0638 驚愕
時は少し遡る。
自治都市クベバサを出航したダーウェイ外交団。
公船十隻のうち九隻は、ダーウェイ艦隊二十隻と共に北上し帝都ハンリンに向かう。
第十船だけは、大公国の港町ホイアンに向かった。
そこで、涼とアベルを回収するために。
問題は、ダーウェイ外交団が帝都ハンリンに入港して発覚した。
「皇帝陛下が拉致された?」
そんな驚くべき報告を受けた外交団一行。
帝都ハンリンから自治都市クベバサまで十日、滞在七日、クベバサからハンリンまでの戻りで十四日。
帝都ハンリンを離れていたのはわずか一カ月。
その間に、一体何が起きたというのか。
ダーウェイ外交団は皇宮に向かった。
これは、通常の手順通り。
もちろん、報告すべき相手である皇帝ツーインはいないのだが、それでも報告をしないという選択肢はない。
皇宮に向かうペースはゆっくりと。
その間も、情報収集を進めるためだ。
ひっきりなしに外交団に、正確にはリュン親王、シオ・フェン公主、リンシュン侍従長とルヤオ隊長がいる本隊に情報が集まってくる。
真っ先に分かったのは……。
「コウリ兄様が取り仕切っている?」
第二皇子コウリ親王が、皇宮内を取り仕切っているというものであった。
確かに外交団が出発する前、皇帝ツーインと丞相ビャン・ビャンが倒れた際には、コウリ親王が政務を代行した。
過去の例に基づいてであった。
そう考えれば、決しておかしいわけではないのだろう。
「ビャン丞相が再び倒れ、総太監が職を解かれ謹慎? 禁軍統領ティン・メウ殿が行方不明?」
その報告は、明らかにリュン親王の眉をひそめさせた。
百歩譲ってビャン丞相が倒れたのはいいだろう、年齢も年齢だ。
だが総太監が職を解かれ謹慎?
さらに禁軍統領ティンが行方不明?
それはつまり、皇帝ツーインの最も近くにいた者たちが、政権中枢に現在はいないということだ。
さらに、リュン王府の情報も入ってきた。
「四日前にコウリ王府軍が入ったということです」
「ウェンシュたちは?」
リュン王府にはウェンシュ侍従を中心に、多くの家臣らがいる。
「どう動けばいいのか、そもそも動いていいのか判断できず、抵抗していないそうです。入ったコウリ王府軍も乱暴なことはせず、ただ監視しているだけとか」
「そうか。ウェンシュの判断は正しい」
報告を受けてリュン親王は頷いた。
そしてシオ・フェン公主を見て言う。
「シオ、侍女たちも大丈夫だと思う」
「はい」
ミーファら最側近ともいえる侍女たちは、共に会議に出ていたが、それ以外のほとんどの侍女たちは王府に残っている。
彼女たちも恐らく無事であろうと聞いて、シオ・フェン公主も少し安堵した。
だが、リュン親王もシオ・フェン公主も疑問が湧いた。
「我が王府に軍を入れたということだが、隣の輪舞邸はどうなった?」
そう、二人が持った疑問。
輪舞邸はロンド公爵たる涼と、護衛となっているアベルの二人だけの屋敷。
その二人は不在。
確かに王府軍をわざわざ入れる必要はないが……。
「リュン王府を制圧した後、輪舞邸にも王府軍が派遣されたそうです。ですが……」
報告者は、少し視線を逸らした。
どう報告すればいいのか迷っているようだ。
「聞いた通りに話せ」
「はっ。輪舞邸の門の前に、ゴーレムたちが並んでいたとのことです」
「ロンド公のゴーレムか」
「頭にツノがついたゴーレムを先頭に、その後ろにずらりと氷の槍を持ったゴーレムが立ち並び……誰も入れさせない態勢であったとか」
「さもありなん」
「さらにゴーレムたちの後ろには、二頭の立派な馬が立ち、これもコウリ王府軍を睨みつけ……王府軍の馬たちが怯えたそうです」
「お二人の愛馬か」
リュン親王は頷いた。
「その報告を受けたコウリ親王が、そのまま撤退を命じたそうです。余計な手出しは不要と」
「さすが兄上、適切な判断だ」
リュン親王は何度も頷いた。
もしかしたらコウリ親王は、皇帝位を簒奪したのかもしれない。
そうなれば明確な敵であるが……だがそれでも、その判断力の高さは油断できない。
無理に輪舞邸に押し入らなかったのもその判断力の賜物。
明確なリュン親王陣営の一人であるロンド公であるが、敵に回すとかなり厄介であることは言うまでもない。
