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上京、帰郷、上京。

【十二月三十日 午前十時十五分】


品川駅のホームには、東京を離れ帰郷の途につくため、多くの人が新幹線を待っていた。楽しげに跳ねたり駆けたりする子どもたちを尻目に、大人たちはまだ「行き」なのにどこか疲れた顔をして、スーツケースに身体を預け乗車待ちの列に並んでいる。

「ごめんね……。朝早くから付き合わせちゃって……。かばん、重くない?」

 桜子(さくらこ)が、心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。僕は笑って首を横に動かす。この質問は何度目だろう。正直重いは重いが、僕は彼女にまた「大丈夫」と笑いかけながら伝える。

 指定席の乗車口に僕らは立っている。もうすぐ彼女が乗る新幹線が東京駅からやって来る。二時間半ぐらいで大阪に着く。さらにそこから特急で三時間で彼女の実家につくらしい。朝から出発して、着くのは午後から夕方になってしまうなんて、腰とお尻が痛くなりそうだ。

 それにしても……今日の桜子はどこか変な気がする。普段から静かな人ではあるけれど、さりげない仕草に違和感がある。

 彼女の格好は、大学で見るのと変わらない。色褪せたインディゴブルーのジーンズを掃き、上には防寒のためにダウンジャケットを羽織っている。前を閉じているが、なかにチェック柄のシャツを着ているのだろう。髪も特に変更はなく、少し波うった美しい黒髪を、適当にサイドで緩く結んで、そのまま肩に落としている。

 服装はいつも通りなのに、隣に立っていても不穏な緊張が伝染してきて、どんな声を掛ければいいのか思わず戸惑ってしまう。

 大学二年生の冬休みにして、上京してからはじめての帰郷だという。産まれて一度も引っ越しをしたことのない、実家暮らしの自分にはわからないような、故郷に対しての思いを感じているのだろうか。

 そんな逡巡のなか、結局気の利いた言葉のひとつ思いつかなかった。人の気もしらないで、時間切れだと言わんばかりに威圧的な警報を鳴らしながら、大阪行きの新幹線が入線してくる。灰色の車体が目の前を過ぎていき、だんだんと窓の向こうの乗客の顔が窺えるようになったころ、電車は停まりため息のような熱気を吐き、入口を仕方がなさそうに開けた。

「電車来たね……。気をつけて行ってきてね」

 凡庸な見送りの言葉しか出なかった。桜子は僕から旅行鞄を受け取ると、小さくお辞儀をしてから、僕に背中を向け、他の乗客と同じように順々に入口に向かう。

 僕はその姿から思わず目が離せなかった。

 そんな僕の視線、心中に気づいたのか、乗車する直前で桜子がこちらを向いた。横にずれて後ろの人に先を譲り、僕のことを見つめる。

 僕は、なんて声をかければいいのか戸惑って、結局なにも言えなかった。

 桜子は、少し寂しそうな表情で言った。

「一月四日の午後二時半、またここで会ったとき、私がどんな風になっていたとしても、あなたは受け入れてくれますか?」

「え、……そりゃあもちろん。僕は桜子さんを裏切らないよ」

「よかった……。これで私、頑張れます」

「……はぁ」と腑抜けた返事をする僕にもう一度頭を下げ、桜子は電車の中に消えていった。

 やがて電車のドアは閉まり、彼女を乗せた新幹線は西へと旅立っていった。

 永遠の別れなんてとんでもない。数日程度の帰郷。たかだかそんな短い期間の別離にいいようのない不安を感じるのは、僕が未熟だからなのかな。

 違う……と思う。

 先ほどの彼女の言葉が、僕をもやもやさせる。

 なんだか、今日のことを一生後悔する気がするんだ……。


【十二月三十日 午前十一時二十五分】


 品川駅から、家に帰るために地元の駅に戻ってきた。

 駅前を離れると人気がなくなり、住宅街に入るとまるで僕ひとりしか存在していないかのような錯覚に陥る。年末はどこか寂しくていつも感傷的になる。

心を暖めてくれるスマホは振動しない。

 住宅街の一角に、僕の住んでいる戸建てがある。鍵を取り出し、玄関のドアを開けて中に入った。この家は両親と姉の四人で暮らしているのだが、ほかのみんなは不在だと聞いている。なので「ただいま」は省略させてもらった。

