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砂は水の夢を見る

獣は夢から覚める

作者: 遠部右喬
掲載日:2020/09/01

 一体、いつからこうしているのだろう。

 何も思いだせない。

 おれは、いや、おれ? おれと言うからは、男なのか?

 もう、身体はボロボロなのに、痛みの感覚すらおぼつかない。

 そもそも、本当に、身体なんてあるのか?

 一体、いつからこうしているのだろう。

 何もわからない。

 ここは、どこなんだ?

 何でみんな、傷つけあってるんだ?

 今、隣のやつを殴ったのは、おれの手か?

 俺の足が動かないのは、お前がかじったからか?

 一体、いつまでこうしていればいいんだ?

 何もわからない。


 ああ、まぶしい。

 何も見えないけれど、まぶしい。

 何がおきてる?

 力が入らない。

 音のなかった世界に、声がひびく。

「苦しいか?」

 わからない。

「楽になりたいのか?」

 わからない。

 聞くだけむだだ、と、べつの声がひびく。

 わからない、わからない。何がむだなんだ?

 まぶしさが増し、怒りが広がる。

 やめてくれ。こわいんだ、こわい、こわい、こわい……。

 また、はじめに聞こえた声がした。

「もうよい」

 今度は、怒りとはちがう気持ちが広がる。でもそれが何なのか、おれにはわからない。

「もうよい、頼む、こやつらを……」

 声たちは、話をしているようだったけれど、何を言っているのか、よくわからない。

「さらばだ」

 さいごに、そう聞こえた気がしたけど、それも、本当のことかわからない。


 その日、死者の国に客が訪れた。

 数か所ある関係者用の入り口の内、正門の正反対に位置するこの通用門が利用される機会は少ない。

 高位の神と、その神使である大きな犬、そして、神候補の少年という、珍しい組み合わせの彼等の目の前には、神候補の実習を兼ねた見回りである旨の記された書類が用意されている。

 通用門に併設されている管理室で、書類に署名をしながら、少年が呟いた。

「俺達、通用門からしか入ったことないな」

 少年の胸の辺りから、別の声が聞こえた。

〈結局、こっちに来てすぐ神界暮らしになったから、正門通る機会無かったもんな。頭は、前は正門から入ったんだろ?〉

 頭と呼ばれた神使は、書類に肉球を押し付け乍ら、姿の見えない声に返す。

「まあそうだが、別にこちらの門とそう変わらんぞ。無論、向こうの方が大きくて立派だが。ああ、だが、手続きは向こうの方が楽だったな」

〈そうなのか?〉

「殆どの死者は正門を通るからね。手続きを簡略にしておかないと、大行列になっちゃうよ」

 光る珠の姿をした神は答えながら、署名代わりに光の粉を書類に振りかける。

 滞りなく手続きが済み、彼等は内へ進む。

 事象の世界である地上と違い、死者の国を含む幽玄の世界では、時間の流れや、実際の距離や体感が一致しているとは限らない。外周を回るのに左程時間が掛からない死者の国も、その内に入れば、地上と変わりない広大な場所であると解る。

 最も正門から離れているここは、黒く薄い霧に覆われているかのように視界が利かず、不快な気配があちこちに屯している。死者の国で暮らす数多の魂達は、この場所を忌避しているのだろう。周辺は、静まり返っている。常に穏やかで仄明るい死者の国において、異質な場所だ。

 霧の中心部に進む程、視界の悪さと不快感は増し、神が放つ光の中に、横切る影の数が次第に増えて行く。

「ぐぅ……」

 嗅覚に優れた神使には、酷い悪臭が感じられているらしく、鼻の頭に皺を寄せ、思わず、といった風に足を止めた。

「ヨルダ、大丈夫かい?」

 主の声に、刺激で涙目になっている神使は、「ふぁいひょうふら」と鼻声で答え、その場で耐える。

「少年とワンコ君は、平気?」

「俺は平気です」

〈俺も、今は引っ込んでるからか、大丈夫だ〉

 やがて、少しづつ臭いに慣れて来たのか、神使はぶるりと頭を振り、再び歩き出した。

「待たせて済まぬな。行こう」

 主と少年を導く様に先頭を行き、やがて、今度ははっきりと自分の意思で足を止めた。

「居る。近い」

 忘れもしない、あの臭い。


「俺さ、近々連休取ろうと思うんだ。一緒に旅行にでも行かない?」

 チョウキは、隣で寝そべっている己の眷属、犬のヨルダにうきうきと話し掛けた。

 ヨルダは伏せていた大きな身体を起こし、前脚を揃え行儀よく座ると

「行かぬ」

 あっさりと断る。だが、一度の拒絶で挫けるようなチョウキではない。

「まだ、お互いの事も良く知らないし、親睦を深めようよ。旅行が嫌なら、近場でお散歩、なんてのもいいよね。どこがいい? マイアちゃんがよく行ってる湖? 神界も、色々な景勝地があるんだよ。あ、それとも、地上に行く? 許可取って来るよ?」

