月と隠れる夜に
(一)
お兄ちゃん、見ない顔だねえ。
この店は初めてかい?ほう、2回目か。
ここの蕎麦は本当に旨いよなあ。
俺も金があったら毎日食いに来たい位好きなんだよ。何なら三食ここの蕎麦で良い位だね。
なんて言ったって、ここの蕎麦はこの街一番の美人が打ってるからな。
なあんだ、お兄ちゃん知らないのかい。
この店はね、月子ちゃんっていう女の子が店主なんだよ。多分お兄ちゃんと同い年位なんじゃないかな。
そりゃあもう別嬪さんだし、優しいし、蕎麦は旨いしで言う事無しだよ。
あそこで注文取ってるのはアルバイトの知夏ちゃん。まだ高校生なんだってよ。可愛いよな。
月子ちゃんと姉妹のように見えるけど、ただのご近所さんなんだってさ。
でも知夏ちゃんが小せえ頃からの付き合いらしくて、そりゃあもう月子ちゃんにべったりだから、事実上姉妹みたいなもんだよなあ。
ただなあ…この店で唯一残念なのは、年越し蕎麦を売ってねえって事位だなあ。
何でか知らねえが、毎年どれだけ説得しても何か事情があるみたいで年越し蕎麦は売ってくれねえんだよ。
そもそも大晦日は店も開けないし。
ここの年越し蕎麦を食べたい奴、絶対に俺以外にもいると思うんだけど。
お兄ちゃんも月子ちゃんに言ってやってくれねえか?
え?親しくもない人にそんな事言えないって?
冷たい事言うなよ。お兄ちゃんだって旨い年越し蕎麦食いてえだろ?
これだから最近の若いヤツは、冷めてえんだよなあ。
あ、知夏ちゃん、俺は別にこのお兄ちゃんの事いじめてる訳じゃないからな?
ちょいと話が弾んで…あ、お兄ちゃん注文まだだったのか。すまんすまん。
で、何を食うんだ?お、ざる蕎麦かあ。この涼しい時期によくそんな冷たいヤツ食えるよな。
もし次来たら鴨南蛮を食ってみな。俺、ここの鴨南蛮大好きなんだよ。
そうだ、こんなジジイの話に付き合ってくれたお礼にそのざる蕎麦、ご馳走してやるよ。
いやいや、遠慮すんなって。
その代わり、今年こそはここの年越し蕎麦食えるようにお兄ちゃんも協力してくれよ。
よろしく頼んだからな。
(二)
いらっしゃい…あ、お兄さん、こんにちは!
最近よく来てくれて嬉しいです。
今日は何にしますか?ざる蕎麦かな?
ええっ、鴨南蛮?!やだあ、山田のおじちゃんの言った事、そんなに真面目に受け取らなくていいんですよ。お兄さん、いつも冷たいお蕎麦食べてるのに…。
本当に今日は鴨南蛮で良いんですね?
じゃあちょっとお待ちくださいね。すぐ準備しますから。
…今ですか?ちょうど忙しい時間を過ぎたところなので少しだけなら大丈夫ですけれど…。
あ、この間山田のおじちゃんが話してた事ですね。お兄さん、本当に真面目ですねえ。そんな真面目に生きてたら疲れちゃいますよ?
