0669 決戦の地へ
ダーウェイ北の国境、北河。
帝都を流れる南河同様に、広いところでは幅一キロを超える場所もある大河である。
長い間、この北河がダーウェイの北国境となっていた。
北河より北方は、かなり寒くなるため領土としての価値がそれほど高いとはみなされていないのだ。
そのためダーウェイ以前の王朝も、この北河を北方の国境線とし、その北側に騎馬民族が国を建てて争うこともあった。
大河は天然の要塞とすら言えるため、そう簡単に騎馬民族の国家たるペイユ国もダーウェイに侵攻することはなかった。
特にここ数十年は、両国の関係も良かったので。
だが過日、突如ペイユ国はダーウェイに侵攻した。
その際は、この北河を越えて攻め入ってきたのだ。
その侵攻は勅命を受けたリュン親王が撃退した。
しかし今回、そのペイユ国を併合したチョオウチ帝国が北河を越えて侵攻してきた。
ペイユ国の時は、あり得ないと思われていたために南岸に防衛戦力はあまり置かれていなかった。
そのためにやすやすと侵攻を許したが、今回は違う。
チョオウチ帝国による南進の可能性はあると判断されていたために、北伐大将軍として第三皇子チューレイ親王が禁軍一万を率いて駐留していた。
皇宮で武に寄った親王として知られるチューレイ。
彼が禁軍を率いて守っている限り万全、そう思われていたのだが……。
「退くな! ここで退けば際限なく侵攻されるぞ!」
叫ぶチューレイ親王。
彼の周囲も、すでに乱戦の真っただ中だ。
「殿下! 敵が新たなオーガ部隊を投入してきました!」
部下が絶望的な表情で新たな報告をする。
そう、チョオウチ帝国軍は、魔物を使役して戦場に投入してきているのだ。
チューレイ親王も、敵の新手にこちらの予備戦力を当たらせなければならないことは理解している。
だが……。
「投入すべき予備兵など、もういない」
そう呟くと唇をかみしめた。
迎撃したダーウェイ軍の主力は、最精鋭と言われる禁軍一万。
禁軍は、体長二メートル半にもなる魔物オーガに対しても、ひるむことなく一歩も引くことなく戦った。
実際、序盤は攻撃に耐え、中盤には押し返せそうな場面すらあったのだ。
だが、敵は魔物だけではなかった。
「また来たぞ!」
「呪符だ!」
「頭上に気を付けろ!」
あれだ!
敵軍の後方から飛んでくる呪符。
空を飛ぶ何百枚もの呪符が、頭上から石礫や火球を降らすのだ。
盾を頭上にかざせば守れる。
だがそうすると、正面の敵である魔物たちとの戦闘に支障が出る……。
結果、ダーウェイ軍はじわじわと戦力と士気を削られていった。
「みつけたぞ!」
カキンッ。
耳を貫くような声と共に飛び込んできた一撃を、自らの剣で防ぐチューレイ親王。
「その立派な鎧は下っ端ではあるまい。だが、まだ若い。ということはシタイフ層の子弟、あるいは皇族!」
「だったらどうする?」
攻撃してきた男の推理に、適当な返事をするチューレイ親王。
返事は適当だが、その斬撃の鋭さから油断ならない相手であることは理解している。
「俺はチョオウチ帝国七星将軍ガリベチ。お前の命を奪う者だ、覚えておけ!」
「命を奪われたら覚えておけんだろう」
ガリベチの名乗りに、ため息をつくチューレイ親王。
だが皇族として、名乗られたのにそのままというわけにはいかない。
「ダーウェイ北伐大将軍チューレイ親王だ」
「チューレイ親王といえば第三皇子か。大物じゃないか!」
「そうか。ならどうする?」
「命をもらう」
「結局、何も変わらんな」
幻人対人の剣戟が始まった。
二人の周囲でも戦闘は行われている。
だがそのほとんどは、魔物対ダーウェイ軍だ。
「魔物ばかりを駆り出して、幻人はお前だけか」
チューレイ親王が問う。
「うちは人口が少ないからな。使役できる魔物を有効に活用させてもらっているのさ」
口をへの字にしながら答えるガリベチ。
そんな会話を交わしているが、剣戟そのものは非常に激しい。
ガリベチの攻めが多いのだが、チューレイ親王も決して負けてはいない。
「なよっちぃ皇子様だと思っていたが、なかなかやるじゃないか。皇族なんて後ろに引っ込んでいるもんだと思っていたが」
「皇子が先頭に立たねば誰もついてこない。当然だろう」
