彼女たちの休息
それは十二月三十一日、大晦日の昼過ぎの事。とある神社の外れに建つ純和風な日本家屋の玄関前にひとりの少女が立っていた。
年の頃は二十歳前後。愛らしい顔立ちとユルふわな髪が印象的な美少女で、少し小柄ながらコート越しでも見事なプロポーションであることが察せられた。彼女は呼び鈴を押しながら胸の前で手を組んで何やら呟いている。
「……お久しぶりです……お変わりありませんか……お逢いしたかったです……」
顔には真剣な表情が浮かんでいる。彼女ははやる気持ちを抑えきれずもう一度呼び鈴を押した。はーい、という声が聞こえてきて少女の瞳に喜びの煌きが浮かぶ。声がさらに近づいてきた。
「はいはい。ちょっと待ってくださいよ、いま開けますよー」
がらりと玄関扉が開かれる。中から顔を出したのは、二十代後半の、すらりとした長身ときりりとした美貌を持つ、可愛いというよりは美人と称するのがぴったりな容姿の女性だった。
その姿を見た瞬間、玄関で待っていた少女の頭の中からさっきまで考えていた挨拶の言葉が全て消し飛んだ。
「紗世姉さまー!」
「おわ?!」
そのまま抱きつくように女性の胸に飛び込む。
「え? ちょっ? はっ?」
「お久しぶりですー」
出てきたのはそんなありきたりの言葉。でも、そんな事どうでもいいのだ。今は姉さまに逢えたことが嬉しい。自然、満面の笑みがこぼれ出る。見るもの全てを虜にしてしまいそうなそのふわっとした笑顔を向けられてしかし、姉さまと呼ばれた女性が困惑の声を上げる。
「あ、ばか、珠理、そんなに抱きつくんじゃない!」
ぐいぐいと押し付けられる彼女のものの感触に困惑しているのだ。離れない少女に彼女は実力行使に出る。おでこを手のひらでグイっと押した。
「やーん、姉さま、やめてやめてー」
少女は離れるものかと逆に顔を女性の胸に埋めるようにして抵抗した。腕にも力を込める。”姉さま”もその腕を引きはがそうと肘で押したり掴んで引っ張ったりする。そんなこんなで玄関先で二人の美少女がいきなり押し合いへし合いを始めた。と、その時。
「いい加減にしないと、本気出すぞ」
耳元で姉さまの少し低い声が聞こえてきて珠理の身体がびくっと固まる。慌てて腕を離した。
「も、もう、姉さま、怖いこと言わないでください」
ようやく少女が離れたので姉さまは、はあーと溜息をついた。こめかみを指で押さえながら珠理を見やって
「おまえなあ、来るのも突然なら、来ていきなり抱きつくやつがあるか」
「だってえ、長いこと逢えませんでしたし」
「まあな」
「それに姉さまもわたしも明日からまた忙しくて、今日ぐらいしか時間取れませんでしょう?」
「それはそうだけど」
「だから、お逢いしたかったんですー」
「あー」
途端に姉さまの視線が泳ぐ。無意識に人差し指で頬を掻いていた。その仕草を見て珠理はふふっと声を漏らした。姉さまカワイイ!
「なのでもう一度抱きついてもいいですか?」
「は?」
臆面もなく言う珠理に姉さまはもう一度溜息をもらした。
「あのなあ」
「いいでしょう?」
「ダメだ」
「えー」
「ダメと言ったらだめ」
「うー」
姉さまの意地悪。まだ姉さま成分が全然足らないのに~。そう呟いていてみるが聞こえないふりをされてしまう。それでも姉さまは
「まあ、いいや。とりあえず、上がりな」
そう言ってくれる。
「はい!」
珠理は花の綻ぶような笑みを浮かべた。
珠理が通されたのは畳敷きの和室で隣の部屋とは襖で区切られていた。床の間には木彫りの置物や香炉、一振りの刀やギターケースなど雑多なものが置かれている。庭に続く縁側があり冬の今はガラス窓が閉められているが、そこから広い庭が見えた。巧みに岩を配した庭には中央に池や島もあり畔に東屋が建っている。そんな風光明媚な景色にも何度も来たことがある珠理はさほど関心を向けることはなく、部屋に入った彼女の第一声は
「わー、こたつがある~!」
部屋の中央に鎮座するコタツを見つけて目を輝かせた。
こたつ! こたつ!
