雪だるまの叫び
道路脇に二つ並ぶ不格好な雪だるまが、容赦なく降り注ぐ新たな雪に埋もれていく。雪に包まれた雪だるまは、いつまで形状を保てるんだろう。視界を覆われても尚、隣りに仲間が居ると信じて、「雪だるま」でいようと必死に抗うのかもしれない。
雪は音を吸収する。互いを呼び合う声は次第に遠のき、掻き消される。「ねえ、君はまだ隣りに居る?」静寂の意味を考える。
暗い。寒い。怖い。それでも呼び続ける。五感を全て奪われても、必死に叫び続ける。何度も何度も。そして全てを諦めた時、「雪だるま」は「雪」に還る。最期に、融けて「雪」になる間際に、僕は何を叫ぶだろう。
初めて降り立つ古びた駅舎の前で迎えの車を待ちながら、自身で生んだ空想に脅かされ、目頭が痺れてくる。また架空の世界に入り込みすぎた。
目で見える全てが一面の雪に覆われ、静かに舞い落ちてくる雪たちがその上に更に積み重なっていく。一歩でも前に進んだら、このスニーカーは容易く飲み込まれてしまうだろう。一月の山形を甘く見過ぎていた。軒先の下に居てもスマホの画面に雪の結晶がちらほらと降り注いでくる。赤くかじかんだ左手で画面を擦ってから時間を確認する。あの人は、もうすぐ来るはずだ。
2021年を迎え、自室でゲームに励んでいた1月4日。学校という束縛から解放され、僕は身も心も緩んでいた。中学に入ってからいじめは落ち着いたけれど、二年生になっても話の合うクラスメイトは一人もいない。冬休みに遊ぶ相手も、新年を祝うメッセージを送り合う相手もいない。でも、それを寂しいことだとは思わなかった。一人でゲームや読書をしている方が余程楽しいから。喧騒も馴れ合いも嫌いだ。干渉も同情も迷惑だ。クラスメイトたちと一切の関係を遮断できる冬休みは、僕にとって最上の穏やかな日々になっていた。
父さんは年末年始も相変わらず仕事に勤しみ、ハウスキーパーさんたちは僕の望みを察して、いつも通り放っておいてくれる。こんな毎日がずっと続けばいいのに。そう願うくらいにリラックスしていたから、自室のドアがノックもされずにいきなり開けられた時は、文字通り体が跳び上がるほどに驚いた。
「父さん!?」
「白越さんから電話があった」
外から帰ってきて、すぐに僕の部屋へ来たんだろう。コートとマフラーを身に着けたままの父さんは、いつもの如く険しい顔をしながら、床に寝そべる僕を見下ろしてくる。
「白越?」
「白越奏斗。三年ほど前、いつも来ていただろ」
薄靄が覆い隠す記憶の奥でひっそりと佇む一人の少年。嫌々ながらも無理やり引っ張り出してみる。ひょろりと背が高く、黒い服と黒いランドセルを身に纏う。黒い短髪。固く結んだ唇。切れ長の鋭い眼。その真っ黒な瞳は、いつもあらゆるものを睨んでいた。世界の全てを嫌悪するように。チビで、どんくさくて、弱虫な僕を軽蔑するように。
「奏斗君がどうしたの?」
「大晦日の夜に自殺したそうだ」
「自殺?」
「家族葬は今日済ませたが、お前にも来てほしいと言ってきた」
「僕が?どうして?」
奏斗君は小四の五月に近所へ引っ越してきた。ちょっとでも地震が起きたら崩れてしまいそうな、おんぼろのアパート。母子家庭で、おばさんはいくつかの仕事を掛け持ちしていた。その働き先の一つが父さんの会社で、同じ小学校の同じ学年ということもあり、日中はハウスキーパーさんが来ている僕の家で奏斗君を預かることになった。学校から帰り、夕食を食べ、おばさんが迎えに来るまで。学校が休みの日は一日中。僕たちは二人きりで過ごすことを強制された。