 一階の洗面台でうがい手洗いをしてから、二階に向かう。階段を上がり廊下を歩いて、僕は自室のドアの前で立ち止まった。

ドアの隙間から灯りが漏れていた。出る前にたしかに消したことを確認したはずなのに……。

 たぶん記憶違いで朝急いでいて消し忘れたのだろうと思い、注意を払わずドアを開けた。

「あ、おかえりなさーい」

 誰もいないはずの家、電気が点いていた自室に人がいた。思わず後ずさり構えてしまった。

「なによ。そんなに驚いちゃって。まさか、わたしのこと忘れてないでしょうね」

 ベッドの上に座り、壁に背中を預けて僕の漫画を読んでいた女の子は、本から目を離し、疑りの目で僕を見てくる。

「……忘れてないよ。未来」

「そう。ならいいけど。あ、寒いから入るなら入って」

 この人物は、僕のよく知っている人だった。

 彼女の名前は東浜(あがりはま)未来(みらい)。不法侵入者だが、きっと泥棒じゃない。

 僕は言われるまま部屋に入りドアを閉めた。

 僕が怪訝な表情のままベッドに近づくと、彼女は本で顔の下半分を隠すような感じで僕を見上げ、頬の横でピースを作った。頭を抱えたくなった。

 未来は僕の幼馴染みだ。

 彼女の家は三軒隣なのだけれど、両親同士も非常に仲がよくて、小学生ぐらいまではよくお互いの家を行き来していた。

 高校まではずっといっしょの学校だったのだが、僕は実家から通える大学を選んだのだが、彼女は専攻を学びやすい東北の大学を選び、僕たちははじめて違う学び舎に行くことになった。今彼女はひとり暮らしをしている。

 それでも大学一年までは、長期休暇の度にご挨拶や遊びに来ていた気がするのだけれど、二年になってからはいろいろ忙しいのか、もしくはタイミングが合わなかったのか、しばらく会っていなかった。

「未来。勝手に知ったるとはいえ、人の家に入るなんてだめだろ」

「勝手じゃないよ。香里(かおり)さんに許可もらってる」

 香里というのは僕の姉だ。今日は僕より後に家を出たはず……。

「だからって、僕の部屋に入っていいわけないだろう」

「なんで? あ、もしかして見られたくないものとか隠してるの~?」

「そういう問題じゃないの。プライバシーの問題だよ」

 もちろんそういう問題もあるのだが、家捜しされたくないので触れない。

「いいじゃん。私と良太の間にそんなもんないよー」

「あるよ……。未来だって僕に部屋を見られたり、恥ずかしいものを見られたらいやだろ……」

「うーん。べつにわたしは、平気だけど……?」

 未来は少し声のトーンを落としたものの、冗談ではなく真面目に、僕を見つめながらそう言った。そこに嘘はないように思える。

 即座に否定されるものだと思っていた僕は、上目遣いのままそんなことを言われて思わずどきりとした。

 僕は上着を脱いで掛けるためにクローゼットに向かった。

「もう部屋に入ったことはいいから……。なにか用があって来たんじゃないの……?」

「うーん。特に用があってってわけじゃないんだけど……。大学入ってからさ、あんまり会ってなかった気がしてさ……」

 未来は、小刻みに身体を揺らしながら、小声でそんなことを言う。

「そうかな……?」

「そうだよ!」

「でも仕方がなくない? 未来、東北行っちゃったし」

 僕がそう言うと、未来は「うん……そうなんだけどね……」と零した。なんだか元気がない。

 上着を掛けてクローゼットを閉めて、僕は少し離れたところから未来を見る。

「まあでも、久しぶりに会えて嬉しいよ」

「え、それ本当? 本当?」

 未来の表情が替えたばかりの白熱電球のように明るくなった。

「もちろん。久しぶりに地元の友だちに会えたら嬉しいじゃん。あ、今日の夜なんだけど、高校二年のときにいっしょだった高橋と福田に会う予定なんだけど、いっしょに来る?」

「……いかない」

 未来の表情が曇った。眉根を寄せ細まった目の奥が光っていて、こちらを射貫いてくる。正直恐い。今のやり取りのなかで、彼女の期限を損ねるところがあっただろうか。

 僕はなんだか落ち着かない気分のまま学習机の椅子に腰掛けた。未来も漫画に集中が戻ったようで、しばらく沈黙が続いた。

 やがて、未来が唐突に口を開いた。

「あのさ……もし良かったら、明日の夜、いっしょに初詣に行かない?」

「え、初詣って、元旦の昼間じゃなくて大晦日の夜から行くのか?」

 未来は相変わらず本で顔を隠しながら頷いた。

 ちょっと考えて、僕は返答した。

「いいよ。行こうか。」

 大晦日の夜は紅白とガキ使みたら寝るだけだし、翌朝早起きして福袋を買いにいく予定もない。行きたいのなら断る理由はなかった。

「やったあ!」

 また新しい電球に変わった。元旦に出掛けるだけなのに、こちらが眩しくなるぐらいの笑顔だった。なにがそんなに嬉しいのだろう。



 お昼過ぎに未来はようやく帰ってくれた。

 玄関まで未来を見送り、自室に戻ると、またしても侵入者がいた。

僕のベッドの上にひっくり返って横になり、漫画を読んでいる。僕の二歳年上の姉である香里だった。

「よー。色男さん。両親の留守中に女の子を家に入れるとは、やるねえ」

「姉さん。未来を家に入れただろう。母さんも父さんもいないのに駄目じゃないか!」

「えー。別にいいじゃん。未来ちゃんはうちの子みたいなものなんだから」

 姉はくちびるを尖らせる。たしかに未来は子どものころからうちに出入りをしていて、家族の一員のような感覚はみんなが共有している。特に姉は、ふたつ歳が違う未来のことを可愛い妹のように思って接しているところがある。

