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伝説のバイト

蒼空の下、朝からお腹を空かせながら歩く一人の女性が居た。

最後の食事からは3日が経ち、ニート生活も2年目に突入した。

お金が尽き、とうとう仕事を探さねばならなくなった。


『働きたくない……』


藤原澄子(ふじわらすみこ)

20歳の無職で、何の目標も持たず日々を過ごしていた。


そんなある日、澄子は非常に特異な方法で初めての職場を選ぶことにした。

仕事を見つけねばならぬ澄子は、鬱々とした表情で足早に歩き始めた。


その途中、澄子の前にカラスがフンを落とした。

澄子はフンを落としたカラスを見つめ、カラスと目が合った。

カラスは飛び立ち、その飛ぶ先を頼りにバイト先を探すことにした。


カラスに導かれ、澄子はやがて霧がかった寺院の門を見つけた。

門には“剛徳寺”という文字が刻まれている。


澄子:『わぁ、立派な門』


澄子は吸い込まれるように門をくぐった。

剛徳寺の敷地内は静寂に包まれていた。

広い庭園には手入れの行き届いた木々や花々が咲き誇り、神聖な雰囲気が漂っている。

そこで教科書で目にしたあのスーパースターの銅像に突然出会った。

その銅像は太陽の光に照らされ、まるで神々しい姿をしていた。

澄子はその美しい光景にただただ見とれてしまった。

時間が止まったかのように、ただその銅像を見つめ続けた。

銅像は静かに佇み、その存在感はまるで物語から抜け出したようだった。

澄子はその姿が何を意味しているのかを考える余裕もなく、ただただその美しさに圧倒されていた。


その手前には道場があり、“弟子を殴ってはいけない、暴言を吐いてはいけない”という看板が立っていた。

それはスーパースターが残した言葉でもあることを澄子は知っていた。


周囲を見渡すと、お土産売り場を発見した。

澄子は興味津々で中に足を踏み入れた。


『いらっしゃ~い!』


店内から元気なおばあちゃんの声が聞こえてきた。


澄子:『お、おは……おはようございます……』


2年ぶりの外出の為、ぎこちない挨拶だ。

それでも、おばあちゃんは快く迎え入れてくれた。


『まぁ、よく来たねぇ。暑かったでしょう。今、冷たいお茶を入れてあげるから座ってて』


澄子:『あの……実はカラスでバイトを……いや、ここのお土産売り場で働きたくて……』


『あぁ、そうなの?ずっとバイト募集してたけど、ここの副住職さんが注文が多くてね…。皆落としちゃうの。だから休みが殆ど無くてね』


おばあちゃんは微笑み、澄子をお土産売り場の奥へ案内した。

仏具やお守り、地元の特産品が並んでいた。澄子は一つ一つを興味深く見つめた。


その後、椅子に座るようにとおばあちゃんに指示され、澄子は言われた通りに待った。


しばらくすると、福住職(33歳)と共におばあちゃんが戻ってきた。

澄子は慌てて立ち上がり、挨拶をした。


澄子:『お、おは……おはようございます…』


『おはようございます。副住職の明慶最蔵(みょうけいさいぞう)と申します。どうぞよろしくお願いします』


澄子:『……あ………はい…………』


最蔵:『お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?』


澄子:『藤原澄子です』


澄子は初めて聞く最蔵の声に、内臓が口から飛び出しそうなほどの緊張を感じた。


最蔵:『剛徳寺は、非常にこだわりの強いお寺でございます。ここで働くには、ただ商品を売るだけでなく、お寺の歴史や文化についてもご理解いただく必要がございます。まずは、寺院のことを学ぶことから始めます。よろしいでしょうか?』


澄子:『はい』


最蔵:『では、剛徳寺のお勉強セットを明日まで特別に貸し出しいたしますので、明日こちらにお越しいただき、ご返却ください。それから、明日お堂にてテストを行います。100点を取れましたら採用いたします』


