拝啓、フロイト先生
我、梶地。作家なれど生計成り立たず。食わずに寝る日々。
されど、貧すれば貪す所以はない。我には確固とした自尊心があるからである。食うものがない、ならば生来の文豪諸兄を一寸拝借、真似してみようではないか。武士は喰わねど高楊枝。文士は喰わねば寝るばかり。
家内はそのような我に呆れるばかりである。
然し乍ら、すわ生まれ変わるか、と今の生活を爪弾く腹積りもない。
我は作家である。卑しくも作家である。
作家には作家の矜持というものがあるのだ。依然として。
それを女子供にとやかく言われる筋合いは無いのである。
然うなのである。年甲斐もなく妻と云う厄介者を娶ったのだ。
煎餅布団と文机のみの伽藍堂。
そこに居座るは食うものもない貧乏作家。
胡座を掻いて甚だ不機嫌である。
この六畳一間の狭苦しい我が城に女の棲む敷地を充てがうのである。
女の部屋に転がり込むのではなく、女を部屋に招き入れる分、狼藉者の奴輩に比べればまだ一日の長があろう、と我ながら満悦である。
然し、よくもまあ、細君はこのような部屋へ嫁いできたものだ。呆れて物が言えぬ。
余程、我のことを好いたのであろうなあ。破顔。
「まあ梶地先生、ご結婚なすったの」
「あら、先生のお相手は妾で充分でしたのに」
「おうよ梶地先生も年貢の納め時よなあ」
界隈を歩けば滅多矢鱈と声を掛けられる始末。
自慢では無いが、我は中々に女からの受けがいい。もてるのである。
だから此のように妻を娶ったことで巷間の娘たちを失望させたものだ。
無常である。世の中とは意図した通りには運ばないものである。
閑話休題。日々の食い扶持が無いとなれば、食うために如何する。曲がりなりにも得た原稿料を切り崩すしかないのである。
では切り崩すものが無くなったら。
原稿料の前借り。
これぞ、錬金術である。
貸した者は借りた者に対して、回収する意図を以って書かせざるを得なくなる。畢竟、文筆家としての生業はつながるのである。なにしろ我の小説が世に出るのである。忘れた頃に芽を出す。名前を冠した物さえ出しておけば、世の読者諸君からも忘れ去られぬ。これは道理である。
自然、我のような遅筆の者には前借りは有用な手段として黙認されているのである。
郵便局で小切手を現金に換えれば、ほれ此の通り、瞬く間に成金の気分。それが借金の賜物であることなど雲散霧消。
おう兄弟、粕取りで構わぬ。今宵は鯨となって呑み明かす算段である。
などと独り言ち、いやいやそれでは家内に悪い、と洋菓子でも買い求めて帰るのが常であった。
ただ、そんな調子の日々は遠い昔、当面はこの晦日である。
原稿料の前借りもいい加減、編集者も呆れてもはや金の工面もできぬ。
年の瀬も迫ったというのに、この体たらくである。
「今晩のおかずはなんだい」
台所に立つ家内にそれとなく尋ねるのが作家である。
「目刺しが入りました」
「目刺しだけかね」
「それと、梅干しを漬けてあります。それを湯漬けにして出します」
「質素だね」
「倹約と言ってくださいまし」
「もう少し彩りがあると良いのだが」
「何を仰っているのやら。働かざるもの食うべからずです。稼いで頂戴」
作家の妻は並べてこのような調子である。
我はといえば、ひねもす机に向かい合い、万年筆を片手にいざいきめやも、とばかりに一心不乱に握り締めるのだが、一向に一文字も搾り出すことができぬ。馬鹿の極みである。
ここで書き上げの一つでも編集者に投げつけて、「さあ、お望みの作品とやらはとうに出来上がっている。これで貴様も満足だろう、ヤイ次の原稿料の前借りを、耳を揃えてお渡し願おう」と快刀乱麻、颯爽と小切手を切らせることもできたのだろうが、なにせ馬鹿の極みが文机を前にしてウンウンと唸っているばかりである。なんとも悲しい構図である。
ならば、ここは腹を括ろうではないか。
首を括るより腹を括る方が難しい。難儀である。それが人の真である。我一人ならばおっ首を縄にくぐらせ梁へと引っ掛け死のうは一定、忍び草には何をしよぞ、と勢いよくぶらりと空へ泳ぎだすことは容易なことである。然しこの愚妻を放って置くわけには行かぬ。なぜだかこの哀れな女は我を好いているのである。「野辺の旅路でしたらわたくしもお供いたします」万事この調子である。愚かである。生家へ戻すと命じても聞かぬ。となれば面倒を見るしかないのである。
