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雪のように降り積もるこの悲しみが何れ溶けてなくなるのか、それともそれに埋もれたまま自分が息絶えてしまうのが先か。よく分からない。
部屋の片付けの後の配置が気に入らないと言われ、同棲している良太に殴られた後、ぼんやりとした部屋の中で瑞季はそう思う。そのまま首を巡らせ、時計を見るとその針は六時を指していた。
「・・・バイト、行かなきゃ」
そう言うと、バッグを持って部屋を出る。部屋を出る瞬間、部屋の隅でゲームに興じている良太が目に入った。
「行ってきます」
「ああ、そうだ」
いつも舌打ちや無視が関の山の彼から吐かれたその台詞には、嫌な予感しかしない。
「今日の夜、トシ達と集まるから」
その言葉に肩が震える。良太が瑞季に暴力を振るうようになったのは、会社の友人だというトシという男をはじめとした連中が来るようになってからだからだ。
「そう。分かった」
それだけ言うと、瑞季は足早にアパートを出る。一歩外に出ると11月の冷涼な外気と共に冷たい北風が頬を掠めた。
「ありがとうございました」
ぶたれた頬を冷やした後で店頭に立つ。このコーヒーチェーン店はこの付近では遅くまで営業している方で、23時閉店だ。この日も遅番だった瑞季は店を閉めた後、物陰で眠っている男に気付く。
「店長。この人、眠ってしまってるみたいですけど」
「ああ、古賀さん?この近くの大学で働いてるらしいよ。研究、大変なんだってさ」
「はぁ」
そんなことを言われても、起こさないわけにはいかない。最近来た、この新しい店長はどうにもその辺りが適当だ。まぁ、以前の注意だらけの店長よりましか、と溜め息を吐いて瑞季は男に声をかける。
「すみません。コガさん、起きてください」
「ん・・・」
そう言って起こすと、眼鏡をかけたその奥の瞳がゆっくりとこちらを見る。
・・・?
「大丈夫ですか?」
探るような目つきにドキリとしながらも平然を装って聞くと、彼は欠伸でそれに応えた。
「ふぁ~、っと。ああ、寝ちゃってた?ごめんね。今何時?」
「何時、っていうかもう閉店しちゃったよ。相変わらず忙しそうだね」
彼の言葉につられて時計を見ると、苦笑いを浮かべた店長の声が届く。
「すみません。普段、大学の授業や教授の手伝いなんかをしてると研究の時間が全然なくて」
そう言ってはにかんだ雰囲気は、先程の目つきとは全くの別物だった。成る程、研究に対しては人格が変わるのだろう。
「研究って、何を研究してるんですか?」
「一応心理学かな」
「ああ、そりゃ大変だ。心理学って、いちいち実験の度にデータ取らなきゃいけないからねぇ」
訳知り顔で店長は頷く。
「店長って、心理学系の大学だったんですか?」
「実は。ま、3年で中退しちゃったけどね。途中で麻雀の方が面白くなっちゃってさぁ」
「あ、そうですか」
さもありなん、と店長らしい理由にとりあえずは肩を竦める。
「一応真面目に研究してたんだよ?専門は行動心理学だったし。それを麻雀で勉強しようとしたら、沼にはまっちゃっただけで」
「もういいですから、黙ってください」
肩を竦めて言うと、そのやりとりに古賀氏が噴き出す。
「ご、ごめんごめん。ええと、抹理さん?面白いね、君。店長と良いコンビ」
「でっしょ?ああ、そっか。古賀さん、抹理さんとは初対面だっけ」
「はぁ」
よく分からないまま進んでいく会話に、どう反応して良いか分からずそう相槌を打った。
「ああ、笑った笑った。おかげで眠気も吹き飛んだよ」
「そうですか」
何が楽しいのか分からず首を傾げるが、古賀氏はそんな瑞季に構わず意味ありげな視線を向ける。
「何か?」
「いや。じゃあ抹理さん、またね」
そう言って、彼は立ち上がり店を出て行く。
「抹理さん、気に入られたみたいだね」
「はぁ」
楽しそうに店長は告げるが、特に何の感慨もわかない。適当にそう相槌だけを打ち、瑞季は店内の掃除に取りかかった。
***
それから、古賀氏を火・木の遅番の際に見かけるようになった。遅番の時は店長と二人のことが多いのだが、何故か店長は彼の接客を瑞季にさせたがる。
「抹理さーん、5番テーブルにこれお願いできる?」
「分かりました」
店長が何を企んでいるのか知らないが、一応仕事なので断る権利など瑞季にはない。
「お待たせしました」
「ありがとう」
そう言って微笑む彼に何かを思い出しかけるが、それ以上を考えようとすると決まって頭が痛くなった。