澄子:『…………っえ?!?!?!?!…………は………………はい………………』


最蔵は分厚い本を澄子に差し出し、澄子は不安になりながらも受け取った。

ここのお寺は簡単にはバイトを受け入れないようだ。


その後、最蔵はお辞儀をしてから、さっさとお土産売り場から出て行ってしまい、澄子は動揺しながらも一端冷静になった。


『ここのお寺の歴史を一生懸命学んで、一緒にお店に並べる日をたのしみにしてるからね。頑張って』


おばあちゃんに応援された後、澄子は重たい本を抱えながらお土産売り場を後にした。

澄子の心は不安でいっぱいだった。


澄子:『面倒くさいなぁ……。明日、お返しして違うバイトを探そう……………………』


澄子は再びスーパースターの銅像とすれ違った。

しかし、今度は澄子に対して悲しげな表情を浮かべているように見えるではないか。

その銅像はまるで生命の輝きを失ったかのように、深い悲しみに包まれていた。

最初に見た時とはまるで別人のように、その表情は無残で何かを失ったような哀しさが滲んでいた。

その姿に立ち止まり、その変化に驚きと共に考え込んだ。

ここは履歴書一枚で簡単に受かる仕事よりもずっとやりがいがあるのかもしれない。

澄子は自分の努力や情熱を十分に活かせる場所で働きたいという強い意志が芽生えて夢を持った過去があった。

ただ仕事を得るためだけでなく、自分自身を成長させ、社会に貢献できる場を求める心からの願いだった。

だが、いつも簡単に受かり、飽きて辞める。

このやりがいのない生活が澄子を退屈にさせていたのだ。


澄子は、ふとスーパースターが最後に弟子に言った言葉を思い出した。

“志”とは何か、よく考えた。

その言葉が澄子の心の奥深くに残っていた。

そして、再びその銅像を見上げると、銅像から浮かび上がる表情が、まるで澄子の心を見透かしているかのように感じられた。

その眼差しは静かで穏やかでありながら、深い洞察力を秘めているように思えた。


そして、澄子は不思議なことに氣づいた。

澄子が持っている重たいお勉強セットが、どういうわけか暖かくなっていることに。

まるでそのセットが澄子の決意や思いを受け止め、応援しているかのようだった。

その温かさが、澄子の心を安堵させ、自分の選んだ道への自信をさらに強めた。


澄子は、今後もその銅像とのご縁を大切にし、その意味を深く考えることに決めた。

そして、自分の人生の中で迷いや挫折があっても、その温かさを胸に、進んでいく勇気を持ち続けることを誓ったのである。

そして、澄子は自分の可能性を信じ、挑戦する覚悟を決めた。

これから先の道は見えないかもしれないが、澄子は自分の決意を貫き、夢に向かって進んでいく決意を固めていたのである。


家に戻った澄子は、すぐに本を開き、寺院の歴史や文化について学び始めた。

その本にはお寺の起源から歴史的背景、仏教とお寺の密接な関係、お寺の建築様式と文化的役割、さらにはお寺や仏教の聖地としての役割や現在の課題まで、詳細に記されていた。