低学年の頃から虐められていた僕と、転校生の奏斗君。二人の共通点と言えば、学校に友達が居ないことくらい。でも、ミステリアスで近寄りがたい雰囲気の奏斗君は、男子にとっては畏怖の、女子にとっては憧れの存在で、僕みたいに虐められることはなかった。僕とは決定的に違う。
何か気に障ることを言ったら、父さんと同じように怒りだすかもしれない。同級生たちよりももっと酷く虐めてくるかもしれない。奏斗君の思考や感情はいつも読み取れず、僕はなるべく距離を取るようにして、気まずい時間を怯えながら耐え忍んでいた。
そんな日々が一年続き、進級を間近に控えた春休みに奏斗君は引っ越していった。それから三年以上も経っている。小学校での出来事は、全て消し去ってしまいたい悪夢ばかりだ。それらを心の奥へ封じ込めた時に、奏斗君も僕の世界から居なくなった。
「明日、行ってきなさい」
「明日!?」
「中学二年ならもう一人で行けるだろ」
「…どこ?」
「山形だ」
どうして僕が行かないといけないんだろう。自問自答を繰り返しつつも、いつも以上に不機嫌な父さんの命令を断る勇気は無い。明確な答えを見つけられないまま、翌日には東京から山形新幹線に乗り、電車を三回乗り換えて、この雪深い田舎の駅に辿り着いた。
奏斗君の死。どんなに考えても現実味が湧いてこない。奏斗君はもうずっと前に、僕の世界から既に消えた人だったから。今更死んだと言われても、僕の世界は何も変わらない。
記憶の奥から引っ張り出した奏斗君を少しだけ成長させてみる。中学の制服を着た奏斗君は、あの頃よりもっと鋭い眼差しで僕を射貫いてきた。「どうせ俺が死んだところで、お前は何も思わないだろう?」無口だった小学生の奏斗君の声は思い出せないのに、架空の「奏斗君」の声が僕を責め立ててくる。僕は今も昔も変わらず、奏斗君に何も言えない。心の中でぐるぐると巡る言葉の一片すら伝えられない。
再び思索に耽っていたらしく、すぐ近くで鳴らされたクラクションに腰が抜けそうになった。白い息を意識的に吐き出し、心を落ち着かせる。目の前に止まった軽自動車の窓が開かれると、色白で酷く疲れた様子の女性がぎこちない笑顔で僕の名を呼んだ。
「未來君、久しぶりね」
学校にも家にも緊張と苦痛しかなかったあの時、奏斗君を迎えに来るこの人の優しい笑顔に心を救われた。「いつもありがとう」と頭を撫でてくれる手が愛おしかった。こんなお母さんが居てくれたら、と何度も願った。
車窓から零れ出てくる温かな風が、僕の冷えた手を優しく包む。二体の雪だるまを残して、僕は助手席に乗り込んだ。
電気ストーブの温もりがゆっくりと部屋中へ広がっていく。雪を被っていても明らかに老朽していると分かる外観とは異なり、室内は比較的清潔だが、親子二人暮らしであっても相当に窮屈な住まいだろう。部屋へ入ってすぐにこじんまりとしたキッチン、左側にあるドアは恐らくトイレとお風呂。あとは奥に位置する、この部屋しかない。
隅には学生鞄が置かれ、ハンガーには学ラン、小さな本棚には教科書が並ぶ。必要最低限の物しかない部屋からは、ここに住む、いや、ここに住んで「いた」男子中学生の趣味や部活動は察せられない。ごちゃごちゃと物が充満する僕の部屋とは大違いだ。
おばさんがキッチンでお茶の準備をする音を聴きながら、窓際にある小机と向かい合った。二つの写真立てと二つの黒い位牌。写真に写る人物はどちらも僕を真っ直ぐ睨みつけ、狐目がよく似ている。奏斗君と、奏斗君のお父さんだ。
ずっと思い出さずにいた少年と、一度も会ったことのない男性のために手を合わせて目を瞑る。冥福を祈るべきだと頭では分かるものの、お祖母ちゃんが死んだ時のような感慨はわいてこなかった。元から無かったものを失っても、喪失感は生まれない。
