空が零れ落ちていた
梅雨も明け、暑い日が続いているのにどこにも出掛ける気にならない。
だだっ広い家にわたしと息子の二人きり。
強い日差しの差し込む大きな窓からはそよ風が入り、レースのカーテンが揺れていた。
息子は三歳。
子供部屋で楽しそうに一人遊んでいる。
「ママー、お菓子食べたーい!」
「まだ三時じゃないからもうちょっと我慢しようね」
「つまんないのー!はーい!」
一週間前に旦那はこの家を出ていった。
わたしと息子を置いていなくなったのだ。
その現実からわたしはまだ立ち直れず、生きている心地がしないままの日々を過ごしていた。
わたしは旦那を愛していた。
息子と同じくらい愛していた。
愛する人が息子だけになり、心にぽっかり穴が空いてしまったようだ。
わたしは今、この子のおかげで平静を保ち母親であり続けることができている。
「ねえママー!」
「ん。なーに?」
「パパはいつ帰ってくるの?」
子供の純粋さは時として、平気でわたしの痛いところを貫いてくる。
きっと三歳の子でもなんとなく勘づくような、そんな嫌な空気を感じさせてしまっていたんだろう。
そしてわたしは母親を演じ続ける。
「パパはね、お仕事で遠くに引っ越しちゃったんだ」
「ふーん、もう帰ってこないの?」
「どうかな、すごい遠いところだから…」
「へー、そっかー!」
息子はおもちゃの車を手で動かしながらわたしに返事をしていた。
後ろを向いて遊んでいたので顔は見えないけど、小さな背中は泣いているように見えた。
「ねえママ。ボクが夜寝るの遅いし、お野菜をちゃんと食べないからパパはボクのことを嫌いになっちゃったのかなー」
「……!」
「違うの!ママが馬鹿だから、ママが馬鹿だからパパは遠くに行ってしまったの!」
息子にこんな言葉を言わせてしまっている自分に吐き気がした。わたしは最低な母親だ。
「ふーん…ママは馬鹿なの?」
「うん!ママは本当に本当に馬鹿なの……」
「じゃあママの馬鹿が治ればパパは帰ってくるかなー?」
「クスッ そうかもしれないわね…」
息子があまりにも純粋で、少し心が緩み久し振りに笑った気がした。
それを見た息子はハッとなにかを閃いたように、嬉しそうな顔でわたしにこう言った。
「それじゃあボクがママの馬鹿を治してあげる!」
「治す?どうやって?」
「はいママ、こっちに来てください。そしてこの椅子に座って待っていてください」
そう言い残し息子は部屋を出て行った。
わたしは言われたとおりに息子の部屋の小さな子供用椅子にお尻をはみ出しながら座った。
なにやらガサゴソと音がしている。
そして息子はダボダボの白いワイシャツを羽織り部屋に戻ってきた。旦那の置いていったシャツだ。
「お待たせしました。ボクは世界一のお医者さんです。どんな病気でも治せちゃいます」
わたしは思わず吹き出してしまった。
そして息子はワイシャツのポケットから、ヨーグルト味のラムネと小さなチョコレートを出し、わたしの手に乗せてくれた。
「これは馬鹿が治るお薬です。苦くないのでこのお薬を飲んでみてください」
「はい」
わたしは息子のくれたお薬を口に入れた。
「どうですか?馬鹿は治りましたか?」
心配そうな顔でわたしの目を見つめる息子の姿を見た途端、わたしの目からは大粒の涙がポロポロこぼれ落ちてきた。
「うっぐ…はい…先生、治りました…」
「良かったです、お大事にしてくださいね」
思わずわたしは息子に抱きつき泣いた。
今まで我慢していたもの全てを吐き出すように大声で子供のように泣いた。
「ごめんね……本当にごめんね!」
体を震わせ、鼻水を垂らし、大声をだして泣いた。
「ママ大丈夫?まだどこか悪いの?
まだ痛いところあるの?」
息子の声が聞こえわたしはハッとし、
呼吸を整えて母親に戻った。
「もう大丈夫!かわいいお医者さんがくれたお薬を飲んだおかげで、すっかり治っちゃったんだから!」
わたしは息子にこれでもかというくらい本気で『たかいたかい』をした。
「あはは!ママ危ないって!ちょっと落ちるってばー!ちょっとママったらー!」
今まで『たかいたかい』はずっとパパの役目だった。
すっごく重たくなったなぁ。
これからはわたしがいつでも、そして何度でもやってあげるからね。
「ねえママ…?」
「ん?なあに?」
息子はずるい顔でわたしにこう言った。
「ママの病気は治ったから、残りのお薬はボクが全部食べちゃうもんねー!」
窓の外には溢れんばかりの青空が零れ落ちていた。