「でもさ……いちおう違う家の子なんだから……」

「うるさいなあ。あんまりごちゃごちゃ言うとモテないよ」

 むちゃくちゃなことを言ってくる。そもそも僕には桜子がいるのだからモテは必要ないのだけれど。

「ね、ね。明日二人で出掛けるの?」

「うん。なんだか流れでそうなった」

 本当に、流れでそうなってしまった。深く考えずに決めてしまったのだが、夜なので相当冷えそうだ。防寒対策をしっかりしていかなくては……。

「未来ちゃん。また可愛くなったよね。少しずつ大人っぽくなってきて、いい感じだよね」

「はあ……」

 外見の話……だろうか。未来は昔からしょっちゅう男子に交際を申し込まれていたし、友だちも多い方だった。でも性格は甘えん坊で子どもっぽいところがある。僕も彼女のわがままに振り回されたことが何度もある。まあ、男と女ではかわいいの基準なども違うというし、一般的な男子や香里は未来がいい感じなのだろう。

「……あんたさ、あの子とまだ付き合ってるの?」

「桜子のこと? もちろん付き合ってるよ」

 そうなんだ……と香里は言う。その表情はどこか浮かないものだった。

 桜子の話が出て、僕は不安から思わず言い出していた。

「姉さん。ちょっと相談に乗って欲しいんだけど」

 今朝、桜子を見送ったとき、彼女の様子がおかしかったこと、感じた不安、それ以来連絡が来ていないことなどを伝える。

「……あんた、そんな束縛タイプだっけ?」

 そうなんだよな。普段は彼女を信頼しているから、少しの間連絡がとれなくなったぐらいで気になったりしないのに……。

「でも、彼女の方はあやしいわね。もしかして、地元に男がいるかも」

 姉とはいえ、女性の口からはっきりそう言われて、僕はどきりとした。

「その子、あんまり地元とか家族の話したがらないんでしょ? それって、あんたや東京の人間関係に知られたくない、なにか後ろめたいことがあるんじゃないの?」

 彼女はなぜか地元でのことを話してくれない。避けているような様子もうかがえる。

「まあ、浮気をしてるのはあんたも同じようなもんだけどねえ」

 香里はにやにやしながら言う。意味がわからない。僕は桜子のことだけ考えていて、浮気なんて考えたことがないのに。

「あんた……鈍感もいい加減にしなよ」

 姉はなぜかあきれて、目を瞑り鼻を押さえるをような仕草をした。やっぱり意味がわかなかった。


【十二月三十一日 午後十一時十分】


 桜子からは、連絡はない。

 「年越しのテレビは何を見るの?」と軽い話題を送ろうかと思ったが、なんだか送信ボタンを押す勇気が出ず、スマホのアプリを閉じてしまう……。


 紅白のトリが出てくるところで、呼び鈴が鳴った。

 既に準備を整えて居間のこたつにいた僕は、両親に「初詣」に行ってくると告げて部屋を出た。

 父と母は「あたたかくしていきなさいよ!」とか「未来ちゃんによろしくね」とか声をかけてきた。

 香里はこたつにうつぶせに横になったまま、「がんばりなさいね」と言ってきた。人混みとか寒さに気をつけろということだろうか。

 玄関のドアを開けると、未来が飛び込んできた。

「さむいよー。あ、こんばんは」

 未来は手を合わせながらにこりと笑う。ウールのベレー帽を被り、首元には暖かそうなマフラーを巻いている。小さなバックを背負い、身を包む上着は淡い水色の暖かそうな質感のコートだ。前を合わせているのでその下になにを着ているかはわからないが、黒いタイツを履いている。きっと「極暖」などの暖かいやつだ。手にもミトンのような大きな手袋を嵌めている。

 昨日はうちに来るだけだったので薄着だったが、今日は暖かくしてきているようだ。

「……どうしたの? まじまじ見ちゃって」

「未来の今日の服、とっても似合ってるなって思って」

 僕は靴を履きながらそう言った。昔から見てきているが、未来はやっぱりお洒落だな。それに比べて僕は、昔からセンスがない。

 それでも桜子と付き合うために、香里にいろいろ教えてもらったので、少しはましになったと信じたい。

「あ、ありがと……」

 未来はなぜか顔を赤らめて、もじもじしていた。

「あ、おばさま。おじさま。香里ちゃん。いってきまーす!」

 未来は慌てて居間にいる三人に声を掛けた。


【十二月三十一日 午後十一時五十分】


 神社の境内には既にたくさんの人で賑わっていた。参道に続く道にはたくさんの出店が並んでいて、暗い夜を電球で照らし、発電機の震える音と人々のざわめきが地上に溢れていた。

 大鳥居の近くまで人の姿が伸びていて、手水舎にも列が出来ていた。それでも省略することをよしとせず、僕たちは寒さに縮こまりながらも手や口を清め、列に並んだ。

 しばらくすると、誰かがカウントダウンをはじめた。もうすぐ年が開けるのだ。十……九……八……七……六……五……四……三……二……一……ゼロ!