「行かぬ」

「あー、この間、地上で見かけたワンコ、凄く可愛かったな。ヨルダの居た国から、遠く離れた場所に住んでいるんだよ。雪深い土地柄だからか、真っ白でふかふかの毛でさ、尻尾なんか、クルンとしてて」

「何っ、見た、う……いや、行かぬ。主殿、下品だぞ」

「主だなんて、他人行儀だなあ。名前で呼んでおくれよ」

 ヨルダは再び身を伏せ、前脚に顎を載せると目を閉じた。一見、会話にうんざりとした様に見えるが、己を神使として迎えてくれたチョウキには、深い感謝の念を抱いている。犬の修正を強く残すヨルダにとって、上下関係は絶対の掟だ。それに、神使となった後に知ったが、チョウキは神々の中でもかなり高位の存在であり、にも拘らず親し気し接してくる距離感を、未だに計り兼ねていた。

「もー、じゃあ、何処なら行く気になるんだい?」

「何故、我が行くことが前提になっておるのだ」

 そう言ってから、ヨルダは少し考え込んだ。

「……そうだな、死者の国にならば、行ってもよい」

 死者の国を脱走した経歴の持ち主は、何となく気まずさが残っている事もあり、神使になって以来、そこに足を踏み入れていない。だが、今の自分の境遇を報告し、礼を述べたい相手はそこに居る。

「もしかして、彼女に会いに行きたいのかい? なら、急がないとね。生まれ変わりが近そうだって、マイアちゃんが言ってたからね」

 相手と言っても、互いの名も知らぬ間柄だ。会話らしい会話も、交わしたことは無い。それでも、ヨルダにとって大恩ある相手なのだ。

 かつて、ならず者の人間達に殺されたと思い込んでいたヨルダの兄弟は、別の人間達によって助けられ、命を繋いでいた。その女性は兄弟を救ってくれた一人で、特に兄弟との絆が強かったらしく、死者の国の住人になった後も、彼女の中には兄弟の気配が強く残っていた。だが、ヨルダがそれを知ったのは最近の事だ。

 あの頃のヨルダは、人間という存在を憎んでいた。互いの事情を知らなかったとは言え、死者の国で一度だけ彼女に声を掛けられた際も、冷たい態度を取ってしまった。それでも、彼女はヨルダを案じ続けていたと聞き、何とも言えない気持ちになった。

 彼女に会って、兄弟を助けてくれたこと、己を見守り続けてくれたことに、感謝を伝えたい。それが、けじめというものだ。例え、既に彼女が何も憶えていなかったとしても。

 だが、その前にやるべきことがあった。

(彼女に会う前に、確かめねば)

 何時までも過去に囚われ続けるのは、虚しい。解っているのだが、では今なら、己から父母を奪い、兄弟をいたぶった相手を許せるかと問われれば、否と即答するだろう。彼女や、最近知り合いになった神候補の少年を想えば、「ニンゲンだから」という理由で相手を蔑むのは愚かしい。だが、永く己の一部だった心を翻せているのか、自信が無い。

 再び彼女に見える際に、己の態度が彼女を傷付けてしまいそうで、それがヨルダを躊躊躇わせていたが、何時までも逃げている訳にはいかない。彼女が彼女で居られる時間は、そう長くはなさそうだった。

「主殿なら、ご存じだろうか? 我から家族を奪った者達の末路を。未だ、死者の国に居るのかどうかを」

 少し考え込んでから、チョウキは、真っ直ぐ己を見詰める眷属に注意深く答えた。

「……知っている。あれから直ぐに調べたからね。尤も、調べるまでも無く、ある程度予想はついていた」

 チョウキは、ヨルダが人間を憎む元凶となった者達について疾うに把握していたが、それは、ヨルダの為という理由からだけではなかった。

 死者の国は、ある種の幸福に満ちている。身体を忘れ、飢え等に苛まれることも無く、似通った魂同士で緩やかに繋がり、時には離れ、大半は気ままに生まれ変わりまでを過ごす。

「ヨルダも知っている通り、死者の国では、似通った魂同士は惹きつけ合う。勿論、孤独を愛しているなら、無理に繋がりを持つ必要はないけれど、そういった魂同士であっても、結局同じ様な場所に落ち着く。どんな魂でも、本当の孤独はないんだよ。俺はそう思いたい。屹度、どんな魂でも、惹きつけ合うんだ……例え、酷く歪んでしまった魂でもね」

