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ヘイ、イッポ!

一人の男が尋ねた。「どうして、ボクサーなんですか?」

彼は、答えた。「詩人にはなれない。物語を語るやり方を知らないんだ…」

~ある世界チャンピオンへのインタビューより~


『ヘイ!イッポ!ロックンロールの準備はできたか?』

両手にミットを付けたジャックがリングの上から呼びかける…俺はリングを見上げる…ロープ三ラウンドにシャドー三ラウンド…汗でシャツが体にぴったりと張り付いている…

『ファック・ヤー!』

そう答えていそいそと拳をグローブにねじ込む…俺の拳…俺の夢…俺の野望…俺の希望…

ロングビーチ、カリフォルニア…ウェスト8thストリートとパシフィックアベニューの交差点近くに佇むジムの名前はDCボクシングジム…DCが何を意味するかは知らない…人に説明する時はウェスト7thストリート沿いと言うんだ…こっちの方が大きい通りだし…マクドナルドもあるから…LAには常に既に内包された瑕疵があるというが、ロングビーチはどうだろう…

ジムの正面はガラス張りで外から中を覗くことができる…中から外を眺める奴はいない…俺が知る限りは…小便臭いのはホームレスたちが壁に立ち小便するからだが…なぜ屋内まで臭いかは分からない…入口に貼られたチラシには“男女ともに歓迎”と書いてあるが、この八年間女の練習生を見たことはない…

ジムに入るとすぐにカウンターがあって…オーナーがいつでも必ず座っている…一見ムスッとしてて日々不機嫌そうだが…本当に日々不機嫌なのだろう…カウンターにはピカピカのグローブやバンテージが恭しく飾られ、売られている…ジムに通う貧乏人たちには無縁の代物…

ジム内をぐるっと見渡すと壁に掛けられたオーナーの若かりし日の写真が目に入る…プロボクサーだった頃の…栄光の日々の…まだ老いさらばえておらず、たまには機嫌がいい日もあったであろう過去の…皆彼のことを“クライスト”と呼ぶ…本名はジーザス…苗字はサンチェス…

中央には汚らしいジムには不釣り合いな立派なリングが鎮座していて…そばの壁には合衆国の国旗とカリフォルニア州旗が垂れ下がっている…国旗は黒ずんだ無数の斑点状のシミで汚れている…いつ、どうやってあんなところまで血飛沫が飛び散ったのか…なぜ綺麗な国旗に代えないのか…誰も知らない…おそらく知っているのはクライストだけ…ジーザス、なんてこった…奥には無数のサンドバックが吊るされていて、そのさらに奥に狭い更衣スペースと汚れたトイレと臭いシャワースペースがある…申し訳程度に筋トレマシーンも…あとは張り巡らされた鏡…すり切れたウェアを着たしみったれた己の姿かたちをいつでも見ることができる…鏡を覗き込むと必ず睨み返してくる負け犬の視線…思わず目を逸らすとジムの隅っこの錆びたロッカーが目に入った…誰も使っていないロッカーにはジムに来なくなった奴らが遺していった無数の練習道具が無造作に突っ込まれている…

ジャックが俺を見ている…このトレーナーの右目は俺を真正面から捉え、左目は左側にズレている…サルトルのような斜視…奴ほどおつむはよろしくないが、ボクサーにとっておつむの良し悪しなんて関係ない…自由の刑だの…本質に先立つ実存だの…リングの上では無意味だ…ジャックの両親はメキシコからの不法移民…俺より若い…プロだったが、スパーリングで左目の光を失った…そしてこのジムに堕ちてきた…今や一人のプロボクサーも所属しておらず、最後の興行から二年も経っていて、プロフェッショナルとしてリングに上がったことがあるのがクライストとジャックしかいないようなロングビーチくんだりの底辺ジムに…練習生はしけた貧乏人ばかりで…寛容なクライストに甘えて会費を滞納している奴らもいる…だが、仕方ないではないか…大半の奴らには安定的な雇用もなく…両親も文無しなのだから…プロ志望の中でそれでもモノになりそうなのはほんの一握りだけで、到来するはずのない栄光やまやかしに過ぎない希望にすがってどうにか生き抜いている負け犬たち…つまりは、この世のほぼ全てのボクサーたちと同じ境遇の負け犬…”ボクシングとは、他のあらゆるスポーツが憧れるスポーツなのだ”。

大晦日だというのに…ジムにはいつもの顔ぶれがしけた面でトレーニングに励んでいた…ボクサーとしての習慣…もしくはただの惰性だった…示し合わせたかのようにジムに姿を現し…淡々と普段通りの練習をこなす…表情には見せないが…自分と同じようにクリスマスにも大晦日にも行く当てのない孤独な仲間たちがいることを内心では喜んでいた…小便臭いしみったれた場所だったが…ここに来れば馴染みの顔に出くわせる…プロになり金を稼ぐ夢をあきらめた年を食った元プロボクサー志望の連中がいまだにトレーニングに現れるのは…そのためだった…

『よし、リングに上がれ、イッポ。』

“イッポ”というのが俺のあだ名だった…日本のボクシングコミックの主人公の名前…理由はいたってシンプル…俺が日本から来たから…在日朝鮮人だから純粋な日本人では無かったが、まあ、白人や黒人やメキからすれば日本人も朝鮮人も中国人もすべからくイエローなのだからどうってことはない…