さて腹を括る。日銭を得るには何をする。自慢では無いが碌に働いたこともない我である。学生時分に駆け込んだ師匠の元で書生暮らしをはや数年、漸く陽の目を見たものの、その後が続かず右往左往、息も絶え絶え虫の息である。働く心得など判るわけがない。いっそ港湾で日雇い労働か。いやいや、この脆弱な我に何ができようか。
逡巡すること暫し。思いついた伝手は矢張り師匠である。師匠に何か働き口を頼まれないか。
思い立ったが吉日、我は裾を捲り上げて砂煙りも茫洋と、隣町に居を構える師匠の家へと一目散に転がり込む。
「先生、お久しゅうございます」
唐突に尋ねてくる愛弟子に、師匠はいささか顔をほころばせたと見える。
「梶地じゃないか。息災だったか。なんだね、金でもせびりに来たか」
「何をおっしゃいます。厭だなあ。先生に金策を頼んだりなど、はしたない。そんな恩知らずな真似をするわけがないでしょう」
「そうだったかね」
「先生こそご健勝でしたか」
「何を畏まっている。そんな挨拶をしに来たわけではあるまいに」
「はは、お見通しでしたか」
「君の顔を見りゃあ判るさ。まあ上がり給え」
師匠は眉根を寄せながら、我を座敷へと招き入れる。眉根を寄せるのは師匠なりの照れである。我が書生だった頃、幾度となくその顔を拝したことがあるから判っている。夕餉を囲む末席で、そっとおかわり茶碗出し、先生の奥方からは快く、然し乍ら先生の曰く「君は人一倍、飯を食うね。その米一粒が一文字と化けてくれれば良いのだが」と冗談を一席。「へへ、どうも耳が痛うござんす」などとへり下って舌を出すたび、先生は眉根を寄せて言ったものだ。「困った坊主だねえ、どうも」
確りと恩返しは致しました、先生。恩師の元で研鑽し、漸くつかんだ立身出世。紙一枚の舟なれど、世間の荒波かき分けて、ふらりふらりと彷徨う果ては、苦難ばかりの時化の中。どうも風向き間違えて、いつの間にやら泥舟に。襟首立てる年の瀬に、舌をぺろりと舞い戻る。へっへっへ。粋だね。こいつはどうも。
「如何だね、近頃は書いているかね」
師匠は我の心根の都々逸を袈裟懸けで切り捨てるが如く、作家ならではの至極真っ当な問いかけをしてきた。
しまった、師匠の家にお邪魔をすれば、そんな問いかけがなされるのは当たり前である。何の備えもせずに馬鹿面さらして飛び込んでしまった我は激しく後悔した。しかしこうなってしまえば後の祭り。その場しのぎで誤魔化すしかない。
「先生、書いているかね、とはなんて御無体な。書いていますよ」
「本当かね」
「本当ですとも」
「ではどんなものだね」
「いくら先生でもそればかりは」
「触りくらいは話してくれても良いだろう」
「イエイエ、秘しておるのです」
「では嘘かね」
「滅相もない」
「では嘘だね」
今になって振り返ってみれば師匠は悪気もなく問いかけたに過ぎないのだが、後ろめたさのある我は心胆を寒からしめる想いであった。
ええい儘よ、と半ばひれ伏す覚悟で開帳するは、未だ一向に筆の進まぬ我が脳裏にこびりついた話である。すなわち、さる文士に飼われた猫を主軸にした話である。猫が人の言葉で語る。文士の家に集う巷間の人々を、猫の目を借りて些か皮肉めいて語らせる風味である。
「猫には我輩、などと名乗らせてみようかと思っております」
鼻息も荒く、この画期的な話を携えて文壇に殴り込みをかけてやろうとする我の意気込みを、けれど先生は困り果てた目と海よりも深いため息で以って一蹴した。
「君は、それは冗談で言っているのだろうな」
「何を仰いますか、冗談でこんなことを言いません、勿論」
「阿呆かね」
「いくらなんでも先生、そんなことを言われちゃわたくしだって腹も立ちます」
「それはこっちの台詞だ。いくらなんでも酷すぎる」
「却ってお伺いしたい、このお話のどこが悪いのでしょう」次第にむかっ腹が立ってくる。なんという言い草。いくら師匠と言えども頭ごなしに否定する権利などないではないか。
