表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/32

匣中の星

 電車が長いトンネルを抜け、身を圧迫するような耳障りな音が消えた。車窓にのっぺりと張り付いていた均質な闇は、青褐の夜空と黒く横たわる野山の影へと一変した。

 地元への道程は都会暮らしで身についた不純物を濾し、否応にも過去へ意識をひき戻させる。

 昔、地元で見上げた満天の星空。深淵から光の結晶がこちらへゆっくりと降ってくるようだった。輝く星々はどう足掻いても遠く、小さな自分とは果てしない距離があった。

 煌びやかな星はどのようにして光っているのか。

 構成する気体が核融合し爆発を繰り返しているからだという。人々が遠くから眺めて美しく感じている星は、近寄ってみれば苛烈な光と熱の集合体なのだ。

 彼女はまごう事なく、星の輝きを有していた。夜闇を隔てなければ関わることのできない存在。

 ただ一度だけ、星の姿をとらえたことがある。

 人工的な灯りがすっかり消え失せた山道を電車は進んでいく。間も無く終点駅だ。

 過去に遺した、星に焼かれた記憶が脳の奥底で綻んでいく。


   *


 千晶(ちあき)は通話を切り、スマホの画面を操作しながら店内に戻った。

 グラスを拭いていた沙希穂(さきほ)がカウンター越しに目ざとく見つける。

「恋人との電話は終わった?」

 スマホを片手に店を出て数分。沙希穂には何も伝えていないのに、恋人と推察されたことに内心驚く。

「恋人じゃない。友達」

 何気ない素振りでカウンター席に戻ると、残していったグラスはびっしりと汗をかいていた。溶けた氷と混ざり合ったウイスキーを一息に呷る。

「次の、ちょうだい」

「ほんといくら飲んでも変わらないね」

 沙希穂が腰に手をあて、呆れ口調で返す。

「前よりも強くなったかも」

「向こうで変な飲み方してるんじゃないの」

 千晶は返答することなく、スマホを取り出し適当なSNSを開く。

 年末に東京から帰省したものの、実家には顔を見せただけで行き場がなくなった。そんな千晶が行き着いたのが、幼いころから姉のように慕っていた沙希穂が営むバーだった。

 少し前に沙希穂が勤め先の店から独立して、自身のバーをオープンしたのは聞いていた。

 地図を頼りにたどり着き、ドアを開けると、黄味がかった間接照明の灯りが柔らかく千晶を包み込んだ。沙希穂の店というのを差し引いても、スナックや居酒屋ばかりが建ち並ぶ駅前で、過ごせる場所はここしかないと一瞬で感じた。