テーブルに湯呑が置かれた音を合図に振り返ると、おばさんの寂しげな笑顔と一瞬だけ目が合ってしまった。視線を下へ向けながら炬燵に足を入れる。いくら大好きだったおばさんとは言え、人と話すのが苦手な僕にとって、今の状況は難易度が高い。しかも、おばさんは息子を失ったばかりだ。昨日から考えてきた言葉の数々が、喉元で虚しく消えていく。
「未來君は元気にしてた?」
「はい。あの……」
奏斗君との思い出話をしようとしても、僕と奏斗君の間にそんな美しいものは何もない。気まずい沈黙になることを恐れて、ずっと気になっていた疑問をまずはぶつけた。
「どうしてわざわざ僕に連絡をくれたんですか?」
「引っ越してからも毎年、年賀状をくれたでしょう?」
その瞬間、全身が凍り付く。おばさんの朗らかな表情と対称的に、今の僕はきっと酷い形相をしているだろう。
「新しい学校ではなかなか友達ができなかったみたいだけど、未來君から届く年賀状を毎年すごく楽しみにしてたのよ」
炬燵とストーブのおかげで体は温まってきたというのに、次から次へと鳥肌が止まらない。僕は年賀状なんて送ってない。父さんに昨日言われるまで、引っ越し先が山形だということすら知らなかったんだから。
「三年分、大切に取っていたの」
おばさんが差し出す三枚の年賀状を受け取る僕の手は、どんなに力んでも震えてしまう。恐ろしさと気味悪さから目を背けたくなるが、僕は「僕」が送ったらしい年賀状に視線を向けた。
ふにゃふにゃとした丸文字は僕の字に似ていなくもないが、自分自身だからこそ明らかに違うと断言できる。右下に描かれたイヌは目が大きすぎて不細工だ。僕だったらもっと可愛く描ける。こんな年賀状は知らない。僕は書いてない。でも、そこには紛れもなく僕の、『箱森未來』の名が書かれていた。
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明けましておめでとう
奏斗君が引っ越す前に ミンドラゲームフェスに出られて嬉しかったよ
しかも優勝できるなんて 今でも夢みたいだ
今年もまた一緒に参加したいな
平成三十年 元旦
箱森未來
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「奏斗がゲーム好きなんて知らなかったから、この年賀状が届いた時はビックリしたの」
おばさんの言葉が頭を滑っていく。僕だって驚きだ。小四の頃、僕は『ミンドラ』というゲームが大好きで、いつも家で遊んでいた。あの時、奏斗君は見向きもしなかったはずだ。
「ゲームは未來君が貸してくれたのかな」
「え?あ、えっと、はい」
驚きと動揺で思考を停止した脳が、勝手に嘘の返事をしてしまう。まずいと思った時にはもうおばさんの頬は緩んでいて、後戻りできないところに追い詰められていた。否定の言葉を必死に飲み込む。
当時、クラス中の男子がミンドラを遊んでいた。レアアイテムを手に入れたり、ボスを短時間で倒したりすると、それだけでヒーローになれた。でも、僕は彼らと対戦も協力もせず、あくまでもソロプレイで敵に挑み続けた。ゲーム機を見られたら何をされるか分からない。それまでの経験で痛いほど身に沁みていたから。自室で一人、ひたすらに熱中した。
「ありがとう。未來君みたいな友達が居てくれてよかった」
僕の嘘を素直に信じたおばさんが指で目元を拭う。居た堪れなさに負けて、写真立ての奏斗君へ助けを求めても、奏斗君は僕を睨んでくるばかりだ。「嘘を吐くな」「泣かせるんじゃねーよ」聞こえない奏斗君の声が、僕の内側から僕を責める。でも今更、本当のことなんて言い出せない。どうしたらいい?何を言ったらいい?
