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ハレの日

雨が夜を駆けて行く。人々は駆け足で帰路に着く。雨だからだろうか、大晦日だからだろうか、と安全地帯で眺めながら思う。チェーンの喫茶店窓際、お供には二百五十円の珈琲。いつもはスマホを弄ったり本を読んだりしているが今日は何もする気が起こらず、ぼんやりと外を眺めている。普段はパソコンをカタカタ打つサラリーマンや勉強しに来ている学生、甘い高校生カップル、ネズミ講の勧誘など様々な人の波が揺蕩っているが、流石に大晦日と言うこともあり、人はまばらだ。良く隣り合わせになるおじさんも今日は家族と共に家で温かい蕎麦でもすすっているのだろうか。

多くの人は大晦日休みだろうが、私は今日も仕事だった。ショッピングモール内の雑貨屋店員は土日祝日関係ない。むしろ今日みたいな日の方が忙しいのだ。冬休みで浮かれる人々を尻目に接客する。十九時に仕事を上がったが真っ直ぐ帰る気が起こらずだらだらと珈琲を飲んでいる。結婚している妹が幅を利かせる実家に帰る気もせず、今年は一人過ごすお正月だ。

同じ店のアルバイトの女の子は家族でご飯を食べるそうだ。店長は恋人と鍋をつつくらしい。私は一人で何を食べようか。窓の外を眺めても何も食べたいものが浮かんで来ない。


バタバタと店員が行き来する。カウンター内に目を向けると片付けが始まっていた。そうか、今日は二十時半閉店だった。皆早く帰りたいのだろう、いつも以上に早足な片付けだ。私の職場であるショッピングモールも人々の帰宅熱でむんわりしていたことが頭をよぎる。

お店の片付けが始まると妙にそわそわしてしまう。早く帰れと言われている訳ではないのに帰らなくてはならない気持ちになるのだ。十七時に町に響き渡るチャイムの音の急き立てにも似ている。小学生の頃はチャイムの音の後も遊んでいると妙にそわそわしてしまったものだ。

冷えて底に残っている珈琲を飲み干し、カウンターに下げる。やる気のない「ありがとうございました」に見送られ店を出ると、もうあたりは真っ暗で霧雨がコートに降り落ちた。コートの襟をぎゅっとかき集め、小走りで駅に向かった。

駅のホームはまだ遅い時間でもないのにぽつん、ぽつんと人が立っているだけだった。二十代仕事終わりみたいな恰好をしている人は私くらいだ。頭が守られた代わりに冷たさが足元と心を走る。

電車に乗り角の座席に座ると温い空気が体を包み緩やかな睡魔がしなだれかかって来た。身を任せ、目を瞑ると頭の中までほやほやと侵食してきた。


ふっと気付くと隣の人は女性からおじさんに代わり、電車のドアが開いていた。ああ、ここはわたしの降りるべき駅の先の駅だ。降りてみると次の電車まで二十分ほどある。冷たい風に晒されて待ち続けるのはしんどいなあと思い、改札口をくぐった。

グーグルマップで自宅までの道を調べてみると徒歩三十分くらい。雨も止んでいる。よし、と心を決め一歩歩き出した。


グーグルマップが言う道は住宅街だった。温かな光が灯る家々。どこもかしこも暖かそうだ。てくてく歩いているのは私くらい。なんだか面白くて気付いたら鼻歌が漏れていた。角をかくんと曲がったら外向きのぽつんとした明かりが目に飛び込んで来た。なんだろう。近づいてみると軒先の光に照らされ玩具みたいにてらてらした色の林檎が鎮座している。私はその赤から目が離せなくなった。つらりと並ぶ林檎の一つを手に取ると程良い重みが掌に広がる。店の中に入ると柔らかな橙の蜜柑、可愛くお行儀良く並ぶ苺、小さくとも香り立つ柚子……、どれも美味しそうなのだけれど私には掌の上に佇む林檎しかつれあいに選ぶ気が起こらなかった。

店の奥、置物みたいに座るお爺さんに声をかけ、百二十円払って林檎を買う。林檎を買ったのなんて何年振りだろう。鞄に入れるのがもったいなくて両手の掌できゅっと包み込んだ。掌に林檎の丸みを感じながら帰路を歩く。そっと林檎を覗き込むとてらてらとした輝きは消え、暗闇に同化していた。これはさっきと同じ林檎なのだろうか。試しに鼻を近づけてみると甘い香りがする。齧ってみるとしゃくりと小気味良い音とともに甘味と天然の水分が口いっぱいに広がった。しゃくり、しゃくしゃく。幸いにもこんな日のこんな時間に歩いているのは私くらいだ。裏路地を駆使して歩きながら林檎を齧る。暗い色に染め上げられた林檎は甘味だけを私の下に残して私のお腹へと嚥下されていく。林檎の芯だけになる頃には自宅付近に到着していた。


階段を四階分上がり、自宅の鍵を開ける。誰もいなくひんやりとしたいつもの家、でも今日は手に林檎の芯がある。芯を持ったまま鞄を投げ置き暖房をつける。ソファーに身を委ねテレビを付けるとけたたましい笑い声が響いた。チャンネルを回すと流行歌や格闘技、ワイドショー……、様々な人の声が溢れ出てくる。大晦日らしい歌番組にチャンネルを固定するとぼんやりと耳に音か飛び込んでくる。昔は知っている曲ばかりだったのに今は知らない曲ばかりだ。私が盛り上がっている横で親はこんな気持ちだったのだろうか。