左右の拳を胸の前でバンバンと叩きつけてからリングに上がる…息を切らせたシュガーが俺と入れ替わりでリングから降りる…輝く黒い肌に滴る大粒の汗…引き締まったミドル級の肉体…シュガーも俺と同じくプロ志望だった…だが奴はまだ十代と若く、俺はもう三十手前だ…俺は高校からアマチュアボクシングを始めて、二十一歳の時にアメリカに渡ってきてジムに入りプロを目指した…滑り出しは上々だった…俺は今と同じく練習熱心で、真面目で、今とは違って若かった…プロデビューを目の前に控えたある日…右目を網膜剥離でやられ、手術する羽目になった…右目が完全に回復し、再度トレーニングに励み、今度こそと考えていた矢先に今度は左目をやられた…またもや手術…そんなこんなで俺は年を食っていった…”俺は誰かのために待つ必要なんてない。自分が動きたい時に動くんだ”。すれ違いざまに俺とシュガーは目配せしあった…“OK”とシュガーの瞳が言う…中古で買ったぼろいグローブが目に入った…彼の拳と夢と希望を優しく包み込むグローブ…

”俺は、敵の鼻先を狙うんだ。ヤツの脳ミソの中に、骨を叩き込んでやろうと思うのさ”。ミットに拳を放り込む…まずは左ジャブから…左、右、左のダブル、ワンツー…徐々に回転を上げていく…軽量級の俺にはスピードが必要だ…ジャックが右手を上げる…そこめがけて右のショートストレート…続けざまに左フック、左アッパーのコンビネーション…一つ一つ確かめる…得意なコンビ…苦手なコンビ…もちろん大事なのはコンビネーションだけじゃない…足運びもだ…空間の制し合い…そして、呼吸…特に大事なのが呼吸だ…吸いすぎるな…吐きすぎるな…実戦では心理戦も加わる…手の内を見せ合う…もしくは隠し合う…そうか、お前にはソレが出来るのか…じゃあ、俺はコレだ…ラウンドも後半になると相手が切れるカードと切れないカードが分かってくる…もちろん逆もまた然り…その上で対峙する…スタイルが噛み合う相手もいれば噛み合わない相手もいる…俺はいつでもプロの試合を想定しながら練習する…準備は出来ている…明日にでもリングに立てる…今日でも、今すぐにでも…随分と遠回りをしたが焦りは禁物だ…俺は確信している…いずれ、近い未来に眩い光に照らされたリングで戦うことを…歓声と称賛と飛び散る汗と血と…そして金も忘れてはいけない…いきなり多くは稼げない…四百ドルからだ…だが、勝ち続ければミリオンも夢ではない…這いつくばって泥水をすするような生活ともおさらばだ…台無しになった人生をやり直して、家族や旧友にも堂々と会いに行くんだ…ひとかどの男として、自慢の息子として、そして何より誇り高いボクサーとして…

『モーゼス!準備はできてるな?』

ジャックは俺とのミットワークが終わるとモーゼスを呼んだ…モーゼスが猿のように俊敏な身のこなしでリングに駆け上がる…フェザー級なので俺より体はデカかったが、身のこなしは俺より軽やかだった…リングから降りようとする俺の目の前に立ちふさがった…

『デュード!』

そう言って満面の笑みを俺に向けた…十五かそこいらに見えるのはまだガキっぽさが残る幼い顔立ちのためだけではなくいい意味での幼稚な性格のためでもあった…先週二十歳になったばかりで自分ではいっぱしの大人のつもりだったし…周りからもそう見られそう扱われることを望んでいた…

『デュード、今日トレーニング後ヒマだよな?ラーメン食いに行こうぜ!な?』

息の上がっていた俺は何も言わずにモーゼスの顔を見た…

『よし!決まり!シュガーも一緒だぜ。』

モーゼスは嬉しそうに言ってウィンクした…

『モーゼス!さっさと始めるぞ。集中しろ!』

ジャックが注意する…モーゼスは注意力散漫で落ち着きがなかった…

『カッカすんなって、デュード。』

モーゼスがジャックの腹に軽くパンチを打ち込みながら言った…

『まったくお前ってやつは…。』

ジャックの苦笑い…リングから降りた俺はモーゼスを見上げた…人懐っこいメキシコ系で、クライストの孫…彼も俺やシュガーと同じプロ志望…俺たち三人はよくつるんでいた…俺たちは同じ目標を持つ仲間であり、一緒に馬鹿をする友であり、誰が一番早くプロデビューできるかを競うライバルでもあった…


『ヘイ!ウーバー!』

裏手の駐車場からおんぼろな車を回してきたシュガーに向けて声を張り上げる…シュガーはその手の冗談はうんざりだという風に眼球をぐるりと回した…“ワット・エバー”といったことろか…彼はウーバーで小金を稼いでそれをジムの支払いに充てていた…車を停めたシュガーが運転席の窓から腕を突き出す…ジムから出てきたモーゼスがシュガーの顔を指さしながら“ウーバー?”と尋ねる…ニヤニヤと笑いながら…