「お疲れ、抹理さん。ってあれ?顔色悪くない?」
瑞季がキッチンで顔をしかめていると、店がアイドルタイムに入ったのか店長がやってくる。
「平気です」
「そう?ちょっと心配なんだよねぇ。抹利さん、しょっちゅうアザ作ってくるしさ」
店長の言葉にぎくりとする。良太が暴れるせいで度々瑞季の体には打撲や裂傷の痕ができていたが、最近はその頻度が増していたからだ。幸い目には入りにくい場所が多いが、それでも水仕事で腕まくりをすれば見える部分に数カ所完治していない傷やアザがある。どうごまかせば良いか分からぬまま困惑していると、店長は更に続けた。
「特に、首筋のやけどの痕みたいなの?ひどいじゃない。それ、どうしたの?」
「・・・これは、子供の頃火事に遭って」
きちんと説明できることに安堵の念を覚えながら、そう誤魔化す。そこまで聞くと、店長も観念したかのように溜め息を吐いた。
「ならいいけど、もし一緒に住んでる人が危害を加えるようなら、俺的には古賀さんと一緒になっちゃえばいいと思ったんだけどね」
「はい?」
どうしてそんな話になるのか意味が分からぬまま、瑞季は口を挟む。が、店長はそんな意をものともせず、持論を展開させていった。
「悪い話じゃないでしょ。古賀さん、いい人だし。大学の講師で給料は高くないかもしれないけど、食うには困ってなさそうだし」
「はぁ」
言いたいことは分かるが、生憎瑞季は良太と別れる気などない。未だに愛情があるのもそうだが、それ以上に彼は同じ養護施設で育った大切な幼なじみでもあるからだ。だから、良太が悪い仲間達とつるむようになってしまったのなら、自分が何とかしなければならない。
デモ、ドウヤッテ?
その答えが出ない堂々巡りの問いに頭を悩ませているうちに、気がつけば閉店時間になっていた。
***
アツイ
それは、瑞季がまだ小学3年生の冬だった。その日は確か、叔父一家が遊びに来ていたのだと思う。叔父は煙草を吸う人で、その日ライターを家に忘れていった。
今でも思う。彼が煙草を吸う人でなければ。ライターを忘れていかなければ、と。
そうすれば、その夜入り込んできた強盗が証拠隠滅のためにライターで家に火を点けるなんてことはしなかったのではないかと思ってしまうのだ。
目覚めるとそこはネットカフェの一角だった。最近良太はトシ達と部屋の中でドラッグらしきものを使用しているらしい。さすがに止めに入ったのだが、薬が回っているトシの仲間に組み敷かれるような事態になった。瑞季は家の火事以来炎を見ると過呼吸発作を起こしてしまうので、その時ライターの火を見て発作が起きたのは幸いだったのかもしれない。発作を起こした瑞季を見て男は舌打ちをして瑞季を外へ追い出した。
「これからどうしよ」
とりあえず、辛うじて鞄は持ってきたのでスマホも通帳も財布もある。今月のバイトの給料はもらったばかりだ。来月までは、この全財産で何とかするしかない。そう覚悟を決めて溜め息を吐くと、シャワーブースへと向かった。
いつも通りバイトに向かう。クリスマスを過ぎ、大晦日の今日も、コーヒー店は繁盛している。街を通り過ぎていく人々の顔は心なしか浮き足立っていたが、瑞季はとても明るい気分になれなかった。
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ抹理さん。・・・今日遅番だよね。時間早いけど、大丈夫?」
少し早めに来たのは、シフトの相談をするためだった。
「はい。あの、シフトの相談をしたいんですけど、いいですか?」
「ああ。そういう話なら、奥へ行こうか」
「それで?」
バックヤードに通されると、心なしか厳しい表情で店長は問う。
「結構大変なんでしょ。何があったの?」
「・・・」
とは言われたものの、どこまで話すべきか。そう決めあぐねていると、店長は溜め息を吐いた。
「今回の相談はシフトを減らすとか?」
「いいえ。逆です。できれば、もう少し入れて欲しくて」
「理由は?」
そこまで問われ、昨日のことを思い出して肩を震わせる。
「同居してる人と、何かあった?」
「-っ」
核心に迫られると目尻に涙が溜まる。それがこぼれ落ちても特に動揺した様子もなく、店長は何故かスマホを取り出した。
「あ。言いたくないなら言わなくていいよ」
そう言うとそのまま画面をスライドしてタップする。
「もしも-し。古賀さん?・・・うん。そろそろタイミングみたい。・・・そうだね。りょうかーい」
軽い口調でそんなことを言う店長に、頭が追いついていかない。呆然としている瑞季を気にもとめず、店長は再びスマホをいじる。