よもや。嫉妬したのではあるまいな。我のこの斬新かつ剽軽なこの思いつきに、同業としての焦りが感じられたにちがいない。なんと浅ましい。この若き才能の塊を芽が出ぬうちに摘み取ろうという魂胆か。老いたるは醜いものよ。こうはなりたくないものである。人間、引き際が肝要である。若き者どもが台頭してきたら潔く道を譲る。そうだ。そうしよう。我はきっとそうしよう。いつか老いさらばえて、醜くしがみつくより、若人よ行け、と、赫赫たる態度で後進の者たちの背中を押してやるのだ。若人にとって後ろ盾のあることがどれほど心強いか。それをこの老いぼれ先生は判っておられぬご様子。これが老醜を晒すということなのであろう。つくづくお気の毒である。難儀である。悲哀に満ちていて掛ける声さえ見つからない。
「もう少し君は本を読んだ方が良い」
師匠は呆れた顔をして言い捨てた。
「本なら読んでおります」
「本当に読んでいると言えるかね」
「少なくとも本読みよりは本を読んでいるつもりです」
「ならば恥を知った方がいい」
「恥ですと」
「物書きの本懐と言ってもいい」
「何をおっしゃっているのか判りかねます」
師匠は何度目かの深いため息をついた。
「もういい。好きにしなさい。物書きを辞めるつもりならばそうするといい」
全くもって師匠は皮肉屋である。これ以上に詰ったとて埒があかぬ。我は早々にこの話を切り上げて本題へと舵を切りたいと画策するのであった。
「しかし、寒くなってきましたね。そろそろ火鉢に火を入れようかと思っております」
「君は相変わらず誤魔化しかたが下手だね。目が泳いでいるじゃないか」
「へっへっへ、読まれてしまいましたか」まるで道化である。界隈では話術の妙を讃えられる我だったが、師匠の前ではまるで形無し、これではただのお調子者であった。
しかしいい加減、愛弟子をいじめるのもう倦いたと見え、師匠の方から話を切り替えたのである。天啓。ここは乗らない手はない。
「ところで、何の用で来たのか、聞いていなかったね」
「然うなんです先生。実はお恥ずかしい話なのですが、近頃ひもじくしておりまして。このままでは年越すこともままなりません」
「やけに素直だね」
「背に腹は代えられませんで。恥を忍んでお伺いさせていただいた次第でして」
「ふむ」
師匠は流石に師匠である。この不肖なれど可愛い弟子を見捨てておくことなどできぬ様子。本当に世の中とは人情で出来ている。渡る世間に鬼は無し。寒風すさぶこの時節、人の情けが身に沁みてくらあ、と袖を濡らす想いである。捨てたものではないよなァ、とつくづく思うものである。
「それで、頼みごととは何だね。多少なら金策もできぬわけではないが、それは君の拘りが許さぬだろう。私にできることであればと願うよ」
「イヤイヤ、先生にお金をお借りするなど滅相もございません」本当は労せずしてお金を借りることができれば御の字なのだが、其れは師匠の我に対する評価を下げることにつながるということは察していた。そんな直截的な御願いで機嫌を損ねるわけには行かぬ。俄然、ピシャリと壁を築かれた様子になってしまった。
「何も、無闇にお金をお借りするわけには行きませぬ」本当は行きます。「何か、お仕事を斡旋していただくことはできぬでしょうか」無理ならば金策を願います。
「ほう。殊勝だな」
「これでも文士の端くれでして」苦し紛れである。
「うむ」
「港湾や日雇いでの肉体労働で糊口をしのぐというのも思い浮かんだのですが、如何せん体が付いてきません。矢張りわたくしは物書きである以上、其処を如何にか保ちながらの仕事があればと思い、先生の元に駆け参じた次第であります。いざ鎌倉」
「いい加減な奴だな」
「生来でございます」
「自覚があるだけ良しとしよう」
師匠は呆れながらも認めてくださった様子。これはあと一押しすれば、快く仕事を斡旋してもらえるかもしれぬ。
「ふむ」師匠は腕組み暫し目を閉じて空を見上げた。
「はい」我はそれに合わせて腕組みし考える格好をした。