って、高校生が生意気言ってすみません…。
うちは今年の大晦日も営業の予定はありませんよ。
私、小さい頃からこのお店の事知ってますけれど、大晦日に営業しているところを見た事がないですもん。
このお店、月子ちゃんのお祖父さんの代から続いているんですけれど、その頃から"蕎麦屋なのに年越し蕎麦が無いお店"って有名なんですって。
山田のおじちゃんと同じように「美味しいのに勿体無い」とか「ここのお蕎麦で一年を締め括りたい」とか言ってくれる人が多いんですけど、頑なにそのスタイルを保っていて。
まあ、私もおじちゃん達と同じ意見なんですけれどね。
あ、私、月子ちゃんの家の近所に住んでいて、小さい頃から可愛がってもらっていて。
昔はこのお店が遊び場みたいな感じだったんですよ。えへへ。
それで、先代の時代から夏休みとかにちょっとずつお店を手伝うようになって、高校生になったタイミングでアルバイトにしてもらったんです。
もう第二の実家みたいな感じですよ。
そんな訳で月子ちゃんとは長い長い付き合いなんですけれど、月子ちゃんは私にとって憧れの人なんです。
だって、どんなに大変な思いをしても私やお客さん達にそれを全く見せないし、むしろ出会った人達一人ひとりの事をきちんと見ていて、気がつくと人の心配ばっかりしているし…。
もう優しさの塊!みたいな感じの人なんですよね。
月子ちゃんが店主になったのはここ2、3年の事ですよ。
元々お父さんと2人でやっていたんですけれど、そのお父さんが急に亡くなっちゃって…。
持病があったみたいなんですけれど、こんなに早く亡くなるなんて…。
それで、蕎麦打ち自体は昔からお祖父さんやお父さんに仕込まれていたようで、月子ちゃんがそのままお店を継いだんです。
そういえば、昔から大晦日は月子ちゃんのお家自体が静かだった…というか、先代も月子ちゃんもお家に居る感じがしないんですよねえ。
1月1日は必ず私の家に挨拶に来てくれるんですけれど。
大晦日は何処かに行く用事があるから、お店もお休みにしているのかなあ?
…って、ごめんなさい!私、喋り過ぎちゃいましたね。
お兄さん喋りやすいから、ついつい。
何て言うか、お兄さん、月子ちゃんとすごく雰囲気が似ていて近くに居ると落ち着いちゃうんですよね。えへへ。
鴨南蛮、すぐ作ってもらいますね。ちょっと待っていてください。
…いらっしゃい!
あ、大野のおばあちゃん!こんにちは。この時間に来るなんて珍しいねえ。
今、お茶持って来るね。
お兄さん、こちらはこのお店の隣に住んでいる大野さん。殆ど毎日来てくれるんですよ。
月子さんのお祖父さんと同級生なんだよね?
そしておばあちゃん、こちらは最近よくお店に来てくれるお兄さん。
月子ちゃんに似ていてすごく話しやすいの。
今だってうっかり話しすぎちゃって…って、おばあちゃん、いくらお兄さんが格好良いからって顔見過ぎだよ!
え?2人で話がしたい?
そんな事言ったらお兄さん困っちゃうでしょ!
お兄さんも無理しなくていいんですからね。
…これからおばあちゃんの家に?もう、お兄さんったらお人好しなんだから。
そんなところも月子ちゃんにそっくりだわ。
おばあちゃん、お話しするのは良いけれど、お兄さんが鴨南蛮食べ終わるの、待ってからにしてあげてね!
(三)
突然申し訳ないわねえ。
狭い家だけど、ゆっくりして行って頂戴。
お茶とコーヒー、どちらがお好きかしら?
そう、コーヒーね。そう言うと思ったわ。うふふ。
さっきから思っていたけれど、お兄さん本当に綺麗な顔してるわねえ。
イケメンって言うのかしら?
最近よくあのお蕎麦屋さんに通っていらっしゃるって知夏ちゃんが言っていたけれど、この街にはいつ頃から住んでいるの?
そう、今年の春なのね。
就職とかかしら?…あら、ご自宅でデザイン事務所を。デザイナーさんってヤツね。横文字の職業だなんて、それだけで格好良いわ。
きっととびきりのセンスをお持ちなのでしょうね。
うふふ、照れちゃって可愛らしいわねえ。
それで、わざわざ私の家にお呼びした理由、何だか分かるかしら?
…難しい質問だったかしら。
じゃあ質問を変えるけれど、貴方、長いこと大晦日をこの世界で迎えていないんじゃないのかしら。
その顔は図星のようね。
ご家族の中で同じ体質の方は?