「関東信越厚生局 麻薬取締部の渡部です。ホシが動いたようです。・・・ええ、今ならBの方は尿検査で一発アウトかと思います。突入お願いします」
その言葉を聞いて、思わず顔を挙げた。
「店長?」
訳が分からず問うと、店長はそれ以上何も言わず含みのある笑みを返す。
「さ、行こうか」
その言葉に驚きつつも、店長の後に続いて扉を出た。
アパートの前に行くと赤いランプを点滅させたパトカーが停まっており、厳つい刑事に連れられて手錠をした良太が階段を降りてくるところだった。
「瑞季」
呼び止められると、表情が強張る。
「お前が、俺を売ったのか?」
「ちが・・・」
否定の言葉を口にするも、この状況では説得力などないようだ。睨み付けるようにしてこちらを見ている良太にどうしていいか分からないでいると、彼の視線を遮るように溜め息の音が響いた。
「はい。そこまで」
聞き覚えのある声に顔を挙げると、そこにはスーツ姿の古賀が呆れたように良太を見ている。
「一応、彼女が君と一緒に暮らしてることは分かってたからね。俺達はそれをマークしてたの。だから、彼女に非はありません」
「何だよっ!お前、この男とデキてたのかよ?!お前だけは裏切らないと思ってたのに!」
「裏切る、って。随分そちらさんに都合の良い言い方だね。そういう自分本位な言葉、俺は嫌いなんだけど」
「てめぇには聞いてねぇよっ!」
「コラッ!」
そう言って手が出ようとした瞬間、傍にいた警官によって良太は制圧される。のんびりとした口調の古賀の言葉は火に油だったようで、良太は警官に抑えられながらも悔しそうな顔をしていた。
「ほらっ、行くぞ」
そのまま良太は警官に連れられパトカーに乗り込む。未だ事態の展開について行けない瑞季を残して、パトカーは走り出した。
「さて、と。大丈夫?」
パトカーが走り出した後、放心状態の瑞季に古賀が問いかける。
「あ・・・。えーと、大丈夫です」
「そう。良かった」
未だ追いつかない頭でどうにかそれだけ口にすると、満足そうに彼はそう笑った。
「・・・古賀さん、本当の貴方は大学の講師ではなく刑事だったんですか?」
いぶかしげな表情を彼に向けると、彼は頷く。
「正確には、厚生労働省管轄の麻薬取締官。ドラッグの摘発なんかを仕事にしてるんだ。今回君に近付いたのは、君の同居人 山下良太の動きを探るためだった」
隠すでもなく、彼は蕩々と真実を告げた。言われれば、納得できることも多かったかもしれない。というか、まさか店長もグルだったとは。
「店長もですか?」
「そう。彼は俺のパートナー。基本バディを組まされるからね」
そこまで教えてくれるのはありがたいが、いいのだろうか。首を捻るついでに、瑞季はもう一つ気になっていたことを聞いてみることにする。
「そうですか。ところで、昔どこかでお会いしたことありますか?」
「・・・ナンパ?随分使い古された手法だね」
結構真剣に言ったのだが、古賀は肩を竦めておどけてみせた。どうやら、これ以上の本音は帰ってこないようだ。仕方がない、と溜め息を吐く。
「ナンパ目的ではなく、子供の頃に知っている男の子の面影があるような気がしたんです」
渋々それだけ言うが、彼がどこの誰だったのか、瑞季は自分でも思い出さない方がいいような気がしていた。その勘は正しかったらしく、相変わらず古賀は含みのある顔で笑っている。
「世の中にはね、思い出さない方がいいこともあるんだよ。っていうことで、この話は終わりでいいかな」
それだけ言うと、古賀は踵を返し少し離れたところに停めてある車の中にいる渡部の方へと歩を進める。かと思うと、彼は思い出したように途中で足を止めて片手を掲げた。
「じゃあね、ミーちゃん。もう会うことはないと思うけど、元気で」
「え・・・」
『ミーちゃん』それは、幼い頃母達に呼ばれていた名前だ。どうして彼が、と思う間に、彼はあっという間に車に乗り込んで行ってしまう。後には、静寂だけが残された。
***
その後、新しい年を迎えると運が回ってきたのかコーヒーショップの正社員化の話がきて、瑞季はバイトから社員に正式採用された。それに伴ってアパートを引き払い社員寮に移ることになったので、彼とは会っていない。
ただ、今でも時折ふと思い出すのだ。あの年の瀬、点描画のように姿を現しまた見えなくなった彼等のことを。雪のように積もった私の悲しみを溶かしてくれた彼等は、今もどこかで雑踏に紛れ存在しているのだろう。
了