珠理が口に出して歌いながらさっそくコタツに飛び込もうとしたら、急に襟首を捕まれた。ぐえ! く、首が締まる~。
「ちょ、ちょっと姉さま苦しいです~」
「座る前にコート脱いで貸しな」
「ああ、はい、ありがとうございます」
珠理が着ていたコートを脱ぐと、その下の装いが現れる。姉さまに逢うためにさんざん悩んで決めた服装は淡いピンクのフェミニンなセーターに膝上丈のフレアスカートで可愛らしさを意識してみた。コートを受け取った姉さまの瞳が自分の身体の上から下まで動いていく。緊張と不安が胸に浮かぶ。そこで姉さまの眉が顰められた。
「なあ、それって寒くないのか?」
姉さまの視線がスカートから覗く生足に注がれていた。そこ?! 服は?
はあ~と息が漏れる。
「まあ、寒いですけど」
ちょっとぶっきらぼうな声色になった。
「だよなあ」
「……」
「んで、なんでそんな格好?」
「それは……可愛いからです!」
姉さまに可愛く思ってもらうためですとは言えなかった。
「おまえなあ、女子高生じゃないんだから」
「いいんです。可愛いは正義なんです!」
とりあえず諦めた。
「あのなあ」
「それより、こたつです」
身を翻してコタツに潜り込んだ。
「はあ、ぬくぬく~。生き返る~」
自然に声が漏れる。珠理は天板に顔を伏せて両腕でコタツを抱きしめた。
「やっぱり相当我慢してるんじゃないか」
姉さまがなんか言ってるけど無視ムシ。
「あー、こたつ、しあわせ~」
「聞いちゃいない……」
姉さまは呆れ顔で珠理のコートを腕に挟んで部屋を出ていく。出がけに声を掛けてきた。
「寒かったんだろう。とりあえず、なんか飲むか? 熱い紅茶と珈琲どっちがいい?」
やっぱりこうやって聞いてくれる姉さまの優しさが嬉しい。
「それでは紅茶でお願いします」
わかったと答えて姉さまは部屋を後にした。
「それで珠理、おまえのところは今年はどうだった?」
「えーと、そうですねえ」
二人は紅茶カップを片手にコタツで向かい合って近況を報告し合っていた。
「やっぱり、この疫病騒ぎでしょう? 来てくださる方も減ってしまいました」
「そうだよなあ」
「姉さまの所はむしろ平癒祈願とかで増えたりはしないのですか?」
「いや、うちもやっぱりダメだな」
「そうなんですね」
「ああ、いつもの年なら開催されるイベントなんかも次々中止になったからなあ」
「ああ、そうでした。その所為でいつもなら姉さまに逢える機会が減ってしまって、わたし、とても悲しかったです」
「まあ、仕方ないよ」
「そうですけど……ということで姉さま」
「うん?」
「わたし、甘えてもいいですか?」
「はあ?」
姉さまが声を上げた時には対面の珠理の姿は掻き消えていた。一瞬の間をおいてガタゴトとコタツが揺れる。
「ぷはあー」
姉さまの傍らのこたつ布団が持ち上がったと思ったら、ぬっと珠理の顔が飛び出した。コタツの中を潜って来たのである。
「姉さまー」
「子供か!」
姉さまが呆れた声で叫んだ。いやでも、姉さま成分を摂取したいし。珠理がごそごそと這い出そうとしていたらおでこにおもむろに紅茶のカップが置かれた。
「え?」
「動くなよ。紅茶がこぼれるぞ」
姉さまが悪戯を面白がるような笑み浮かべる。
「ええー! 姉さまぁ」
「まあ、そこで大人しくしてろ」
「そんなあ」
珠理の困り顔に姉さまは今度こそククっと声を出して笑った。
珠理ははっと気が付いて目を覚ました。コタツに胸までもぐった状態で眠ってしまっていたらしい。窓の外が夕焼け色に染まっていた。
「いけない! もう夕方だわ」