『さっさと乗れよ。』

シュガーはモーゼスのくだらない冗談を無視してぶっきらぼうに言った…俺たちは車に乗り込む…モーゼスはお気に入りの“ショットガン”に…俺は後部座席…いつもの配置…車中はなぜかいつも犬の匂いがした…シュガーは犬なんて飼っていないはずなのに…いつも不思議に思っていつも理由を聞いてみようと思うのだが、結局聞きそびれる…ま、今度聞くか…そう考え先延ばしにするのだ…毎日顔を突き合わせてるわけだしな…今日わざわざ聞く必要は無いか…多分明日か、明後日か…そうずるずると先延ばしにするのだろう…結局はみすぼらしい中年かもしくは枯れ果てたじじいになるまで聞かず仕舞いになるかもな…ワット・エバー…

いつからどのようにして三人でつるむようになったのかは覚えていない…いつの間にか自然に、ってところだった…だが俺たち三人が仲がいい理由は分かっていた…階級が違うからだ…近い階級の選手同士だと日々お互いを意識するし日常的にスパーリングもする…結果として抱く感情は殺意を伴う敵愾心か同性愛的な愛情のそのどちらか、もしくはその両方だ…友情とは程遠い…シュガーはミドル級、モーゼスはフェザー、そして俺はフライ…ちょうどいい愉快で凸凹な三人組ってやつだ…


『分かるか?大事なのは落下じゃなくて着地なんだ。』

トーランスに向かう車中でシュガーがつぶやくよう言った…なんの会話をしていたっけ…なぜ突然落下の話をするんだ…いや、着地の話か…外の風景を眺めながらぼーっとしていた俺はシュガーとモーゼスがそんな会話をしている理由が分からなかった…どうせモーゼスが思いつくままにしょうもないことを言ってシュガーがそれに付き合ってやっているのだろうが…

『ある男が、慎重な男だぜ、落下している最中、各階を通り過ぎながら、自分自身に言い聞かせるように繰り返すんだ。まだ大丈夫。まだ大丈夫。今のところは、まだ大丈夫。でもな、どう落下するかは問題じゃないんだ。むしろ問題はどう着地するかなんだ。』

シュガーの説明を聞いてもモーゼスは合点がいってないようだった…眉間にしわを寄せて困ったような、惑ったような表情をしている…

『「憎しみ」だっけ?いつ観たんだ?』

俺は助け舟を出してやることにした…

『やっぱイッポは知ってたか。知ってると思ったぜ。』

シュガーがチラッと俺を振り返って満足そうに言う…

『フランス映画だよ。二十年以上前の。』

責めるような目つきで俺を睨むモーゼスに教えてやる…仲間外れにされた気がして癪なのだろう…いつでも輪に加わっていたいんだ…

『なるほどね、古いフランス映画ねぇ。さすがミスタ・シュガー・レイは教養がありますなぁ。生まれも育ちもコンプトンの黒人とは思えませんなぁ。』

モーゼスが茶化すように言ってシュガーの肩を軽く殴った…シュガーは無視する…

『登場人物に黒人ボクサーがいてさ、いい役なんだよ。』

俺がニヤニヤ笑いながら言うとシュガーもニヤッと笑った…シュガーってのは本名じゃなかった…シュガー・レイってのは彼が尊敬する黒人ボクサーの名前で、そう呼ばれたがった…レナードとロビンソン…偉大なるチャンプ達…

『プロになって、大金稼いで、コンプトンなんてごみ溜めからさっさと抜け出してやるさ。』

シュガーが静かだが力強い口調で言った…口にはしなかったがろくでなしの両親からも逃げ出したいのだろう…モーゼスが後部座席を振り返って一瞬俺を見た…そしてシュガーの肩を少し強めに殴った…

『デュード、コンプトンから抜け出すのはいいけどよ、暮らすのはLA辺りにしとけよ。あんま遠くに行ったら俺たちがお前の面倒見てやれなくなるからな。』

シュガーはさっきからモーゼスの拳を優しく受け止めてやっていた…前言撤回だな…シュガーは、ミスタ・シュガー・レイはあんなどうしようもない親でも見捨てないだろう…優しすぎて、思いやりがありすぎるのだ…


ミツワ・マーケットにたどり着いた俺たちはフードコートで今しがた注文した豚骨ラーメンが出来上がるのを待っていた…ミツワ・マーケットはトーランスにある日本スーパーで、日本の食料品はもちろんのこと雑貨や家電まで何でも取り揃えていた…ここで買い物をしたことはほとんどない…俺には高すぎる…さっきチラッとテイクアウトのおせち料理を見たら三百ドルもしやがった…クソッ…いつかリングで金を稼いだら寿司やケーキを思いっきり貪り食ってやる…

大黒屋というのが俺たちの行きつけのラーメン屋の名前で…俺のバイト先でもあった…週四日は働いていた…週末なんかは一日中チャーハンを作り続ける…おかげさまでチャーハン作りの腕前だけは一級品だ…心底つまらんバイトだが、まかないのおかげで飢え死にだけは免れるし…店長の目を盗んで残った食材をかっぱらえる…ピンクの肌の太った白人がラーメンの汁がぽたぽた垂れるドギーバックを幸せそうに抱えている…痩せた黒人女が床に垂れた汁で足を滑らせる…いつもの光景…モーゼスが嬉しそうに笑う…