「あけましておめでとう!」

「うん。あけましておめでとう」

 隣に並ぶ未来に声を掛けた。

「なんだかうれしいな。良太といっしょに年越しできるなんて」

 マフラーに顔をうずめた未来はにやにやして、なんだか嬉しそうだ。

「そう? ありがとう」

 僕も今年最初に会ったのは未来になるのか。それはそれとして、あけおめメールを桜子に送りたい。あとで時間をみて送ろう。

「今年もよろしくお願いします」

「えっ! は、はい! こちらこそお願いします」

 未来はなぜか飛び跳ねるように驚いて、かしこまった風にそう言った。


 お賽銭をあげてから、おみくじを引いた。

 僕は中吉だった。待ち人は来たらずと書いてあって、思わず苦笑いをした。

「未来はどうだった?」

「いや! 見せない!」

 こそこそ僕に見えないようにおみくじを見ていた未来は、むきになりさっさとそれをポケットにしまった。よほど悪かったのだろうか……?

 でも僕がおみくじを結んでいるとき、彼女は俯いているだけで、そのおみくじを結ぼうとはしなかった。


「寒いし、そろそろ戻ろうか」

 ひととおりのことを終えたので、僕は未来にそう提案した。しかし未来は首を縦に振らず、僕の腕をとって歩き出す。

「ちょっと、どこ行くの?」

「いいから……来て……」

 未来の険しい、それでいてどこか切ない表情に、僕はされるがまま彼女について歩き出す。

 足を止めたのは人気のない駐車場の脇だった。屋台の灯りも新年に浮かれる人々の声もここには届かない。見上げれば街灯が、眼下の僕と未来を冷たく照らしていた。

「いったい、どうしたの……? 具合悪くなった……?」

 俯いて表情を見せない未来の顔を僕は覗き込もうとする。しかし彼女は身を捩ってそれをさせないとする。

 それでも一瞬彼女の表情が見えてしまった。

 彼女は、頬を赤くして、その大きな瞳から涙を流していた。

「……いつでも、そうだよね」

 彼女は、少し震えながら、絞り出すような声で言った。

「……優しくて、他人のことによく気が付いて、ほんと、いいひと」

 表情を腕で隠している。でも、泣いているのはわかる。声に涙が滲んでいる。

「……でも、誰にも優しいし、本当は鈍感なんだよね。ほんと、腹が立つ」

 彼女は、踏みしめるように一歩前に出てくる。思わず後ずさりしそうになるが、踏みとどまる。

「……おみくじ、大吉だったの。恋愛運も最高だったの……」

「え……それならば、なんで見せてくれなかったの……?」

「言うまえに言ったら、上手くいかない気がしたから……!」

 そう言うと、彼女は大股で僕の懐入り、僕の胸ぐらを掴む勢いで、まるで抱きつくように懐にしがみついてきた。

「……わたしは、良太のことが好きんだよ」

 縋りつくように、僕の顔を見上げてくる。涙が絶え間なく流れる表情は、一切の音が失われたように静かで、しかしその裏に感情が剥き出しであることが透けて見えて、彼女の言葉が嘘ではないことを教えてくれる。

 僕は、彼女の身体を優しく両手で支えて立たせてあげて、ポケットから出したハンカチで涙を拭いてやる。

「……ほら。いい年して、お洒落さんがだいなしだよ」

 彼女は僕にされるがままにされていた。

 しかし、その表情はだんだんと曇っていった

「……やっぱり、良太は良太だよね。とても優しい人……」

 さっきまで泣いていた未来は、自嘲気味に笑う。

「そして、やっぱり鈍感で、人の気持ちを考えない、自分勝手な人!」

 未来は僕の手を払いのけた。咄嗟のことに驚き反応できない僕を尻目に、さっさと境内の方へ駆けていってしまった。

 彼女は一度も振り返ることなく、その姿は見えなくなってしまった。

 未来を探したが、人混みに紛れてしまい、その姿を見つけることはできなかった。

 桜子からの連絡はない。


【一月四日 午後一時二十分】


 三が日をほとんど家からも出ずに悶々として過ごした。意味深な言葉を残して僕の元を離れ、連絡が繋がらない桜子。心配で仕方がない。不安でしょうがない。いてもたってもいられないのに、僕にはなにもできない。