ここで沈黙である。庭に鹿おどしでもあれば風流かつ軽快な音を立ててくれようが、先生とてそんな大層な家ではないのである。庭は広いが極めて駄々ッ広いだけである。景石を並べて悦に入っているようだが我にはただの岩にしか見えぬ。しかしそんなことを言うのも無粋である。我の心根にヒッソリと仕舞っておけばいいのだ。ここは我慢である。いい加減、慣れぬ正座に先ほどから痺れてきた足がビリビリと悲鳴を上げているのだが、今を逃せば後がない。ここは師匠に合わせてそっと神妙な顔で黙り込むのが正しい御し方である。
「斡旋をしてやれないでもないが」
師匠は眉根を寄せながら言った。
「しかし君に務まるだろうか。儂はそれが気がかりなのだ」
「何を仰います先生。わたくしは一度お任せされた仕事とあらば、命に替えてもやり遂げようと常日頃から肝に銘じております」これは嘘である。すぐに投げ出す。
「本当に、口だけは達者だな」
師匠は苦虫を噛み潰したような顔をした。とはいえその口調から我はここで師匠が願いに応じてくれたことを嗅ぎ取ったのである。堅城も遂に陥落。勝利である。
「イヤイヤ、耳が痛いですなあ」頭の中では拍手喝采である。我、勝てり。彼の難所を攻略せり。これにて本邦の圧倒的な優勢は揺るぎなきものなり。
「矢張りやめておこうか」風向きが不穏である。
「先生、そこまで餌をぶら下げておいて、はいお終いですよ、とはアンマリじゃありませんか」ここは必死に食いさがる。正念場である。
「しかし君に任せるのは少し不安が残る」
「そんな殺生な。弟子が野垂れ死んでも良いと仰るのですか」息も絶え絶えである。
「何もそこまでとは思ってはおらんよ」
「ならば後生です、先生。わたくしにそのお仕事を是非ともお口利きしてくださいませ」
平身低頭、こうなったら土下座でも何でもござれ。自尊心などといったものは最早どこ吹く風、藁をもすがる思いである。何卒、何卒。その様は滑稽を通り越して哀れでさえある。
「そこまでの覚悟か」
「はい。断じて」ここを耐え抜けば後は野となれ山となれ。
「ふむ」師匠は懐から煙管を取り出し火を点ける。ふう、と吐いた紫煙が部屋を白くして消える。芳しい匂いであった。わたくしにも一吸い、と言いかけて口を噤む。ここは辛抱。如何にかして虎口を越えなくてはならない。
師匠は長い沈黙の後、ぼそりと一言。
「仕方ない。少し不安は残るが、君に任せよう」
「有難うございます。これで年を越せます」膝をジワリと寄せる。「して、肝心のお仕事とは如何いったものでございましょう。イエ、先生の名に恥じぬ仕事をしてみせます」
「近頃、文芸誌の選考員を任されてな」
「ええ。存じております」出鱈目である。
「出版社の方針で、応募してきた中で見込みのある作家を引き揚げ育てることはできないか、という話が出ているのだ」
「成る程」
「有り体に言えば、そういった有望な人材に作品を書かせて、色々と添削をしてやれ、といった塩梅だ。一人の選考員につき一名。他の選考員も矢張り同じように作家を引き揚げて育てようとしている。本年の選考員は儂を含めて五人いるから、五人の有望な作家を新たに生み出そうではないか、というのが魂胆だ。文芸の行く末のために底上げを図る、といったところだな」
「文芸の行く先を見据えれば至極当然のことです」
話を合わせる。しかし不安だらけである。そんなに作家が見世物市のように増えた日には我の食い扶持が減るではないか。師匠のような地に足の付いた人であればいざ知らず、我のような食うに困る者にとっては自らの首を絞めるようなものである。
中々に難儀な仕事であった。適当にやるわけにも行かぬ。五人の作家のその後の売れ行き次第で、面倒を見た選考員の評価も変わってくるからである。正直なところ複雑な思いであった。こいつァ厄介、やりたくねえなあ、と思ってしまった。
「主に儂が面倒を見ることにはなっているが、チョッとした書き物の添削は君にもできるだろう。曲がりなりにも本をいくつも出している君だ。先方も知らぬ名ではあるまい」
「然う言っていただけると作家冥利に尽きます」
して、その中からお幾らを頂けるのでございましょう、と本題を問いかけるより先に師匠は金銭の話に及んだ。
「出版社から頭金としてまとまった額を貰っている。手始めにこれは全て君に預けよう」
師匠は傍の箪笥から紙幣の束を取り出し、ポン、と我の目の前に放り出した。
「ナント、こんなに頂けるのですか」