なんてことだろう。姉さまと過ごせる時間が無駄に過ぎてしまった。やっぱりコタツって魔性の器具だわ。そう思って慌てて起きようとした時、気が付いた。隣で姉さまが座イスに持たれかけた状態でスヤスヤと寝息を立てている。珠理は息を呑んだ。姉さまの長い睫毛が息をする度に微かに揺れ、形の良い唇が艶めく。惹き込まれるようにその顔を覗き込んだ。
「姉さま……」
脳裏に様々な記憶が一瞬で過ぎる。わたし達は血の繋がった姉妹ではない。けれど姉妹よりも長い長い時間を共に過ごしてきた。姉さまは私の憧れで理想の人なのだ。仲の良い私たちを一心同体の様に思われた時には天にも昇るような嬉しい気持ちになった。引き離されたときには胸が潰れる思いがした。これまでもいろんなことがあった。これからもいろんなことがあるだろう。それでも今、わたし達は、ここにいて、姉さまは寝息を立てている。
ごくり。珠理が見つめる姉さまの顔がどんどん近づいてくる。あと少し。もう少しで二人の間の距離が消え去ろうとしたその瞬間、姉さまの髪が揺れた。
「あてっ!」
「きゃあ!」
寝返りを打った姉さまと珠理のおでこがぶつかって音を立てた。
「つうー」
痛みにおでこを抑えていると姉さまの声が降ってくる。
「なにやってたの、おまえ?」
珠理は涙目で訴える。
「もう、姉さまが突然動くのが悪いんですよ!」
なんとなく状況を悟った姉さまが呆れた溜息をついた。
「まあ、いいや。ああ、でも、もう夕方か。二人でこたつで寝ちまったんだな」
「そうですよ~。せっかくの二人で過ごせる時間だったのに~」
「まあ、仕方ないな。じゃあ、夕飯の買い出しにでも行くか?」
姉さまの提案に珠理は勢い良く手を挙げた。
「はい! はい! 行きます! いきまーす!」
姉さまに誘われた珠理の立ち直りはとても早い。ウキウキ顔でコタツから這い出した。
「ちょっと、腕が邪魔だ」
「いいじゃないですか。これぐらい」
近くのスーパーに行く道すがら姉さまの腕に自分の腕を絡めて珠理は上機嫌だ。
「それで姉さまは夕飯、何が食べたいです? なんでも作っちゃいますよー」
じゃれつく珠理を気にしながらも姉さまも言葉を返す。
「そうだな、今日は大晦日だからやっぱり一品は年越し蕎麦かな」
「お蕎麦! いいですね。作りましょう! 作りましょう!」
「あとはそうだなあ……日本の冬といえば鍋かな」
「わー! いいですね。食べたいです!」
「おまえ……なんでもいいんじゃないのか?」
「もちろん、姉さまと食べられるなら、なんでもおいしいに決まってるじゃないですか!」
はあ~と姉さまが呆れたようにため息を吐く。
「分かったけど、ちゃんと自分の食べたいものも入れるんだぞ?」
「はーい」
大晦日のスーパーは年越しと正月向けの食材を買い求める人でまだまだ賑わっていた。正月を迎えるとあって、おせちの材料の数の子や黒豆、棒鱈やきんとんなど、普段見かけない食材が所狭しと並べられている。総菜コーナーには箱詰めされたおせちパックも売られていた。けれど二人はそれには目をくれず通り過ぎる。
「えーと締めにお蕎麦を入れることを考えると、やっぱりめんつゆベースの鍋が良いですよね。それなら食材は……」
珠理はあれこれ考えながら、鍋用の野菜や肉類を買い物カゴに放り込んでいく。もちろん姉さまに尋ねるのも忘れない。
「姉さま、牡蠣がすごく美味しそうですけどどうですか?」
「あ、このつくねも美味しそうですよ」
「やっぱり豚バラ肉は外せないですよね」
「あー、この鱈も美味しそうだなあ」
次々放り込まれる食材を見ながら姉さまが呆れた声を出す。
「おまえなあ、確かに好きなの入れろと言ったけど、こんなに食べられるかあ?」