 そして、彼女のことを考えると、どうしても未来のことも頭に浮かんできてしまう。

 大晦日に、僕に突如向けられた好意を、どう扱っていいのか。僕は結論が出せずにいる。

次に顔を合わせたとき、あれは冗談だと笑うかも知れない。もしくはなかったことにして欲しいと頼まれるかもしれない。

しかし、僕はあの日、彼女が気持ちを振り絞った心の内を垣間見てしまった。

彼女が望むのならば演技してもいい……。

でも、僕の心はこんなにも宙ぶらりんで、それが誠実なことなのか迷い続けている。


 もうすぐ、桜子が地元から東京に戻ってくる。

 駅に迎えにいくために、僕は上着を羽織り、部屋を出た。

今日も両親は不在で、香里の部屋も不気味に静まりかえっている。

 階段を下りると、頭上でドアの開く音がした。

「良太。ちょっと待って」

 香里が階段の上から僕を呼ぶ。僕は階段を少し戻り、彼女を見上げた。香里はパジャマ姿で髪もぐしゃぐしゃだが、寝ぼけてはおらず、真剣な表情だった。

「良太。あんた、あの子に会いに行くのね」

 僕は頷いた。このことは三十日に話してある。

「……あのさ、未来ちゃんのことだけどね」

 半信半疑ではあったが、姉の気まずそうな顔で確認が持てた。

初詣の一件を、姉は知っている。

「……未来ちゃんをたきつけたのは、あたしなんだよ。自分の想いを伝えないと、きっと後悔するよって背中を押してしまった」

 姉は知っているどころか、黒幕だったようだ。

「……あんたには悪いことをしたと思っている。あんたが誰を好きになろうが、誰と付き合おうが、それはあんたの勝手なんだけど……」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で、言葉を探している。

「……あたしはさ、未来ちゃんを妹だと思ってる。父さんも母さんもきっと娘のように思ってる。こんなかわいくていい子が本当に自分たちの家族になってくれたら、こんな嬉しいことはないって。……未来ちゃんのこと、一度ちゃんと考えてくれないかな? 未来ちゃんなら、少なくともあんたを不安にさせたりしないと思うよ」

「……行ってきます」

 香里の悲しそうな顔を振りきり、階段を下りて、そのまま家を出た。


【一月四日 午後二時三十分】


 五日振りの品川駅のホーム。帰省ラッシュのピークは昨日だったみたいだけれど、それでも乗車率は百パーセントを超えている。ホームでも真っすぐに歩くことが困難なぐらいに人がいる。

自由席から出てきた家族連れは、行きでみたときよりもやっぱり疲れていて、あれほど元気そうだった子どもも眠ってたりどこか元気がなさそうに、手を引かれて階段を下りていった。

 桜子からの連絡はない。もうすぐ、彼女が帰ってくる予定の電車が入線してくる。心臓の音が聞こえそうなぐらい、強く早く拍っている。この数日間悩み続けたものの答えがもう少しで得られる。しかしそれは期待ではなく、不安なのだ。

 そして、新幹線がホームに滑り込んできた。澱みのない機械的な動きでホーム側の待機列と一寸の狂いもなく停車し、稼働音を鳴り響かせながらドアが開いた。

 桜子が……出てきた!

 格好は、見送ったときと同じだった。でも、なんか汚れている気がする。しかも、顔色が悪い。少し痩せたように思う。たった数日なのに、しかも正月なのに、なにがあったのだろうか……。

 僕が駆け寄るより先に、荷物を持った桜子がこちらに歩いてきた。そして少し距離を置いて僕の前に立つと、頭を下げた。

「良太さん。わたしは、許嫁と結婚することになりました。大学も辞めることになりました。今まで、お世話になりました」

 彼女は決定事項を告げるように、

 事務的に平坦に情報だけを僕に与え、

 そこに双方の感情は交差することなくあくまで一方通行に、

 要件は終えたとばかりに振りむくこともなく、

 もう一度新幹線に乗り僕の元から去って行った。


 なにもかもが意味を失った皮だけの世界が残された。

 そこに温かな光が射す。未来からLINEが入った。


 世界が意味を取り戻す。

「今日の夜、部屋に行っていい……?」


 僕は未来に返事を送った。



【十二月三十一日?】


 暗くて冷たい水の上に横たわり、闇の中をただ彷徨い続けている。浮遊感はノイズのような思考を許さず、一切の知能が抜け落ち、中身がからっぽの人形と化している。

 だから脳から湧き出るように溢れるのは過去の記録ばかりだった。自分でも心の奥底に沈めていた、忘れないけれども思い出さないように決めていた幼い日の活動写真たち。目を背けることはできない。

 今これを見せられているのは、この身体に流れる血のせいなのか。頭と身体を育んできた忌まわしき地のせいなのか。


 H県の日本海側に面するT市は、今でこそ山間の温泉地から海沿いの漁師町を含んだ大きな土地を持つ市になっているけれど、元々は国道や鉄道路線に沿って小さな街が点在していた。

 そのなかのひとつに、稲作を中心に産業を発展させてきた街があった。かねてから大地主として幅を利かせ、自らの一族や息の掛かった人間を行政や商売、医療に教育などを司る各部門に送り込み、この街で生きていくには誰も逆らえないほどの権力を誇った一族。