書かれている内容が非常に難解であり、何度も読み返さなければ理解できない部分も多かった。


澄子:『これって………、お土産と関係ないよね…………。お坊さんになれってこと?……………えーっと………』


澄子は頭を抱えながらも、一生懸命にお勉強を続けた。

夜遅くまで本を読み、ノートにメモを取りながら、眠気と戦いながらも、澄子はなんとか全ての内容を頭に入れようと努力した。

知識の山に取り組む苦労があったが、澄子の情熱と学ぶ意欲は揺るがず、深夜の静けさの中で学びを積み重ねていったのである。


そして、自分の人生がかかったテストの日がやってきた。

澄子は表情をキリッと引き締め、堂々と歩いていた。

緊張の色はどこにも見られず、むしろお寺のお土産売り場で働く自分を思い描きながら笑顔で門をくぐった。

スーパースターの銅像が、静かに澄子を見守っているようにも感じられ、澄子は背筋を伸ばしてテストが行われるお堂へ向かった。


途中で澄子は複数の僧侶とすれ違い、挨拶を交わした。

しかし、お堂に入るとき、ふと耳に入ったのは、僧侶たちの最悪なヒソヒソ話だった。

『頭が悪そうな女が来た』という言葉が漏れ聞こえ、容姿だけで澄子を決めつけるような冷ややかな笑い声が聞こえた。


澄子はその言葉に心が一時的に痛んだが、スーパースターの銅像の哀しい顔を思い出し、負けてはならないと自分に言い聞かせた。

澄子は平常心を保ち、自分の持つ力を最大限に発揮する決意を固めた。

それはただ自分を証明するだけでなく、偏見に負けず、自分の信じる道を進むための強い意志表明でもあった。


澄子はその後、心を込めてテストに臨み、持ち前の努力と知識を存分に発揮した。

その場で示した堂々とした態度と実力は、最終的には言葉以上に説得力を持って、周囲の人々に印象付けることになったのである。


なんと、テストで満点の成績を叩き出したにも関わらず、最蔵からは信じられない言葉を浴びせられた。


最蔵:『今回はご縁がなかったということで、不採用とさせていただきます。どうぞお引き取りくださいませ』 


と、最蔵は冷たく告げた。


澄子は言葉に愕然としながらも、その意味を理解しようと努めた。

自分の努力が空しく終わった瞬間だったが、スーパースターの銅像の顔を思い出し、落胆する余地などないと自分に言い聞かせた。


最蔵は言葉を続けた。


最蔵:『……というのは冗談でございまして、本日から研修員として働いていただきます』


澄子:『あ、ありがとうございます!』


澄子は最蔵の言葉に一瞬で理解が追いつかず、驚きを隠せなかった。

その後、喜びと安堵が澄子を包み込んだ。

最初の言葉に対する裏切り的な感覚が、澄子の内側を揺さぶったが、それは澄子が将来に向けた努力と信念の証明となった。


早速、最蔵からの注文が澄子に伝えられた。


最蔵:『まず、髪のスタイルは三つ編みのお団子にしていただきます。そして、剛徳寺のお土産売り場で働く者にしか付けることが許されない、こちらの剛徳寺専用の紫色のリボンを頭につけて働いていただきます。これは絶対に紛失しないようにお願いいたします。もしなくされた場合は、退職となります。それから、制服もご自身で洗い、ご自身でアイロンをかけてください。その際、しわ一つでもありましたら、やり直しをお願い申し上げます』


最蔵の指示に、澄子は少し驚きながらも、それを受け入れる覚悟を決めた。


そして、制服とリボンを手渡された。

それらは、澄子の手のひらにずっしりとした重さを感じさせるものであった。

制服の布地は厚みがあり、どこかしっかりとした質感を持っており、リボンもまた重厚感があり、質感からしてただの飾りではないことを物語っていた。


その重さが澄子に与えた感覚は、ただの物理的な重さではなく、これからの新しい役割に対する責任や期待の象徴のようにも思えた。

澄子はその制服を手に取り、これから自分がどのようにこの職務を全うしていくのかを考えながら、心の中で新たな決意を固めた。

リボンの重さも、澄子にとってはこれからの自分の役割を果たすための誓いのように感じられた。


最蔵とお堂から出る前に、澄子は一度仏像に目を向けた。

仏像はテストにも登場した観世音菩薩である。

静謐な姿で、深い静けさと荘厳さを漂わせている。

その姿は、澄子がこれからの新しい役割に臨むにあたっての心の支えとなるような、穏やかで力強い存在感を放っていた。


澄子はその観世音菩薩像に視線を合わせ、心の中で感謝の気持ちとともに、自分の決意を改めて誓った。

仏像の表情は変わることなく、ただ静かに澄子を見守っているかのようだったが、その視線の先にある無言の励ましを感じるようだった。

澄子はその瞬間、仏像の深い教えと静かな力に包まれるような感覚を覚え、心を引き締めると同時に、これからの仕事に対する覚悟を新たにした。


その後、澄子は最蔵と共にお土産売り場へと移動した。

売り場に到着すると、明るい声が店内に響いた。


『いらっしゃ~い!……あら、やだ、最蔵じゃないの。間違えちゃった』


最蔵は、その声を聞きながらも、冷静に対応した。


最蔵:『このようなお姿で来られるお客様はいらっしゃいませんよ……。それと、藤原澄子さんが今日から働くことになりましたので、髪の結び方とリボンのつけ方、制服の着付けから教えてあげてください』


その言葉を受けて、おばあちゃんは驚いた表情を浮かべながらも、すぐに気を取り直した。

店内の雰囲気が一層和やかになり、優しく澄子に向かって声をかけた。


『まぁ!合格したの?』


澄子は少し照れくさそうに頭を下げながら答えた。


澄子:『は、はい。実は歴史は得意分野なので、ここに初めて来た時に銅像を見て、あぁ、教科書にも出てきたなって懐かしんでました。ただ、大乗仏教も教科書に出てきたけど、仏教の奥の話が難しすぎて苦労しました』