…そう、貴方だけ。それは寂しかったわね。
薄々感じているかも知れないけれど、月子ちゃんも貴方と同じ体質なのよ。
月子ちゃんのお家はね、お父さんも、お祖父さんも、皆"月隠れの人"なの。
変な話よねえ。
大晦日の"晦"の字が"月が隠れる"って意味を持つってだけで、"大晦日の日に、月と一緒にこの世界から隠れちゃう人"が生まれて来てしまうなんて。
最初は私も驚いたものよ。冗談なんじゃないかって。
何でこの事を知っているか?
それはね、亡くなった私の夫も月隠れの人だったからよ。結婚してから一緒に年を越した事は一度も無かったわ
でもね、これが意外と寂しくないのよ。
姿は見えなくても、この部屋の何処かにあの人が居るって思っていればね。何となく、私の近くに居るような気配もするし。
それに、1月1日になったらひょっこり戻ってくるしね。
これを言ったらあの人、「君は変な人だねえ」って笑っていたわ。
それでね、貴方が月隠れの人だって事、ぜひ月子ちゃんに伝えてあげて欲しいの。
そして、是非今年の大晦日は彼女と一緒に居てあげて欲しいの。
お父さんが亡くなってからあの子、独りで年を越していてきっと寂しいだろうから。
お兄さんだって、独りで居るのが好きなフリをしていて、本当は誰かと一緒に居たいって思っているのでしょう?
私の目を誤魔化そうって言ったって、そうはいかないわ。
貴方ね、独りに馴れてしまっては駄目よ。
それにね、私はあの子のお祖父さんやお父さんが成し得なかった事、あの子なら出来るんじゃないかって思っているのよね。
そう、大晦日にあのお蕎麦屋さんを開く事よ。
誰よりも人とふれあうのが好きで、誰よりもお客さんの事を大切に想っている月子ちゃんだもの。
きっと心の何処かで、どうにかしてこの訳の分からない体質を乗り越えて、お客さんの喜ぶ顔を見たいと思っているに違いないわ。
それには、今一番月子ちゃんの気持ちを理解出来て、寄り添う事が出来る貴方の力が必要だと思う。
まずは貴方自身の事を話してあげてみて。
きっと月子ちゃん、喜ぶと思うわ。
時には勇気を出して冒険してみる事も必要よ?
これは月子ちゃんの為であり、貴方の為でもあると思うの。
ごめんなさいね、突然呼び出してこんなお願いをして。
でも失礼だけど、お兄さん少し不器用そうだからねえ。
こんな年寄りの一言で何かが変わるんだったら、無理矢理にでも家に連れて来て話しちゃうわ。
大丈夫、貴方と月子ちゃんなら、大丈夫よ。
根拠?そんなの勘よ、勘。うふふ。
(四)
いらっしゃいませ。
すみません、今日はもう営業を…あら宮越さん、こんばんは。どうぞ中へ入ってください。
いいんです、いいんです。常連さんは特別ですから。
知夏ちゃんがね、最近宮越さんと仲良くなれて嬉しいってずっと言っているんですよ。
知夏ちゃん、イケメン好きですからねえ。ふふ。
私もゆっくりお話がしたいと思っているんですけれど、お店やっている時間はどうしても厨房から離れられなくて。ごめんなさいね。
何か召し上がりますか?今だったら余り物だけど天ぷらも出せますよ。
…お話、ですか。
私もずっと宮越さんに伺いたいと思っていたんです。
宮越さんも私と同じ体質の人なんじゃないのかって。
きっかけ、ですか。ううんと、感覚ですかね?
本能が「仲間だ」って囁いてくる様な。
宮越さんも分かりませんか?その感覚。
今日はその事を確かめに?
…そうですね。大晦日は、今年もお店を開ける予定はありません。
だって、夕方には皆から姿が見えなくなってしまう訳ですし。
それに知夏ちゃんにもその日はお休みってもう伝えちゃっているし…。
そんな!宮越さんにお手伝い頂くだなんて!そんな事出来ません!
す、すみません。大声を出して。
でも、宮越さんは大切な常連さんですし、私の為にここまでして頂くなんて申し訳ないです。
…え?大野のおばあちゃんがそんな事を?