 それが私の実家である西潟(にしがた)家だった。


 西潟桜子は西潟家本家筋の長女という扱いだ。

 しかし、西潟家にとって長女というのは特に意味はない。

 かつてこの国の奥地で多く行われていたように、西潟もまた、跡継ぎとなる長男が特権を得る。そこから漏れたきょうだいはあくまで長男を盛り立てるために尽くすことが求められる。

 長女として誕生した私は、周りから大事に育てられた。弟であり長男である四郎が生まれてからも変わらなかった。それはあくまで私が「宗家の娘」であるからだった。

 私に期待されているのは、本家の娘としていい縁談を貰い、西潟のさらなる発展に貢献することだった。そんな私を「出荷」する前に「きずもの」にされては困るのだろう。

 常に心の内に居心地の悪さを感じていた。それでも西潟の人間として育てられた私に逆らう気力などはなく、気づけば高校卒業が迫っていた。


 十八歳を迎えると、縁談が舞い込み始めた。解禁された漁のようだった。周囲は喜び写真や釣書をかるたのように比べていたけれど、私は暗い気持ちだった。

 このままでは、私はこの山に囲まれた土地で、自分の意思などなく、一生を過ごすことになってしまう。それは、どうしても嫌だった。

 私は、父に申し出た。

 将来当主となる四郎を支え、西潟家のさらなる発展のためにも、外の世界を体験し、勉強しておくことが必要。だから大学に行き、経済を勉強したい。それにこれからの時代当主となる弟も、この時代は外で勉強する必要があって、後々大阪か東京へ進学するだろうから、その下見もかねて、私は一足先に大阪か東京へ行きたい、と。

 母は反対していたが、父は迷った挙げ句に私の提案を受け入れた。

 私は東京の大学を受験し、見事合格した。

 そして十八の春からひとり暮らしをはじめた。


 週に一度の定期の報告、重要な決断については実家の判断を仰ぐ、連休の度の帰省を行うなどの「東京に出て行くための条件」はすべて反故にした。選挙権の関係といって強引に住民票も移してしまった。もう二度と西潟には帰らないと心に決めていた。誰も私のことを、西潟のことを知らない場所でひとりで生きていたかった。

 最初の頃こそ怒濤のごとく実家から連絡が入ったが、今はもうほとんど来ない。諦めたのだろう。連れ戻しに来ることもあるかと不安に襲われていたこともあったが、田舎では大きな顔をしていられる西潟家も、東京には及び腰のようだ。


 もうすぐ東京に出てきてから二年が経つ。もう戻らないと思った西潟家のあるH県に、久々に帰省することになった。

 妹の向日葵から連絡があった。使用人として働いていたおじいちゃんの調子が悪く、もう長くないかもしれない。おじいちゃんは最後に、私に会いたがってるとのことだった。

 私のことを特別扱いせずに、どこにでもいる普通の娘として子どものころからかわいがってくれて、私も大好きな人だった。

 迷ったのだが、おじいちゃんに会いに行くことにした。私が突然出てきてしまって戻らなかったことで、いろいろ迷惑とか心配をかけた人もいるはず。これを機に、自分が健在であることを見せて、謝罪とお礼を、そして別れの挨拶をすることが必要だと思ったのだ。


 しかしそれは、西潟家と直接対峙する機会でもあるわけで、戻った私が無事でいられるかもわからない。

 だから私は、東京で出会い好きなった人に、こう言った。


「一月四日の午後二時半、またここで会ったとき、私がどんな風になっていたとしても、あなたは受け入れてくれますか?」


 彼はきょとんとしていた。それはそうだろう。意味がわからないし、重すぎる。

 でも、その約束があるから頑張れる。絶対に、東京に彼のもとに戻るんだと思える。


 闇の中に、急激に光が射して目が眩む。久々に開いたまぶたはおっかなびっくり開いていき、涙でぼやけた視界が少しずつ広がるとともに明瞭さを取り戻す。横たわる私の正面には、塔のような高い天井がある。そこに取り付けられた天窓までの距離はどのくらいだろうか? 腕を伸ばしても到底届かない。

 ゆっくり身体を起こすと、自分が板の間に寝かされていたことがわかった。四畳ほどで、机すらない質素な部屋。私はこの場所を知っている。部屋四面のうちの一面……私の目の前には鉄格子が嵌められているのだ!

 ここは西潟家の屋敷の奥、半地下に存在する座敷牢だ。

 鉄格子を揺する。年季は入っているはずなのに、びくともしない。

「だれかー。だれか来て下さい!!」

 私は叫んだ。冷たい廊下に声が響く。むなしく消えていく。

 ここは人気がない。生物の匂いすらまったくしない。

 持ち物も取り上げられてしまっていた。

 自分ではなにもできない。ただただ、誰かを待つしかない。


 時間の感覚はない。天窓の向こうを見て、なんとなく経過を想像する。目覚めたときはたぶん昼間で、今は夜になりかけている。電気もついていないこの狭い場所で、私は迫り来る暗闇に怯えている。