「奏斗君は……ゲームがすごく上手でした」
すぐ近くで聞こえた声。それが自分から発せられたものだと気付くと、鳥肌に加えて冷や汗まで噴き出てきた。それでも一度溢れた言葉は止まらない。僕の胸の奥で、勝手に言葉が躍り出す。僕の世界が彩られ、形を変え、広がっていく。
学校帰りの公園。少年たちは色とりどりのランドセルを青々と茂る草叢に投げ飛ばし、それぞれのゲーム機を強く握りしめる。春の爽やかな風が元気な声を空へ響かせる。オンライン通信で協力プレイを選択。二人一組でボス戦に挑んでいくが、誰も勝利を収められない。何度も繰り返し闘って、僕の親指も痺れてきた。諦めかけた僕たちの上に、長い影が被さってくる。
「僕たちが何時間掛かっても攻略できなかったクエストを、奏斗君はすぐにクリアしちゃうんです。クラスの誰よりも強くて、みんなのヒーローでした」
ミンドラには協力プレイでしかクリアできないクエストや、プレイヤー同士で交換しないと手に入らないアイテムがある。穴の開いてばかりいた僕の図鑑が、次々と埋まっていく。
レアアイテムを全て手に入れた状態で、僕と奏斗君はゲームフェスのバトルフィールドに立った。相手は前回優勝した高校生コンビ。会場はピリピリとした緊張と、かつてない興奮に包まれ、歓声のあまりの大きさに耳が壊れてしまいそうだ。
めげそうになる僕の背中を、奏斗君が力強く叩いてくれる。「気合い入れてけよ」後ろからは同級生たちの大きな声援も聴こえる。「俺たちなら絶対に勝てる」
僕は仲間を補助する魔法を次々と唱え、奏斗君を必死に支える。一人で遊ぶ時には必要のない魔法。二人じゃないとできないプレイ。ずっと一緒に遊んできた僕と奏斗君だからこそ、完全に息が合う。
「ゲームフェスに出た時も奏斗君が対戦相手を全部倒してくれて、会場に居た人たちがビックリしたんです」
優勝した二人だけが貰える、世界にたった二つだけの最上級のレアアイテム。それが僕と奏斗君のゲーム機に――。
違う。これは僕が作った架空の思い出。
ゲームフェスの日、僕はお小遣いを握り締め、期待に胸を膨らませて会場へ行った。ここに来れば僕みたいにソロで遊んでいる子と出会えると思っていたから。でも、誰も居なかった。親や友達と一緒に来ている人ばかりで、四方から襲ってくる騒めきが全身を飲み込んでいった。僕は同級生たちに見つかる前に会場を後にした。
誰かと一緒だったら――。そうだ。あの日、僕は悔し涙を堪えながら、そんなことを帰り道に願ったんだ。
必死に心の奥深くへしまい込んだ記憶。架空の「奏斗君」とゲームを楽しむ架空の過去とぶつかり合い、僕の頭を乱していく。もしあの時、断られることを恐れずに奏斗君を一度でもゲームに誘っていたら、こんな過去が存在したんだろうか。
不安定な感情に体が震えだす僕とは反対に、おばさんは嬉しそうに何度も頷いている。奏斗君が生きていた時間を必死に搔き集めているみたいだ。こんな嘘を付くのは良くないことかもしれない。罪悪感を覚えつつも、おばさんの笑顔を守るために、僕は次から次へと楽しい「思い出」を生み出していく。
なんでこんなことになったんだろう。誰がこんな年賀状を書いたんだろう。どうしてこんなことをしたんだろう。その謎を解くために、二枚目の年賀状を手に取った。イノシシは毛がふわふわとしすぎていて、仔猫よりも弱そうだ。
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明けましておめでとう
去年は一緒にツーリングができて嬉しかったよ
双葉山の紅葉が綺麗だったね
いつか奏斗君と日本中を自転車で巡りたいな
平成三十一年 元旦
箱森未來
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「奏斗は自転車に乗れないと思ってたの。中学まで一時間以上かかるのに、歩いていくって言い張るから」
10歳の誕生日に自転車を買ってもらった。同級生の誰よりも最新で、誰よりもかっこよくて、誰よりも速く走れる自転車。だから、みんなが遊んでいる公園の近くを通らないように、いつもわざわざ遠回りしていた。
「未來君の自転車で練習させてもらったの?」
「そ…うです」
