0840 目覚めるグラハム
次の瞬間。
パキン。
マリエの耳には確かに聞こえた。
何かが割れた音。
いや、世界が割れた音?
マリエは、直感的にそう感じた。
しかし、周囲は何も変わっていない。
変わったのは、目の前の男が纏う雰囲気。
「ああ、久しぶりだ……実に久しぶりだ」
声は、ステファニアにかけた時と同じ。
だが、声が含む力、圧力が全く違う。
触れれば、全てがズタズタに切り裂かれるような……。
「全ての記憶にアクセスできるというのは、実に爽快だな」
グラハムの声、表情、それは変わらない。
だが、もしここに、いつものグラハムを知っている者がいれば……意識のある者がいれば、口調の変化に驚いただろう。
今のグラハムは聖職者の口調でも雰囲気でもない。
ある種の、上位者。
ある種の、高位者。
ある種の……人ならざる者。
マリエには、グラハムが呟いた言葉は聞こえている。
だから……。
「アクセス? こっちの世界で、その言葉って使ってたっけ?」
そんなことを疑問に思う。
マリエは転生者なので。
しかし、目の前の男は気にしていないようだ。
「暗黒大陸に幻人とは珍しいな」
グラハムが、マリエを見て言葉を紡ぐ。
いつも通り、微笑みを浮かべて。
しかし、その微笑みは、温かく慈愛に満ちたいつもの微笑みではない。
むしろ、凍てつくような、冷酷さを纏った微笑み。
マリエは自分の記憶を探る。
目の前の男……教皇であるはずの、グラハムと呼ばれた男から感じる波動。
それはかつて、マリエも感じたことがある。
そう、高位のヴァンパイアに近い。
だが、もっと歪んでいる……混ざり合っている……不安定で、近寄りたくない。
そんな何か。
「そう……あなた、人間じゃないのね」
明確に何なのかは分からない。
だが、人ではない。
人であるはずがない。
人は、これほど『不安定な状態』では存在しえない……。
「私たち幻人も、人に比べれば不安定。それは認めるけど……あなたの不安定さは異常」
「不安定さが異常? 面白い表現だ、幻人」
マリエの言葉に、笑いながら答えるグラハム。
「物書きの才能があるのではないか? 東部諸国の手先など辞めて、物語でも書いてみてはどうだ?」
「そうね、生きてここを脱出できたら、そうするかもね」
「ははははは。そうか、私がお前を逃がさないことを分かっているんだな」
「ええ、そんな意識をひしひしと感じるからね」
「意識をひしひしと感じる? やはり表現が面白いな。お前の書く物語を読めないのは残念だ」
グラハムがそう言った次の瞬間。
二人が同時に突っ込んだ。
ガキンッ。
響く剣戟の音。
連なる音……お互いに連撃を繰り出す。
攻撃、防御、また攻撃、また防御……。
攻守が激しく入れ替わる戦い。
完全に純粋な剣と剣の戦い。
グラハムの杖に仕込まれた剣と、マリエの『虎徹』。
どちらも、完璧な攻撃と完璧な防御を展開し、紙一重でかわして傷を負っていない。
「やるじゃないか、幻人」
「私の名前は、マリエよ!」
「そうかマリエ、覚えておこう」
「あなたも凄いね、教皇! 聖職者が、こんなに剣を使えるなんて普通じゃないよね」
「マリエは知らんのだな。西方教会の開祖ニュー様は、剣聖でもあらせられた。教会の聖職者が剣の腕を磨くのは当然なのだ」
「剣聖の聖職者? 知らなかったわ」
グラハムの言葉に、マリエも律儀に答える。
そんな会話を交わしながらも、激しい剣戟は続いている。
「でも、今まで、こんなに剣を使える聖職者に会ったことなかったけど?」
「そうか? そこのステファニアを含め、このヴォン教会で異端審問官たちと戦ったのではないのか?」
「異端審問官? もしかして黒い祭服で、胸に赤い花の刺繍がある人たち?」
「そうだ」
「そう、異端審問官だったの。教会に属する暗殺者かと思ったわ」
嫌味ではなく、実は正直に思っていたことを言うマリエ。
陰から突然攻撃してくるなど、暗殺者以外の何者かと思っていたのだが……完全に正規の聖職者だった。
「私は以前、異端審問庁長官だった。彼らを育てたのは私だ」
