ以上、お寺を汚すようなことはお控えください。自分がお寺の中で知識が乏しい存在であることを何卒ご理解くださいよ。澄子さんも澄子さんですよ。こんな厄介者と一緒に居るなんて……』
その言葉に、澄子と一緒にいた僧侶の顔が真っ赤になり、涙が溢れ出した。
やがて堪えきれずに泣き出し、その場に立ち尽くしてしまった。
『ふわぁぁぁん!ふわぁぁぁぁぁぁん!』
泣き声は廊下に響き渡り、他の僧侶たちがその様子を見て嘲笑した。
澄子はその場に立ち止まり、毅然とした態度で前に進み出た。
その表情は冷静だが、その眼差しには決意がこもっていた。
澄子:『笑うのをやめなさい。相手がどう思うか考えて行動しなさい』
楓芽はその言葉に一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに冷笑に変わった。
楓芽:『私は一条楓芽と申します。どんなに頭が良い澄子さんであろうとも、私には絶対に逆らうことなどできませんよ』
澄子は無言で楓芽を見つめた。
その視線は鋭く、冷たい怒りを感じさせた。
楓芽:『な、何でございます、その目は?』
澄子:『……………………』
楓芽:『何かおっしゃったらどうですか』
澄子:『……………………』
澄子は変わらず無言のまま、楓芽を睨みつけた。
その鋭い視線に耐えきれず、楓芽は少しずつ後ずさりし、他の僧侶たちも一歩引いた。
その場の空気が張り詰め、緊張が走った。
楓芽は明らかに動揺し、声を震わせながら続けた。
楓芽:『な、なぜそのような目で見るのですか?わ…、私が間違っているとでも?』
澄子は静かに口を開いた。
澄子:『僧侶としての心を持ち合わせていない人に、教えを説く資格はありません』
その言葉に楓芽は何も言えず、顔を真っ赤にしてその場を去った。
他の僧侶たちも一瞬静まり返り、澄子の言葉の重みを感じ取っていた。
澄子:『負けないで、徳密さん』
泣いていた僧侶は涙を拭い、澄子に感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。
『ありがとうございます…、澄子さん。少し勇気が持てました。実は、私はテレビで楓芽さんに憧れて三重県から参りました。楓芽さんはテレビでも、実際にお会いしても、とても美しい容姿をお持ちですね。しかし、実際の性格は違いました……。この方がいらっしゃるお寺なら、私は一生を捧げたいと思っていたのですが、人の思いやりも、食事のありがたさも、言葉だけのものでした』
澄子は優しく答えた。
澄子:『責任が人の人格すらも変える時期があるのです。僧侶としての心を忘れてはいけないと判っていても、自分の心と向き合う時間が無い日常が続くと、余裕が無くなってお互いを支え合うことも他者を思いやる心も薄れていきます。きっと、楓芽さんも何か辛い事情があると思うので、どうか嫌ったり恨んだりしないでください。徳密さんは、どんな日常が待ち受けていたとしても他者を裁く僧侶にはならないでね』
徳密は静かに頷いた。
しかし、徳密の中の憧れの先輩への思いは粉々に砕け散っていたのであった。