『イッポ!出来たわよ!』

女の声が耳に届く…マイだ…俺のバイト仲間…両親ともに日本人だが彼女はアメリカ生まれのアメリカ育ち…いわゆるバナナってやつだ…皮はイエローで実はホワイト…アメリカが未だに白人の国かは定かではないが…かつて一度として白人の国だったことがあるかすら分からないが…俺はそそくさとカウンターに向かった…

『ハイ、お待たせ。』

マイは笑顔で言いながら三つラーメンが載ったトレイを差し出した…

『ありがと。』

俺はぎこちなく日本語で答える…彼女は俺と話す時だけは日本語だ…なんとなしに隣のパンダエクスプレスをチラッと見やって視線を戻すとマイが俺を見つめていた…黒々とした長髪に少し丸っこい鼻と小さな眼…とびっきり可愛いというわけではなかったが愛嬌のある顔だと思う…とっさに視線をラーメンに落とす…頼んだ覚えのない味玉がスープに浮かんでいた…おいおい、味玉トッピングなんて、高級品じゃないか…

『私からの大晦日のサービスよ!いつもボクシングのトレーニング頑張ってるから、しっかり栄養摂らなきゃでしょ?』

味玉をじっと凝視しているとマイがそう言って俺の腕に触れた…温かさがありがたかったし、同時に迷惑だった…他者から向けられる善意が苦手だから…逃げるようにして二人が待つテーブルに戻るとシュガーはニヤニヤと笑っていて、モーゼスはヒューヒューとガキみたいに囃し立てた…

『確かマイだっけ?絶対お前に気があるよ、デュード。まだヤッてないのか?』

モーゼスがしょうもないことをほざいてマイに手を振る…マイも手を振り返す…

『俺だったらすぐヤるけどな。なあ、デュード?』

モーゼスはシュガーにそう尋ねると箸を中空に放り投げた…落ちてきた箸を器用にキャッチする…

『いいコそうじゃないか。興味ないのか?』

今度はシュガーだ…やれやれ…

『確かにいいコだけど、お互いそんなんじゃないから。』

味玉をサービスしてくれるなんて、なんていいコなんだろう…だが、万が一彼女が俺に気が合っても手を出すつもりはなかった…マイはまだ二十歳と若く、頭も良く、未来があった…彼女が通うUCLAで彼女に相応しい大学生の男と出会い…恋をして…そして…安定した温かい家庭を築く…それが彼女が得るべき輝かしい未来なのだ…俺も大学生だった頃があった…若くて…希望に満ちていて…未来は明るいと信じていた頃が…初めてアメリカに渡ってきた時は俺もまだ大学生だったのだ…一応関西の名門私大と目される大学の法学部生で…卒業前の一年だけの語学留学のつもりで軽い気持ちでこっちに来たのだ…ボクシングジムに入会したのはアメリカで友人ができればいいなと考えたからだった…高校でも大学でも部活でボクシングをやっていたからジムに入るのがよい気がしたのだ…そして、ボクシングにのめり込んでしまった俺は当初予定していた一年を超えても滞在期間をズルズルと伸ばし…大学を中退してプロボクサーを目指すようになっていた…初めの頃は学生ビザを持っていたがそれもとっくの昔に切れてしまい、今はビザ無しの不法滞在者だった…例えば、大学生の頃の俺に出会ったとして…俺の今の状態を伝えたとしても決して信じないだろう…”ボクシングを、ボクシングを超越した何かの象徴と考えるのは不可能だ。人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない”。

彼女は…マイは…俺のような負け犬と一緒になって人生を棒に振るべきではない…本来であれば俺なんて無視して生きるべきなのだ…ごちゃごちゃうるさい二人を無視してラーメンを啜る…油の浮いた大味なラーメン…胸やけ必至のジャンクラーメン…


『ちょっと飛ばしすぎじゃないか?』

モーゼスがシートベルトを締めながらビビり声で言った…一気に流し込んだラーメンが腹の中でシェイクされてる…シュガーが突然車を家に戻さないとと騒ぎ出したからだ…親が車を使うことになっているのをうっかり忘れていたらしい…珍しく焦っていた…いつもは冷静で落ち着いているのに…俺とモーゼスは気乗りしなかった…シュガーの両親がくそったれ野郎たちだと知っていたからだ…面を拝むのもごめんだった…生活保護で暮らしているドラッグ漬けのジャンキーども…

シュガーの家に着いたが糞どもの姿は見当たらなかった…代わりに今年七歳になるシュガーの弟が玄関先に座り込んでいた…

『二人は?』

シュガーの質問に弟は大音量の音楽が鳴っている家をチラッと振り返って無言で首を振った…つまりは…そういうことなのだ…大晦日に幼い息子をほっぽってドラッグをキめている救いようのないジャンキーども…だが…奴らの気持ちも少しは理解できる…何もいいことがなかったクソッタレな一年が終わろうとしており…何の希望もないシミッタレた新年が始まろうとしているのだ…シラフでいられるはずがない…俺も一歩踏み外せば奴らと同類に堕ちえるのだ…プロボクサーになり大金を稼ぐという儚い夢にどうにかこうかしがみついているだけ…いずれは厳しい現実を思い知らされると薄々は気づいているのだが…見て見ぬふりする…