同じ齢くらいの男子なら誰もが羨む自転車だったのに、奏斗君は全く興味を示さなかった。みんなに自慢したくてもできず、一人で優越感に浸っている僕を軽蔑しているんだと気付いて、無性に恥ずかしくなったのを覚えている。奏斗君に貸したり、一緒に乗ろうと誘ったりできるような雰囲気じゃなかった。
体育の授業でどの競技も巧かった奏斗君。もし彼があの長い脚でペダルを漕いだら――。
「奏斗君はかっこいい技も沢山できたんですよ」
青空へ向かって、奏斗君の黒い服と黒いロードバイクがふわりと舞い上がる。宙へ跳んでアクロバティックな技を決めた奏斗君がこちらを見てニヤリと笑ってくれたから、僕は親指を上げて拳を伸ばした。周りを取り囲む同級生からも拍手が止まない。その熱気に押されるように、僕も自転車へ勢いよく飛び乗った。
顔に涼やかな風を浴びながら、行き先が見えない程に長い長い坂道を駆け上がる。前を進む奏斗君の背中から目をそらず、僕は必死に両脚を動かし続けた。
「双葉山で競争した時も全然勝負にならなくて、僕を置いてどんどん登っていっちゃうんです」
これ以上は無理だ。脚の感覚がない。頭を上げていられない。もうここまでで充分だ。僕にしてはよく頑張った。もう終わりでいい。そう諦めかけた時、遠くからタイヤが回る軽やかな音が耳に入ってくる。重たい頭を上げると、奏斗君が僕へ向かって颯爽と駆け下りてきていた。
そのままUターンして僕の前に入った奏斗君は、何も言わずに一度、力強く頷く。「俺が前で風を受けるから付いてこい」「絶対にてっぺんまで連れて行ってやる」僕も同じように頷き返す。
太腿は破裂しそうで、呼吸は上手く吸えなくて、目からは勝手に涙が溢れてくる。滲む視界の中で、僕は必死に奏斗君の背中を追いかける。その奥に、道の終わりが見えた。
「山頂から見えた紅葉、すごく綺麗だったな」
一人ではきっとここまで来られなかった。奏斗君が居てくれたおかげだ。眼前に広がる赤と黄色のコントラストを、僕たちは声も出せずに見入った。こんな景色を僕は今まで見たことがない。
そう、見たことなんてない。秋の双葉山には一度も行ったことがないんだから。これもまた、架空の思い出だ。
新しい自転車に乗りながら、同級生たちが競争する様子を遠くから眺めていた。僕の自転車が絶対に一番速いのに。誰にも言えないまま、一人で家へ帰った。
みんなが騒いでいる姿を遠巻きに見ていた時の、胸の奥がざらざらするような感覚が蘇ってくる。あの時より僕はちょっとだけ大人になった。今なら分かる。分かってしまう。僕はあの時、みんなのことがたまらなく羨ましかったんだ。ボロボロの自転車でも構わないから、誰かと一緒に走りたかった。
もし奏斗君に自転車を貸していたら、一緒にツーリングへ行く可能性もあったんだろうか。涙を零しながら奏斗君との架空の思い出を話すにつれて、真実と空想が徐々に混ざり合っていく。僕と奏斗君は大親友で、いつも一緒に遊んでいて、引っ越してからも連絡を取り続けて…。
僕の世界で二人の少年が鮮やかに駆け回る。嬉しくて、楽しくて、温かくて、永遠に続いてほしいと切に願う。眩しすぎる架空の物語が、僕の中でどんどん肉付けされていき、僕を侵食していく。感じたことのない興奮と喜びが、僕の中で渦巻いていく。
三枚目の年賀状には僕たちのどんな思い出が書かれているんだろう。小さすぎるネズミの絵は、どことなく僕に似ている気がする。
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明けましておめでとう
去年は檜山ビーチで一緒に遊べて楽しかったね
虹色の貝殻は あの宝箱に大切にしまってあるよ
大人になったら奏斗君と世界中の海へ行ってみたいな
令和二年 元旦
箱森未來
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檜山ビーチは小四の夏に臨海学校で行った海だ。僕にとって史上最悪の思い出の地。海中で同級生に水着を奪われ、集合時間になっても海から上がることができなかった。タオルで体を隠しながら陸へ出ていくのは本当に恥ずかしくて、そのまま海へ消えてしまいたかった。