確かに、大晦日にお店を開く事は祖父の代からの夢でした。
うちのお蕎麦で身体を温めて貰って、常連さん達に喜んで貰えたら、もうそれだけで蕎麦屋冥利に尽きますもの。
何より、私はお店が賑わっている様子を厨房から見ているのが好きなんです。
大晦日って家族や気心知れた人達が一緒に一年を振り返る事が出来る日でしょう?
このお店は有難い事に常連さんが沢山居て、常連さん同士も仲が良い。
そんな人達と一年の最後の日をここで迎えられたらどれだけ幸せだろうって、祖父も父も私も、ずっと想っていました。
でも、よく分からないこの体質のせいで、賑わいとはかけ離れた静かな場所で年を越すのを待たなければならない。
この現実を考えるだけで、情け無い話ですけれど本当にどうしようもない気持ちになるし、どうしたら良いか分からなくなるんです。
特に、父もいない今は、一層自分の無力さを感じてしまって。
こんな事なら、大晦日なんて無くなってしまえば良いのにって思う時もあるんです。
私って自分勝手でしょう?
でも…でも、宮越さんも、そう思った事ありませんか…?
(五)
父や母や弟の体温で温まっていた家が一気に冷たくなるあの瞬間には、何年経っても馴れる事は出来なかった。
一番最初にそれが起こった時は、呆然とするばかりだった。
さっきまで隣で漫画を読んでいた弟も、テレビを観ていた父も、おせちの準備をしている母も、皆突然消えてしまって、そこには冷たい炬燵に寝転ぶ自分しか居ないのだ。
窓を開けても、暗い世界が広がるだけ。
人も、車も、猫も居ない。
さっきまでが夢だったのか、今が夢なのか、それすらも分からなくなるような静かな絶望感が自分の胸の中にじんわり沁み渡る。
だけど新しい年がやって来ると、唐突にその暗黒の時間は終わりを迎える。
気がつくと僕は自室で布団に包まっていて、二段ベッドの下からは弟の寝息が聞こえて来た。
その瞬間、滅多に泣かない僕の両目から涙が勝手に溢れて来た。
翌朝、母には「もうお兄ちゃん!突然いなくなってびっくりしたのよ」とぶつくさ文句を言われた。
違う、居なくなったのは、僕じゃない。
でも、そう言い返せる元気はその時の僕には無かった。
その年以来、毎年僕は大晦日のある時間になると、何処か違う世界へ行ってしまうようになった。
いや、一見いつもの自分の家の風景なのだ。
だけどそこには色も、温度も、音も無い。
静かすぎる世界が広がっている。
そんな独りぼっちの世界で一年の最後を迎えるのだ。
いつしか家族の中で僕は"一人が好きな奴"と認識されるようになり、僕の姿が見えなくなっても特に声をかけられないようになった。
そうして僕は心の何処かで、魔法か、運命か、呪いか、何が原因か分からないで起こるこの現象を諦めるようになっていた。
それだけが理由という訳ではないが、僕は歳を重ねるにつれて自然といつも独りで居る事を好むようになった。
クリスマスや忘年会など、沢山の人が集まる年末は特に独りで過ごす事が多くなったし、大学生になって一人暮らしをするようになってからは当たり前のように年末の帰省は避けるようになった。
だって、いずれにしても勝手に独りぼっちになってしまうのだから。
そんな僕を、家族は「この子は独りが好きだから」と放っておいてくれたし、数少ない友人達も何も言わないので、気が楽だった。
自分が"月隠れの人"だと確信したのは、中学生の頃だっただろうか。
初老の国語の先生が、年の最後の授業でこう話していた。
「皆さんは大晦日の意味を知っていますか?
