川跡(かわと)
ひとつの川が生まれた。
はじまりは山の中だった。
山に雨が降り注ぎ、山肌から土の中へ水が染み込む。豊かな土壌の中を彷徨い、こびりついた不純物が少しずつ剥がされていくのと同時に地の恵みを取り込んでいく。遥か彼方に微かな光が差していた。水は重力に従いながら、その光に誘われるようにゆっくりと近づいていく。光は徐々に大きくなり、遂に岩の外へと湧き出した。
湧き出した水は小さな淵を作った。そして淵から最初のひとしずくが流れ出たとき、それは川となった。森羅万象には八百万の神々が息づいている。川が生まれたとき、それを統べる水神もまた生まれたのだった。
水神は流れ出た水とともに、低い方へ、低い方へと向かっていく。それは川が生き永らえるための本能だ。時には岩を穿ち、道を切り開く。時にはとどまり、進むための力を蓄える。時にはうねり、少しでも低い場所を探し求める。水源からの水を湛え、清らかな流れとなった川は、やがてその一帯で大河と位置づけられる川に注ぎ込んだのだった。
清らかな流れは人々を呼び寄せた。人々は川沿いに家を建て、畠を作って作物を育てた。その水神の統べる川は、清冽で豊かな水をもって彼らの生活を支えた。作物はたわわに実り味も良く、他所との取引も活発になった。家の数は次第に増えて町ができ、活気が漲るようになった。
「これも川の水神様のおかげじゃ!」
町の人々は川の近くに祠を建立し、水神を祀るようになった。
「水神様。今年一年、この町を見守っていただきありがとうございました」
とある年の大晦日。祠の前に屈み込んで一心不乱に手を合わせる少女がいた。歳は十二、三くらいだろうか。川の近くに居を構える農家の娘だった。
「この川の美しい水のおかげで、暮らしていけるだけの作物とお金を稼ぐことができました。来年も私たちの畠に豊かな恵みをお与えください」
少女はそこまで言うと合わせていた手を解いた。祈願は終わったはずだが、まだ何かを言おうか言うまいか迷ったような表情を浮かべている。ちらっと周りを見渡してから一度深呼吸をし、意を決したように口を開いた。
「水神様。ここからは私の愚痴だと思ってください」
水神様に呼び掛けてはいるものの、本当に水神様に声が届いているとは思っていないのだろう。誰に話すのでもないような声で少女は続きを話し始めた。
「近頃、近くに住む同じくらいの年の男の子たちが、私の目の下にある黒子を指差して『やーい、ホクロ娘~!』とからかってくるんです」
水神もその現場を目撃したことはあった。少女の近所に住む悪ガキどもが何人かでたかって少女の黒子をからかっていたのだ。
「言われっぱなしは悔しくて、今度こそは言い返してやるって思ってはいるんです。でも実際にあいつらを目の前にすると、余計にからかわれるのが怖くて、何も言えなくなっちゃって…」
彼女は農作業が好きな少女だった。からかう悪ガキどもよりは当然として、他の誰よりも真面目に畠を耕し作物の世話をしていた。その源である川の水神への感謝も忘れることはなく、よく祠の手入れもしてくれていることも知っていた。そんな彼女のことだったからか、水神は思わず独り呟いていた。
《悪いことをしている奴は水神様が見ているぞ、とでも言ってやればいいではないか》
「そうですよね、きっと水神様が見守ってくださっていますよね…って、ええっ!?」
言葉の途中で少女は驚いて腰を抜かしてしまい、せわしなく視線を彷徨わせた。
「…誰か、聞いていたの?」
しかし、少女が周囲を見回しても人の姿は見えない。彼女の表情が驚きから恐怖へと変わっていく。
「誰も、いないよね…?今のは、空耳だよね…?」
少女は自分の体を抱いて、震える声でそう言い聞かせている。それを横目に水神もまた驚いていた。
――まさか、私の声が聞こえていたのか…?