 沙希穂はしばし千晶の様子を観察して、バックバーに並ぶ酒の中から黒いラベルの角ばった瓶を手に取る。

「はい。これで最後」

「この店そんなお酒の種類少ないの」

「こら。そんなこと言うなら出してあげないよ」

 大晦日で他に客もいない中、千晶は棚に並ぶウイスキー瓶を左から順に飲む遊びをしていたのだった。

「お酒なしの年越しなんて耐えられない」

 ふてくされた千晶の前に、球体の氷が入れられたロックグラスが置かれる。

「ほれ、飲みなさい」

 沙希穂がボトルを傾けると、琥珀色の液体がポアラーを抜け出てきた。ふわりと甘い香気が上る。

 千晶は無言で口を付ける。

「で、その友だちは今どうしてるの」

 カウンターに置いた自身のグラスにもウイスキーを注ぎ、沙希穂が問いかける。

「海外でお菓子づくりの修行するんだって」

「へぇ、行動が若いね。年下?」

「二つ下」

「羨ましい」

 やわらかな笑みをたたえた沙希穂の口元にグラスが触れ、ウイスキーが流し込まれる。鶴を思わせるほっそりとした喉が微かに動く。薔薇色の唇が狡いほどに艶やかだ。

「その彼がいないから千晶は久しぶりに帰って来たわけか」

 笑みを崩さない沙希穂の目が光る。

 すっかり状況を見透かされているようで心地が悪い。何も言えない千晶は再びグラスを傾ける。

 専門学校を出て都内の洋菓子店で働いていた彼が、急に海外へ行きたいと告げてきたのは夏が終わろうとする頃だった。

 それからは彼の状況報告を聞くままに月日が流れ、年末気づけば千晶は一人で東京の片隅に取り残されていた。

 初めは解放感もあり、それほど苦に思うこともなかった。気ままに飲み歩けるのも学生時代を思い出して楽しかった。

 彼が旅立って一週間ほど経った頃だっただろうか。気の合う仲間と飲み屋で酒を片手にだらだらと話し込み、部屋に帰ったのはすっかり日付が変わったあとだった。眠気と酔いに任せて、このまま寝てやろうとベッドへ向かった。

 掛け布団を掴み、息が止まりそうなほど驚いた。冬の夜気を吸い込んだそれは水に濡れたかのように冷ややかで、千晶に静かな死を連想させた。

 ここにはいられないと感じた。

 翌日からは友人に連絡を取り、酒を片手に転がり込んだ。千晶を泊めてくれる友人をあたっていったが、年の瀬を迎えてとうとう頼りにできる場所がなくなった。

 行き場を失った千晶は荷物をまとめて、実家へ向かう電車へ乗り込んだ。

 鈍い音がして、目の前のグラスを見つめ続けていたことに気づく。沙希穂が小さくごめんと呟く。瓶をバックバーに戻そうとして、他の瓶とぶつけたようだった。

 千晶は回想をかき消すように、グラスの中身を流し込んだ。喉にぼんやりとした熱がわだかまり、なかなか消えていかないのが不愉快だった。飲み比べをしていたはずなのに、これまでのウイスキーの味はどれひとつ思い出せなかった。

 千晶のスマホがつややかに磨き上げられた一枚板のカウンターテーブルの上で振動した。

 明るくなった画面に新年のメッセージが届いていた。同じような文面が立て続けに連なっていく。時刻は零時を回っていた。

 それぞれのメッセージに対して適当に文面を作って返していっていると、沙希穂が話しかけてきた。

「初詣に行かない?」

「え。急になに」

 沙希穂はカウンターを回り込んで、戸惑う千晶の側に出てくる。

「酔い覚ましがてら、近くの神社までさ」

 沙希穂はスタッフルームに消えると、黒いロングのダウンコートを羽織って出て来た。

「でも、お店は」

「どうせ、千晶しか来てないじゃない。ほら、行こ」

 ささやかな抵抗を見せた千晶を気に留めず、沙希穂は出ていく準備を進める。

 千晶も隣の席にかけていたコートを手に掴んで、徐に立ち上がる。

 