『ヨッ!シュガー・ジュニア!さあ、来い!』

モーゼスがシュガーの弟の目の前に立ち両手の手のひらを突き出した…弟はパッと笑顔になり立ち上がってモーゼスの手のひらにパンチを繰り出した…左ジャブ、左フック、右ストレート…モーゼスに懐いていた…俺には全くだったが…子供は苦手だったから懐かれても困るが…飛ばして帰ってきたが無駄だった…あのゴミ屑どもはトリップ中さ…運転なんてできる状態じゃない…いや、むしろ運転して事故って死んじまえばいいんだ…シュガーのために…シュガー・ジュニアのために…以前シュガーが言っていた…機嫌が悪いと両親は弟をいたぶるのだと…シュガーがヘマしたとしてもそう…お鉢を食うのは弟だ…シュガーは体も大きく強い…くそったれな生ゴミどもが狙うのは弱いやつだ…俺はチラッとシュガーの弟を見た…貧乏くさい服…ボロボロの車のおもちゃ…みすぼらしい姿…”闘うとき、人は、ただひとつのことのために闘う。金のためだ”。


俺たち三人は気晴らしに車を置いてぶらつくことにした…天気はいい…いつものように…カリフォルニアの空…まだ日も高い…今日のコンプトンは父を探す息子が彷徨うことになる生者と死者が混交する町のようだった…

『こうやってあてどもなくなくぶらついてるとさ、なんだか「憎しみ」の三人組みたいじゃない?』

ふと思いついたことを言ってみる…別に誰かの返事を期待していたわけじゃない…ただただ頭に浮かんだことを口に出しただけ…

『確かにな。俺たちは奴らに似てる気もするよな。』

シュガーが頷く…

『またフランス映画の話かよ。学のあるデュードだな、まったく。で?その三人組はどうなるんだ?』

俺はシュガーと目を合わせる…だが何も答えない…モーゼスも返事がないことを気にしているようには見えなかった…

『お、そうだ。吸う?』

ポケットからマリファナを取り出す…ちゃんと法的手順を踏んで手に入れたやつさ…わざわざクリニックでセクシーなメキシコ系の女医に処方箋を書いてもらって購入した“医療用”マリファナ…デビュー戦のために取得しておいた社会保障番号が役に立った瞬間だった…もちろん天然で…“初心者”用…巻いて、火をつけて、煙を肺に送り込んで、少し留めて、ゆっくりと吐き出す…それを何度か繰り返し、シュガーに渡す…シュガーも吸って、吐いて、今度はモーゼスに手渡す…また俺の手元に戻ってきて…次はシュガー…モーゼス…何周かするうちに気分が高まってきた…カリフォルニアの太陽を浴びながら吸うマリファナは至福だった…できればぬるいビールで煙をさらに体の奥深くに流し込みたかった…なぜかカリフォルニアの太陽と初心者用のマリファナとぬるいビールはよく合うんだ…だが最近酒は断っている…飲んでいいのは月に一度だけ…ボクサーなのだから、体調管理は大切だ…モーゼスがクックックッと意味もなく笑いだす…シュガーもつられてクスクスと抑えた笑いを発する…俺は束の間我慢するがついつい噴き出してしまった…シュガーもモーゼスももう堪えきれない…笑いの奔流…炸裂…お互いに肩をバシバシと叩きあう…頬を伝う涙を感じる…笑いすぎたのだろう…モーゼスの息遣いが荒い…酸素をもっと、もっとだ…遠くからラッパの音が鳴り響いてくる…祝福だろうか、警告か、終焉か…だがラッパにはミュートのシンボルがついていた…いつものパラノイア…カリフォルニア特有の…競売と叫び…デュード…


『レディーーーース・エン・ジェントルメン!』

モーゼスが大声を張り上げる…コンプトンの道端で…人目もはばからず…

『さあ!ここラスベガスのMGMグランド・ガーデン・アリーナで、我々が待ち望んだ瞬間が訪れようとしています!』

シュガーと俺はケタケタと笑いながら大きな拍手を鳴らす…ついでに口笛と…野次も…

『今夜!私たちは!歴史の目撃者となる!』

モーゼスが一瞬沈黙し酸素を思いっきり吸い込む…俺たちはかたずを飲んで待つ…

『イッッッッッツアーショーーーーーターーーイム!!!!』

巻き起こる大歓声…俺たちの脳内には光り輝くMGMのリングと大観衆が…眉間がドクドクする…アドレナリンだ…もちろんマリファナも…

『さあ!選手の入場です!』

『青コーナー、WBCミドル級チャンピオン、我らがアニマル、ジェイソン・“シュガー・レイ”・フィンリー!!!!』

モーゼスのアナウンスとともにシュガーが両腕を空に高々と突き上げる…リングを取り囲み声援を送る観客たちにお辞儀をする…

『赤コーナー!IBFフライ級チャンピオン!日出る国より来るラストサムライ!ミンジュ・“イッポ”・キム!!!』

リングイン…俺たちを照らす眩いライト…俺たちを包み込む大声援…愛情のこもった尊敬の眼差し…そして大金…うなるほどの…コンプトンの路上で見る白昼夢…甘美で、そしてどこか残酷で…”俺は、ボクサー…歩き、話し、闘いのことを考えるボクサーだ。だが、そう見えないように努力している”。