川を統べ始めて以来初めての出来事に水神も戸惑いを隠せなかったのだ。本当に聞こえているのか確かめようと、もう一度少女に呼び掛けてみた。
《そこの娘よ、私の声が聞こえるのか…?》
「うわっ!ま、また聞こえた…」
少女は蛇に睨まれた蛙のように身を竦めて怯えている。声が聞こえていると確信した水神は、少女を落ち着かせようと言葉を続けた。
《怖がるでない。私はこの川の水神だ》
「えっ…?本当に、水神様、なのですか?」
《そうだ。何故そちに声が聞こえたのかは私にも解せぬが》
「は、はぁ…」
《私が水神であるという証にはならぬかもしれぬが、そちはよく祠を綺麗にしてくれているだろう。嬉しく思っているぞ》
少女が祠の手入れをしているのは朝早くで、見ている人もほとんどいない。不思議な声の主を少し信用できたからなのか、強張った少女の表情もわずかながら緩んできた。
《そちがこの土地を慈しみ作物を大切に育てている、心の清らかな娘だということも知っている。他人に見てくれを悪く言われようと、そちの清らかな心までが穢されるわけではない》
「清らかな、心…」
少女が自分の胸に手を当てる。吹いていた風が止むと、さらさらと流れる川の音が聞こえてきた。
《この音はそちの心の中にある川の音でもある。私はそちをいつも見守っているぞ。だから安心すればよい》
「はい!水神様、ありがとうございました」
《よい新年を迎えるのだぞ》
すっかり元気を取り戻した少女は、川の方に向かって一礼してから家へと駆けていった。
翌日、新年の朝。初日の出を迎えるかどうかという早い時間にもかかわらず、祠には少女の姿があった。
「水神様、おはようございます。私の声が聞こえますか?」
《聞こえるぞ。やけに早いな》
水神がそう返事をすると、少女はほっとしたような表情を浮かべた。
「…よかった。今日も水神様の声が聞こえます」
《私の声もそちに届いているようだな》
「昨日の出来事が夢かもしれないと思うと眠れなくて。家族が寝ているうちに確かめたくて、こっそり家を抜け出てきました」
《そうか。実は私も気になっていたところだったのだ。祠や川の近くに来た者たちに同じようにやってみたのだが、誰一人として聞こえているような感じではなかった》
「そうなのですね。どうして私だけに聞こえるのでしょうね」
新年を迎えてからも少女と水神の密かな交流は続いた。とある日には、少女がどこにいれば水神の声が聞こえるのかということを確かめた。少女が色々な所へ移動して調べた結果、祠の周囲と水神が統べる川の川縁であれば聞こえるということが分かった。そのことが判明してからは、祠だけでなく少女の作業の合間に川縁でこっそり話をする、ということもするようになっていった。
そのようなことが続いたある日の夕刻のことだった。少女は川の淵で水を桶に汲んでいた。
「これでよし、っと」
零れそうなほどに水の入った桶を持ち上げ、家へ帰ろうとしたその時だった。
「あーー、ホクロ娘だ~!」
向こうから件の悪ガキどもが桶を持ってやって来たのだ。少女の顔が強張り、桶を抱える腕に力が入った。
「おいホクロ娘、ちょうど水を汲んだところだよなぁ」
「その水を俺たちに分けてくれよ」
「…嫌だ」
少女はか細い声で答えた。すると彼らは彼女を弄ぶように続けた。
「え?なに?」
「聞こえませーん」
「もっと大きな声で言ってくださーい」
「…いやだっ!」
少女は泣き出しそうな声を上げ、唇を噛みしめた。
「何を生意気な!」
「嫌だというなら、力ずくだ!」
そう言うと、悪ガキたちは少女の水桶を力ずくで奪おうとした。彼女も必死で桶を抱えるが、少年数人の力に及ぶはずもない。彼らのうちの一人が勢いよく引き寄せようとした弾みで、桶を取り落としてしまった。
「…あっ!」
ガラガラガラ。桶は川原に横倒しになり、中の水は石の隙間に吸い込まれていった。
「おいっ!水がなくなっちまったじゃねぇか」
「お前のせいだぞ」
「どうしてくれるんだよっ!」
彼らにそう迫られた少女は水神の言葉を思い出して勇気を振り絞り、途切れ途切れになりながらもこう言った。
「わ…悪いことをしているやつは、水神…様が見ている、って」
少女の予想外の言葉に、悪ガキたちの動きが一瞬固まった。と思うと、彼らは一斉に腹を抱えて笑い出したのだ。
「ワハハ、水神様って」
「こんなところ、本当に見てるのか?」
「証拠はあるのかよ」