ふと思い立って林檎の芯をテレビの前に掲げてみる。齧り尽くされ今や芯と種だけ。その先で可愛らしい衣装に身を包んだ女の子たちが踊っている。どんなに着飾っていても可愛らしくしていようと人間は芯が大事なんだ、今思えば偉そうな事を言っていた男の顔が頭に浮かんだ。

私が制服から脱皮したてのほやほやの頃、先輩として彼に出会った。同い年の男の子にはない大人びた言動に私はころっと心を持っていかれた。髪を似合わない色に染めてみたり、美味しくもないお酒を飲んでみたり。大人なあの人に近づきたくて慣れないことをたくさんした。精一杯背伸びして、あの人に近づいて、告白して。お付き合いして、でもその頑張りは無理に変わり結局は青い恋として弾け飛んだ。付き合っている間、ある時その言葉を言われたのだ。どう言う文脈で言われたのか全く覚えていないけれどこの言葉だけは頭の片隅に座り込んでいる。私には芯がないのか。果たして人間の芯とはなんなのか。林檎の芯みたいにはっきりと見えたら良いのに。

「人間の芯なんてなんなんだろうねえ」

一人つぶやいた声が部屋に漂いテレビの音に掻き消された。


気付くと除夜の鐘がなっていた。知らないうちにうたた寝していたらしい。ゴーンとテレビから音がし、年を超えていった。うーむとひとつ伸びをする。思い立って窓を開けるとすぅっーと冷たい風が流れ込んで容赦なく部屋を冷やす。ベランダに出て大きく深呼吸すると肺が冷たい空気に満たされた。部屋に戻りベランダの窓をぴっちり締め、コートを羽織り財布をポケットにつっこむ。くるくるマフラーを巻いて外に出ると冷たい風が頬を撫でた。今は妙に心地よい。

足を向ける方向は知っている。この町で一人暮らしを始めて三年。この町についてなんてお茶碗一杯くらいしか知らないけれど、今目指す場所はわかる。あたりは静まり返り、私のブーツの靴音だけが響く。

二十分も歩いていると人の喧騒と祭りの賑わいが緩やかに漂ってきた。自然と私の靴音も早まる。神社の前は鳥居まで人が列を成していた。私もその列を成す一群の一人となる。列は大きな蛇のように地を這いゆったりと進む。神社の礼儀はどうするんだっけ。長々と頭を下げるお姉さんに続いて隣のおばさんを横目で見ながらお参りする。本殿を抜けると人々の声で溢れていた。渡された甘酒で冷え切った指先を温めながらお守りやお札を授与する可愛い巫女さんを片目に境内を巡っていると、美味しそうな色と匂いがお腹の虫を擽った。そういえば昼ご飯以降珈琲と林檎しか口に入れていない、そう思った瞬間お腹の虫がぎゅるりと鳴いた。本能のまま豚汁とイカ焼きを手に入れると、温かく鼻を擽る味噌と豚のコンビネーションと食欲を直撃する焦げた醤油の匂いに限界だと腹の虫が呻く。口に頬張ると唾液が口に溢れる。夢中で食べるとお腹の底からじんわりとぬくもりが広がった。容器を片付け顔を上げると、様々な人の顔が暗闇に点る明かりに照らされているのが視界に広がった。

硬い顔して並ぶお爺さん、恋人つなぎしている若いカップル、おみくじを引いてきゃっきゃしている若い集団、騒ぎ疲れたのか父親の背中でこんこんと眠る子ども、酔った顔したおじさん……、でもどの顔もどこか朗らかそうだ。まだ微かなぬくもりを宿している甘酒を口に運ぶ。独特の甘さが口に広がる。ここにいる誰とも、もっと言えばこの町で生きる人たちのほとんどを私は知らない。でもこの町にはここにいるどころじゃあない人たちが息づいている。そしてそれぞれの場所で新しい年を言祝いでいるのだろう。それはなんとも幸せなことな気がする。

甘酒のカップをゴミ箱に入れ鳥居をくぐり、息を吸い込むと冷たい空気が体に広がる。でもお腹の底までは冷やせない。ほわっと空気を吐き出すと白い塊として漂った。これは昨日までとは違う新しい年の空気。昨日の延長戦ではなくて新しい年のはじまり。なんだか空気も新鮮な気がしてくる。


家に帰り、たっぷりお湯を張ったお風呂を沸かす。仕事疲れした服を洗濯機に放り込んで凍えながらお風呂場に入ると、足の裏から冷たさが侵食してきた。心臓がびっくりするほど熱いシャワーを浴び、久しぶりに風呂に肩までじっくり漬け込む。指先お尻肩……、お湯に包まれじんわりとほぐれていく。体が芯から温まり、頭の芯もほぐれていく。芯。ああ、私にも芯があったんだ。いつも気張って立っていてくれたから、緩やかにほぐされるまで気づけなかっただけなんだ。そう思うと心までほっと温まった。


芯までじっくり温まり湯冷めする前に布団に潜り込む。足先からつむじまでほっこりした温かさに包まれ頭がぼんやりとしてくる。新しい今日何をしようか。まっさらで真っ白な新しい日々。なんだか素敵な色で塗れる気がする。まぶたが落ちる。目を開けたらきっと晴れた空が広がっているだろう。


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