「ああ……うちの皇帝陛下にちょっとだけ聞かせてやりたいな」
ガリベチは呟いた後で、少し慌てたように言葉を重ねた。
「いや、指揮をしているんだから最前線に出てこないのは当然だ。ああ、当然だ」
「誰に言い訳をしているんだ?」
ガリベチの言葉の意味が分からず首をかしげるチューレイ親王。
二人の剣戟は激しいものではあるが、片方は総大将でもある。
目の前の魔物を倒した部下たちが声を上げた。
「殿下!」
「来るな! こいつは私がやる!」
だが応援に入ろうとするのを拒否するチューレイ親王。
「助けに来てもらった方がいいんじゃないか?」
「残念ながら幻人、お前は強い。部下たちでは敵わない」
チューレイ親王ははっきり言い切る。
対抗できるのが自分だけだと理解しているのだ。
しかし同時に、全体を見ながら指揮をできるのも自分だけだということを理解している。
(撤退のタイミングだけは間違わないようにせねば)
劣勢であることは分かっている。
大将軍たる自分が、乱戦のさなかに投げ出されているのだ。
そして予備兵力もない。
先ほど投入されたというオーガ、追い打ちをかけるように放たれた呪符。
その二つで、ダーウェイ軍の戦線は破綻しつつあった。
「これだけ激しい剣戟を交わしながらも、前線を考えることができるとはすごいな、皇子」
「それが大将軍たる役割だ」
ガリベチは心底感嘆したように言い、チューレイ親王は顔をしかめながら答える。
言われた瞬間、粘り強く抵抗していた一団が、オーガによって突き崩されたのが見えたからだ。
(限界か)
しかし……。
「逃がさんぞ?」
味方が優勢になったのをガリベチも感じた。
そうなれば当然、目の前の親王は撤退しようとするであろう。
最も難しいのは撤退戦。
それは相手が、追撃してくるから。
「これだけの剣戟をしながらでは、撤退戦の指揮はとれまい?」
「くっ」
ニヤリと笑いながら言うガリベチ、言い返せないチューレイ親王。
ガリベチが言うのはもっともだ。
だが……。
「第二撤退信号上げろ!」
チューレイ親王が怒鳴る。
それが聞こえた複数の供回りの者たちが、懐からカードケースほどの大きさの黒い箱を出して地面に叩きつけた。
叩きつけられた黒い箱から、オレンジ色の煙が噴き出す。
戦場の数か所から上がるオレンジ色の煙。
次の瞬間、ダーウェイ軍の後方から百を超える何かが飛んできた。
ドガン、ズガン……。
地面に落ちると、轟音と眩しい光をまき散らす。
それは、魔物たちを混乱に陥れた。
「なに?」
さすがに驚くガリベチ。
その隙を見逃すチューレイ親王ではない。
ザクッ。
「くそっ」
腹を真一文字に切り裂かれたガリベチが、悪態をついて後方に大きく跳ぶ。
当然、チューレイ親王は追わない。
撤収し始めた自軍と共に走る。
こうして、チューレイ親王率いる北伐軍は、チョオウチ帝国軍に敗れた。
「チューレイ殿下が北方で敗れたそうですが、我々はまず帝都に入って皇帝陛下が無事であることを満天下に示さなければなりません」
「お、おう……」
「ダーウェイ臣民はもとより、敗北に浮足立っているかもしれない禁軍を引き締めることができるのは、皇帝陛下だけだからです」
「そうだな。それで、なぜ俺に言う?」
突然語りだした涼の言葉に、訝し気に問うアベル。
「アベルが軽挙妄動して、単騎でチョオウチ帝国軍に突撃する可能性があるからです。僕はそれを止めたいと思っているのです」
「そうか、でも大丈夫だ。俺はそんなことをしようなんて、これっぽっちも思っていないからな」
そこまで言ってアベルは気付いた。
「俺じゃなくて、リョウの気が急いているんだな」
「な、なにを言っているんですかね。意味が分かりません」
ツツーと目をそらしながら言う涼。
全く説得力がない。
それでもアベルが視線を逸らさないために、仕方なく言葉を続けることにした。
「僕は侵略戦争が嫌いです」
「侵略戦争が好きな奴なんていないだろ……」
「でもでも、歴史上、いろんな国が隣国に攻め込むじゃないですか」
「まあそうだな」
涼の家があってアベルが治めるナイトレイ王国も、王弟と組んだデブヒ帝国によって侵略されたことがある。
当時は、涼は王国南部のルンに本拠地を置き、ルンにまでは帝国の侵攻はなかった。