笑いが収まると、彼らは自分たちの桶を持ち少女に向かって言った。
「今日はこれくらいにしておいてやる」
「お前も水の汲み直しだな」
「先に俺たちが汲ませてもらうぜ」
少女を川淵から押しやり、満足そうな表情で悪ガキたちが桶に水を汲み始めた時だった。川の上流からゴゴゴッ…という音が聞こえてきたのだ。
「……?」
いち早く危険を察知した少女は川から離れたが、音の正体がすぐには分からなかった悪ガキたちは異変に気付くのが遅れた。
「あっ、川の水が!」
気付いた時にはもう遅かった。川の水が獲物を見つけた獣のような勢いで迫ってきたのだ。
「ひえっ!!」
獰猛な川の水は、金縛りにあったように動けない彼らのすぐ横を勢いよく流れていった。
「あっ…あっ…」
「うわーーっ!」
川に呑み込まれることこそ免れたものの、恐怖で顔面蒼白となった彼らは水桶も持たず蜘蛛の子を散らすように逃げていった。それを見送った少女は、恐る恐る川に近づいた。
《少々私の力を使って脅かしてやったのだ。これで奴らも懲りただろう》
「わ、私も少し怖かった…」
《そちまで怖がらせてしまって済まない。さ、今日は水を汲んで早くお帰り。親御さんも心配するだろう》
「は、はい」
再び桶に水を汲み、少女は家へと帰っていった。
日が沈み、人々が寝静まった夜半。水神の許を訪れた者がいた。
「この川の水神はお前か。話がある」
威厳に満ちた声。彼の川が注ぐ大川を統べる竜王であった。
「…私でございます。如何いたしましたか」
「先刻、突然お前の川からの水の量が増えた時間があったな。急に雨が降った訳ではなかろう。何をしたのだ」
「私の川の近くに住む娘が数人の悪童から理不尽な嫌がらせを受けておりましたので、私の力を少し使って懲らしめました」
彼がそう答えると、竜王は厳しい声で続けた。
「力をみだりに使ってはならぬ。いくらその娘が理不尽な扱いを受けていようと、それは人間の世界の中での話だ。我々神々が、ましてやその力を使って干渉することではない」
「はい。申し訳ありませんでした」
「お前はまだ若い水神だ。今後そのようなことをしないよう、重々肝に銘ずるように」
「…承知いたしました」
「要件はそれだけだ。さらばだ」
身を翻し大川へ戻ろうとした竜王を、水神は呼び止めた。
「竜王様、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「その娘なのですが、私の声が聞こえるようなのです。神の声が人間に聞こえるということはあり得るのでしょうか」
「…ほう。この土地を愛し川を慈しむ人間の中には、稀に水神との特別な縁が生まれ、その声を聞くことができる者がいるとは聞いたことがある」
「年端のいかぬ者がそのような力を持つこともあるのでしょうか」
「あり得るだろう。だが、神がそうした者との関わりを深めてはならぬとも言われておる。神との縁が強くなった人間には、災厄が降りかかるであろうと。ただ、あくまでそういう謂れがあるということ。お前がどうしようと、わしは自らの川を統べる神としての任を全うするだけだ」
その言葉を残し、竜王は去っていった。
「…私と水神様には特別な縁があるかもしれない、のですね」
《大川の竜王様はそう仰っていた》
春の陽射しが暖かくなり、畠は種蒔きと苗植えの季節を迎えた。農作業の合間に少女は川縁に腰掛け、水神に話しかけていた。
「今年もたくさんの作物が実りますように。豊かな水の恵みがありますように」
少女は川に向かって手を合わせていた。祈りを捧げ終わり、目を開けた少女はさらに続けた。
「水神様、私はこの町が好きです。この川も好き。ここで作物を育てて収穫して、ずっと暮らしていきたい。嫁入りすることになっても、この町で生きていきたいな」
《そうか。私もそちがずっとこの町にいてくれたら嬉しいぞ》
水神は平静を装って返事をしたが、「嫁入り」と聞いて心にちくりとしたものを感じた。竜王の忠告がふとよぎったが、あくまで謂れであると振り払った。もちろん、少女に災厄が降りかかるかもしれないなどと伝えられるはずもなかった。
季節は進む。
梅雨にも充分な恵みの雨が降り、梅雨が明けてからは夏の日差しが作物をすくすくと育てた。
今年も豊作だろう、と町の人々が期待していた――
その矢先のことだった。
記録的な大雨が町を襲った。