「異端審問庁長官? ステファニアが現長官って言ってたから、その前任者ってことね」
「けっこうステファニアと話したようだな」
「戦っている間、口は暇だからね」
「軽口が叩けるうちは、まだまだやれるな」
「そう、ね!」
言った瞬間、マリエはグラハムの剣を跳ね上げる。
大きく踏み込み、体勢を低くして、『虎徹』でグラハムの足を刈る……届かない。
一跳びで、グラハムが後方に大きく逃れたのだ。
「やっぱり、人の能力を大きく超えているわね」
マリエは忌々しげに呟く。
「幻人だって、能力では人を大きく上回っているではないか」
「そうだけど、あなたとの差はほとんどないみたい」
「そうか。そうなると、勝負を決するのは技術ということになるのか?」
マリエの指摘に、笑いながら問いかけるグラハム。
明らかに、戦いを楽しんでいる。
「聖職者にあるまじき姿でしょう、それ」
「開祖ニュー様は、楽しむことを否定されていない」
「そう。きっと、剣聖ってことは戦うことも否定されていないんでしょうね、聖職者なのに」
「大切な人や大切なものを守るために力を使うことを、否定されてはいないな」
「非暴力不服従のガンジーさんとは違うわけね」
何度も言うが、マリエは転生者だ。
地球にいた頃に、非暴力で権力に立ち向かったガンジーについて習った覚えがある。
「非暴力? それはそれで高潔な志だと思うぞ。ただ、私とは相容れないがな」
「でしょうね。私とも相容れない、わ!」
マリエが飛び込む。
連続突きを中心にした攻撃。
良い点は、戦いの主導権、つまり攻撃権を手放しにくいこと。
攻撃し続けていれば、負けることはない。
それは事実。
もちろん、悪い点もある。
「その攻撃は、読みやすい」
グラハムが、マリエの突きを剣で流す。
そのまま間髪を容れずに、突き返す。
突いてきた剣の腹を左手で叩いて軌道を逸らし、そのまま半歩前へ。
『虎徹』がグラハムの左わき腹を貫いた。
「うぐっ」
だが、血を吐いたのはマリエ。
伸ばされたグラハムの左手が、手刀のようにマリエの腹を貫いていた。
相討ち。
だが、瞬時に<ヒール>で回復したグラハムの方が、負ったダメージが少ない。
マリエが『虎徹』を薙いで、グラハムを後方に下がらせる。
同時に、ポケットの中に入れておいたポーションをそのまま割り、体にかける。
飲ませてくれるとは思えないからだ。
しかしグラハムは追撃せずに、マリエを見ている。
特に『虎徹』を。
ポーションの効果で傷を塞ぎ、なんとかマリエの呼吸も落ち着いてきた時……。
「ふむ。ハルの剣筋に似ているか?」
グラハムが呟いた。
その呟きはマリエの耳に、轟く。
「今、ハルと言ったか!」
そう、目の前の教皇は、そう言った。
ハルと。
ハルの剣筋と。
「なぜハルを知っている!」
思わず問う。
だが問うてから思い出す。
教皇グラハムは、ヴァンパイアハンターだと。
ハルは、ヴァンパイアだと。
その二つに接点があっても不思議ではないと。
不思議ではない、不思議ではないのだが……。
「もはや、ヴァンパイアたちですら知らない『ハル』の名を、なぜおまえが知っている」
マリエが詰問する。
ハルが歴史の舞台から消えて、かなりの時間が経っている。
自分たち幻人は寿命が長い。
ヴァンパイアも寿命が長い。
だが、人は……。
「そうだった、お前は人ではないのだったな」
最初は『あなた』という二人称だったが、今では『お前』。
それはマリエが、精神的に余裕がなくなっているからだ。
マリエ自身に、その自覚がある。
マリエが、この暗黒大陸に来たのはハルに会えればいいなと思ってだ。
もう一度、ハルに剣術を鍛えなおしてもらいたいと思ってだ。
その『ハル』の名が出てくれば、平静でいられないのは当然だろう。
「そう、いずれハルを狩る。それが私の持つ宿命だ」
「できるわけがない」
「そうだな、簡単にできるとは思っていない。しかし、それは関係ない。宿命とはそういうものだ」
グラハムは肩をすくめた。
そして言葉を続ける。
「とはいえ、ハルは暗黒大陸にはいないだろう。少なくとも、今はもういない」