「いいじゃないですか。大晦日ですし姉さまと二人ですし」
「いや、だから二人じゃ食べきれないだろう」
「まあまあ」
何がそれほど嬉しいんだかニコニコ顔の珠理に姉さまもそれ以上言えなくなる。
そんなこんなで食材を買い込み、次に酒類コーナーで飲み物を物色している時だった。突然レジ方向で大きな悲鳴が上がった。珠理が見ると男が周りの客を押しのけながら走りだそうとしている所だった。レジから泥棒だ! という叫びが聞こえてきた。
「姉さま!」
「あぁ」
珠理の声に短く答えた姉さまの腕が小さく振られた。次の瞬間、逃げる男の頭で何かが弾けて男はもんどりうって倒れ込むと動かなくなった。あわてて従業員が駆けつけて誰か警察に連絡して! と叫んでいる。二人はその様子をしばらく遠くから眺めると、何事もなかったように買い物に戻った。
駆け付けた警察はひしゃげて割れたビール缶とその側でビールまみれの顔で失神している犯人の男を捉まえる事になるのだが、それはまた別の話。
ふんふんふんふん♪ ふんふんふん♪ ふんふんふんふん♪ ふんふんふん♪
台所で楽しげな鼻歌が聞こえている。エプロン姿の珠理が歌いながら野菜を適当な大きさに切っていた。隣で姉さまも白菜をざくざくと大胆に切っていく。
「姉さま、鍋の昆布引き上げてもらえますか?」
「ああ」
姉さまが昆布を取り出すのを待って白出汁を投入。それから切った食材を綺麗に並べていく。白菜、人参、椎茸、葱、豚バラ肉とつくね団子、牡蠣に鱈の切り身、そして豆腐にしらたき。うん、きれいきれい。菊菜は最後に入れるとして
「じゃあ、姉さま、火を付けてもらえますか?」
鍋に蓋を被せて、煮えるまで待つ間に年越し蕎麦の準備もしておこう。珠理は小麦粉を水で溶きだす。
「姉さま、そこの玉ねぎを小さく切ってもらえますか」
「はいよ」
姉さまが切り終わったタマネギは大胆な大きさだった。
「えーと、姉さま、もう少し小さくして欲しいんですけど」
「えー、これでいいだろ」
「いえ、それはちょっとぅ」
珠理は首を傾げる。
「おかしいですね、姉さま、刃物の扱いには慣れていらっしゃると思ってたのですが」
「いや、こう言う細かいのは苦手なんだよ」
「あー」
そう言えばそうでした。天は二物を与えずと言うけれど、なんでも出来る姉さまの唯一の弱点はこう言う細かいこと。でもそこもかわいいんですけど。
「わかりました。じゃあ、姉さまはコタツの上を片付けておいてくれますか」
「ああ、わかった」
珠理は残された玉ねぎを小さな角切りにすると今度はネギを小口に切って用意する。水溶き小麦粉の中にそれらを入れると次いで小エビとシラスを投入し混ぜ合わせた。よし、これで準備完了。ちょうどよい頃合いに鍋蓋からシュンシュンと湯気が噴き出してきていた。
「さあさあ、出来上がりましたよー」
珠理は出来上がった鍋を両手で持ってコタツの上の鍋敷きに乗せる。蓋を取ると途端に湯気がふわっと広がって食欲をそそる良い匂いが漂った。鍋の上には最後に投入した春菊の緑が鮮やかな彩りを添えていた。
「では乾杯といこうか」
「はい。そうですね」
コタツの上には姉さまが用意してくれた缶ビールが置かれている。プルタブを開けて互いに缶を持ちあげる。
「それでは姉さま、今年もお疲れさまでした」
「ああ」
「また明日から忙しくなりますが、束の間の休息と言う事で英気を養って来年も頑張りましょう」
「お互いにな」
「はい」
「それじゃあ、乾杯だ」
「「かんぱーい」」
互いの缶をコツンと合わせてビールに口を付ける。ああ、一年間のご褒美、と珠理は思った。