水神にとって水は力の源だ。大雨で大量に流れ込んだ水は、川を広げようとする力になる。漲った力は岩にぶつかり、岸を削り、新たな土地へと水を運ぼうとする。
水神は有り余る力を理性で抑えようとした。だが、本能が水神に甘く囁きかける。
岩を壊すのだ。土砂を巻き込むのだ。
そして、大地を水で覆い尽くすのだ――
水神は必死で本能と闘った。だが、体内に漲る力はどんどんと増していく。
壊せ。巻き込め。覆い尽くせ――
本能に呑み込まれる直前に水神が見たのは、かの少女の住む家だった。
水神は意識を取り戻した。
空からは夏の日差しが降り注いでいて、まるで大雨などなかったかのようだ。だが、川の周囲の状況は一変していた。畠には土砂や流木が散乱し、成長途上だった作物は根こそぎ掘り返され、泥にまみれて折り重なっていた。
そして、水神はかの少女の家があった場所を見止めた。もはや家は原形を留めていなかった。骨組は瓦礫と化し、家財道具は遥か下流まで流されていた。
穏やかになった川の側に、かの少女は倒れていた。もう息がないのは明らかだったが、水神はなりふり構わず少女に呼び掛けた。
《起きておくれ…。目を覚ましておくれ!!》
少女の両手は固く組まれていた。それだけでも水神に強く願っていたのだろうということが伝わってきた。その声すら、理性を手放した水神には届かなかったのだ。
――神との縁が強くなった人間には、災厄が降りかかるであろう。
竜王の言葉が、水神の心に重く響いた。
それからというもの、水神は川を統べる気力を失ってしまった。かつては清らかだった水も淀んで濁り、川の周囲には人も寄り付かなくなっていた。水神は外の様子には目もくれなくなり、来る日も来る日もかの少女との会話を擦り切れるまで反芻した。
温かく鈴の鳴るような声。
祠を手入れし、祈りを捧げる横顔。
この町とこの川が好き、と言ってくれた時の表情。
悪ガキたちにからかわれていた黒子でさえ、愛おしかった。
その年の大晦日になった。かの少女と初めて言葉を交わしてからちょうど一年となる日。水神は朝早くから祠の方をじっと見つめていた。祠は大雨では流されなかったものの手入れはされなくなっており、周囲は草が伸びて荒れ放題になっていた。水神は半ば諦めつつも、あの声が聞こえないかと待ち続けた。
――私たちの畠に豊かな恵みをお与えください。
だが、どこからか聞こえてきた除夜の鐘の一〇八回目の音が鳴るまで待ち続けても、祈りを捧げる少女が現れることはなかった。
それから永い時が流れた。水神の気力が戻ることはなく、いつしか今がどの季節なのかも、どれくらいの年月が経ったのかも分からなくなっていた。それでもほんの少しずつ川が澄んできており、川の近くに人が住むようになってきた気配は感じられていた。だが、水神が川の外に興味を示すことはほとんどなく、日々をぼんやりと空費していた。
そのはずだった。
それはほんの偶然だった。水神が気まぐれに川の外を覗いてみると、かつては荒れ放題だった祠の周囲が少しだけ綺麗になっていた。さらに、祠の前には手を合わせる少女がひとり。そして、こう言ったのだ。
「来年は私たちの畠に豊かな恵みをお与えください」
水神の体に、雷で打たれたような衝撃が走った。
《そち、もしや…!》
「えっ…?」
少女が周囲を見回した。その顔が川の方に向いたとき、水神は確かに見た。少女の目の下、かの少女と同じ場所に黒子があるのを。
――いや、そんなはずはない。あの娘は遥か昔に亡くなったはず…
半信半疑ながら、水神は少女に問いかけてみた。
《そち、この近くに住む者か?》
「はい。この川を少し下ったところに家があります」
水神はかの少女のかつての家があった辺りに意識を向けてみた。細部は異なっていたが、まさしく記憶通りの場所に似たような家が建っていた。
《何故、この祠の場所が分かった?これだけ草木が茂ってしまっているのに》
「私たちの家族は先日他所からこの町に来ました。畠を作って来年から作物を育てようとしているのですが、なぜだか大晦日の今日になってこの川の水神様にお祈りしないといけない、という感覚にとらわれたのです。近くに住んでいた方に伺ったところ、草ぼうぼうだがいいのかと言われましたが、こちらを教えていただきました」
《そうか。して先程から思っていたのだが、そちは誰もいないところから声が聞こえていてもほとんど驚かないな。何故だ?》