だがそれでも、王国が戦に負け帝国の侵攻を許したという報告を受けた時にはうろたえたものだ。
「アベル、国王として、国が侵略されないように頑張ってください」
「おぅ……」
「戦力が足りないなら、ロンド公爵領からアイスゴーレム一万体を提供する用意があります。その時は言ってください」
「マジか……」
「まだ今のところは槍を構えて突撃、しかできませんが」
「そ、そうか。あんまり強くなり過ぎないで……今くらいで俺はいいと思うぞ」
その時、アベルの脳裏には、地平を埋め尽くすゴーレム軍団による進軍が描かれていた。
「もっと水属性魔法と錬金術を研究して、モモンガゴーレム隊もちゃんとした形にしなければなりませんね」
「それって、空を飛ぶゴーレムとかいうやつか?」
「ええ、ええ、それです。空中戦艦ゴールデン・ハインドと組ませて空を制圧し、地上を往くアイスゴーレム主力隊と連携させれば、デブヒ帝国にも大きな顔はさせませんよ! もう絶対に、侵略者になど屈しないのです!」
そう言って右拳を突き上げる筆頭公爵。
「そうだな……俺も頑張るわ」
涼の妄想であることを理解しながらも、もし本当にそうなったらちょっとだけ怖いなと考える国王。
少なくともナイトレイ王国においては、国の中枢近くの人間たちはいろいろと考えているようである。
もっとも、現在その二人は、国から遠く離れた場所にいるわけだが。
皇帝ツーインが拉致されて三か月。
ついに、皇帝が帝都に帰還した。
皇帝ツーインの左右を、第二皇子コウリ親王と第六皇子リュン親王が歩み、異国からの協力軍も進む堂々たる進軍によって、帝都民は沸きに沸いた。
特に公になっていないとはいえ、彼らの元にも聞こえてきていたのだ。
北方のなんとかいう帝国が南下してきていると。
どうも緒戦でダーウェイ軍が負けたらしいと。
だが、ついに皇帝陛下が戻ってきた。
それに従う軍や皇子たちも強そうだ。
これならいけるに違いない!
そんな歓声を背に、一行は皇宮に入った。
「ジューオン、シャウ、いろいろと動いてくれたようだな。ようやってくれた」
「もったいなきお言葉」
「ありがたき幸せ」
皇帝ツーインの言葉に、頭を下げる司隷台ジューオン大夫、御史台シャウ司空。
「民たちの生活はまだ問題なさそうだな。笑顔がこぼれておった」
「その辺りは、ハウ・ギン殿に率いられた巡防兵らが揺らぎませんでしたので」
「なるほど。さすが一品侯ハウ・ギンよ」
大きくうなずき、帝都の治安を守るハウ・ギンを称賛する皇帝ツーイン。
足下が揺らげば、国境を侵した敵を迎え撃つなど不可能であることは皇帝ツーインも知っている。
だからこそ、足下たる帝都をしっかり守る巡防兵を皇帝ツーインは高く評価した。
戦場に出るだけが兵の仕事ではない。
戦場に赴き外敵を打ち破る兵もいれば、民の幸せのためにその身を捧げる兵もいる。
為政者の立場からすれば、どちらも大切であった。
皇帝ツーインが、復帰した為政者としての役割をこなし、将軍らが対チョオウチ帝国作戦を練っている時、ある場所では主たちが帰還を喜んでいた。
「いやあ、やっぱり家が一番ですね!」
「まあ帝都での家であることは確かだ……」
輪舞邸に着いた涼とアベルの言葉である。
門の内側には御庭番たるアイスゴーレムたちが整列し、主らの帰還を喜んでいる。
もちろんアベルには、『喜んでいる』かどうかは全く分からないのだが。
「彼らも立派になって……。見違えてしまいましたね」
「……そうか?」
涼が嬉しそうに、一体一体ぺしぺしと優しく叩きながら言うが、アベルには全く分からない。
そんな中、ゆっくりと近づいてくるものが……。
「おお、アンダルシア!」
涼の愛馬アンダルシアが、珍しく芝生を出て門にまで迎えに来たのだ。
嬉しそうに涼に頬ずりする。
涼も嬉しそうに撫でる。
そこには、種を超えた信頼関係があった。
もちろん、黒いもう一頭も。
「フェイワン、留守の役目、ご苦労だったな」
アベルの愛馬フェイワンも、門にまで出てきてアベルの顔を舐める。
フェイワンの愛情表現だ。
「ははは、くすぐったいぞ。よしよし」
そこにも、種を超えた信頼関係があった。
二人は、ようやく輪舞邸に戻ってきたのであった。
「とはいえ、すぐに出立することになるんですよね」