まあまあ、人間ってほんとあちこち行けるものなんだな…俺は空を見上げながら小声で呟いた…汗をかいていた…じっとりとべったりと…季節は十二月だったが…不思議なことに八月の光が降り注ぐ…ほんと遠くまで来たものだ…乾燥した熱気が俺たちを優しく包む…俺たちはどこまで歩いていけるのだろうか…ふた月もあればアラバマからテネシーまでは…

『おい!テメエら!目障りなんだよぉ。負け犬どもがぁ。』

俺たちに向けられた罵声がするほうに視線を向けると…三人組の黒人の若者たち…上半身をはだけさせてタトゥーを見せつけている…ズボンは腰までずり下がっている…あれじゃあ戦いづらいだろうに…俺たちは無視することにした…面倒ごとはごめんだ…ギャングスタ気取りのガキども…

『無視すんじゃねえよ、チビのチャイニーズ野郎がぁ!イエローモンキーがなんで俺たちの町にいるんだぁ?コンプトンは俺たちニガーの町だ。薄汚い黄色い顔がぶらついていい場所じゃねぇんだよぉ!』

三人組が通り過ぎようとした俺たちの前に立ちはだかって怒鳴る…教養のないアメリカ人たちはアジアには中国人しかいないと信じているようだった…中国人と呼ばれるのにもイエローだと馬鹿にされ罵倒されるのにも慣れていた俺は特に何も感じなかった…

『おい!今なんて言った?』

シュガーが怒気のこもった声を上げた…その迫力に相手の三人組は一瞬たじろいだ…モーゼスがシュガーをたしなめるように“デュード…”と小声で声を掛けた…シュガーの横顔を見る…瞳には憤怒の炎が燃えていた…

『なんだよ、ニガー?てめえニガーなのにそのイエローの味方をするってのか?え?』

三人組のリーダー格らしい黒人が強がって言い返したが、ビビッて声が裏返った…小者が調子に乗っている姿は確かにダサすぎる…

『俺の友達にそんな口の利き方をするな。』

静かだが殺気のこもった声でそう言うとシュガーは一歩前に踏み出した…ギャングスタもどき…つまりつまらんチンピラどもは一歩後退した…足が震えている…俺はモーゼスと目配せしてシュガーに続いて奴らに一歩近づいた…

『てめっ…』

『黙れぇ!』

チンピラが何か言おうとしたのをシュガーが一喝して黙らした…シュガーが更に前進し、俺たちは後に続く…三人組はじりじりと後退する…子分格の二人は今にも泣きだしそうだ…よくよく見るとシュガーやモーゼスより若そうだ…十五、六ってところか…嫌な予感がした…俺はともかくシュガーに対してこんな餓鬼どもが強気だったのには理由があるはずだ…例えば…

『それ以上動くなぁ!』

情けない叫び声をあげたリーダー格が背中に回していた手をシュガーに向けて突き出した…その手には…まずい…追い詰めすぎたんだ…一気に全身から汗が噴き出した…奴の手には不気味に黒光りする小型拳銃が握られていた…俺たちより半歩前にいるシュガーの表情は見えない…モーゼスをチラッと見る…大粒の汗をぽたぽたと垂れ流している…俺もそうだった…ごくりとゆっくりと唾を飲み込んだ…俺たちはみな静止していた…永遠にも思えるような一瞬…シュガー、大事なのは着地って言ってただろ…落下ではなく着地だと…俺たちはしくじったぜ…着地に…さっきまで震えていたリーダー格の目は座っていた…いつの間にか震えも止まっているようだった…しっかりと引き金に指をかけていた…しくじったんだ…くそっ…「憎しみ」から何も学ばなかったからだ…チクショウ…俺は慎重に、目立たぬようにゆっくりと右足を半歩引いた…左足に少し重心をのせる…拳を優しく握りこんだ…強く握りこむのはミートの瞬間だけだ…拳銃を握るリーダー格の胸元を見る…見つめるのではなくそこを中心として全体を広くぼんやりと見るんだ…これで全身の動きを見逃さない…汗は止まっていた…大事なのは呼吸だ…吸いすぎず、吐きすぎず…俺は冷静だった…相手をよく観察し、その瞬間を待つ…”蝶のように舞い、蜂のように刺せ。目で見ることができないものは手で打つことができないんだ”。太陽が眩しかった…俺はまるで異邦人のようだった…今までそう感じたことはなかったのに…頭の中で一発の銃声が響いた…そして、少し間をおいて四発…血が噴き出し、倒れこんだアラブ人の見開かれた瞳に光はなかった…ムルソーはこう言うだろう…太陽が眩しかったから、と…