 穏やかで、仄明るい死者の国に辿り着いた魂の全てが、健全とは限らなかった。

 どんな生き物でも、欲望という刺激に囚われ、魂を歪ませてしまうことがある。多くは、残虐で暴力的であり、慈愛とは無縁の生を送ることになる。彼等は死後、時には地上を彷徨いぼろぼろになってしまったり、或いは、無事死者の国に辿り着いても、通常の魂と共に過ごすことも出来ない程変質してしまっていた。傷ならば治せるし、歪みが小さければ、時間は掛かるものの、死者の国で次第に穏やかさを取り戻すこともあるが、大抵の変質した魂は、肉体の消失により歪みが増大する傾向があった。

 大半の神は、魂達を慈しむことが己の存在意義だと自負している。世界を恙なく回し、全ての魂が健やかである様に、傷付いた魂を癒す為に自分達は居るのだと心に刻み、仕事に励んでいる。

 だが、変質してしまった魂は、神には治せない。歪みが本質になってしまえば、神はそれを傷とも歪みとも認知しない。頭で解っていても、感覚はその魂を正常だと判断してしまう。彼等を救う為に揮った力でも、変質した魂が大きな苦痛を感じれば、神々の感覚は正常な魂に危害を加えたと誤認し、神力を失う事態に成り兼ねない。力の弱い神なら、そのまま消滅してしまう事すらあり得た。

 死者の国では、似た魂は惹かれあう。歪んだ魂達は、他の魂達を避けるうちに奥へと導かれ、互いを、己を傷つける為だけに惹かれ合い、繋がり始める。生前の記憶を無くし、僅かに残っていた理性を手放しても、生まれ変わることも出来ず、神の救済も受けられず、争い続ける。そこまで変質してしまう魂は決して多くはなかったが、生まれ変わることが出来ない以上、死者の国に留まり続け、結果、死者の国の片隅を占拠し、神ですら滅多に立ち入らない禁域を形成している。

 ヨルダの憎しみの源は、その禁域の内に居る。忌まわしい記憶に繋がる情報だろうからと、これまでチョウキは口を閉ざして来た――光る珠の口がどこにあるかは、本神にしか判らないが。

 だが今、ヨルダは己を乗り越えようとしている。

「彼等の殆どは、死者の国の休息場で治療中だよ。変質する一歩手前だった」

 ならず者だった彼等は今、真っ新な命として再び魂を巡らす旅に出る為に治療を受けている。完治までは長い時を必要とし、その間は、治療でも取り除けないじわじわとした飢餓に苛まれ続ける。

 それでも、治療が効くだけ彼等は運が良いと言えた。彼等の首領格の男は休息場には居ない。彼の魂は、既に変質してしまっていた。そして、そう言った魂の行き場は一つだ。

「禁域か。あの、薄暗くて酷い臭いのする場所だな」

「そうか、ヨルダは臭いとして感じるんだね」

 ヨルダがまだ死者の国で身内を探し回っていた頃、親切な魂が禁域について教えてくれた。

『あそこに近寄ると、取り込まれ、酷い目に遭わされるらしい。いや、酷い目で済めばいいが、出て来られなくなるかもしれない。実際、入ったきりの魂も居るって聞く。危ないから、なるべく離れるんだよ』

「そう言われるまでも無く、あの臭いで近寄る気も失せたがな。

 ふむ、我は、用事が出来た。旅行は主殿だけで楽しんできてく……」

「俺も行くよ。君は、俺の眷属だからね。神と神使といえば、親子も同然。禁域に、ヨルダだけで行かせるわけないでしょ」

 家族の敵を目の前にして、冷静でいられるだろうか。若しもを考えれば、チョウキが傍に居てくれるのはありがたいが、己の事情に主を巻き込む訳にはいかない。

「暴れたりなど、せんぞ」

「ヨルダを疑ったりはしてないよ。俺もね、思いついたこともあるし、出来ればそれを済ませてしまいたいからさ。休暇はその後取るよ。後顧の憂いがなければ、気兼ねなくお出掛けを楽しめるよね?」