 店を出た駅前通りは閑散としており、規則的に立つ街灯が寂しくアスファルトを照らしていた。

 駅から離れる方向へ沙希穂が足を進め、千晶は肩を竦めて付いていく。身を切る寒さで、酔いは瞬く間に吹き飛んだ。

「歩いていける場所だっけ」

 引き返したい気持ちを抑えきれず、沙希穂へ問いかける。

「一キロないくらい。少しで着くよ」

 軽快な靴音と共に返された。

「寒くないの」

「ずっとここで暮らしてるから、いつものことよ。むしろ今夜は少し暖かいんじゃない?」

「嘘でしょ」

 千晶の口から白くため息が漏れ、風に飛ばされていく。

 地元の神社へ初詣に行くなんていつ以来だろうか。初詣で思い出されるのは、ここ数年で行った人にまみれた都内の神社ばかりだった。

 沙希穂が横断歩道の赤信号で停まる。横に並んだ千晶を見つめる。

「どうしたの」

「千晶のコーディネート、やっぱりいいね」

 小柄な千晶を包み込むオーバーサイズの黒色ステンカラーコート。ロング丈からはわずかに幅広のグルカパンツがのぞく。足元は落ち着いた艶のレザーブーツを合わせていた。

「よくある感じだと思うけど」

 贔屓でもなんでもなく、仲のいい子がブランドショップの店員なので、勧められるがままに買っているだけだ。

「沙希穂さん、別に気を遣わなくていいから」

 千晶の言葉に沙希穂が困るか怒るかの表情をするかと思ったが、小首を傾げただけだった。反応を期待していた自身が一層恥ずかしくなった。

 信号が青に変わったので、千晶は沙希穂に先行して渡り切る。続く路地は入り込んで見れば、千晶が通っていた高校の通学路だった。

 呼び覚まされた記憶を頼りに道なりに進むと、右手に神社へ向かう石段が見えて来る。思っていた以上に段数があり、千晶は見上げる格好になる。

 振り返ると沙希穂が薄く笑みを湛えていた。

「さ、行くよ」

 再び沙希穂が先行して進む形になる。千晶は凍てついた石段を一歩一歩踏みつけるように登る。

 沙希穂の細い脚が視界の上へ逃げていく。離れないように千晶も足を進めるが、ブーツの厚いソールが重たくもつれそうになる。

 石段を登りきった沙希穂が視界から消え、ややあって千晶も境内へと足を踏み入れる。

 たどり着いた境内は人々の慎ましい賑わいに満ちていた。

 石段から続く正面の石畳の道には、お詣りをするために並ぶ人たちが列を成している。右手は社務所が明るく照らされ、左手の空き地では老若男女が円形に焚き火を囲んでいた。

 列の最後尾に沙希穂の姿を見つけて隣に並ぶ。鈴を鳴らすガラガラという音が奥から聞こえてきていた。

「こんなに人いたんだ」

「そりゃ、初詣だもの」

 予想したより多くの人がいたものの、列はどんどん進んで、ものの十分で先頭へたどり着く。

 千晶は慌てて小銭入れから五円玉を取り出し賽銭箱の前に進み出る。手を離れた硬貨は緩やかな軌跡を描き吸い込まれた。沙希穂が鈴緒を掴み大きく揺らす。

 都会では初詣に行っても人の列にげんなりしてお詣りまでしていなかった。千晶は沙希穂の動きを横目で追いながら、遅れて礼をし柏手を打つ。

 手を合わせ、少しの時間ののち、再び礼をする。所作を気にするばかりで、祈願する内容は朧げなまま千晶の中で形作られることはなかった。

「火にあたっていこう。寒かったでしょ」

 神前から左手へ抜け、沙希穂が焚き火の方へ向かう。千晶もかじかんだ手を揉みながら向かおうとしたところだった。

「もしかして、小高?」

 不意に若い男の声がかけられて振り向く。

「大石、だよね」

 立っていたのは高校の同級生の大石だった。陸上部で短距離走者だった大石は県大会へ出場するほどで、高校の中でも知られた存在だった。千晶とは二年、三年とたまたまクラスが同じだったため、男子の中でもよく話していた。

「久しぶりだな。成人式以来じゃないか?」

「そうかな」

「どうしてた?」

 千晶は言葉につまる。現在の自分を世間的にどう表すのだろう。

「まあ、東京に出てなんとかやってる」

 無言の時間が恐ろしくて、千晶はごまかす。

 大石は気にした様子なく、眩しそうな笑顔を見せた。

「そっか。やっぱ小高はすげえな。俺は結局この町から出ることがなかったよ」

 同年なのに大石の振る舞いにはどこか落ち着いた気配が漂っていた。ふと目を向けた大石の左手にきらめくものがあった。

「大石、結婚したんだ。おめでとう」

 大石は短かく刈られた髪を大きな手で恥ずかしそうに掻く。

「ありがとう。今年の夏にな。ちょうど嫁さんも来ているから呼ぶよ」

「別にいいよ。もう帰るし」

「いや、せっかくだからさ。小高に会いたいと思うし」

 そう言うと、大石は高校時代を思わせる軽快な足取りで駆けていく。

 思案に暮れた千晶は近くにいるはずの沙希穂を探したが、既に焚き火にあたりに行ってしまったようで、その姿は見つけられなかった。

 大石の声と足音が再び近づいて来た。

「ほら、高校が一緒だった、小高。たまたま出会ってさ」

 千晶は沙希穂を探すのを諦めて、声の方を向く。

 彼女と視線が交わった。

「千晶、久しぶり。私のこと覚えてる?」

 背の高い大石の姿の斜め後ろに立つ、そこに立っていたのはかつて千晶の空に輝いていた星だった。


   *


 彼女と出会ったのは、千晶が高校二年になった時だった。

 隣のクラスに東京から転校生がやってきた。それは朝礼前のたわいもない会話の一つに上がった、少しのイレギュラーだった。その時はクラス替えの結果の方が大事で特に興味もなかった。