『お前ら何やってるんだ!』

通りかかった車から黒人のおっさんが怒鳴った…その怒声で魔法が解け、俺の意識は現実に引き戻され、時間が正常に流れ始めた…チンピラ三人組と俺たちは逆の方向に全力で駆け出した…

十分以上は全力疾走で逃げ続け、やっと立ち止まった時には俺たち三人は全身汗だくでぜえぜえと肩で息をしていた…モーゼスが苦しそうに咳き込む…走り込みが足りてないな…三十近い俺より体力がないなんて情けない…数分間その場で息を整えてからお互いの顔を交互に見やった俺たちは大きくため息をついた…

『まったく…、モーゼスが海を割れればこんな苦労をせずに済んだのにな!』

俺がしょうもない戯言を言うと、まずはシュガーがクククと静かに笑い始め、モーゼスもハ、ハ、ハとぎこちなく笑い始めた…俺たちは肩や腹をお互いに殴り合いながら笑い続けた…三人一緒にいれば俺たちは無敵だった…


俺たちはそれぞれ帰路についた…カーソンの安アパートに帰ると、アデルが安物の赤ワインですでにでき上がっていた…貧乏なフランス女だった…不細工で…体つきは貧相で…だが白人女だった…その上、ブロンドだった…染めた偽ブロンドではなく正真正銘生まれ持った本物のブロンド…なぜか腰から尻にかけてのラインだけはセクシーだった…

『あら、お帰り。ピュタン!アンタ、なんか汗臭いわよ。』

アデルが顔をしかめて吐き捨てるように言った…

『いやぁね、まるでアラブ人みたいに臭いわ。』

アデルはそう言うとクスクスと笑った…この女は生粋の反アラブ主義者だった…人種差別主義の売女…俺が軽く睨みつけると何食わぬ顔でグラスのワインを飲み干した…

『なぁに、その視線は?アンタはアラブ人を知らないからしたり顔で“中立”ぶれるのよ。ピュタン!フランスにうじゃうじゃいるアラブ人たちは白人女をレイプする事かフランスから金を巻き上げることしか考えてないのよ。奴らがどんなに凶暴で野蛮か知ったらアンタも私に同意するはずよ。』

そこまで一気にまくしたてると“フンッ”と鼻を鳴らした…なしくずしの死がお似合いのくそ女…この女と知り合ったのはコレアタウンのカフェで毎週木曜日に開催されている日本語と英語のランゲージエクスチェンジのイベントだった…アデルが初めてイベントに参加した時に男たちは色めき立った…孤独な日陰者しか集まらないこのイベントに白人女が顔を出すのは珍しかったから…俺とアデルはすぐに意気投合した…同じ年だったし…それに彼女は少し日本語を話せたし、俺は少しフランス語を話せたから…スイシュ・モア・ラ・ビット…俺のアレをしゃぶってくれ…二次会の韓国料理屋で俺たちは韓国焼酎を何ショットも飲んだ…

『私はパリ郊外の出身だけど、子供の頃は私の町には純粋なフランス人しかいなかったの。でも今は全く違うわ。変わったの。今は私たちの町は色黒の移民たちだらけよ。変わったのよ。何もかも。故郷に戻って歩いていると移民たちが私の事を見てるのよ。どこに行ってもそう。白人が珍しいのかしらね。笑っちゃうわよね。もともとはあそこは私たちの町だったのに。今は私たちが異邦人みたいなんだもん。』

アデルはレイシストにならざるを得なかった言い訳をぶつぶつとほざいていた…そしてゴホゴホと苦しそうな咳をして赤ワインの瓶を空にした…今日一日で何瓶飲み干したのだろう…どうしようもないアル中女…アデルはイベントで俺と知り合った直後に同棲していた彼氏に捨てられて無一文で家を追い出された…頼る人のいなかったこの女は俺のボロくて狭いアパートに転がり込んできた…俺たちはもちろんカップルじゃない…そんなの願い下げだ…アデルもそうだろう…この女が俺のを咥えるのは家に置いてもらっている恩があるから…ただのギブアンドテイク…愛情はない…同情なら少しはあるが…アデルは俺を見下している…孤独な彼女には己を保つために見下す相手が必要だ…ラーメン屋でバイトしている三十近いプロボクサー志望なんて見下し放題じゃないか…アデルと過ごすうたかたの日々…もしくは日々の泡…無為で無常な時間…

『ま、でも彼らのおかげでフランスにはケバブがあるのは事実よね。それだけは感謝しないと!』

無邪気に叫んでケタケタと笑ったアデルは次の赤ワインの瓶の蓋を開け始めた…

薄汚れた寝室に入ると部屋に充満した奇妙な匂いで涙が出た…俺は趣味で石鹸を作っていた…石鹸を作るための薬品は、人を殺せる劇薬だった…俺のこだわりは味だった…チョコ味、ミント味、オレンジ味、等々…豊富なバリエーションから選べる味付き石鹸…石鹸なので当然食べられないが…腹を壊す覚悟があれば別だが…ボクシングと石鹸作りとバイト以外に何もしてない人生…それが俺の人生だった…”言いたくない。だが、ほんとうのことだ…痛みを感じ始めると、ボクシングが、ますます好きになるだけの話さ”。