でも、一つだけ嬉しかったことがある。みんなから離れた場所で休んでいた時、砂浜で虹色の貝殻を見つけた。キラキラと光る様子は宝石みたいで、こんな色が自然に生まれるなんて信じられなかった。誰かに見られたら絶対に壊されてしまう。だから、こっそりとタオルで包み、家へ持ち帰ってから、ティッシュをたくさん詰めた箱の中に優しくしまったんだ。
同級生も先生も、僕が貝殻を見つけたことは知らない。父さんにもハウスキーパーさんにも話してない。僕と一緒に家へ帰ってきて、僕の部屋でつまらなさそうに本を読んでいた一人を除いて。
「奏斗君…」
ミンドラが好きだったこと、最新の自転車に乗っていたこと、虹色の貝殻を拾ったこと。それら全てを知っているのは、この世界で奏斗君だけ。
「奏斗君は泳ぐのがすごく速くて、プールの授業ではいつも一番でした。海でも大人よりずっとずっと速かったんです」
僕が話す架空の思い出話を聞く、優しい微笑。一緒に居た時には一度だって分からなかった奏斗君の心を、初めて知れた気がする。奏斗君はこの笑顔を見たかったんだ。この笑顔を守るために、『箱森未來』の名前で自分宛てへの年賀状を書いた。仲の良い友達が居るとお母さんに伝えるために。大好きなお母さんを安心させるために。
そうだ。今なら分かる。泣いて帰ってきた僕にティッシュを差し出してくれた。強風で倒れた自転車を起こしてくれた。海の中までタオルを持ってきてくれた。無口で無表情の奏斗君は、そういう優しい子だった。どうして忘れていたんだろう。どうして気付かなかったんだろう。
「奏斗君はいつも僕と一緒に居てくれました」
僕の世界に奏斗君はずっと居た。それなのに僕は同級生から虐められた嫌な記憶ばかりに囚われて、過去の全てを覆い隠した。
奏斗君が架空の友達に僕を選んでくれた理由は分からない。奏斗君も僕と友達になりたいと思ってくれていたのか、他に友達のいない僕が都合良かったのか。どんな理由であれ、奏斗君の世界にも僕は居続けていた。そしてきっと架空の「箱森未來」と一緒に遊んでいたんだと思う。奏斗君も僕と同じように、嬉しくて、楽しくて、温かな気持ちになっていたんだろうか。これが現実であってほしかったと過去の自分を悔やんだだろうか。
「今年も未來君は送ってくれたのに、それを読まずに死ぬなんて。あと一日だけでも生きて、この年賀状を読んでいたらきっと……」
おばさんが渡してくれる最後の一枚に描かれた、足の短い不格好なウシ。ふにゃふにゃとした丸っこい文字。奏斗君の世界に居る「未來」は、こういう絵と文字を書くらしい。頬を伝い下りた涙が、いびつなウシを更に歪ませる。
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明けましておめでとう
去年は家から出られない日が多くて寂しかったね
今年は色々な場所へ一緒に出かけよう
僕は奏斗君の家へ行きたいな
令和三年 元旦
箱森未來
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ゲームフェスに参加する約束も、ツーリングの約束も、海へ行く約束も叶えられなかった。もしかしたら奏斗君は今年こそ約束を果たしたかったのかもしれない。だから――。
「でも僕は、君と遊びたかった」
雪に閉ざされ、ずっと届かなかった君の声。暗く寒く静かな雪の中で、奏斗君はずっと叫び続けていた。君の残した数少ない言葉は、僕の心を熱く震わせる。もっと聴きたい。もっと聴かせてよ。
僕が優しいお母さんのいる奏斗君を妬ましく思ったように、君は何でも買ってくれる父さんがいる僕を嫉んだことはある?もし僕が怖がらずに君を遊びへ誘っていたら、もし君が躊躇わずに僕へ年賀状を送っていたら、何かが変わっていたと思う?あの頃から僕と遊びたいと望んでくれていた?何かしたい遊びはあった?これから君は僕とどんな約束をするつもりだった?どうして君は死ぬことを選んだの?
大晦日の夜、君は最期にどんな言葉を叫んだんだろう。どれだけ雪を掘り起こしても、一度融けてしまった君は戻らない。この喉が張り裂けるまで何度も何度も君の名を叫び続けようとも。
僕の世界に君は居るのに、この世界に君はもう居ない。