 学期初めの授業を適当に流し、あっという間に放課後の時間になった。

 部活動に所属していなかった千晶は、まだ多くの自転車が置かれている自転車置き場にいた。学校に長居しても取り立てて得られるものはない。入学時から一年経って草臥れた通学鞄をカゴに放り込んで帰ろうとしていた。

「あの、少し教えて欲しいことがあるんですけれど、時間大丈夫ですか?」

 鈴を転がすような声だった。

 見知らぬ少女がこちらを見つめていた。同性の千晶でも目を奪われる人形めいた顔立ち。困った表情が美貌により魅力を添えていた。

「全然。もう帰るところだったし」

 制服の襟のリボンの色から同学年だと認識し、気軽な調子で応える。こんな綺麗な子がいただろうかと千晶は内心首をひねる。

「部室棟に行きたいのだけれど、転校してきたばかりで、場所がよくわからなくて」

 千晶の口調に緊張がほぐれたのか、彼女の表情がやや緩んだ。

「部室棟ね。校舎をこっちに回っちゃうとわかりづらいから、一緒に案内するよ」

 答えながら自転車カゴから鞄を掴む。彼女が噂の転校生かと、千晶の疑問は氷解した。

「ありがとう」

 彼女は嫣然と笑む。

「何部に向かうの?」

 千晶は斜め後ろをついてくる彼女に問いかける。

「軽音楽部に行ってみようと思って」

 意外な回答だった。お嬢様然とした外見から美術部か吹奏楽部あたりかと思っていた。

「ふうん。楽器やってるんだ?」

 背後で彼女が息を吸う音がすぅと聴こえた。

 冬を越えて萌え出た樹々の若葉をそよがせる柔らかな風が吹いた。そう思った。

 彼女の身体から奏でられた旋律が、乾いた砂に水を注ぐように千晶の身体に浸透していく。

 千晶は立ち止まったまま呆然としていた。一分にも満たないワンコーラスだけで、千晶は彼女の歌声に魅了されていた。

「どう?」

 慌てて振り向き、一通りの褒め言葉を告げようとしたが、彼女の顔を見て息を呑んだ。

 歌い終えた彼女の表情には絶対的な自信が漲っていた。自らの備えた能力を全て理解し、相手がどれだけ畏怖しているかを高みから見る眼差し。慎ましい飼い猫が鼠を前にして野生を見せたようだった。