 そのとき、遠くで足音が聞こえた。だんだんと、近付いてくる。闇に落ちかけた廊下を、怪しい橙色の灯りが照らしている。私は思わず鉄格子の前で正座してそれを待った。

 そして、その人物が近付いてきた。

 手持ち提灯に照らされた顔は薄暗かく、会うのは二年ぶりだったが、その人物は私のよく知る人で間違いなかった。

向日葵(ひまわり)……」

「……お久しぶりです。お姉様」

 彼女は毛先が美しく揃えられたマッシュショートの黒髪。頭頂部には赤いカチューシャを嵌めている。胸もとに黒いスカーフ、肩から胸のあたりと袖に白いフリルが施された紺のワンピースを違和感なく着こなしている。

 お嬢様然した格好と、この寂しい座敷牢の空気、頼りない橙色のあかり。そのあかりが照らす、お人形さんのように可愛く感情のない冷酷な表情。あまりのミスマッチさに、私は恐ろしさを感じる。

「向日葵……あなた……あなたが、わたしを……」

「聡明なお姉様。今回の件は、私の発案です」

 西潟の最寄りではない、市内の中心の駅に迎えの車が来ていた。その車に乗りしばらく行ったところで、私は意識を失ったのだ。きっとどこかのタイミングで一服もられたに違いない。

「どうして……こんなことを……」

「約束を破って逃げたのはお姉様でしょうに」

 向日葵の声にも感情は薄く、ただただ私を見下し、包み込むように詰ってくる。

「ねえ聞いて。向日葵。西潟家に縛られて一生を終えては駄目……」

「お姉様。あなたは勘違いをされておられます」

 向日葵がちょうちんを床に置き、片膝ずつ床に足をつき正座する。そして、鉄格子越しに私を見据える。

「私は、自分の意思で西潟の女であることを選びました。一族の歴史と誇りを継承し、領民と地を治める者として、これからもここに居続けます」

 その瞳に宿る光の強さは、あまりに真っ直ぐすぎて、私は鋼鉄の意思を覆す術を持たないことを思い知らされた。

「……向日葵。あなた、変わってしまったのね。あなたは立派な西潟の女よ……」

「私には褒め言葉です。……それでは、西潟家としての責務を果たしましょう」

 穏やかに口の端を持ち上げると、向日葵はワンピースのポケットからなにかを出した。彼女が見せてくるそれは、ケースに入ったスマホだった。

最初は向日葵ものかと思ったが、見覚えがある……。

「それ……まさか……」

「……そうです。あなたのスマートフォンです」

 向日葵の顔を、スマホの灯りが下から照らす。崩れた幽霊の顔が映ったように見えた。 

「北里良太さんというのは、あなたの恋人ですか? 何度もLINEを送ってきていますし、電話も掛かってきてますね。お姉様は信用されてないんじゃないですか……?」

 頭に血が上って鉄格子など見えず向日葵に向かって突進していた。良太の顔が浮かんだ。なんとかあのスマホだけは取り返さないと……。

 しかし、向日葵はある程度予測していたのだろう。さっと後ろに飛び退き、私が格子の隙間から伸ばした手を足で軽く払った。

 さらに伸ばされた私の右腕を掴むと、上方にねじ上げた。慌てて引っ込めようとするが、痛みを伴い、神経が寸断されてしまったように、私の意思が固められた腕に伝わらない。

 そのまま向日葵は私の指をとって……スマホに導いた。

「……まさか! 指紋認証を……」

「そうですよ。本来眠らせてから行おうと思っていましたが、ちょうど良かったです」

 足掻くが、その細腕のどこそんな力があるのか、ぴくりとも動かない。彼女の導きに逆らえない。

 指紋認証は突破されてしまい、私のスマホの中身が西潟家に渡ってしまった。

 腕の拘束を外される。まるで野生の獣ように格子の向こうにいる向日葵に飛びかかろうと腕を伸ばす。柵に体当たりをする。唸り声を上げる。

 フリックしながらスマホの画面を興味深く見ている向日葵は、そんな私のことを見向きもしない。ただただ頷きながら、スマホの情報を確認している。

「……寒くなってきましたね。ここは暗いですし、私は一度戻ることにします」

 足下に落ちたちょうちんを拾うと、スマホをポッケに入れて、私を見る。鉄格子の向こうの彼女は、穏やかな笑顔のなかに、侮蔑があった。

「安心しておいて下さい。お姉様。良太さんには私から返事をしておきます。お姉様はもう戻らないことをお伝えしておきますから」

 それでは……といい、向日葵はその場を去って行った。

 私は、その場で崩れ落ちた。嗚咽が止まらない。

 自分がやっとのことで手に入れたものたちが、音を立てて崩れおちていく……。

 この地で私は朽ちていくしかない。


 底冷えする夜の寒さに身を震わせる。指先からはじまった感覚の喪失は、やがて脳にまで辿り着き、私から思考力と、希望を奪った。

 このままではここで死ぬかもしれない。でも、それでいいのかもしれない。西潟家はもう今後決して私を外には出さないであろう。やつらに隷属して生きるぐらいならば、この場で決着をつけるという手も……。

 だめだ! だめ! 東京に帰るんだ!