旧暦の月の動きと大きく関係している"晦日"からきているのですが、この"晦"とは月の満ち欠けが変化する様子を表わす言葉の1つで、月が隠れる事を意味しています。
そして"晦日"は別名"つごもり"とも呼ばれていて、同じく“月が隠れる”という意味の言葉が転じて生まれた言葉なんですよ」
その時僕は静かに理解した。
僕は大晦日の夜、月と一緒にこの世界から隠れてしまっているのだと。
僕があの日居るのは、"この世界の裏の世界"なんだと。
何処かのお伽話のような話なのに、先生の声色があまりにも穏やかだったせいなのだろうか、何故だか僕には現実の事のようにしっくりと心に落ち着いた。
原因も解決方法も分からない。
そして何故僕が月隠れの人になったのかも。
そんな中で一つだけ分かる事は、大晦日はただただ独りの世界に佇むしかないという事だけだ。
大学を卒業して、短いながらも会社員生活を送り、デザイナーとして独立した事をきっかけに越して来たこの街で、僕は月子さんに出逢う。
何の気無しに入り始めた近所の蕎麦屋。
ある日たまたま隣の席になったお喋りなおじさんに言われて目を向けた厨房の中に彼女は居た。
忙しそうに、だけど楽しそうに動き回る彼女を見たその瞬間、僕は無性に泣きたい衝動に駆られた。
泣きたくなる事なんて滅多にないのに、彼女の纏う雰囲気が懐かしいようで、感じた事のあるようなもので、切なくて、淋しくて、だけど温かくて、どうしようもなくなった。
そして漠然と思ったのだ。
彼女も僕と仲間なのではないかと。
根拠なんて何も無いのに、そう思ってからずっと彼女の事が気になって気になって仕方がなかった。
らしくも無く、自ら知夏ちゃんや他の常連さんから彼女の情報を聞き、彼女の人柄を更に知り、自然と"月子さん"という存在が僕の中で大きく膨らんでいった。
そして、あの不思議なおばあさんと話をして、どうにかして彼女の力になりたい、という気持ちが強くなっていった。
それは他人に関心を無くして独りでいる事を好んで生きて来た自分にとって、珍しすぎる出来事であった。
いや、おばあさんの言う通り、本当は僕は人と関わりたいとずっと思っていたのかも知れない。
本当は幼いあの頃から、僕は皆と一緒に大晦日の夜を過ごしたいと心の中で願っていたのだ。
なのに、勝手に諦めて勝手に自分で自分の気持ちに蓋をしていたのだ。
今更そんな事を思い返す自分に苦笑いしながら、今ならまだ変われるチャンスはあるかも知れないと、ありったけの勇気を総動員させて月子さんに話をした。
「今年の大晦日は、お店を開きませんか?」と。
ただの常連客が何を言っているんだろうと思ったかも知れない。
でも、彼女や彼女の家族がどんな気持ちで大晦日を迎えていたのか、僕には分かる気がしたし、同じ境遇の僕だからこそどうにか出来るかも知れないという訳の分からない自信さえ湧いていた。
彼女は自分の体質を疎み、諦めていた。
僕も同じだ。
だけど今の僕は、それだけで何かを諦めてしまうのは余りにも勿体無い事だと思っていた。
何か良い方法は無いかと、その夜、時間をかけて月子さんと話をした。
人を説得する、という行為をしたのはいつ振りだろう。
じっくりと相手の言葉を紐解き、自分の言葉を編み出す。
そんな作業を繰り返しているうちに、月子さんの瞳にいつしか力が宿るのを感じた。
その日の帰り道、僕は思った。
この時間は、この行動は、あのおばあさんの言う通り月子さんの為であり、そして独りから抜け出したい僕の為でもあるのだと。
(六)
それから宮越さんと時間をかけて話をし、色々と考えて知恵を出し合い、大晦日にお店を開ける事を決めました。
販売するのはこの日限定で特別に作る生麺とお汁と薬味が付いた年越し蕎麦セットのみ。
そして当日の売り子は宮越さんと私でやる。すなわち知夏ちゃんは呼ばないという事。
当日どうやって蕎麦を売るか、そして何時まで営業するかもよくよく考えました。