「行かぬ」

 溜息をつき断ってはみたが、結局、お出掛けとやらに付き合う羽目になるのだろうなと、ヨルダは己の運命を悟った。


 そんな会話があってから、数日後。チョウキとヨルダは死者の国に連れだっていた。

 匂いに敏感なヨルダは、まだ通用門が見えない内からそれに気付くと、一瞬足を止める。まだ届かない視線の先に、顔見知りの少年が居ることを、優秀な鼻は感じ取ってる。

 案の定、通用門の脇に立つ少年の姿を視界に捉えると、ヨルダはそっと溜息をついた。

 少年は軽く会釈した。

〈チョウキ様、頭。待ってたぞ〉

 少年の口元は少しも動いていないのに、声が聞こえる。その声は、少年と言うより、もう少し年上であることを感じさせた。

「何故、小ぞ……クウガ殿がここに居るのだ」

「あ、俺が呼んだんだよ」

「呼ばれました。何か問題でも?」

 クウガと呼ばれた少年は、ニコッと微笑むと、先程とは違う少年らしい声で答えた。はきはきとしたその声は、今度は間違いなくその口から聞こえていた。

 いや、別に……と、ヨルダはもごもごと呟く。実の処、ヨルダはこの少年が、少し、否、かなり苦手だった。

 クウガは神候補の少年で、元は人間だが、現在は先程聴こえた声の主、犬のフウガと身体を共有している。

 そして、フウガは、ヨルダが生前率いていた群れの一員であったことから、今でもヨルダを頭と呼ぶ。

 彼等は、ヨルダが人間嫌いを克服する気になれた理由の一つであり、神使になる切っ掛けでもあった。

 ヨルダにとってクウガは、「ヨルダ」の名を与えてくれ、仲間のフウガを救ってくれた恩人である。だが、普段は少し出来過ぎの少年の爽やかな笑顔の下にある何かが、決して油断してはいけない相手であると、ヨルダの野生の本能が警鐘を鳴らす。いざという時、クウガは攻撃を躊躇わない。その決断は早く、思いのほか沸点は低い。身をもって体験したヨルダは、根は優しい少年だと判ってはいても、どうしても及び腰になってしまう。苦痛を感じるどころか、何が起きたか理解するより早く精気の殆どを消滅寸前まで奪われ、横たわる羽目になったあの時、クウガの笑顔を見乍ら、彼を軽んじたことを激しく後悔したものだ。

 それを知ってか知らずか、チョウキはクウガとフウガに絡みたがり、その度にヨルダは、何時厄介事に巻き込まれるかと冷や冷やするのだ。

 とは言え、流石に今回はチョウキにも、彼等に声を掛けた正当な理由があるらしい。仕事であれば、彼等の同行はヨルダに断れるものではない。

「ちょっと、少年とワンコ君の研修を兼ねてと思ってね。禁域には行った事無いって言うし」

 まだ神候補と言う立場ではあったが、クウガの頭の回転の速さとフウガの度胸の良さは頼もしくもある。

 家族の敵を目の前にし、神使である自分が怒りに任せ相手を傷付ければ、主の立場が悪くなるだけで済むはずがない。その前に、彼等は力ずくでも自分を止めてくれるに違いない。今は、おっとりした処のあるチョウキより、クウガとフウガの行動力が頼もしく感じられる。

 ヨルダは安堵し、同時に、冷静でいようとするあまり、無意識に力んでいたことに気付く。改めて少年を振り返れば、チョウキから事情を聴いているのだろうか、クウガの瞳には気遣いが潜んでいた。

 ヨルダは、肩から力を抜いた。

 そうだ。彼等は屹度、当たり前の顔をして手を差し伸べてくれるだろう。だからこそ、頼らない。受け取るのは、踏み出す勇気だけで充分だった。

「では、参ろう」

 光る珠と大きな犬と少年は、連れ立って死者の国の通用門を潜った。


「居る。近い」

 禁域を大分進んだ頃、ヨルダが足を止めた。

 悪臭に混じる、幼い自分の目の前で両親をいたぶり殺した敵の気配に、ヨルダは唸り、意を決して足を踏み出す。それは、自分のものとは思えない程重かった。

 ここに到るまで、黒い霧の向こうに、様々な変質した魂を見た。チョウキが発する光に照らされれば、彼等はぼんやりとした視線をこちらに向けて来るか、慌てて黒い霧の奥へと身を翻す。

 目鼻のない、口だけを残した顔を横たえる獣。

 何万本もある脚を自ら毟り続ける大きな飛蝗。

 ひたすら隣の魂を齧り続ける魚。

 ヨルダが今迄見たことの無い生き物も沢山居た。

 姿の特定が可能な魂だけではない。

 歪んだ球体から、恐らく手足であろう、ひょろりとした紐状の物を蠢かせ、それを無意味に振り回す何か。

 叫び続ける岩。

 ヨルダも、クウガもフウガも、チョウキですら、口を閉ざし只管歩を進める。

 やがて、ヨルダの前に、一際醜悪な影が姿を現す。片時も忘れる事のなかった、憎むべき臭いの元。

 辛うじて人間の姿を留めたその顔には、目も鼻も口も無く、本来それらがあるべき場所は大きな穴が一つ穿たれ、背後の霧を覗かせていた。その穴から聞こえるのは、風の流れだろうか、呻きだろうか。誰かに毟られでもしたのか、左右で長さの違う脚の先はずたずたで、真っ直ぐに立つことも出来ず、ゆらゆらと身体を揺らし続けている。その身体が更に大きく揺らぐ。何処からか伸びてきた蔓が足に巻き付き、肉を千切る。足元まで細長く伸びた腕の先では、不自然に大きい拳を握り、弱々しくそれを隣の何かにぶつけ続ける。