「儂にとっては道楽のような物だし、君にとっては言わば新たな敵を自らの手で育てるようなものだからな。遠慮は要らぬ、取っておき給え」師匠は闊達に笑った。
「わたくしは死ぬまで先生の弟子でございます」
「止せ止せ、気色悪い。それで、急な話で悪いのだが、実はこれから一刻くらい後、彼と向かいの喫茶室で会うことになっている。折角だから君も来給え」
「今から一刻ですか。もうあまり余裕がないではありませんか」
実を言うとこの話を受けるかどうか、考える時間が欲しいと思っていた。しかし如何やら回答は今ここで出さなくてはならないようだ。何しろ目の前にある金は目が眩むほどに輝かしい光を放っている。我は肚を決めた。こうなっては仕方がない。受けましょう。お受けしましょう。持てる力を出し切って、素晴らしい作家を育てようじゃありませんか。
変な方向に転がり始めてしまった。
「はじめまして、瀬辻です」
「どうも」
師匠の紹介でその若手作家である瀬辻という偉丈夫と対面した時には、喫茶室『毘沙門』には客がまばらに座っていた。それぞれの客がくゆらす紙烟草の煙で室内は白く充満している。我は存外その匂いが好きだったので気にはならなかったが、この目の前に座る若い芽にとっては些か苦々しい想いがあったらしい。握手もそぞろに腰掛ける。
「梶地君だ。概ねの世話は儂がするが、君の書き物の添削などは彼が中心となって行う。勿論、その中でも君が儂に見てもらいと思う幾つかの作品については遠慮なく見せてくれ給え」
「よろしく」柄にもない恭しい態度でニッコリ笑いかけながら、この瀬辻という男を睨め回して人と成りを勘定する。如何にも押しの弱そうな文学青年といった風情。なれど瞳の奥には鋭い眼光といったところで芯は有りそうである。確固たる信念というものがあるのだろう。うむうむ。文学青年とはこうでなくては。我も嘗ては同じような者であった。文芸の荒波へと飛び込むためには其れ位の覚悟がなくてはね。我が追い風となって遣ろうではないか。
「あのゥ」
瀬辻が隣に座る師匠に向かってボソリと言った。
「先生に直截ご覧いただくこともできるのだ、と捉えて宜しいでしょうか」
む?
「できましたら私、倉久保先生にご覧いただきたい、評価を頂戴したい書き物が山ほどございまして。確かにここにおわす梶地先生も倉久保先生の薫陶を受けられたと伺っております。不勉強ながら御本はまだ拝見したことがございませんが、これを期に取り寄せて読ませて頂こうと思っております」
なんという大胆不敵。傲岸不遜。失敬にも程がある。我は殺意を覚えた。しかしこの瀬辻という男、眼光をさらに鋭く、物腰は柔らかい乍らも遠慮する気配などまるで無い。
「出来ましたら、私が梶地先生の御本を読ませていただいた上で、それから改めて梶地先生の添削を頂戴する、というわけには行かないものでしょうか」
そんなもの、貴様の心積もり次第ではないか。端から読む気が無いのである。我を脇に押しやって知らん顔、師匠の添削を受けたいだけの魂胆が透けて見える。
これは流石の師匠も唖然とした様子。ふむ、とため息つきながら、しばし沈黙。室内の喧騒が却って無駄に煩わしい。
暫時して師匠はゆっくり口を開く。
「君は一高だったかね」
「ええ、府立六中から」
「官僚になろうとは思わなかったのか」
「性に合わないと思いました。当たり障りの無い事を言って取り繕って裏で舌を出す、そんな遣り方が罷り通っていると感じた次第で」
「ほう。誰か知り合いに官僚でもいるのかね」
「イエ、そういう訳ではありませんが、目にする連日の報道を見ていれば判ります」
「如何する。儂も同じかも知れんぞ」
「ハ?」
「君の添削をするのは構わない。それが煩わしいという訳では無い。ただ何故ここで梶地君を君に紹介したのかを考えて欲しいのだ」
師匠はそう言って手を伸ばして向かいに座る我の肩を叩いた。
「儂のような老いらくに浸かってばかりいると、君の筆は錆びるぞ。儂も出来うる限りのことは教えるが、それと同じくらい、むしろ君に近い齢の梶地君と接して欲しいと願っている」
師匠は煙管を懐から取り出し火を点けた。