何せ私達は、大晦日の夕方から姿が見えなくなってしまうのだから。
私は、折角お店を開くのにお尻の時間を気にして中途半端にお客さんを追い出すような事をしたくないと思っていました。
どうせならお店の味をゆっくり味わって欲しい。
そこで、家で調理して食べれる生麺を売る事に決めました。
仕込みが大変なのは容易に想像が出来ましたが、昔からこのお店の年越し蕎麦を待ってくれている常連さんの事、そして私よりも真剣に大晦日の営業について考えてくれている宮越さんの事を思えば、なんて事はないと思いました。
宮越さんは良い意味でクールで、俯瞰的に物事を見る方だと思っていました。
けれど、話を重ねるにつれて彼の中の奥深くにある何か温かいものを感じました。
私は知っています。
心が温かい人は、その分心の冷たさを知っていると。
彼は、これまでにきっと色んな冷たさに触れて来たのでしょう。
それに気がついた時、彼の力になりたいと、何としても頑張って大晦日を迎えなければと、一層気合いが入りました。
(七)
大晦日当日、月子さんは朝から蕎麦の準備で大忙しだ。
僕に出来るのは袋詰めと、月子さんの姿を見守る事だけ。
そうして開店時刻である13時の30分前には大量の蕎麦セットが出来上がった。
「これで、もしスーパーで蕎麦が買えなかったって人が来ても大丈夫ね」と月子さんは笑った。
店の前に机と椅子とストーブを置き、簡易の販売スペースを設ける。
仕込みの準備でろくに休んでいない月子さんに遅い昼食をとってもらう為、暫くは僕一人で売り子をする事にした。
冬の乾いた青空、何の変哲もない電信柱、気まぐれに歩く猫。
この何処の街でも見れそうな光景が、月子さんにとってはかけがえのないものなのだろう。
椅子に腰かけながらぼんやりとそんな事を想う。
暫くすると知夏ちゃんがやって来た。
「なんか宮越さんがエプロン着けてここに居ると変な感じ」とからから笑う。
つられて僕が笑うと、「やっぱり宮越さん、笑ってた方がいいよ」と彼女は言った。
「なんかよく分からないけれど、月子ちゃんと宮越さんはずっと離れずにいる予感がする。
だってね、めちゃくちゃ似た者同士なんだもん。
月子ちゃんはね、いつも他人の幸せばかりを祈ってる人なの。だから、月子ちゃんの幸せをちゃんと側で叶えてくれる人が現れないかなあってずっと思っていたの。
もしかしたら、宮越さんがその人なのかもね」
僕は、彼女が言っている事が分かるようで分からなかった。
分からなかったけれど、ゆっくりと深く頷いた。
それから知夏ちゃんは「じゃあ月子ちゃんとお店の事、よろしくね」という言葉と共に、4人分の年越し蕎麦セットを抱えて帰って行った。
それから色んなお客さんが来た。
殆どはこの店の常連客で、僕も何となく顔を知っている人達ばかりだった。
勿論、大晦日の営業を切に願っていた山田さんもやって来て、嬉しそうに家族と近所の人の分までもの蕎麦セットを購入して帰って行った。
笑顔でやって来る客を見て、僕はこの店が、月子さんが、そして月子さんの家族までもがこの街の人々に愛され、そしてこの街を愛しているのかを知った。
なのに、大晦日という一年で最も温もりある一日を彼女は何処かも分からぬ場所で過ごさねばならないのだ。
無論、僕も同じなのだけれど。
日が傾き始めた頃、「お疲れ様」と月子さんがお茶を淹れて来てくれた。
「もうそろそろね」
遠くを眺めながら彼女が言う。
僕も何となくだが、もうじきその時がやって来るのを感じた。
二人で黙って夕焼けに染まっていく空を眺める。
何処かで子どもの笑い声が聴こえる。
何処かで美味しそうなご飯の匂いがする。
目の前では、気まぐれな猫が背伸びをしている。
そして、隣には月子さんがいる。
僕は独りが楽で、独りが好きで、独りで生きているのだと思っていた。
けれど、違う。