「何? なぜそう言える」
「暗黒大陸には、ロズニャーク公爵ゾルターンがいるからだ。いや、大公になったんだったな。ロズニャーク大公か」
「ロズニャーク? ゾルターン?」
マリエの知らない単語だ。
「簡単に言えば、強いヴァンパイアだ。ヴァンパイアの多くは好戦的だ。その中でもゾルターンはかなりのもので……奴が言うには、ヴァンパイア大公を食ったそうだ」
「食った?」
「それで自分が大公になったらしい。そんな者の近くに、ハルがいるとは思えん」
「……一理ある」
グラハムの言葉に、マリエも同意する。
『ハル』はヴァンパイアだが、好戦的とは言い切れない。
実力はある、強い……いや、多分、強い。
マリエも、その全力を見たことはないから、断言はできないのだ。
マリエの全力に対して、ハルは全力を出すことなく圧倒した。
だから、その力の底は知らないのだが……おそらく、驚くほど強いはず。
しかし、ヴァンパイア基準で見た場合、好戦的とは言い切れない。
「お前たちが、このヴォンの街にいるのは……その、ヴァンパイア大公を討伐に行くためか?」
「ああ、そうだ。まあ、なぜか、こんな戦いに巻き込まれているがな」
「ふん、ラムン・フェスとかいうやつを囲い込んでいるからだ」
「お前たちが、教会を侵さなければ戦う必要はなかった」
「なるほど、これが水掛け論か」
マリエが小さく首を振り、ため息をつく。
「マリエと言ったな。お前の剣術では、私には届かんぞ」
「はっきりと言ってくれるじゃない」
グラハムの言葉に、イラっとするマリエ。
当然だろう。
マリエは、剣に全てを賭けた幻人。
それなのに、その剣では届かないと言われれば……。
「届くことを証明しないといけないわよね」
マリエはそう言うと、『虎徹』を一度、納刀する。
そして、足を開き、腰を落とす。
「イアイというやつか? 知識としては知っているが、放ったことも受けたこともないな」
グラハムは一つ頷くと剣を構えた。
「居合を知っているのが驚きね。まあ私は、抜刀術って言い方の方が好きだけど」
マリエはそう言うと、深い呼吸をする。
纏う雰囲気が変わる。
沈んでいく。
深く……深く……。
剣と体が一体となる。
さらに空気と一体となる。
そして大地と一体となる。
近付けば、一刀両断されることを赤子でも認識できる……それほどに全てが変わる。
「ほぉ……これは……」
『イアイ』を楽しんでいたグラハムも、さすがに表情が変わった。
尋常ならざる技であることを、まだ受けていないのに感じ取ったのだ。
(守らざるを得んか。<サンクチュアリ>)
無音で、自分の前に緊急展開防御魔法<サンクチュアリ>を生成するグラハム。
正直、それ以外の対応が思い浮かばない。
二人の間の空気が、重みを増す。
他に二人を見ている人がいたら、呼吸ができなくなったかもしれない。
それほど、異常な空間。
重みを増した空気は……いずれ、弾ける。
マリエの神速の踏み込み。
キンッ、ザクッ。
『虎徹』は<サンクチュアリ>を斬り、そのままグラハムの胴を一刀両断した。
そう、グラハムの体は、上半身と下半身が切り離された。
それなのに……。
ザシュッ。
振り下ろされた剣が、マリエの左肩から右脇腹までを斜めに切り裂いたのだ。
残身を保てず、片膝をつくマリエ。
視線は、目の前で上半身と下半身がくっつき始めるグラハムから離せない。
だが、それも数瞬。
マリエはすぐにポーションを飲む。
大きく切り裂かれた傷が再生を始めた。
しかしグラハムの再生は、それよりも速い。
「<エクストラヒール>とか……唱えて……いない、わよね」
傷の修復中であり、必殺の抜刀術を放った後でもあるので、マリエの言葉も途切れ途切れだ。
これほどの再生能力を持つ生き物は、そう多くない。
「ドラゴン、悪魔は例外として……スペルノでもない。まさか、ヴァンパイア? いえ、波動が違う……でも、そう、高位のヴァンパイアのような感じがしたのは事実」
戦いが始まる時、マリエが持った印象。
人間と遜色ない外見、ヴァンパイアのような印象?