リビングのカーペットについたアデルの吐しゃ物を洗うために時間を取られた…あの女は何が悲しくて毎日毎日吐くまで飲むんだ…酒を飲んだところで惨めな人生から逃れることはできないのに…ふと時計に目をやると二十三時五十九分だった…新年の幕開けまであと一分…

『助けてくれ、ジョー・ルイス!俺を助けてくれ、ジョー・ルイス…。』

酔い潰れているアデルに新年の訪れを告げようとしたその瞬間、どこからともなく悲痛な叫びが聞こえてきた…パッと背後を振り返る…誰もいない…救いと赦しを乞うあの声は…ただの幻聴だろうか…それとも…俺自身の叫びだろうか…俺はそのまま無言でソファに腰かけた…薄暗い窓の外に一瞬視線を向けてからテレビをつけた…年明けのカウントダウンが始まったところのようだった…俺は新年のカウントダウンが気に食わなかった…なぜかリングで聞かされる屈辱のテン・カウントを想起させるから…敗北を…夢の終わりを…ボクサーとしての…男としての死を意味する…テン・カウント…テレビの画面に映し出される夜のLA…煌々と輝く光も見えるが…俺たちの旅は、俺の旅は、あくまで、夜の果てへの旅だった…


『デュード!イッポ!』

昼前にジムに行くと、モーゼスが待ち構えていたかのように俺に声を掛けてきた…いつも通り騒々しい奴だ…新年なのだから…まずは“ハッピー・ニュー・イヤー”の挨拶くらいできそうなものなのに…

『おう、おはよ。』

俺は欠伸を噛み殺しながら答える…アデルとワインを飲みすぎたようだ…

『シュガー見なかったか?』

『え?いや、見てないけど。まだジムに来てないんだ?珍しいな。』

俺はそっけなく返事した…彼は確かに毎朝几帳面に決まった時間にジムに現れたが、いつもいつもそうだとは限らない…寝坊したのか、金が必要になって急遽ウーバーで小金を稼ぐことにしたのか…

『マリアとデート中かもな。』

マリアはモーゼスの姉の名前だった…適当なことを言いながら着替えるためにジムの奥に向かった…モーゼスもついてくる…なんだっていうんだ…俺の着替えが見たいのか…

『変なんだよ…。メッセージ送っても返事が来ないんだ。なあデュード、あいつらしくないだろ?』

モーゼスはシュガーの彼女かなんかにでもなったつもりなんだろうか…虫食い穴だらけの茶褐色に変色したトレーニングウェアに着替えて付きまとうモーゼスを適当にあしらいながら準備を始める…

『イッポは冷たいな、マジで。』

『さっさと練習始めろよ。』

シューズを履き、バンテージを巻いて、ストレッチを始める…モーゼスは何かぶつぶつと言いながらシャドーをやり始めた…三ラウンドのロープが終わり、鏡の前でシャドーを始める…ジムの骨董品のような電話機が突然鳴り出した…けたたましい呼び出し音が頭を襲う…クライストがカウンターに手を伸ばし電話を取る…そしてぼそぼそと話し始めた…モーゼスはサンドバックを雑に殴り始めた…身が入ってない…グローブすらつけてない…あれではクライストに小言を言われるな…電話を切ったクライストは丸々一ラウンドの間押し黙っていた…そしてラウンド終了のゴングが鳴ると同時に両手をパンパンと二度叩いた…乾いた音がジム中に響き渡る…

『シュガーだが…』

そこまで言ってゴホゴホとせき込んだ…痰を思いっきり地面に吐いてからまた話し始める…

『シュガーはもう来ない。ドラッグでイカれた親が弟を庇おうとしたシュガーを撃ち殺した。』

静かにそれだけ言ったクライストはカウンターから離れてリングに向かってよぼよぼと歩き出した…サンドバッグを殴っていたモーゼスを見やると…足元を見つめながら“ファック”と諦めたように呟いた…ラウンド開始のゴングが鳴る…モーゼスが無茶苦茶にバッグを殴り始める…”誰しも顔を殴られるまではプランがあるんだ”。クライストがリングサイドの壁に掛かっていたシュガーのグローブを手に取ってジムの奥に歩みを進める…中古で買ったボロボロの夢の詰まったグローブ…俺は沈黙したままクライストの動きを目で追った…ジムの隅っこの誰も使っていない錆びたロッカーにグローブを優しくそっと置くと小さく溜息をついた…ジムに来なくなった奴らが遺していった無数の練習道具が無造作に突っ込まれているロッカー…栄光を夢見たものたちの挫折の神殿であり破滅の祭壇…あるものは逃げ、あるものは怪我で、あるものは死に…”俺が試合中にガードを下げずに高く掲げるのは、それが神に対する祈りだからだ”。祈りとは手紙…投函されなかった、だからこそ必ず宛先に届く手紙…

『ヘイ!イッポ!ロックンロールの準備はできたか?』

両手にミットを付けたジャックがリングの上から呼びかける…俺はリングを見上げる…ジャックの斜視の瞳には光が無かった…俺の瞳も同じだろう…無理やりグローブに拳を捻じ込む…ボクサーなのだから…喉の奥から声を絞り出す…

『ファック・ヤー!』

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