「これも何となくなのですが、ここに来ると水神様の声が聞こえるという予感がしたのです。来るのは初めてのはずなのに。なぜだか懐かしい気持ちがするのです」
《不思議だな。私も懐かしい気分だ》
水神は確信した。これは、かの少女が永い時を経て生まれ変わったのだと。
輪廻転生。亡くなって冥府に還った人の霊魂が現世に何度も生まれ変わるという謂れだ。それがかの少女に起こり、また自分の川の許へ戻ってきたことに水神は運命のようなものを感じた。
「またこの祠に来てもいいでしょうか?少しずつこの祠の周りの手入れもさせてください」
《もちろんだ。また話をしよう》
少女は祠に一礼し、草木をかき分けて家へと戻っていった。
水神の気分は久しぶりに高揚していた。無節操に茂った草木でさえ冬の光に輝いて見えるようだった。だが、彼女と別れて一呼吸おいた水神の頭によぎったのは、固く手を組んだまま事切れていたかの少女の姿だった。
――水害で、二度とあの娘の命を奪いたくはない。
大雨が降っても川が溢れないようにするにはどうすればいいのか。水神には一つの考えがあった。かつて所用で大川の竜王の許を訪れたとき、両岸の至る所に土で作られた壁のようなものがあり、あれは何かと尋ねたのだった。
「あれは人間が作った堤というものだ。あれを作っておけば、川の水量が増えても溢れずに自分たちの土地が守れると考えたのであろう」
当時は件の水害の後で、水神の統べる川の周囲にはまだ人々はほとんど戻っていなかったために、自分には関係のないものだと思っていた。そうした経験までもが少女のために役立てられることに、水神は密かな喜びを覚えていた。
「…つつみ?」
《そうだ。それをそちたちの家の近くの川沿いに作れば、川が溢れて被害が出るのを抑えられるのだ。今から始めれば夏には間に合うだろう》
ある日、水神は少女にその考えを打ち明けた。少女によって手入れされた祠は綺麗になり、荒れ放題だった草木も刈り取られていた。少女は水神とも打ち解け、水神は長らく忘れていた少女との交流を取り戻していた。
「はい。父上に相談してみます」
だが、その計画は端から躓くこととなった。新しく作る畠の方の作業で手一杯の父親は「面倒だ」という理由で娘の提案を一蹴したのだ。少女が「大川で作られている」という話をしても「それは大川での話だろう」と取り合わず、それでも食い下がった娘に対して「それならお前一人でやれ!」と言い放ったのだ。
そこからの少女の働きは凄まじかった。朝晩は一人で堤を作るために川縁に土を盛り、日中は両親とともに新しい畠の作業に勤しんだ。父親に言われた仕事はきちんとこなすので、堤作りに関して父親が咎めたてることはなかった。
春になると農作業は種蒔きや苗植えに代わったが、それでも少女は土を盛り続けた。
《急ぎすぎて体を壊してしまっては元も子もない。少しは休んだらどうだ》
水神の方が心配になって少女にいたわりの言葉をかけたが、少女は疲労をにじませつつも満足そうな表情でこう言ったのだ。
「これだけやっていても、水神様が思っていた高さにはならないのでしょう?ならば、一度でも多く土を盛りたい。夏になって大雨が降って、堤が私たちの土地を守ってくれたら、父上も考えを見直してくれるかもしれないから」
作業を手伝えない水神の方がもどかしかった。早く夏が来て、堤の必要性を皆が認識してくれればいいと思っていた。
しかし、運命の悪戯か――
まだ春真っ只中、梅雨入りにも早いような時季に、季節外れの大雨が町を襲った。
季節外れの大雨は、人々だけでなく水神をも戸惑わせた。
何より不安だったのは、少女が一人で土を盛っていたあの堤のことだった。
だが、体内に漲る力はそうした心配を徐々に意識の外へと追いやっていく。その代わりに聞こえてくるのは、本能が囁くあの甘い声。
壊せ。巻き込め。覆い尽くせ――
川の水が作りかけの堤へと激しくぶつかっていく。高さで見るとすんでのところで越流は回避できそうだ、と水神が思ったその瞬間だった。
ピキピキ。濁流が轟音を立てて川を流れているはずなのに、堤にひびが入るその音ははっきりと聞こえた。
そして、堤の後ろには――
薄れゆく意識の中で、水神は少女の声を聞いた。