 寒さを振り払うように身を起こして心を奮い立たせる。

 しかし、持ち物もなく、誰かを読んでも来てくれないこの状況で、私はどうすればいい……。

 周囲を見渡す。天窓からは夜の月の光が暗い座敷牢に差し込んでいる。その光は鉄格子向こう、先程向日葵が座っていた場所あたりを照らしていた。

 ……今の今まで絶望して気付かなかった。そこには希望があった。

 ……鍵が、落ちていた。駆け寄った私は手を伸ばしそれを掴む。そしてそれを格子の向こうに面する鍵の穴に差し込み、廻してみた。

 最初は錆のせいなのか動きが鈍かったけれど、やがて鍵は音を立てて解けた。鉄格子を押すと、廊下に出る道が開かれた。

 私は、逸る気持ちを抑えながら先に進み出した。

 この座敷牢が屋敷のどのあたりにあって、どの道を通れば人に見られないかを知っている。

 西潟家は大晦日から三が日にたくさんの分家の人間や街の有力者たちが代わる代わる訪問するので、人の出入りが激しいことも知っている。

 そして、父親の部屋になにかあるかも知っている。

 誰にも見られないまま、父親の部屋に忍び込んだ。


 父の部屋にある、小さなロッカー。

 机の引き出しの鍵を使い、扉を開く。

 木製と金属が、無骨にしかし精密に組み合わされた細長い筒が二丁掛けてある。

 それをロッカーから出して、バンドを肩にかけてみる。

 めりこむようにずっしりと重たい。

 私はそれに絶大な信頼を寄せる。嬉しくなって笑いたくなる。

 他にも、父親の部屋には飾ってあるものがある。

 ぎざぎざした金属の道具がたくさん額に入れられている。

 イミテーションかもしれないが、父は実際に使えると言っていた。

 それならば、これも必要になるだろうから持って行こう。


 『これを機に、自分が健在であることを見せて、謝罪とお礼を、そして別れの挨拶をすることが必要だと思ったのだ』。


 私は、東京に帰るんだ。


【一月四日 午後二時四十分】


 終点である東京駅に新幹線は向かっている。品川から東京は速度を落としていても数分で着いてしまう。

 何気なく視線を彷徨わせていると、ドア上方の電光掲示板にニュースが流れていた。


『速報。H県T市で、大量の人が死んでいるのが近所の住民の通報で明らかになった。現在警察による捜査中だが、犠牲者は家主の西潟三郎さん(四十七歳)を含め、0歳から九十八歳まで、三十三名の死亡を確認しており、今後さらに犠牲者が増える可能性も……』。


 周囲がにわかに騒がしくなり、慌ててスマホを取り出す人の姿が見られた。

残してきたことが露呈したらしい。

 いろいろ気をつけてきたが、日本の警察は優秀だからいつかは私に辿り着くだろう。


 東京駅で電車を下りた。

 さて、これからどうしようか。

 東京に戻るという目的は達成した。

 心を鋼にして頑張った。


 新幹線のホームから階段を下りて、改札を出た。

 東京駅の構内を当てもなく彷徨う。

 行き交う人の波に呑まれて歩く。

 時には逆らって歩く。


 わたし、どうして東京に戻りたかったんだっけ?

 

『お前は鬼だ。人ではない』

 向日葵は自分こそ鬼のような恨みの篭もった形相で、最後にそう遺した。

 私は『そうね……』と微笑んで、引き金をひいた。


 私は、どうするのが正解だったのだろう。

 もっと頭が良かったら、要領が良かったら、

 もっと上手く生きられたのかなぁ。


 影になった通路の端っこで、私は足を止めた。

 涙が溢れて前が見えなくなってしまった。

 泣くことが手をかけてきた人間への冒涜のように思えて涙を止めようとするのだが、止まらない。どんなに心を鉄と化そうとしても、止まってくれない。

 汚れた袖で擦りつけるようにして拭く。拭いても拭いても止まらずに、袖がだいぶ濡れてしまった。


「あの……大丈夫……?」

 誰かが私に話し掛けた。

 唇を血が出るくらい噛んで、なんとか涙を止めた。

 涙が止まったことを確認して、最後に強く袖で拭き取る、

 ぼやけていた瞳が、ゆっくりと彼の像を結ぶ。

 その意味を、私は知る。


『一月四日の午後二時半、またここで会ったとき、私がどんな風になっていたとしても、あなたは受け入れてくれますか?』


『え、……そりゃあもちろん。僕は桜子さんを裏切らないよ』


 東京に戻りたかった理由が、目の前に立っていた。

 私は彼の胸に飛び込んで、まるで今生まれたかのように声を上げ思う存分泣いた。


【???】


「私を許さないでください」

 私は言う。


「許さない。でも隣にいる」

 僕は言う。


 僕たちは、どこに辿り着くのだろう。


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