「そう言えば、ビールを飲んで思い出しましたけど、スーパーの泥棒さん、大丈夫でしたでしょうか?」
「ああ、まあ、大丈夫だろう。手加減はしたからな」
「そうですか」
姉さまは犯人が聞いたらきっと抗議するだろう言葉をさらりと口にする。でもけっして嘘じゃないのが恐いところだ。
「姉さま、器をください、お取りしますね」
「ああ、頼む」
器を渡してくれた姉さまがチラッと柱時計を確認すると、おもむろにテレビのリモコンに手を伸ばした。珠理も時計を見る。
「あ、もうこんな時間」
「そろそろ始まるな」
姉さまがリモコンのボタンを操作する。パチッと音がしてテレビが明るくなると画面には華やかなオープニングセレモニーの様子が映った。そう、それは国民的人気番組であるあの……
「やっぱり大晦日は紅白歌合戦だよな」
「ええ、ええ、そうですね」
意外に昭和な二人なのだった。
「お、この子たち、めちゃめちゃかわいいな。なんて名前だ?」
「それはですね……」
珠理が男性アイドルグループの名前を教えると姉さまは感心したように言う。
「さすが珠理だな。こんな若い子たちも知ってるんだ」
「なに言ってるんですか姉さま、人気のグループですよ」
「いやあ、最近、入れ替わりが激しいだろう? ついて行けないよ。それに、みんな同じような顔に見えてきてなあ」
「やだ、姉さま、なにお年寄りみたいなこと言ってるんですか」
「実際、歳だし」
「んもう、そういうこと言ってるんじゃないですよ。姉さまももっと流行に敏感になって欲しいんです。だいたい姉さまは最近……」
「あー、わかったわかった」
アルコールが入ったせいか珠理は自分の身体が火照ってきたのを感じていた。それに微妙に姉さまへの要求というか愚痴が増えてきている。普段言えない溜まったものを吐き出しそうだ。いけないいけない。せっかくの姉さまとの時間なのだ。楽しく過ごさなきゃ。その時、リズミカルなメロディーがテレビから響いてきて、珠理は思わず踊り出しそうになった。そうだ。こう言うときは身体を動かすに限る。
「姉さま、わたし、踊ってもいいですか?」
「え? ここでか?」
「はい。ダメでしょうか?」
「あー、いや、いいけど……」
そこで姉さまは何かを思い出したように
「ああ、そうだ。それなら……ちょっと待ちな」
姉さまは立ち上がると部屋を横切っていく。なんだろう? 珠理は首を傾げた。
姉さまが部屋を仕切っていた襖を開いた。続きの間が現れてそこに一段高い小さな舞台があった。
「わー、いつの間にこんな場所を?」
「いや、ちょっと今年はヒマだったからな。造ってみたんだ」
よくわからない理由を言いながら姉さまがチラッと床の間を見やる。
「おまえが踊るんなら、そうだな、あたしが伴奏をしようか?」
「へ?」
突然の申し出に珠理は呆然と固まった。姉さまが伴奏。あの、美音とも妙音とも呼ばれた姉さまの奏でる調べが聞ける!? コクコクと首を振って珠理が告げる。
「姉さまの伴奏! 良いんですか?! 良いんですよね!」
姉さまは苦笑を浮かべながら
「ああ、もちろん。それに、おまえが舞うというのなら天の楽団だって喜んで伴奏するだろうさ」
「嬉しいですー!」
珠理はそれこそ躍り上がって喜んだ。
姉さまが床の間のギターケースから取り出したのは、けれど普通のギターではなかった。弦は四弦、胴は丸みを帯びておりネック部分はかなり短かった。ギターというより琵琶と呼んだ方がよさそうな形状。琵琶ならば撥で演奏するものだが、調音を終えた姉さまはそのまま指でつま弾きだした。途端に清涼で典雅な調べが流れ出す。
「よし、準備はいいぞ珠理」
「はい」