「苦しいか?」

 ヨルダの口から零れた問いに、返事は無い。

「楽になりたいのか?」

 再び問うが、やはり答えは返ってこない。

〈聞くだけ無駄だ〉

 フウガの声は、何時になく無機質なものだった。

「俺も、そう思う」

 フウガと同じ響きの声で、クウガが続けた。

「もう、以前の記憶も無い。今の自分達の境遇も、理解出来ない。

 ヨルダ、解ってると思うけど、俺達が此処に来たのは仕事だからなんだ」

 以前ヨルダも聞いた通り、どんなに姿が変わってしまっても、彼等は互いに繋がり続ける。魂の本能がそうさせるのならば、変質は均一に及んではおらず、命の本質とも言うべき魂の核は無事なのではないかと、チョウキは考えた。問題は、可能な限り安全にそれを確認し、実行する方法だった。

 まだ神候補に過ぎないクウガとフウガだが、彼等は、神の中でも珍しい能力を有している。

 あらゆる力を、殆ど無限に取り込むクウガの能力は、自覚したばかりの頃は不安定だったが、今はかなり安定して使えるようになっていた。

 フウガは、未だに残る肉体感覚、五感に近いもので力を使いこなす。それは、魂の一部が癒着しているクウガの力に、指向性を与える事も可能だった。

 チョウキは、フウガの嗅覚で「変質していない部位」の存在を確認し、クウガの能力でそれ以外を取り除けないか試して欲しい、そう彼等に頼んでいたのだ。

〈出来るか出来ないかで言ったら、出来る。慣れれば、頭にも判るんじゃないか? 確かに、魂の変質にはむらがあるぞ。どこまでそれを取り除いても大丈夫かは、やってみないとわからないけどな〉

「本当かい? ワンコ君、少年、お手柄だよ!」

 嬉しそうなチョウキに、ひやりとした声が返す。

「出来るとは言いましたけど、やるとは言ってません」

「え?」

「彼等に罪は無いです。でも俺達は、彼等のせいで苦しんだ魂が居ることも、よく知ってるんです。その心はどうなるんでしょう。苦しみが薄れるまで我慢しろと? それとも、彼等を許せないことを咎められるのでしょうか」

「……それは……」

〈なあ、頭。俺達なら、こいつらを苦しむ間もなく消滅させることも出来るぞ。罪悪感を覚えるのが嫌だとかもっと苦しんで欲しいとかなら、このまま放置してもいい。あんたはどうしたい?〉

 想定外のクウガとフウガの言葉に、チョウキは慌てて口を挟んだ。

「何を言い出すんだい? 神が魂達を傷付けるなんて、許されないことだよ!」

「知ってますよ。許されないだけで、場合によっては不可能ではないって。

 チョウキ様、今の俺達はまだ只の神候補で、正式な神様じゃないんです。例えば、この魂達が消滅する不幸な事故を起こしてしまったとしても、重い罰を受けることは無いでしょう? 精々、数百年の禁固ってところだろうし、フウガと一緒なら俺は別にそれでも構いません。ましてや、変質した部位だけを取り除くなんて、前例のない、彼等を救える保証もない仕事を断った処で、罰を受ける必要すらない。そうでしょう?」

〈ここに来るまでの間、考えてたんだ。大神様が、全ての魂を等しく愛してるなら、カミサマやその眷属はそこに含まれないのか? 違うね。大神様は全てを愛してるんだ。こいつらも、俺達も、チョウキ様も、頭のことも〉

「それはそうだろう。だから、この子達をどうにかしてあげたいんじゃないか」

〈俺達はあんたの事、嫌いじゃない。けど、やっぱり、あんたと俺達は違うのかなと思う。何で身体を持った魂からカミサマになれる例が少ないのか、チョウキ様には解らないだろ? なあ、ちゃんと頭を見ろ〉

 フウガが何を言いたいのか、チョウキには解らなかった。

「じゃあ、この子達はどうなる! 苦しんだまま消滅しろだなんて、あんまりじゃないか。それとも、永遠と呼べるような時間をこのまま苦しみ続けろって言うのかい? 彼等だって、好きでこうなった訳じゃないんだよ!