「応募作品を読ませて貰ったよ。本当に素晴らしい才能を持っていると思う。但し、机上で書きすぎているきらいがあるというのが儂の印象だ。もっと実地に即した肉付けをするためにはもう少し泥臭さを覚えた方がいい。その短所を補うには君にとってこの梶地という男はうってつけの人材だと儂は太鼓判を押そう。勿論、梶地の作品を読んだ方がいい。しかし、それ以上にこの梶地という男の生き方から学ぶところがあるのだと、儂は思っているのだ」
顔から火が出る想いであった。まさか師匠がそこまでに我のことを慮っているとは。思い起こせばはや十年、古書店際で手に取った師匠の著作に触れて折り、居ても立っても居られずに邸宅前へと押しかけて、涙ながらに駆け込み訴え、どうか書生にしてくださいと、地べた這いずり雨の中、見るに見かねた奥方様の「せめて火鉢に中りなさい」と、それが全ての切っ掛けで宅に居座る穀潰し、それも師匠の計らいと巡り巡って知ってから、いつか必ず恩返しをと意中ひそめて生きてきた。
そんな我であったが、師匠は全てお見通しであった。見よ、これが師と弟子の絆である。学があろうがなかろうがである。一高ふぜいの学者くずれにはわかるまい。
瀬辻は黙り込む。目が爛々と輝いている。これは怒りなのか悔しさなのかそれとも感涙のために潤んでいるのか、我は黙って次の言葉を見守る。
「倉久保先生の想い、確かに受け止めました。先生の仰言る通りに致します。梶地先生、どうか宜しくお願い致します」
存外ここは素直であった。舌鋒は鋭いながらも、うまく矯めればそこはまだ真ッ直ぐな青年であった。我は兄貴分の面をして応じた。
「行き詰ったことがあれば遠慮なく尋ねるといい。これでもぼくは君よりかは作品を世に出しているからな。はっはっは」
嗚呼、今にして思えばなんという間抜けを晒したことであったろうか。
瀬辻の野郎が発表した処女作はあッという間に時流に乗り、たったの一年の間に文芸賞を積み重ね、今や押しも押されぬ時の人へと成り果てた。
新聞の記事には瀬辻が師匠の薫陶を受けて学び、その結果がこうして身を結んだという片側の事実のみが挙げられ、倉久保門下の第一人者として世間からは賞賛を浴びる始末である。そもそもそこに大きく関与したはずの兄弟子の名前は一文字足りとも見当たらない。師匠は元より黙して語らず。どの雑誌を読んでも一様に押し並べて瀬辻、瀬辻である。
寒風が一段と厳しい。書けぬわ後塵を拝すわで凄惨なる年の瀬が再びである。
師匠から受け取った頭金は一年で湯水のごとく使い果たし、さりとて更なる金策も頼れず、昨年と余り代わり映えのない年の瀬である。
年越しの蕎麦を拵える家内。その傍で腹の虫を鳴らした貧乏作家は蕎麦を茹でるその熱で暖をとる。とんだ大黒柱である。倹しい暮らしも堂に入ったものである。それにしても、素封家の娘として生まれ育った妻にとって、このような暮らしが果たして耐えられるものかと訝しがっていたのだが、存外この暮らしを楽しんでいる様子なのがなんともありがたいやら。せめて年越しくらいは少し贅沢させてやっても、と気遣えども別段それにも拘らない気配である。
「この時期になると蕎麦屋は一斉に十割を売りつけてくるから阿漕ね。縁起物だし客が買うと思って足元を見ているのだわ。逆二八を買ってやりました」と誇らしげな面持ち。
逆二八とはまた安価な蕎麦である。ほぼ小麦粉で風味もあったものではない。
「十割を遠慮なく求められるように稼がなくてはな」
「マア、そのような殊勝なこと仰るなんて」
「おまえには苦労をかけるなァ」
「止してください心にもない。一本つけますか」
「そいつァ吝かでもないがね」
ボンヤリとした除夜の鐘である。
年明けての年賀であった。時代の寵児となった瀬辻を尻目に我は相変わらず這々の体で年を越し、初日の出を拝してエイヤッと半ば恨みに満ちた年始の誓い。元旦のうちに詣を済ませ、家内を実家に置いて一人、師匠の邸宅へと年賀の挨拶は例年のことであった。手元の金を搔き集めて設えた清酒を携え、師匠への挨拶回りである。あわよくば金一封を頂戴できないものか、という腹積もりもあった。
「先生、明けまして御目出度うございます」
「ああ、御目出度う。今年も宜しく。瀬辻も来ているよ。庭で娘の相手をしている」
「オヤ、そうでしたか」