おばあちゃんはその話を聞き、涙目になりながら澄子に微笑んだ。


『よく頑張ったね』


と、心からのお祝いの言葉をかけた。

その目には喜びと感動の色が浮かび、澄子の努力と成長を心から讃える気持ちが込められていた。


澄子はその温かい言葉に心から感謝しながら、これからの新たなスタートに対する少しの緊張を抱えて、スタッフの指導を受ける準備を整えた。

澄子の新たな挑戦が、店の人々と共に温かく迎えられる瞬間だった。


最蔵:『それでは、失礼させていただきます』


最蔵は深い礼をしてから、静かにお店の外へと出て行った。


澄子はその背中を見送った後、店内の雰囲気に溶け込むように深呼吸をし、おばあちゃんに促されて更衣室へと向かった。

更衣室の扉が開くと、優しく明るい光が差し込み、おばあちゃんが温かく迎えてくれた。


『さぁ、まずは髪のセットから始めましょう』


おばあちゃんは説明しながら、澄子に一連の作業を教え始めた。

澄子は鏡の前に座り、指示通りに髪を三つ編みのお団子に結び上げる作業を慎重に行った。

自分の手が自然に動く中で、おばあちゃんが時折アドバイスをくれ、指導の下、澄子は少しずつ自信を持って作業を進めた。


次に、剛徳寺専用のリボンを頭に飾り付ける段階に入った。リボンの結び方や位置の調整が難しく感じられたが、おばあちゃんの指導で次第に形が整っていった。

リボンが整えられるたびに、澄子はその重みを感じつつ、これからの新しい職場での役割を少しずつ実感するようになった。


その瞬間、澄子の胸には喜びと興奮が込み上げ、目の前に広がる新たな旅路が始まる予感を強く感じた。

鏡の中に映る自分の姿を見つめながら、澄子は自分がこの新しい環境に溶け込み、一歩一歩成長していく姿を心に描いた。


こうして、澄子の剛徳寺での新たな生活がいよいよ始まることを実感し、初日は緊張と不安の連続だったが、その心の奥底にはどこか満たされた気持ちが湧き上がっていた。

新しい環境での挑戦が、澄子にとっての新たな希望と成長の機会であることを深く感じながら、これからの毎日に向けて前向きな気持ちを抱いていた。


そして、いよいよ澄子は、おばあちゃんと並んで働く時間がやってきた。

準備が整い、制服とリボンが整った澄子は、緊張しながら店の入り口に立った。

店内には、訪れる客たちの笑い声や話し声が響き渡り、明るい雰囲気が広がっていた。


澄子はおばあちゃんの隣に立ち、軽く息を整えてから、開店の準備が整ったことを確認した。

おばあちゃんはその優しい目で澄子を見守りながら、微笑みかけてくれた。


『これからが本番だよ。初めてのお仕事だけど、一緒に頑張りましょうね』


と、温かい言葉で励ましてくれた。


澄子はその言葉に背中を押されるように、気持ちを引き締めた。

店内に入る客たちに対して、丁寧かつ笑顔で接客を心掛けることが、第一歩だった。

訪れるお客さんに『いらっしゃいませ』と元気よく声をかけ、商品についての説明をする場面では、心を込めて対応した。

この時、お勉強セットがこうして役立っていることに気づき、最蔵のこだわりに納得した。


時間が経つにつれて、澄子は次第に仕事に慣れてきた。

おばあちゃんと共に、店内の商品の補充や整理整頓を行いながら、客とのコミュニケーションもスムーズに取れるようになっていった。

最初のうちは手間取ることも多かったが、おばあちゃんの経験豊富な指導と温かいサポートに助けられながら、次第に自信を深めていった。


お昼の時間帯には、忙しくも賑やかな雰囲気の中で、澄子は一生懸命に働きながらも、

楽しさや充実感を感じていた。

おばあちゃんと並んで働くその時間は、澄子にとって大切な経験となり、仕事の中での喜びや達成感を少しずつ噛み締めていた。


一日の終わりには、店内が落ち着き、お客さんも帰った後に、澄子は達成感と共に一日の終わりを迎えた。

おばあちゃんが労いの言葉をかけてくれ、二人で今日一日の仕事を振り返るひとときが、澄子にとっての心温まる瞬間となった。

澄子は、初めての仕事が無事に終わったことを実感し、これからの仕事に対する期待と決意を新たにした。


そこにおばあちゃんが心からの労いの言葉をかけた。


『おつかれさま。また明日も宜しくね』


その声には、日々の疲れをねぎらう優しさと共に、澄子に対する期待と温かい気持ちが込められていた。


澄子はその言葉に微笑みながら答えた。


澄子:『おつかれさまです。またね』


と、感謝の気持ちを込めて応じた。

初めての仕事を終えた安堵感と共に、これからの毎日に対する期待と前向きな気持ちが滲んでいた。