…水神様、すみません。家で大雨が過ぎ去るのを待っていればよかったのでしょうけど、どうしても気になって堤の様子を見に来てしまいました。これで畠に被害が出なかったら、父上ももっと早く堤の工事をしてくれるはずだと。…ああ、この期に及んで記憶がはっきりしてきました。遥か昔にこの地で育って水神様とお話しできたあの子も、川に呑み込まれて亡くなったのですね。同じ最期になってしまいました。でも、いつかまた、あの日に――
大雨は過ぎ去った。
水神にとって少女との二度目の別れは、一度目にもまして身の引き裂かれるような思いだった。少女一家の畠には被害が出たものの、家の中にいた少女以外の家族は命が助かったことが水神を何よりも後悔させた。少女を喪った悲しみからか、新しい畠を作ったばかりだった少女の家族は再度引っ越してしまった。
――もし、私が「堤を作れ」などと言わなければ…
そう思わずにはいられなかった。再び外との関わりを絶ち、水神は己を責めた。少女一人で作ろうとした堤など、自然の営為の前には無力だったということなのか。神との縁を深めた因果だったのか。いくら考えても、責めても、答えが出ることはなかった。
だが、意識を失う直前に少女が言いかけた言葉を思い出したとき、水神は一縷の望みを見出した。
「でも、いつかまた、あの日に――」
少女は再び輪廻転生の円環に導かれ、生まれ変わってくれる。あの日、すなわち大晦日に祈りを捧げに来る。そう信じることで水神は川を統べる気力を取り戻した。毎年大晦日には、祠の様子を一日中見つめ続けた。翌年も、その翌年も。いつか、自分たちの畠への水の恵みを祈る少女が現れると信じて。
それからまた永い時が流れた。その間も川は豊かな水を湛え続け、町は活気にあふれていた。ただ、かの少女たちの家があった土地は長らく空いたままで、大晦日に祈りを捧げる少女も現れないままだった。
だが、その年には予感があった。かの土地に家が建ち、農業を営む家族が引っ越してきたのだ。はやる気持ちを抑え、水神は大晦日が来るのを待った。
そして、遂にその時は来た。
「水神様、私たちの畠に豊かな恵みをお与えください」
祈りを捧げる声とその言葉。
指先までぴんと伸ばし、心を込めて合わされた手。
その横顔と、目の下の黒子。
《よく、戻ってきてくれた》
水神は万感の思いを込めて言葉を送った。祠に来るのは初めてのはずだが、少女は誰もいない祠で声が聞こえることにも、その言葉にも驚くことはなかった。
「…水神様」
水神と少女は、三度目の出会いを果たしたのだ。
「竜王様。万一の時に、流域の民を川の水から守る方法はないのでしょうか」
みたび、少女の命をこの川の水害で奪いたくはない。その思いから水神は畏れ多くも大川の竜王様の許へお伺いを立てたのだった。ただ、少女一人のためであることを悟られないよう「流域の民を守るため」という名目にしていた。
竜王はしばらく考え込んでいた様子だったが、やがて口を開いた。
「一つだけ方法がないわけでもない」
「それは、どのような方法でこざいますか」
「…自ら、川を絶つのだ」
思いがけないほどの重い言葉に、水神もすぐには返答ができなかった。しばらくしてやっとの思いで言葉を絞り出した。
「…川を、絶つとは」
「言葉の通りだ。川の源に行き、水の湧き出している場所を自らの手で壊すのだ。水の源を失えば川は絶たれる。民は水害からは守られるであろう」
「…川を絶つと、水神である私はどうなるのでしょうか」
「神が自ら川を絶つなど、本来は禁忌というべきもの。その方法は知っていても、実行に移した者などわしも聞いたことがない。神としての力を失って人間に転生するとの謂れもあるが、定かではない」
「さようでございますか」
「わしが知っているのはこれだけだ。気は済んだか」
「…はい。教えていただき、ありがとうございました。失礼いたします」
水神は竜王に一礼し、その場を辞した。
「隠しているつもりだろうが、あの娘に心惹かれていることなど分かっておる。…愚かな水神であることよ」
竜王の言葉が水神に届くことはなかった。
水神と少女の三度目の交流は穏やかなものだった。もう無理に堤などを作らせることなどしなかった。少女が祈りを捧げに来た祠で、少女の農作業の合間に川縁で。他愛ない会話をしているだけで、水神の心は柔らかな日差しのような温もりで満たされた。
春が過ぎた。季節外れの大雨は降らなかった。
夏が過ぎた。適度な日差しと雨に、作物の生育も順調だった。
秋が過ぎた。作物の出来は素晴らしく、自分たちが食べる分以外は他所へ売る余裕もあった。