余計な邪魔者である。兄弟子を差し置いて先に師匠に御目通りとは、仁義もあったものではない。苦々しさを噛み潰して庭を見やると件の野郎は庭の景石に腰掛けて師匠のお嬢様と話し込んでいる。スッカリお年頃の見目麗しくなったお嬢様は如何やら瀬辻に満更でも無い様子。全く周到な男である。
揶揄ってやろうと庭へ出て、お嬢様へとご挨拶。「お嬢様、明けまして御目出度うございます」
「アラ梶地さん、御目出度う」
頭を上げてお嬢様を見やりつつ、隣の瀬辻を伺えば、薄ら笑みを浮かべてこちらを見ている。やい、何をヘラヘラしていやがる。貴様の方から挨拶をしてくるのが筋だろう、そんな小言が喉まで出かかった時、見透かしたかのように瀬辻は一言。
「お元気でしたか梶地さん」
「瀬辻君こそ殊勝じゃないか」ここは年長者の余裕である。
「イエ私など、倉久保先生に比べればまだまだです。腕も貫禄も身についておりません」
「アラ嫌だわ瀬辻さん、お父様みたいな頑固者になっちゃ厭よ」
「ゆき子お嬢さん、先生を悪く言わないでください。僕にとって倉久保先生は素晴らしいお方なのです」
「だって煙管ばかり喫んでいるんだもの」
「僕などはそれが好きな香りでもあるのです」
「マア、うふふ」
「ははは」
まるでこちらが邪魔者である。ははは、じゃねえ。何を笑っていやがるんだ。お嬢様を気安く名前で呼びやがって。ハハァ、さてはこの兵六玉、お嬢様に色目を使って懇ろになろうって魂胆だな。こちとら女房が居る所帯持ち、別段お嬢様をどうこうしようという気は無いが、瀬辻の野郎だけは我慢ならぬ。
どうやら瀬辻はひそやかに距離を縮めたいと計っているのだろう。そうは問屋が卸さぬわ。ならばさっさとひけらかして分限なき狼藉者の烙印を押しつけてしまえ。
「瀬辻君やけにお嬢様と親しげじゃないか。惚れているのかね」
「エッ、梶地さんいきなり何です」
「好きなんだろう、隅に置けない奴だな」
しばしの沈黙。具合の悪い様子が見て取れる。善き哉、善き哉。気まずくなってお終いっていう算段よ。これ孫氏の兵法なり。
「おやめなさって梶地さん、瀬辻さんが困ってらっしゃるわ」
「いやいや、ここはハッキリと。どうなんだい瀬辻君」
すると瀬辻は面を上げて、我を真ッ直ぐ見据えてこう言った。
「もちろん、お慕い申し上げております。ただ私なんぞがゆき子お嬢様と釣り合うなどとは微塵にも考えておりません。私の身勝手でお嬢様の心持ちを悪くさせるつもりはございません。私は先生の誇りある弟子として、先生然り、奥様、ゆき子お嬢様にお支え申し上げられれば本望なのです」
「アラ・・・」
お嬢様は両の手で顔を覆い隠し、逃げるように邸宅へと入って行った。
「なんだか悪いことをしてしまったな」ざまあみろ。これで貴様の謀は水の泡。身の程を弁えぬ男だ。さっさと筆を折って片田舎へ引っ込んでしまうがいい。
「遅かれ早かれ、ゆき子お嬢様には確りとお伝えしなくてはならなかったことです。梶地さんの言があったからこそ伝えられたのです」瀬辻は爽やかそうな顔で言った。気取ってやがる。
それから我と瀬辻は噛み合わぬながらも文芸談義に花を咲かせた。
「瀬辻君は倉久保先生を識るまでは如何いったものを読んでいたのだい」
「鴎外やらですね」
「ほう。ではその、なんだ、独逸も嗜むのかい」
「ええ、まだ不勉強ですが、仏蘭西と独逸を中心に読んできました」
「なるほど」話を合わせたはいいがそれに続く話題を持ち合わせていなかった。
「梶地さんは無意識、という概念をご存知ですか」瀬辻が口を開く。
「ムイシキ・・・眠っていることではないのか」
「実はそれとは別の概念があるようで、起きている時にも無意識というのは存在するそうです。例えばこの庭」と言って、瀬辻は両手で庭を指し示した。
「今ここにある庭、あそこに景石があって、そこに敷石があって、というように意識をしていれば、後々になっても思い起こせますよね」
「うむ」
「でも、今が示したものの他にもこの庭で私たちの目に入っているものは沢山あるはずです。例えば向こうの藪だとか、足元に咲いている草花だとか」
「ほう、言われてみれば確かに」