 千晶が口を開けたまま言葉を失っているのを彼女は暫く見つめていた。そして、彼女はふっと表情を緩め悪戯っぽい微笑みを投げかけた。

 その後、彼女を部室棟まで連れて行ったはずだが、再び一人で自転車置き場に戻ったところまで千晶の記憶は飛んでしまっている。

 千晶が思い出せるのは、トタン屋根が陽を遮る自転車置き場の薄暗がりで、染みの浮いたコンクリートとしわの入った革靴の靴先を見つめているところからだ。

 部室棟から吹奏楽部の音出しが遠く聴こえた。先ほどまで気に留めていなかった千晶を取り巻く環境音が耳に付く。彼女の歌が千晶の聴覚を抉じ開けたかのようだった。

 彼女の名が(うた)だと知ったのは、翌日のことだった。


 絶対的な美貌は呪いだ。

 田舎の高校という狭く未熟なコミュニティーでは、詩の存在は異端だった。女子は詠の存在を疎ましく思い、男子は詠の容姿に色めき立っていた。

「なんで、東京からわざわざこんな田舎にきたんだろうね」

「母親が芸能関係だって聞いた」

「なに?女優か何か?」

「東京で問題を起こしたって。男女関係の」

「枕営業していたのがバレて干されたらしい」

「女優って言っても、いかがわしいビデオのだって」

 噂はいくらでも湧いて出て、隣のクラスの千晶まで届いてきた。

 軽音楽部に入部した詠はゴールデンウィークが明けて早々に退部したらしい。数多の刺激的な噂に紛れた瑣末な情報として、それは千晶に届いた。

 春の陽光の下で出会ったとき以来、校内で詩の姿を見かけることはあっても、直接話すことはなかった。一人でいる姿に声をかけようかとも思ったこともあったが、その後の千晶の立場がどうなるかを思い、考えあぐねている内に時期を逸した。

 ただ、詩の歌声が強烈な印象として千晶の中に残り続けていた。

 季節が移り、樹々の色が緑を濃く湛える頃。

 ヒエラルキーは深く静かなところで流動する。それまでの噂が何もなかったかのように、詩は自然と周りの女生徒と溶け込み話を交わしていた。隣のクラスで千晶が気を揉んでいる内に、詩を取り巻く環境は大きく変わっていたのだった。

 初夏の日差しが差し込む中庭で、同級生に囲まれて笑い合う詩を見かけた。そこにかつて邂逅した時に見せた清冽さは失われていた。


 千晶と詩の人生が再び交わることになったのは、三年に進級したときだった。

 新しく一年を過ごすことになる教室に入ると、千晶の席の右手に詩が座っていた。名簿の中に詩の名前はあったのだろうが気づいていなかった。詩の変わらない美貌に思わず見惚れた。

 視線に気づいたのか、詩が千晶の方を向く。切れ長の目がわずかに開かれた。形の良い唇が開かれる。

「小高さん、だったんだ」

 え、と千早の口から小さく声が漏れた。

「私が入学したころ、部室棟まで連れて行ってくれたでしょう」

「あぁ、よく覚えているね」

 高校の一年は濃密で長い。詩が覚えていたことに千晶は驚く。

「だって、私の歌を聴かせた人だから」

 さらりと告げられた言葉に千晶は動きを止める。

 詩はそれ以上の言葉を重ねなかった。ただ、千晶に投げかけられた傲慢とも思われる強い視線が物語っていた。

 かつて春の陽光の中で見せた華々しくも恐ろしい輝きを千晶は完全に思い出した。

「あ、詩も同じクラスだったんだ!」

 隣の席で突っ立っている千晶を全く気にかけず、前学期で同じクラスだったと思われる女生徒が詩の元へ騒々しく近寄ってきた。詩は顔を声の主に向ける。

 詩が振り向く直前に千晶に残した表情は、あの時の彼女と同じ、悪戯をした後に愉悦を感じている笑みだった

 隣では既に賑やかなおしゃべりが交わされている。静かに千晶は席に着き思考する。彼女はこの狭い社会でさざ波を立てないよう、我が身を埋没させたのだ。皆は変わった後の彼女をごく自然に受け入れている。

 ただ、唯一彼女の本質を知るのは千晶だけなのかもしれない。


 進学校だったため、ゆとりある学生生活が送れたのは梅雨が明ける頃までだった。その後は授業と特別補講に時間が割かれ、無味乾燥な日々が積み重ねられていった。

 千晶と詩は同級生としての友情を育んでいた。当たりさわりのない会話を交わし、他の女子たちと一緒に、大きな群れの中で互いの存在を確かめあっていた。詩はあくまで学内の美少女であり、それで十分に彼女を取り巻く視線は特別なものだった。

 秋が深まった頃、文化祭が催された。

 友人たちはそれぞれの部活動の出し物の手伝いに行ってしまい、部活に入っていない千晶は特に仕事もなく、文化祭の喧騒の中を歩いていた。

 人混みを外れて辿り着いた先は、体育館脇のわずかな敷地に設けられた手洗い場。水道がいくつか並ぶその場所は運動部が活動しているときは休憩スペースとして使われていたが、文化祭当日には誰もいなかった。