ずっと独りのようで、独りでない世界で暮らしているのだ。
そう思った瞬間に、世界の明るさが、匂いが、温もりが変わった。
一瞬前と変わらない光景なのに、全てが静寂に包まれている。
今年もあの瞬間がやって来たのだ。
指先から身体が冷えていくのが分かった。
しかし次の瞬間には、またじんわりと熱を取り戻していく。
何だろう、と右手を見ると、白くて細い手が僕の手を包んでいた。
そうだ、今年は月子さんがいるんだ。
「本当に月隠れの人なんですね」
困ったように月子さんが笑う。
僕はどんな表情で返したらいいか分からなくて、同じように笑った。
「宮越さんに、今日お店を開こうって言ったもらった時、嬉しかったんです」
ぽつりぽつりと月子さんが話し始めた。
(八)
大晦日に店を開けるのは、叶う事の無い願いだと思っていた。
それは父も同じだった。
街の蕎麦屋として、年越し蕎麦を振る舞えたらどんなに嬉しく、どんなに幸せな事だろう。
ささやかな願いかも知れない。
けれど、生まれつき特異な体質の私達にとっては呪いのようでもあった。
でも、宮越さんのお陰で、やっと私たち家族の願いを叶える事が出来た。
私独りでは、絶対に出来なかった。
何か工夫をしたり、知恵を絞れば普通に出来た事なのかも知れない。
だけど、その一歩を踏み出す勇気が何故かそれまでの私には無かった。
今年、宮越さんと出逢って、私と同じ運命を背負う人と出逢って、独りでは無い力の大きさを、誰かに背中を押してもらう事の強さをようやく知った。
そんな事を話す私の隣で、宮越さんは暗すぎる空を真っ直ぐ見上げていた。
(九)
その静かな世界に居る間、僕らはお互いの事を話し合った。
自分の生い立ち、家族の事、仕事の事…。
月子さんと二人だけでゆっくり話をしたのは初めてだった。
なのに会話は途切れる事なく、ゆったりと流れるように続いていた。
そうして時間は過ぎて、気がつくと自分を纏う空気の情報量が増しているのを感じた。
年を越したのだ。
再び元の世界に戻って来たのだ。
遠くでは、初詣に出掛けているのだろうか、子どもの笑い声が聞こえる。
机を見ると、最後に見た時には幾つか残っていた蕎麦セットが全て無くなっていた。
代わりに、無くなった分の蕎麦のお金と幾つかのメモが残されていた。
そのメモには「大晦日に蕎麦を売ってくれてありがとう」というお礼や、来年の月子さんや僕の幸せを願う言葉が記されていた。
ふと隣にいる月子さんを見ると、一枚のメモを持って立ち尽くしていた。
覗き込むとそこには丁寧な文字でこう書かれていた。
『ようやく願いが叶いましたね』
月子さんの肩は静かに震えていた。
そんな彼女の姿を眺めながら、そういえば、誰かと一緒に年を越したのは幼い頃以来だった、と今更ながら思い返した。
(十)
よう、お兄ちゃん。明けましておめでとう。
大晦日はありがとうな。
旨え蕎麦が食えて、良い一年の締め括りだったよ。
月子ちゃんを説得してくれたの、お兄ちゃんなんだってな。
お前さん、静かそうなのになかなかやるじゃねえか。
そう言えば、何だか顔付きも変わったように見えるしよ。
まあ俺はお前さんの事、初めて会った時から見どころのある男だと思ってるんだぜ?
それでさ、お前さんは月子ちゃんの事、どう思ってんだよ?
おいおい、とぼけるなよ。月子ちゃんに惚れてるんだろ?隠さなくたっていいさ。
なあに、恋愛相談だったらこのジジイが…って、知夏ちゃん、別に虐めちゃいないって。
そうだ、俺との約束を果たしてくれた御礼にまた蕎麦奢ってやるよ。
何がいい?何でもいいぜ?
ほうほう、そう来たか。
お前さん、俺の事もなかなか好きだろう。
なーに、にやにやしてんじゃねえよ!
じゃあ、知夏ちゃん、月子ちゃん、このお兄ちゃんに鴨南蛮ひとつ!
さあさ、ここの蕎麦食って、今年も元気に楽しく過ごして行こうぜ。
…はははっ、お兄ちゃん、本当に良い表情するようになったなあ。