 君達には力があるんだよ。だから、お願いだ、君達に命令なんてしたくないよ」

 怒りで光を増したチョウキが叫ぶと、周囲の黒い霧と魂達に震えが広がる。

 古い神々が創り上げた世界は、あえて不均衡を含むことで、沢山の命を生み出した。その時には、自分達が創り上げた世界から零れ落ちる魂が出るとは、思いもしなかったのだ。

 古い神の一員であるチョウキは、自分達が創った世界に責任を感じていた。零れ落ちた魂達を見る度に、辛かった。

 だが、その世界で生まれたクウガとフウガは、チョウキと同じ世界を見ても、違う答えを出す。

「神は、依怙贔屓をしてはならない。正しいと思います。神様に位平等に扱って欲しいって想いも、解ります。成り行きで候補になれただけだけど、今では、立派な神様になりたいって、俺もフウガも心から思ってます。

 でもその前に、ヨルダは友達です。チョウキ様が振り返らない、貴方の神使の友なんです。だから、俺達はヨルダの気持ちを優先するって決めました」

 クウガとフウガは、口を揃えた。

「〈友の心を蔑ろにするような仕事も神も、糞喰らえだ〉」

 神の怒りを跳ね返す強さを孕む言葉で、チョウキはやっと自覚した。変質した魂への想いは、罪悪感と同等だ。彼等を救うことは、己の荷を下ろすことなのだ。彼等を救える可能性に単純に喜び、彼等に翻弄されたものの想いに至ることの無い主に、忠義な眷属がどんな思いで従っているか、指摘されるまで思いが及ばなかった。

 震える魂を見詰める続け、微動だにしないヨルダを振り返る。どれ程の覚悟と克己心を持って此処に居るのか、誰より近くで見ていたのに、孤りにしてしまったのだ。

 チョウキは、何も言えなかった。

「もうよい」

 小さく、静かに、ヨルダから言葉が零れた。

「もうよい、頼む、こやつらを……」

 振り絞るように続けた。

「救ってやってくれ」

〈頭は、本当にそれでいいのか?〉

「ああ」

「家族の敵を、許せるんですか?」

「許せん。

 許せんとも」

 ヨルダは、クウガの問いに正直に答えた。

 未だに、腸が煮え返る。あの時の、父母の苦しみ、兄弟の痛み、恐怖と絶望、喪失感。一つとして許せるものではない。目の前の存在をこの世界から消してしまえと、ヨルダを誘惑する。牙で、爪で、身体全体で、引き裂いてしまいたい。それは容易いことで、どれ程胸がすくだろう。

 その心を、正しさではなく、同情でも無く、当たり前の様に向けられたヨルダへの想いが包む。苦しみも憎しみも共に受け止めると神に啖呵を切る、愚かで温かい存在が、ヨルダに踏み出す勇気を再び与え、憎しみから抜け出す為に此処に来たのだと、思い出させてくれた。

 訳も解らず互いを傷付け合う魂は、醜怪で滑稽だ。

「だが」

 それは、あまりにも弱々しかった。

「哀しいではないか」

 心の底から呟くヨルダの声は、凪いだ湖面のように静かだった。

 目の当たりにした今ならヨルダにも解る。チョウキ達が、禁域の住人達を見守る事しか出来なかった口惜しさ、愛おしさ、憐れみ。例え、醜く変貌していても、魂達の営みは儚く、健気だった。

 チョウキが声を震わせ、ヨルダに詫びる。

「済まない、俺が無神経だった。ヨルダの心を知ってるのに、この子達を何とかすることばかり、いや、それは嘘だ。自分のこと、ばかり……」

 悄気た主を、ヨルダは穏やかに遮った。

「主殿が謝ることなど無い。これで、憂い無く彼女に会いに行けるというものだ。

 それに、我は神使だ。主の望みは、我の望み。主の憂いを払えず、何が神使か」

「……そう言ってくれて、有難う。本当に済まなかった。改めて、主として、友として、もっと君の心を支えると誓わせておくれ。

 君達も、大事なことを教えてくれて、有難う。これからも、俺が間違ってると思ったら、遠慮なく指摘してね」

 黙って主従のやりとりを聞いていたクウガとフウガは、突然自分達に話を振られてきょとんとした。

〈え? これ、から、も……?〉

「遠慮……そもそも要るのかな……」

「いや、ここは、良い話で終わらせようよ! 君達、俺に冷た過ぎない? やっぱり、少し遠慮して!」

 すっかりいつも通りの会話にヨルダは安堵し、己の役割を思い出す。

「クウガ殿、フウガ、我が主の望みを叶えてくれまいか」

「本当に、いいんですね?」

「ああ」

 ヨルダが頷くと、クウガは前方に掌を向けた。醜悪な魂を、削る様に吸い込んでゆく。気付けば、周囲は仄明るくなり、足元には半透明の小さな塊が幾つも転がっていた。

 その一つを、クウガはゆっくり丁寧に己の掌に乗せ、目の高さに上げた。ヨルダだけでなく、クウガとフウガも初めて目にするそれは、形は歪み、表面は未だに薄汚れてはいるが、奥のそのまた奥に儚い美しさを秘めた、命の源、魂の核だ。