 体育館からは重低音が漏れて響いてくる。今日の午後は軽音楽部の演奏があったのだと千晶は思い出す。

 アスファルトに落ちた砂つぶを踏みしめる、ガリっという音が聞こえた。振り向く前に、予感がした。

「誰かと思ったら、千晶か」

 鈴を転がすような、少し可笑しそうな声。

「私もここにいていいかな」

 千晶はただ頷くだけだった。

 無言の時間が続く。バンドの演奏が終わったのか、壁を隔てた向こう側から学生の歓声が聞こえた。

 再びバンドメンバーの演奏が始まる。リズミカルなリフレインが続く。

「歌、聴こえないね」

 笑いを滲ませて、詩が呟く。

「軽音部やめたんだよね」

 千晶は色々考えた末にひねり出した問いは自らでも的外れだと思った。詩が退部したのは、一年以上前の話なのだ。

「よく知っているね」

 詩の反応はごく自然だった。そこには何の思いも感じ取れなかった。

「勿体ないよ。あれだけ上手なのに」

 違う、こんなことを告げるつもりはないのだ。それでも麻酔にかかったように千晶の頭は茫としていて、口が勝手に言葉を紡いでいた。

「やっぱり、千晶は面白いね。初めて会った時から」

 詩が笑みを絶やすことはない。

「私がどうして辞めたかなんて、別に知りたくないでしょ」

 本心を突かれて千晶は押し黙る。

 漏れ聞こえていた音がいきなり大きくなり、押し付けがましいギターソロが鳴り響く。細かな音を飛ばしながら、有耶無耶にした状態で曲が終わった。一層大きな拍手と歓声が聴こえる。

 曇った空を見上げていると、それらの熱気がひどく空虚なものに思えた。

「何だろうね」

 横を向くと、詩も曇った空を見上げていた。

「星がいくら頑張って輝いても、夜空は明るくならないから」

 彼女はそう言って去っていった。

 それからも彼女は歌うことはなかった。

 それでも、単調な学生生活を過ごす中で、絶えず詩は千晶の星であり続けた。


   *


「詩、久しぶりだね」

 千晶は息を吸って、大きく吐き出す。白いかたまりが視界をぼかす。

「大石の相手って詩だったんだ。言ってくれればいいのに」

 大石に会話を向け、彼女から目を外す。

「いや、なんか恥ずかしくてさ。連れてきた方が早いやと思って」

「学生の頃はそんなことなかった、よね?」

「全然。同窓会で久しぶりにあってさ。そっから」

 大石がはにかみながら答える。陸上部で活躍し校内では誰しもが知る大石と、一際目を引く美貌の詩。かつてのクラスメイトが知れば、驚きこそすれ似合いの二人だと納得するだろう。

「千晶、東京で働いてるんだって聞いたよ。すごいね」

 詩が軽やかな声音で話しかけてきて、千晶は思わず視線を向ける。視線がまっすぐ交わり、心臓が縮む思いがした。

 詩の表情は穏やかだった。

 千晶はやっと詩の顔を見つめることができた。そこに学生時代の硝子のような美しさは見つけられなかった。見つめる千晶の額に赤く膨れたにきびを見つけて、ひどく厭だった。

「あ、ごめん。一緒に来てる人待たせているんだった。また今度」

 口早に告げながら、千晶は詩に背を向ける。今度はいつまでも訪れないだろうと、千晶は確信を持っていた。

 焚火を囲む人々を横目に、境内を足早に突っ切り、石段を転がるように下った。


 また、人けのない道を歩いていた。

 かつて千晶が見惚れた星は地に落ち、匣中に仕舞い込まれた。緩やかに身を絡めとっていく田舎の環境に埋没したのだ。

 それでも、記憶にこびりついた鮮烈な印象は、まだ輝きを放っていた。

 千晶のポケットが静かに振動する。着信相手の名前を確認し、冷え切ったスマホの画面に頬を付ける。

 慣れ親しんだはずの彼の声が、遠い海を越えて全く知らない男のものに聞こえた。話をぼんやりと聞き流し相槌を打つ。

 電話の向こうでは、遅れて新年を迎えた異国の夜空に打ち上がる花火の音が微かにしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