とりあえずお風呂に入って旅の汚れを落とし、お茶を飲みながら涼が言う。
「チョオウチ帝国を迎え撃たねばならんからな。一度敗れたとはいえ、チューレイ親王は残存兵を率いて北部で頑張っているのだろう? 彼が時間を稼いでいる間に、大軍を編成せねばならんな」
アベルもお茶を飲みながら言う。
そして言葉を続けた。
「とはいえ、俺たちは外様だ。戦いの中心はダーウェイの人々だぞ」
「ええ、分かっています。もちろん協力を要請されたら全力で協力しますけど」
自分が出れば犠牲が減る。
それなのに最初から出るわけにはいかない。
涼としてはいつも、戦場に出るとそんな矛盾にも似た気持ちを抱いてしまう。
だが戦争は、勝てばいいというわけではない。
勝ち方によって、その後の国の方向性、民らの気持ちなど多くを決めてしまう。
ナイトレイ王国の解放戦を見て、涼ははっきりとそれを理解していた。
「戦争も政治の一部らしいですけど……政治ってほんと難しいですね」
「ああ、それは否定しない」
涼が首を振りながら愚痴り、アベルは苦笑しながらそれを認めた。
世界には、そんな厄介な『政治』に、自分から関わっていきたがる奇特な人たちがいるらしい。
世界は広い……。
一行が帝都に戻った翌日、涼とアベルは皇宮に呼び出された。
皇帝ツーインが私室である文華殿に二人を呼び、いろいろと感謝したのだ。
「いえ、当然のことをしたまでですから」
「ああ、気にするな」
涼もアベルも、いつも通りの答えである。
そんな中、皇帝ツーインは特に二人に関係する情報が上がってきたために来てもらったと告げた。
「中央諸国に行くには、『壁』が開いている時に『回廊』を抜けねばならないと伝えたと思う」
「はい覚えています。ダーウェイ北西部にあるのですよね」
「うむ。それについて、余がチョオウチ帝国に連れ去られる前から古い資料などを調べさせておったのだが、いくつか情報が見つかった」
曰く。
今から一千年以上前に、錬金術によって『壁』は閉じられた。
その理由は、中央諸国から何かが入ってくるのを防ぐためであった。
『壁』を閉じる中心となった錬金術師は、『壁』を開くための『鍵』を時の皇帝の血に設定した。
もちろんダーウェイは建国百五十年であるため、その当時は影も形もない。
だがダーウェイ帝室は、当時の王朝の末裔である。
そのため、皇帝ツーインを含む帝室直系の者の血は、『壁』を開く『鍵』である可能性がある。
「なるほど。だからチョオウチ帝国は陛下を攫って、血を抜いたのですね」
涼は頷いた。
その横で、アベルも無言で頷いている。
「以前捕らえたユン将軍が持っていた情報に関して、御史台のシャウから余も報告を受けた。幻王なる者は、中央諸国に行こうとしているとか」
「はい。陛下の血で『壁』を開き、『回廊』を抜けようとしているのでしょう」
「『壁』が開いたとして、何が起きるのかはまだ分からんようだが」
「中央諸国から入ってこようとした何かを遮っていたのでしょう?」
「うむ。だが、もうすでに数十年のうちの数年は開いておる。少なくともその時であれば、人は抜けられる……」
「幻人は人とは違うために抜けられないのかもしれません。そのために、完全に『壁』を開く必要がある」
情報が足りていないために、皇帝ツーインも涼も、想像に想像を重ねている。
だが、そんな思考が必要な場合も世の中にはある。
皇帝ツーインが帝都に帰還して三日後、北征軍が出発した。
皇帝ツーイン自身が最高指揮官として率いる皇帝親征。
中核は禁軍三万。
兵部所属黒旗軍二万、魔法隊五千。
さらに、各地の領主が領主軍を率いて途中で合流していく予定だ。
副将としてリュン親王とコウリ親王が従う。
リュン親王はともかく、コウリ親王の場合は、一人で帝都に置いておけないという判断が働き、どうせなら近くに置くべきと同行させられたそうだ。
「信頼できる味方のなんと少ないことか」
「確かにな」
相談役として従軍することになった涼が首を振って嘆き、その護衛であるアベルが同意した。
ちなみにローウォン卿は、氷漬けのまま重監獄に置かれている。
「本当に慌ただしい出発ですけど、編成とか大丈夫なんでしょうか」