そして大晦日になった。水神と少女は初めて一年間を共に過ごすことができたのだ。少女は祠を訪れ、祈りを捧げた。
「水神様、来年も私たちの畠に豊かな恵みをお与えください」
水神にとって、少女と過ごしたこの一年は他のどの年よりも幸せだった。三度目にして、少女との日々をこれからさらに積み重ねられるのではないか。そう、思っていた――
少女が冴えない表情で祠を訪れたのは、二度目の春を迎えた頃だった。
《どうしたのだ。浮かない顔をして》
水神がそう問いかけても少女はなかなか口を開かない。何度か促して、ようやく話し始めた。
「実は、私に嫁入りの話が来たのです」
水神の心に痛みが走った。
「父上が勝手に話を進めてしまいました。相手は私たちの作物の取引がある商家の跡取り息子で、この町から少し離れた所にあります。その家は裕福で商売も上々だから、暮らしに困ることはなく幸せに暮らせるだろう、と父上は言っていました。いい縁談だし、この家のことは気にせずに嫁げと」
《…そうか》
「商家なので、嫁ぐと農業ではなく家の仕事をすることになるでしょう。私はこの場所で、作物の世話をするのが好きなのです。種を植えて苗を植えて、草を刈って収穫して。これからも、この町とこの川と共に生きていきたい。…本当は」
少女は一度俯いたが、意を決して顔を上げた。その目はまっすぐで、水神は少女の決心を悟った。
「でも、私は嫁ぎます。私の一家は土地も少なく、婿入りさせようという方はなかなか現れないでしょう。両親が家のことより私の幸せを考えて持ってきてくれた縁談です。それを受けることが、一人娘としての一番の親孝行になると思うのです。流れる水のように、宿命に従います」
突然告げられた少女との別れ。だが少女にも迷いがあることは、祠を訪れたときの表情から見て取れた。だからこそ水神も、この穏やかな日々がもう少しだけ続いてほしいと願ってしまったのだった。
《…縁談のことだが、一年、いや、この春に植える作物が収穫できる秋まで待ってもらうことはできないだろうか。そちも、畠の豊かな恵みを願っただろう。その願いが叶うのを見届けるまで》
水神は思わずそう言っていた。願いのことを持ち出したのも、もう少し彼女と共にいたいがための建前だということは自分でも分かっていた。少女が生きているのに別れなければならない、その初めての痛みを受け入れる心の準備ができていなかったのだ。
「…わかりました。父上に相談してみます」
少女はそう答えてくれた。彼女の表情には何かを堪えるような必死さがあった。
《そうか。…本当に、すまない》
「せっかく心を決めて言いに来たのに。これだと、余計に別れが…つらくなっちゃう、じゃない…」
歯を食いしばっていた少女の目から涙が零れ落ちた。水神の目の前で少女が涙を流したのはこれが初めてだった。
その後両家で調整が図られた結果、少女の嫁入りは秋の収穫後に決まった。
束の間の、そして最後の穏やかな日々が訪れた。その中で少女は少しずつ嫁入りの準備を進め、水神も別れに向けての心積もりを整えていった。
「嫁入りしても時々この町に帰ってきます。両親にも会いたいし、畠の様子も見たいし」
《そちは本当に畠に出るのが好きなのだな》
「作物が育っていくのを見ると嬉しいのです。…あ、もちろん水神様にも会いに来ます」
《ああ。楽しみに待っている》
少女が嫁入りして別の所へ行ってしまうとしても、永遠の別れが来るわけではない。彼女が戻ってくる時さえあれば、そこでさらに彼女との記憶を積み重ねることができる。この日々で、水神はようやくそのことに気付いていた。
そして、訪れた夏――
また、記録的な大雨が町を襲った。
内なる声の誘惑に耐え、水神は必死で川の水を押しとどめようとした。だが、次第に水位は上がり、川の周囲の家や畠に水が流れ込み始めた。かの少女の家も近くまで水が流れ込んでいるのを見た。
水神は意を決し、川を遡って水源のある淵へと向かった。淵の上には大きな岩が積み重なった山が聳えており、その隙間から激しく水が流れ出していた。その場所まで来て、水神の心には迷いが生じていた。
――神が自ら川を絶つなど、本来は禁忌というべきもの。
竜王の言葉がよぎった。本当に禁忌を犯す覚悟はあるのか。
私が命を絶ったら、少女は悲しまないか。
水が溢れても、もう少し力を尽くせば彼女の命は救えるのではないか。
――いや。川がなくなれば、彼女が水害で命を落とすことはない!!