珠理は今更ながらに緊張した。あの姉さまの演奏で舞うのだ。緊張するなと言う方が無理だった。姉さまの右手が動き出す。メロディが流れ出す。いったい弦が何本あるのかと思う程の多くの音が重なり流れるように走り出す。その瞬間、珠理の中でなにかのスイッチが入った。珠理の身体はその調べに乗るように自然に動き出していた。
ひらりとステップを踏む。両腕が大きく波を描く。クルリと上半身が撓り、遅れて下半身が続く。ぱっと飛び上がった。着地と同時にひらりと身体が一回転する。スカートのすそがふわりと広がった。楽しい! ああ、なんて音楽だろう! 姉さまの調べが体の芯を震わす。その調べに身体が自ら音楽を奏でる。まるで自分自身が調べになったみたいだ。珠理は調べに導かれるままに無心で舞った。
いつしか調べは途切れていた。代わりにぱちぱちという音が聞こえた。立ち止まる。ハアハアと息が漏れた。目の前で姉さまが笑顔で拍手をしてくれていた。
「さすが、珠理だな。見事な舞いだ」
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げた。嬉しい。でも恥ずかしい。とても嬉しい。でもすごく恥ずかしい。だから
「姉さまも、踊ってくださいよ」
「え?」
「私だけなんてずるいです。姉さまも踊ってくださいよ〜」
「いやあ、あたしは、ほら、無骨者だから……」
「お願いです、姉さまぁ」
珠理は上目遣いでお願いする。姉さまは目を逸らして、それから一つ息を吐いた。
「あたしが出来るのは、……剣舞いぐらいだぞ。それでも、いいか?」
珠理の顔にぱあっと笑みが広がる。
「もちろんです!」
床の間に飾ってあった剣を片手に姉さまが舞台に立つ。その姿がとても凛々しくてステキだった。鞘を払った剣は姉さまの手の中でシンとした輝きを放っていた。
テレビから男性グループのアップテンポなメロディが聞こえてきた。ゆらりと姉さまの身体が動いた。次の瞬間、空を切る音と切り裂かれた風が体を震わす。その時には姉さまは頭の上で剣を構え、型を取っていた。音楽に合わせてひらりと剣が煌めく。次の瞬間には剣は下段に置かれていた。そして響く風の音。珠理の目に姉さまの剣の軌跡はまったく見えなかった。メロディがますますハイテンポになっていく。それとともに姉さまの動きも激しさを増す。静と動が交互に訪れて、まるで瞬間移動の動画を見ているようだ。
すごいと思った。うつくしいと思った。かっこいいと思った。自分には全く縁のないそんな姿に、だから憧れるのだろう。だからこんなにも焦がれるのだろう。珠理はそんな姉さまの姿をいつまでも見ていたいと思った。至福の時間だった。なぜか涙が出そうになった。それを堪えながら珠理は舞い終えて照れたように頭を下げる姉さまに向かって思いっきり拍手した。
ガスレンジのセンサーが油が適温になったことを知らせるメロディを奏でた。午後11時を回って鍋の食材も尽き、締めの年越し蕎麦の準備をする。珠理は先ほど用意していた種をへらに掬い取って油へと投入する。じゅわっという音と共に香ばしい匂いが立ち込めた。
「お、うまそうだな、かき揚げ」
「姉さま、つまみ食い禁止です」
「分かってるよ」
「それより、鍋のつゆ、温め直しておいてくださいね」
「オーケー」
「蕎麦ゆで用のお湯もお願いします」
「人使い荒くないか?」
珠理はにっこりと微笑みながら
「なんなら奥の手を使っていただいてもかまいませんよ?」
姉さまは苦笑する。
「いや、やめとく。せいぜいこのままで頑張るよ」
「はい。よろしく、姉さま」