「取り敢えず、俺の中からフウガの鼻が利く範囲の歪みは、限界まで取り除けたと思います。奥に隠れた魂達はまだまだ残ってますけど、選別し乍らこの広さを一度に処理するのは、流石にちょっと難しいです」

「有難う、本当に有難う。疲れたでしょ、取り敢えず、今日はゆっくり休んでね。でも、魂の核って、こんなに小さかったかな……」

 クウガの掌の周りを飛びながら、チョウキが呟くと、クウガが答えた。

「本当に限界まで取り除いたんで、あと一吸いで消滅するかもしれないです。元々弱っていたし、ちょっとした衝撃でも、危ないかも」

〈どこかににぶつかりでもしたら、まずいよな〉

「え、ちょっ、早く言ってよ! 急いで救護班呼んで……」

「我が呼んで来」

 走り出そうとしたヨルダを、クウガが喰い気味に引き留めた。

「もっと静かに! そんなに勢いをつけたら、その衝撃で砕けちゃうかもしれない!」

 ヨルダは動きを止め、困ったようにクウガに問う。

「だが、ゆっくりもしてられないのではないか?」

 少し考え、クウガが提案した。

「そうだ、チョウキ様が応急処置すればいいんじゃないですか? 彼等が、多少の衝撃なら耐えられる程度に精気を与えて、それからフウガかヨルダが救護班を呼びに行けばいい」

「あ、そうか……って、俺、契約以外で力を分けたことないよ。マイアちゃんと違って、あんまり救護向きの力でもないし」

〈でも、頭も俺達も免許も無いし、能力的にも無理だぞ。このままだと、他の魂が寄って来た時に簡単に潰されちゃうだろうし、それを追い払うにしても、その衝撃で潰れるかもしれないし。それともチョウキ様が救護班呼びに行くか? カミサマの圧が無くなったら、まだまだ元気な奴らが、押し寄せるかもしれないけどな。

 はあ、そっか、こいつら、応急処置出来なくても、このまま残されても、どのみち消滅なのか……俺達、結構頑張ったのにな〉

 フウガの残念そうな声に、クウガとヨルダの視線がチョウキに集まる。


 数刻後、すっかり疲れ果てたチョウキが、ヨルダの背中に転がっていた。

「もう、無理……」

 核だけになった魂達に力を注ぎ続けた結果、チョウキはすっかりしょぼしょぼになっていたが、そのお陰で、魂の核達は、少々の衝撃で砕けることはなさそうな程度に大きさと輝きを取り戻していた。それを見届けたクウガはフウガと入れ替わり、大急ぎで救護班を呼びに行った。入れ代わった途端、フウガはまだ周囲に漂う臭いに涙目になっていたから、どれだけ急げたかは不明だが。

 何とか他の魂を寄せ付けない程度の光を維持しつつ、弱々しくチョウキが笑った。

「はは、ヨルダと同じだ」

 以前、ヨルダがクウガに精気吸われた時のことを思い出したのだろう。

 チョウキとヨルダははっとした。

「これ、若しかして、俺がヨルダを傷付けたことへの、彼等なりの意趣返しなのかな……?」

「フウガはそこまで頭が回らんだろう……が、クウガ殿は……いやいや、だが、そもそもこうなる過程を予測するのは……しかし……ううむ」

 彼等を問い質した処で、どちらにしても、返ってくる答えは判り切っている。主と神使は、それ以上考える事を止め、誓った。

「俺、少年を怒らせないように気を付けるよ」

「同感だ」

 程無く、フウガを先頭に救護班がやって来た。クウガにより、ある程度状況の説明が済んでいたお蔭で、滞りなく作業をする彼等をぼんやり見ていると、フウガが近寄って来た。

「チョウキ様、頭、報告は後日でいいから、取り敢えず休んでいいってさ」

〈俺達も疲れたし、皆さんにお任せして帰りましょう〉

 身も心も疲れ切っていたチョウキとヨルダは、その言葉に甘える事にした。

 彼等は、救護班の責任者に挨拶を済ませ、手当てを受ける魂の核を、少し離れた処から暫く見詰めた。

 そして

「さらばだ」

 ヨルダは、彼等に別れを告げた。


「ご機嫌は如何かな? お嬢さん」

 微睡んでいた彼女に、一匹の犬が話し掛けた。堂々として、大きく如何にも強そうな、同時に、穏やかさを感じさせる、茶色の短い毛並みがとても美しい犬だった。

 突然話し掛けられ驚きはしたが、同時に、良く知っている友人に遭遇した様な嬉しさを彼女は感じた。

「まあ、綺麗な子。ええ、機嫌はとてもいいわ。貴方のお陰でね。初めまして」

 犬は、柔らかな笑みを含んだ口調で彼女に挨拶した。

「……初めまして。お休み中の淑女に触れもなく声を掛けるなど、些か不調法だっただろうか」

「とんでもない。少し驚いたけれど、声を掛けてくれて、とても嬉しいわ。でも、御免なさい、私、貴方に名乗ることも出来ないの。もう、名前も忘れてしまったから。貴方の名前も知りたいけど、屹度、聞いても直ぐに忘れてしまうわ」