「中心部分だけは編成を終えていて、戦場に向かいながら、膨れ上がる部分の編成をしていくんだろう」
「いいんですか、そんなので」
「軍の用法としては良くない」
「ですよね」
アベルが断言し、涼も頷く。
「だが現実的にそうせざるを得ない状況なんだろう」
「純軍事的には誤りでも、政治的には正しいというやつですか」
「最近では無いが、父上が治められていた頃の王国では何度かあったぞ。政治中枢の人間たちだって、将軍らに言われるまでもなくそれが良くないというのは知っている。だが少しでも早く、軍を前線に近づけておかねばならない場合もあるんだ」
「政治的な意味でですね」
軍事が政治に従属するものである以上、政治的理由によって軍の移動が行われる……それが純軍事的には正しくない移動であっても。
そういうことなのだろう。
「本当にいろいろと難しいです。おうちで美味しいものでも食べていた方がいいです」
「うん、それは認める」
帝都を進発して二週間後、皇帝ツーイン率いる北征軍は第三皇子チューレイ親王の軍と合流した。
「チューレイ、よくもたせた」
「陛下、ふがいない結果、申し訳ございません」
「なんの。お主だからこそ、敵の侵攻が止まっているのだ。胸を張れ」
緒戦で敗れたものの、粘り強く抵抗したチューレイ親王を褒める皇帝ツーイン。
北征軍本陣の一角では、相談役とその護衛が雑談していた。
「緒戦でダーウェイ軍を打ち破って、北河南岸のシュンタイ城を確保した後、チョオウチ軍は止まったままだそうですよ。まるで、この本隊が来るのを待っているかのように」
「待ってるんだろ」
涼の言葉に、肩をすくめるアベル。
「やっぱりアベルもそう思います?」
「当然だ。ダーウェイ皇帝が率いる本隊だ。この一戦で、全てを決しようというのだろう」
「禁軍三万を中心に、途中で合流した領主たちの軍も入れると十万人を超えますよ? それに勝てると踏んでるんですよね」
「そうだな。数だけなら集めたな、とか思ってるんじゃないか?」
「十万か。数だけなら集めたな」
チョオウチ帝国軍本陣の一角で、幻王はそう言って笑った。
「ですが人であっても、さすがに十万という数は馬鹿にはできません」
そう答えるのは黒いローブを羽織ったタオラン。
幻王の副官的立場に収まっている。
「皇帝陛下は、ダーウェイ皇帝が出てきたのでお喜びだそうです。この一戦ですべてを決することができると」
皇帝の近況を伝えるのは七星将軍ユン・チェン。
今回の南進においては、幻王の幕僚長のような立場となっている。
「言ってたもんな。ダーウェイ皇帝を戦場に釣り出して殺せばそれで終わるだろうがと。まあ、あながち間違いではない。この戦場に、第二皇子、第三皇子、第六皇子までいるんだからな。親王三人、全部まとめて殺せば……残るは半分正気を失って帝都に残されている第四皇子のみ。あれを皇帝に就けるしかなくなれば、さすがの大国ももつまいさ」
幻王は肩をすくめて言う。
「しかし問題は……」
「できるかどうかです」
タオランもユン将軍も、皇帝ワンシャン・クほど楽観的ではない。
「さて皇帝は……父上はどこまで認識しているのやら」
幻王は小さく首を振ってそう言うのであった。
チョオウチ帝国本陣、最高指揮所。
そこには、興奮する一人の老人がいた。
「ようやくだ。ようやく、ダーウェイへの恨みを晴らすことができるぞ。封印から解かれて三十年……この時をどれほど待ちわびたか」
歓喜にうちふるえるチョオウチ帝国皇帝ワンシャン・ク。
本来は、まだ『老人』と呼ばれるほどの年齢ではないのだが。
多くの苦労が、実年齢以上に老けた印象を与えるのだろうか……幻人なのに。
「三十年! 三十年もの間、封印されたこの恨み、ようやく晴らすことができるわ」
その後の笑いは、まさに哄笑。
事情を知らないものが見れば、絶対に近づかないであろう狂った笑い。
いや、事情を知っている者たちであっても近づかないだろう。
「もうすぐだ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ……」
戦場に集った多くの者たちの思いを乗せて……後世、『東方三帝会戦』と呼ばれることになるピューライ平原の戦いが幕を開けようとしていた。
ついに、第三部の最終決戦。