温め直した鍋のつゆを丼に取り、一緒に煮た葱や鶏肉を加える。茹で上がった蕎麦を加えたらかき揚げを乗せ、最後に小口に切った葱を振り掛けて出来上がりだ。
「姉さま、年越し蕎麦が出来ましたよ」
トレイに乗せてコタツに持って行くと、ありがとうと言って姉さまが受け取る。テレビの画面では紅白のトリを飾る歌手が熱唱していた。
「今年も終わりますね」
「ああ、そうだな」
自然にそんな会話がこぼれ出る。年越し蕎麦を二人で食べながらゆく年に思いを馳せた。
「うん、うまかった。ごちそうさま」
「はい、お粗末様です」
蕎麦を食べ終えた姉さまが労ってくれる。珠理は素直に嬉しかった。
その時、テレビの画面では紅白が終了し『ゆく年くる年』に切り替わる。除夜の鐘の音がボーンと響いてきた。二人の表情がすっと引き締まった。
「さあ、束の間の休息は終わりだな」
「はい、姉さま」
「珠理はこのあとどうする予定だ?」
「そうですね、まずは近場からですが、最終的に元旦は浄瑠璃寺、そのあとは東大寺三月堂あたりですかね」
「みなの懺悔を聞くのは大変だろう。とてもあたしには真似出来ないな」
「姉さまだって、大変でしょう。姉さまは場所も多いですし、明け方には船にも乗らないといけませんし」
「まあ、そうだけど、こちらも近場から回るし、船はあたしだけじゃないからな」
「そうですね、みなさまにもよろしくお伝えください」
「わかった。そう伝えるよ。おまえの言葉なら、あいつらも喜ぶだろうからな」
そうして二人は立ち上がった。
トンと同時に床を踏む。途端に二人の足元に五芒星の輝きが広がった。姉さまのそれは赤く燃えるような色合いで、珠理のそれは春の薫りのような桜色だった。光の中で二人の服装が変化する。ひらひらとした透き通るような質感の衣が身体全体を覆う。それは天女の衣装だった。けれど姉さまの胸には無骨な胸当てが現れて両手に手甲が巻かれる。その額には深紅の燃えるような宝玉が煌めいた。対照的に珠理の胸には大ぶりの玉の嵌った胸飾り、髪には薄紅色の花の意匠の髪飾りが輝いた。
そう、二人は尋常の人にあらず。天の二柱の女神であった。姉さまの古き名はサラスバティ。日本では古来より「さより姫」とも呼ばれ、もっとも有名な呼び名は弁財天という。富と知恵、学術、および戦の神である。一方、珠理の本来の名はシュリー・マーハデヴィ。日本では幸運と繁栄・美を司る吉祥天として知られている。
五芒星の光の中で彼女たちは支度を終える。これから新しい年を迎えて人々に祝福を与えるために出かけるのだ。
「では、行くか」
姉さまが声を掛ける。
「待ってください、姉さま。膝を……」
珠理の言葉に気づいた姉さまが膝を折った。珠理が姉さまに近付く。膝立ちで低くなった姉さまにそっと顔を寄せて、その額に口付けた。瞬間、姉さまの額から光が射した。
「幸運の女神の口付けがあれば、どんな戦いも怖れるものは無いな」
「ふふ。戦いに赴くわけではありませんけど」
「いや、ある意味戦場のようなもんだからな」
「そうですね。それではこれが新たな年に忍び寄る悪意や不幸を少しでも払えればと思います」
「ああ、まったくだ」
その時、午前零時の時を迎える。二人の姿がすぅと薄くなる。
「それではまた、姉さま」
珠理が告げる。
「ああ、またな、珠理」
薄れ行く姉さまの姿を見つめながら珠理は口の中で小さく呟いた。
「ご武運を……」
新しい年が明ける。多くの人が新しい年に期待するだろう。その期待に応えるためにつかの間の休息を終えた彼女たちも力を尽くすのだ。どうか、その願いが、その努力が、叶い、報われますように。
新年、明けましておめでとうございます。