「でもそう云った、己の記憶に残っていないもの、覚えていないもの、というのも実のところ認識はしていて、確りと頭は覚えているのです」
「ほう。このオツムが」
「然うです。それが所謂、無意識というものなのです。猶太人の・・・名前を失念してしまいましたが、学者の本を最近になって倉久保先生からお借りしまして。中々に面白いものです」
瀬辻が何を言わんとしているのかが我には判らなかった。無関係の話で惑わせようとする魂胆なのか、これもまたヤツの提唱するムイシキというものなのか。まあ、いい。こいつの話に付き合っておけば、こいつも少しは見直すだろう。
「ムイシキとは考えれば考えるほど厄介な代物だね」
「ええ、常から意識しているものではありませんから」
「ムイシキのことを考えているといつの間にやら蟲の息だね。オヤ、無視だけは止してくれよ」
「はあ」
「チョット来てくれ二人とも」
邸宅で奥様とゆるりとしていた先生に呼ばれた。
何事か、と顔を見合わせながら我と瀬辻は客間へ戻る。
並んで二つ、夕餉が用意されている。おほほ。こいつはどうやら飯にありつけそうだぞ、と思っていた矢先、奥の襖からお嬢様が出てきた。
「エッ・・・」
唖然とする我らであった。先ほどまでの小袖姿は振袖に。いかにも正装である。
「さて」
師匠は正座に居を正す。合わせて我らも自然と正座になる。
「瀬辻よ。先ほど庭先で、コレに惚れていると言ったそうじゃないか。確かかね」コレ、と言ってゆき子お嬢様を首で指図する。いつになく威厳に満ちた声であった。
「はい。お慕い申し上げております。言い訳は致しません」
「ふむ」師匠は溜め息をついて言葉を継いだ。「先ほど、コレが目を真っ赤に腫らしながら儂の所にやって来たのだ。何て言ったと思う」
「大変なご無礼をはたらきました。私の身勝手で、お嬢様のお気持ちなど考えもせず・・・」
「コレはな、『想いが通じておりました』と言って泣いたのだ」
「エッ」
「前々からコレは瀬辻に惚れておるのだ。しかし物書きとして大成しているお前には何処かに別の善い人が居るに違いない、と想いを押し殺してきたのだそうだ。全く、男親には判らぬものだ。しかし瀬辻が他に善い人を持っているとなれば話は別だ。父親として看過するわけにはいかぬ」
「そんな人、居るはずがありません」
「ならば」師匠は息をついた。「いっそ、ゆき子と所帯を持つのは如何だろうか」
なんだこれは。
藪蛇でないか。
我の余計な一言が、瀬辻とお嬢様を娶せる結果につながってしまった。我を差し置いてまるで倉久保の家は祝言が始まったかのような気色である。飯なんて旨くもなんともない。
馬鹿らしくなってしまった。
「良かったじゃないか瀬辻君、どうぞお幸せに」と吐き捨てて早々に退散するのが漸くであった。
夜半の帰り道をトボトボと歩く。
何がムイシキだ。猶太の学者だか何だか知らないが、先生も大概だ。いつの間にか瀬辻が一番弟子のような顔をしていやがる。我は追いやられた格好になってしまった。時すでに遅し。イヤ、まだ間に合うだろうか。引き返して先生に「猶太のなんとか、という本をお借りできませんでしょうか」と一言申し上げれば、まだ兄弟子としての面目は立つかもしれぬ。
我は急いで踵を返し、一心不乱に先生の邸宅を目指す。寒風が吹きすさぶ何とも惨めな心持ちである。
先生の邸宅でいざ玄関の引き戸を開こうとして思いとどまった。部屋には煌々と明かりが灯り、声が漏れ聞こえてくる。先にも増して談笑の様子であった。可愛い兄弟子が去ったというのに如何やら和気藹々と馬鹿騒ぎは続いている。その声を耳にして我に返る。
拝啓、親愛なる先生よ、判りました。最早、道は決まっていたのです。独り立ちするには丁度これが潮時。我は今こそ踏み出す時です。これにて御免。どうぞお元気で。敬具。
とんだ逍遥であった。引き戸に掛けた手を離し、再び踵を返して夜半の道を帰路へと向かう。
月に叢雲、我一人。
こうして年が明けて行く。
今年は善い事があるだろうか。あると思わねば生きては行けぬ。
マア、仕方ない。気長にやるさ。それが文士の本懐よ。苦労をかける我が細君。もう少しだけ忍んでくれ。
路傍の石を蹴り上げる。
石は間抜けな音を立てて、隣家の塀に当たって転がり落ちた。