0770 宗教
「アベル、権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗するのです!」
「んあ?」
「僕の故郷に、そんな格言があります」
涼は胸の前で両腕を組んで、なぜかとても偉そうに言っている。
アベルは、書類を読んでいたのだが、その顔を上げて涼を見た。
「アベルは絶対権力者なので、絶対的に腐敗するに違いありません!」
「そうか、それは困るな」
「腐敗しない素晴らしい方法があります」
「俺を氷漬けにするのか? それなら腐らないもんな」
「ここで言う『腐敗』というのは比喩的な意味です! 僕からボケの座を奪わないでください!」
アベルが笑いながら言い、涼がボケの座を奪われて憤慨する。
「僕は、アベルという権力者が腐敗しないように、あえて直言することがあります。ええ、あえてです。心を鬼にして、心で泣きながらです」
「お、おう」
「そんな僕に、アベルは感謝してくれてもいいと思うのです」
「感謝はしているぞ?」
「感謝は行動に表さなければ相手に伝わらないのです」
涼が力説する。
ここまでの流れで、なんとなくアベルも理解できる。
「何か欲しいものがあるのか?」
「え?」
「王城ならともかく、スキーズブラズニルでは週一ケーキ特権とかは無理だぞ?」
「わ、分かっています! そうじゃなくて……説得というか説明するのに、協力してほしいのです」
「説明?」
アベルが首を傾げる。
「昨日、料理長さんたちのお手伝いで市場に行ったじゃないですか?」
「ああ、行ったな」
「その時は確信が無かったので、さっきもちょっと行ってきたんですが……」
涼はそう言うと、右手を開いてみせた。
そこには、お米が……。
「暗黒大陸でもライスがあるんだな」
「ええ、ええ、そうなのですよ! 聞いてみると、保存しやすいから、結構広がっているそうです。確かに、籾の状態でとか玄米の状態で保管とか昔からありますし。まあ、大陸全土で作れるわけではないそうですが、この西部の方ではかなり作れるらしく、値段も安いんです」
「なるほど。つまり、ライスを購入したいからパウリーナ船長を説得しろと」
「それだけではないのです。コバッチ料理長もです」
「料理長も?」
アベルは首を傾げる。
船に関する責任者は船長であるパウリーナだ。
そのため、船に積みこむ荷物に関しては、船長の許可を取るのは当然。
その説得を手伝ってほしいのだと思ったのだが……。
「実は作ってほしい料理があるのですよ」
「うん?」
「ほら、料理長さん、カレー味のカラアゲを出してくれるじゃないですか」
「そうだな」
「あの香辛料と、このお米があれば……」
「カァリーか!」
相変わらず、アベルはカレーの発音がカッコいいのだ。
兄である故カイン王太子の影響であることを、涼は知っている。
「この暗黒大陸にカレーを根付かせて、僕らの手で、カレー不毛の地を消し去るのです!」
涼が壮大な構想を紡ぐ。
ここに、新たな宗教が生まれ出でようとしていた。
その名は、カレー教。
涼もアベルも、敬虔なカレー信者である。
「カレーで暗黒大陸を征服してやりましょう」
「面白いな」
涼のたくらみに乗るアベル。
ヴォンの街で、新たな宗教、カレー教が生まれ出でようとしていた時、同じ街では二つの宗教が衝突しようとしていた。
とはいえ、一方の当事者であり統率者でもあるグラハムは、いつも通り微笑みを浮かべて昼はヴォン教会、夜は『西の雫亭』で穏やかな、聖職者としての時間を過ごしている。
「信徒の皆様も嬉しそうに引き上げていかれました。聖下、どうぞ少しお休みください」
「ありがとう」
ヴォン教会のミキタ司教が暗黒大陸産のコーヒーを出し、微笑みながら受け取るグラハム。
朝から、次から次に、入れ代わり立ち代わり、西方教会の信者らが教皇グラハムに一目会いたいとヴォン教会を訪れていた。
その全ての希望に答えるグラハム。
それは傍から見ていても驚くほどの体力だ。
「私では、聖下の半分も彼らの希望に答えられないでしょう」
「信徒の皆さんが熱心なのは、ミキタ司教らが長年にわたって布教し、日々の生活の中でも教会の教えをその身で示してこられたからこそです。私の方こそ頭が下がる思いです」
「いえ、そんな……」
グラハムの言葉に、照れたように答えるミキタ司教。
ミキタ司教は七十歳を超えているため、グラハムとは親子ほどの年齢差がある。
だがそこは、やはり司教と教皇。
若くとも教皇からの賞賛は、一生を大陸での布教に捧げたミキタ司教にとっては何よりも嬉しいものであった。
それに若いとはいえ、目の前の教皇はヴァンパイアハンター、あるいは勇者パーティーの聖職者として魔王討伐にもかかわった人物でもある。
教皇になる前から、ある意味、教会の中で最も有名な人物の一人でもあったのだ。
しかし、ミキタ司教は懸念していることがある。
もちろん口には出していないし、行動にも表情にも出してはいない。
実際、共に過ごしているヴォン教会の他の聖職者たちは、誰も気付いていないのだが……。
「司教、気になることがおありですね」
「!」
微笑みを浮かべ、コーヒーを片手にグラハムが問うたのだ。
一切の圧力なく、怖さも出さず。
まるで「コーヒーが美味しいですね」と同じ調子で紡がれた言葉。
「も、申し訳ありません、聖下」
「謝るようなことではありません。多分ですが……ヴィーラ教に関係して、私やステファニア枢機卿らが動いている点に関してでしょう?」
「そこまでお分かりに……」
ミキタ司教は恭しく頭を下げる。
周囲の人たちを不安にさせないように、表には出さないよう注意してきたのだが……。
「いえ、ミキタ司教の振る舞いは完璧でした。信徒の方々も聖職者も、誰もその懸念には気付かれていないでしょう」
「ですが聖下は……」
「私は推測しただけです。司教の振る舞いから感じ取ったわけではありません。ですので、今まで通りで大丈夫です」
「はい……」
グラハムが微笑みを浮かべたまま、今まで通りで問題ないと肯定し、受け入れるミキタ司教。
「この教会が巻き込まれることはありません。ご心配なく」
グラハムはそう言うと、扉の方を見る。
「新たな信徒の方がお見えになったようですね」
グラハムはそう言うと、イスから立ち上がり入ってきた者たちの方に歩いていく。
「さすが……やはり教皇になる方は違う」
ミキタ司教は苦笑しながら、その後ろに付いていった。