二人はお互いに一日の労をねぎらい合い、店の片づけを終えた後、静かな店内を後にした。

外の空気を吸いながら、澄子は心の中で一日の出来事を振り返り、これからの仕事に対する意欲を新たにしていた。

明日もまた、新しい挑戦が待っていることを思い、静かにその日の終わりを迎えた。


夕暮れ時、澄子が店を後にすると、帰宅中の複数の僧侶とすれ違い、挨拶を交わした。

僧侶たちは口をぽかんと開けて澄子を見つめていた。


『バイト採用されたんだ……あの子…………』


『法華経を1日で全部覚えたらしい』


『あの見た目で?!私たちよりずっと天才ですね……………』


この会話が澄子の耳に届いていたが、澄子はどや顔をするわけでも見返してやったなどと思うわけでもなく、ただ無表情で前へ進んだ。

実は勉学には昔から自信があり、特に暗記は得意分野の一つでもある。

一度目にしたものは全て記憶に残せる能力があるが、これを澄子は他人に自慢をしたことは無かった。


そして、澄子は初めての夕方のスーパースターの銅像を見た。

スーパースターの銅像が夕日に照らされて、柔らかな光に包まれていた。

西の空に沈む太陽が銅像を黄金色に染め上げ、その立体的な姿はより一層鮮明に、そして神秘的に輝いていた。


その光景を見つめる澄子の心に、何とも言えない感動が込み上げた。

銅像の表情は、日が暮れるにつれて優しく柔らかくなり、まるで微笑んでいるかのような錯覚を覚えた。

夕日の光が銅像の顔を照らすたびに、どこか安心感と温かさを感じさせる笑顔が浮かんでいるようにも見える。


澄子はその光景にしばらく見入った。

銅像の周りに広がる夕焼けの空と、そこに映し出される銅像の姿が、澄子の心に静かな安らぎと力強い勇気を与えていた。

日が沈む中、銅像の姿は澄子の新たな挑戦に対する励ましのようにも感じられ、心の奥底から自然に湧き上がる前向きな気持ちを支えてくれているようだった。


この静かで神聖な瞬間に、澄子は今日一日を振り返り、これからの仕事への期待を胸に、また明日からの新たなスタートに向けて心を整えた。

銅像の微笑みとともに、澄子は穏やかな気持ちでその日の終わりを迎え、明日への希望を胸に抱いた。


ところが、家に到着すると、澄子を震わせる出来事が待ち受けていた。

ドアを開けると、ポストの中に目を覆いたくなるような手紙が差し込まれていた。

手紙には“アパートの家賃滞納につき退去命令”と大きく書かれており、青ざめた顔でその内容を読むと、心臓が締め付けられるような痛みを感じた。

すぐに状況の深刻さを理解した澄子は、急いで部屋に入ると、そこにはアパートの管理人が立っていた。


管理人は冷たい目で澄子を見つめながら、


『家賃の滞納が続いています。これ以上の猶予はありません。すぐに荷物をまとめて出て行ってください』


と、厳しい口調で告げた。

澄子の心臓は一気に高鳴り、体が震えそうになるのを抑えながら、必死にスーツケースに荷物を詰め込む作業を始めた。


荷物を急いでまとめている間、頭の中は混乱し、次にどうすればいいのか分からずにただただ焦るばかりだった。

部屋から一つ一つの物を取り出し、スーツケースに詰め込んでいくその手は震え、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。


スーツケースが満杯になり、荷物が整ったころには、すでに外は暗くなっていた。

澄子はそのスーツケースを片手に、行き場のないまま歩き出さざるを得なかった。

所持金は僅かに5円だけ。

これではどこにも泊まることもできず、食事をすることもできない。

心に浮かぶのは途方に暮れる感情だけで、どこに向かえば良いのか、どこで一夜を過ごすのか、全く見当がつかなかった。


実家は滋賀県にあり、両親とは絶縁状態であり、頼ることができるはずもない。

冷たい風が肌に当たる度に、澄子の心の奥底に深い空洞が広がっていくように感じた。

滋賀県の実家が遠くにあり、そこに帰ることができたとしても、両親との間に築かれた断絶の壁を越える方法は思い浮かばない。


街灯が点る寂しい夜道を歩きながら、澄子は無言でただひたすらに歩き続けた。

周囲の景色がぼんやりと見える中、スーツケースの重さだけが現実を突きつけるように感じられた。

澄子の心は、未来への希望が奪われ、ただただ無力感と失望に包まれる中、意識を取り戻しながらも、澄子はどうにか冷静さを保とうと努めたのであった。

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