水神は迷いを振り切った。
水が流れ出している岩を破壊し、自ら川の命を絶った。
その瞬間、一際大きな雷光がその山に落ち、岩の崩れるドゴゴゴゴという大音声が辺り一帯に響き渡った――
青年は目を開けた。陽の光の眩しさに思わず目を細めた。体の下に感じたのは、土の感触。
倒れていたのは山の麓だった。目の前には崩れた岩が積み重なり、穴のようになった淵の跡を埋め尽くしていた。
青年は身を起こした。腕がある。手にはそれぞれ五本の指が生えている。
近くにあった水溜まりに己の姿を映してみた。全身には衣を纏い、少し惚けたような表情で水面を見つめている青年の姿が映っていた。
――これは、人間の姿…?
「竜王様の仰せの通りだ…」
呟いた声は空気を震わせ、やがて風の中に消えていった。神ではなくなり人間になったのだという実感が少しずつ湧いてくる。
青年は立ち上がって歩き出した。言わずもがな、向かうはかの少女のいるあの町。自らが絶った川は点々とある水溜まりを残して跡形もなくなっていたが、その水溜まりを辿ってかつての下流にある町を目指した。川を統べているときはすぐに移動できた距離も、人間の足だと時間がかかる。それでも歩き続け、日が沈む前には町に着くことができた。
だが町に入った途端、その様子にただならぬものを感じ取った。川がなくなったので違和感があるのは当然だが、それ以上の何かがあると本能が告げていた。ふと傍らの畠を見て、青年はその正体を知った。
――作物が、枯れている…
それどころか、町全体の生気がなかった。畠の作物が枯れている上に、道を歩く人の姿もほとんど見かけなかったのだ。
青年は駆け出した。かつて彼女が水を汲んだ淵の跡を、数多の話をした祠の前を通り過ぎた。駆け慣れていない体が悲鳴をあげ、足がもつれた。衣も顔も泥だらけにしながら、それでも駆けた。
やがて辿り着いた建物の前で、青年はようやく立ち止まった。動悸が止まらない。息を切らしながらも戸を叩いた。ややあって中から出てきたのは、見るからにやつれた男だった。青年は男の顔を見たが、男の視線は彼を捉えておらずどこか遠くをぼっと見つめていた。
「…どちら様でしょうか」
「娘、さんは、いらっしゃいますか…?」
男の問いに答える余裕はなく、ただそれだけを尋ねた。男の反応は薄く、視線が焦点を結ぶことはなかった。聞こえていなかったのかと思い青年が再度問いかけようとしたとき、男がぼんやりと口を開いた。
「娘は…真澄は、亡くなった」
青年は言葉を失った。青年の反応を見てか見ずにか、男は感情を失った声で続けた。
「あなたがどちらの方かは知りませんが、先日の大雨ののち忽然と川が消えたことはご存じでしょう。大雨で食料を蓄えていた蔵が流された上に、川がなくなってしまった。作物は育たなくなり、夏の日差しですぐに枯れてしまった。我々は食べるものがなくなり、疫病が流行した。それで、真澄は…」
そこで男は言葉を切った。一瞬表情が戻った男の目からは涙が流れていた。
「あっけなく逝ってしまった。…今の私たちには何もすることができません。どうかお引き取りください」
戸が閉められるやいなや、青年はいたたまれなくなってその家を後にした。だがもう力はほとんど残っていない。足元をふらつかせながらも何とか祠に辿り着いたところで力尽き、膝から崩れ落ちた。それと同時に、抑えていた感情が嗚咽となってあふれ出した。
青年は初めて、涙を流した。
己の心の弱さを呪った。己の考えの愚かさを恥じた。
川を絶つときに逡巡しなければ。
――せめて蔵が流されるのは避けられたのかもしれない。
そもそも川を絶つという禁忌を犯さなければ。
――川を絶ったら水がなくなり、作物が育たなくなることくらい分かったはずだ。
否、そうではなかった。
――かの少女…真澄の嫁入りが決まったとき、別れる覚悟を決めて送り出してやればよかったのだ。
つい先刻の言葉を聞くまで、少女の名前すら知らなかった。
真澄。清らかな心を持つ彼女に、これ以上相応しい名前があっただろうか。
一人だけの祠に、いつまでも咽び泣く声が響いていた。
その年の大晦日。
朽ち果てつつある祠に、人影がひとつ佇んでいた。
その人影は朝から晩まで、ずっと祠の前から動かなかった。
夜になると、どこからか除夜の鐘の音が聞こえてきた。
その一〇八回目の音が鳴ったときだった。
人影は静かに立ち上がり、夜の闇の中へと消えていった。
それが合図だったかのように、小さく乾いた音を立てて祠は崩れ落ちたのだった。
ひとつの川が消えた。
いつしか、彼の地はこう呼ばれるようになったという。
川の跡――川跡、と。