 彼女は申し訳なさそうに詫びたが、犬は嬉しそうだった。

「謝らないでくれ、美しいひと。我も名乗らず置こう。一時の出会いなら、それも粋というもの。

 それに、それは、大事な誰かに出会う為の準備が整ったということだ。貴女はこれから、誰かを幸福にし、誰かに幸福を分けて貰う為の旅に出るのだ。どうか祝わせて欲しい。おめでとう」

「どうも有難う。でも、これからどうなるのか、少し不安なの……ね、私、本当に誰かを幸せになんて出来るかしら」

「勿論。己の幸せよりまだ見ぬ誰かを想う貴女に、出来ぬ道理が無い。だが貴女も、その誰かに幸せを貰えるのだと忘れないで欲しい」

 当たり前だと言わんばかりの犬の言葉に、彼女は安堵した。

「ふふ、ちょっと楽しみになって来た。貴方のお陰ね。安心したら、また眠くなってきちゃった」

「これは気が利かず失礼した。我は、そろそろお暇しよう」

 再び微睡みに落ちる前に、彼女は犬にどうしても訊ねたくなった。

「貴方は、幸せ?」

 犬は、とても優しい瞳ではっきりと答えた。

「貴女に会えたお陰で、とても幸せだ。本当に、本当に有難う。

 どうか、良い旅を」

 小さく有難うと呟き、再び微睡み始めた彼女に深々と一礼すると、大きな犬は静かにその場を後にした。


「お帰り」

 死者の国の通用門を出たヨルダの頭に、チョウキがちょこんと乗った。

 これから彼女に会いに行く、とヨルダが主に報告してから、まだそれ程時間は経っていない。眷属を真っ先に労う為、早々に仕事を切り上げたのだろう。

 複数ある通用門の内、何処から行くかは告げなかった。迎えに来るとも聞いていなかった。だが、突然の主の登場にもヨルダは驚かなかった。行ってらっしゃい、と送り出す優しいチョウキの声に、予感がしていたからかもしれない。

 チョウキを頭に乗せたまま、ヨルダはゆっくりと歩き出した。

「もう、いいのかい?」

「ああ。感謝する」

 珍しく言葉少ないチョウキは、それ以上何も聞かない。ヨルダもまた語らず、ただ、案じてくれていただろう主に、簡潔に礼を述べただけだった。

 彼女を酷い態度で傷付けてしまったら、という懸念は杞憂に終わった。心からの感謝を伝え、行く末を寿ぐことも出来た。ヨルダは、晴れ晴れとした心地という言葉を実感していた。

「俺は、何もしてないよ。それに、ヨルダが彼女を傷付けるなんて心配は、全然してなかった」

 過去を乗り越えようと行動した時点で、目的の殆どは達成しているものだ。まして、家族の敵を赦す道を選ぶ心根の持ち主が、彼女を悲しませる訳がない。だから、心配なんかしてなかったよと、ヨルダの頭上で光る珠は、こともなげに言った。

 彼等は意識していなかったが、ヨルダのチョウキの行動への理解と、チョウキのヨルダへの信頼は、互いの関係が深くなった証だった。

「さて、何処に行くか決めないとね」

「? このまま塒へ帰る心算だったのだが?」

「やだな、旅行だよ、旅行。今日の半休から、有給休暇の申請通ったからさ。暫く遊びまくるぞー。何処に行きたい? 神界の名所廻り? それとも、地上? 白いワンコちゃんに会いに行くかい?」

 ヨルダは、溜息をついた。

「……主殿が面倒を起こさない場所なら、何処でもよい」

「面倒なんて起こさないよ」

「済まぬ、言葉が足りなかったな。主殿が、我に面倒を掛けないと断言出来る場所なら、何処でもよい」

「えー、俺、面倒掛けたりなんてしてないでしょ?」

「うむうむ、そうだな、解っているとも。やはり旅行は、主殿だけで行ってくれ」

「なんでよ!」

 わいわいと話しながら歩く彼等に、通りがかった顔見知りの女神が微笑みながら声を掛けた。

「御機嫌よう、チョウキ様、ヨルダさん。相変わらず仲良しですこと。とても楽しそう」

 チョウキとヨルダは同時に答えた。

「仲良しだろうか?」

「楽しそうかなあ?」

 含み笑いをする女神につられ、彼等も笑った。

「それじゃ、もっと楽しくなりに行こうか」

「仕方がないな、お供しよう」

 楽し気な主従の後ろ姿を、女神は見送った。

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