「聞いたことがあるけど、それは……」
おとぎ話や伝説の中にだけ存在するもの。
「……ヴァンパイアと人のハーフ?」
「ハーフという言い方は好きではないな。ミックスと言ってほしいものだ」
再生が完全に終わったグラハムが、笑いながら否定する。
否定はするが、中身をすべて否定したわけではない。
だが、マリエもいくつかの知識を持っている。
それによれば……。
「ヴァンパイアと人の子は、実際にはあり得ない」
「そう、あり得ない。母親の体が耐えきれないからな」
「なぜ、お前は存在している?」
「結論は一つしかないだろう? 人間の母親から生まれたわけではない」
「人の父親、ヴァンパイアの母親? いや、それこそ、もっとあり得ない」
マリエは考えられる結論を述べる。しかし、すぐに自分で否定する。
そもそも、人とヴァンパイアは別の生き物なのだ。
人と猿の間にすら子供は生まれない。
それ以上に人から離れているヴァンパイアとの間に子供など、あり得ない。
ならば……。
「正解は、自然に生まれた存在ではないということだ」
「……どういう意味?」
「そのままさ。自然ではない、別の者の手によって生み出された」
グラハムは正直に答える。
「バイオテクノロジー? 魔法? いえ、錬金術……あり得るの?」
マリエは地球における、人工授精、遺伝子工学などを想像する。
そう、この世界には魔法や錬金術がある。
遺伝子工学のような技術があったとしても不思議ではない。
マリエ自身は知らないが、自分が知らないことなど世の中にはいくらでもあるものだ。
「……誰が、どうやってやったのか、何のためにやったのかも知らないけど、あなたはハーフ……いえ、ヴァンパイアと人のミックスってことね」
「ああ……それも厳密には違う。ヴァンパイアは合っているが、人……だけではないようだ」
「はい?」
マリエは顔をしかめる。
理解できないから。
「まあ、いい。そんなことよりも、そろそろとどめを刺していいか?」
グラハムが特に感情を込めない言葉で問う。
「良くないわね」
マリエの体はポーションで回復しているが、まだ完全ではない。
普通のポーションなど比較にならない回復力を誇る特殊なポーションだが、それでもだ。
(好きじゃないけど、仕方ない)
マリエは左手をポケットに入れ、瞬時に引き出す。
その手から空中に放たれたのは四枚の短冊……。
この場に涼がいれば叫んだだろう、「呪符!?」と。
スルッ。
マリエにとどめを刺すべく突き出されたグラハムの剣が、ずれる。
その時、初めてグラハムが驚いた表情になったのを見た。
同時に、脱兎のごとくマリエは駆けだす。
傷の痛みなど無視。
傷が開いたようだが無視。
マリエは、グラハムの前から消えたのだった。
地面に落ちる瞬間に燃え尽きる短冊。
それを見て、グラハムは小さくため息をついた。
しばらく呼吸を整えた後。
「誰か、動ける者はいるか!」
グラハムがかなり大きな声を出す。
「はっ、こちらに」
五秒後、陰から胸に赤い花の刺繡がある黒い祭服に身を包んだ異端審問官が現れた。
足がふらついているのが分かる。
「皆、ボロボロだな」
苦笑するグラハム。
「ゆっくりでいい。チゴーイ殿に、『教会への襲撃者は排除した。無事だ』と伝えてくれ」
「承知いたしました」
いつもなら瞬時に消える異端審問官だが、今回は数瞬かかった。
襲撃した者たちへの対応で、かなりのダメージを負ったようだ。
死んだ者はいないはず……死ぬなとグラハムが厳命したから。
グラハムと、眠り続けるステファニアだけが残された司教館の食堂。
「ラムン・フェスの保護など引き受けるのではなかったな」
そう言いながら、横たわるステファニアの髪を撫でる。
「いや、そもそも、西部諸国連邦からの補給の申し出そのものを受けるべきではなかったのか」
今回の件は、グラハムにとっては苦い経験となっていた。
ステファニアら、異端審問官の多くを危機にさらしたという点において。
「ミスにミスを重ねれば、これだけ大きな被害になる……当然か」
眠ったままのステファニアの髪を撫で続けながら、小さく首を振る。
「ステファニアには、いつも迷惑をかける」
そう言って、ステファニアに向ける目は、いつものように慈愛に満ちたものだ。
そこには、マリエと対峙していた時の雰囲気など微塵もない。
実は、あの時に蘇っていた記憶の一部も意識上からは消えている。
完全に、人である教皇グラハムに戻っていた。