もちろんコウリ親王陣営には、六聖の一人ローウォン卿がいることは分かっているし、彼ならロンド公と戦っても互角に、あるいは互角以上にわたり合うだろう。
それだけの実績がある。
だが、あえて明確な敵にする必要もないという判断をしたのだ。
輪舞邸にあるであろう錬金術面の技術……ゴーレムを筆頭に、いろいろあるであろうと推測できるし、それを手に入れるチャンスではあるが、そんなことをすればロンド公は激怒する。
それはまだ避けたということだろう。
だが……。
リュン親王はルヤオ隊長を見た。
ルヤオ隊長も何を問うているのかは理解している。
「はい、輪舞邸、使えるかもしれません」
ルヤオ隊長の答え。
とはいえ、今すぐどうこうというわけではない。
まだ情報が足りていない。
何より……。
「皇帝陛下はいずこに……」
皇宮に入ると、外交団は太極殿前の広場に通された。
リュン親王が、緑荘平野の戦勝を報告した広場だ。
だが今回、そこで一行の前に出てきたのは皇帝ツーインではなく……。
「兄上……」
「リュン親王、大儀」
コウリ親王の様子は以前と同じだ。
着ているものも親王の正装……なのだが、雰囲気が違う。
威圧的と言うわけではない。
なんというのか……圧倒的な余裕を感じさせる。
まさに、これまで打ってきた全ての手が繋がり、想定通りの結果を手にすることができた……その自信が生み出した余裕。
まさに布石。
(まさか……全て兄上の計算通り?)
直感で浮かんだその考えを、さすがに意識的に振り払う。
そもそも『全て』とは、どこからどこまでが『全て』なのか?
この皇帝の拉致も?
いや東方諸国合同会議は?
そもそも、チョオウチ帝国の動き自体は……?
「兄上、早急にお話ししたいことがございます」
リュン親王はしっかりとコウリ親王の目を見て切り出した。
確かに、現在皇宮はコウリ親王の手の中にあるのかもしれない。
だが、未だ皇帝ではない。
同じ、『親王』に過ぎない。
「もちろんだリュン。太極殿へ」
そして、コウリ親王とリュン親王の二人だけが、太極殿に入っていった。
「兄上、一体何が起きているのですか?」
入る早々、リュン親王が尋ねる。
だがコウリ親王は無言のまま、太極殿中央に進み、座った。
そこには茶が準備されている。
そう、リュン親王がこう切り出して、二人で話すことになるであろうことを想定していたのだ。
「リュンのことだから、皇宮に着くまでに多くの情報を手にしただろう?」
コウリ親王はそう言うと、茶を注いだ。
リュン親王も仕方なく、その対面に座る。
「皇帝陛下が……父上が拉致されたと聞きました」
「事実だ」
「なぜ……どうやって……」
「それは不明だ。護衛についていた禁軍統領ティン・メウは行方不明となっているから、事情が分からん」
「そんな……」
確かにリュン親王は、禁軍統領ティンが行方不明であるということも報告を受けていた。
だが、今のコウリ親王の言い方だと、ティン統領が裏切ったかのように聞こえる。
あの忠誠の塊とも言うべきティン統領が?
だが、その思考はそこで途切れた。
途切れさせるほどの情報がもたらされたからだ。
「父上は、チョオウチ帝国によって処刑されたそうだ」
「なんですって!」
拉致され、処刑された?
ダーウェイの現皇帝が?
そんなことがあり得るだろうか?
「その情報はどこから……」
喘ぐような声で問うリュン親王。
「父上とビャン丞相がチョオウチ帝国に放っていた密偵によってだ」
「それは確実な情報なのですか?」
「数日中には、チョオウチ帝国から正式に発表するという情報も併せて届けられた」
「なんということ……」
呆然とするリュン親王。
だが、呆然としてばかりではいられない。
「チョオウチ帝国がダーウェイ皇帝を処刑したとなれば、それは宣戦布告も同然。どのように攻め上がりますか?」
「いや、攻めぬ」
「は?」
コウリ親王の想定外の答えに、言葉を失うリュン親王。
「もちろん表向きはチョオウチ帝国を非難するが、軍事行動には出ない」
「なぜですか!」
「間にペイユ国がある。それに、チョオウチ帝国がこれ以上ダーウェイに手を出してくるとは思えない」
「その根拠は……」
「奴らの狙いは、父上の……皇帝陛下の身柄だったらしいからだ」
「……父上の身柄?」
リュン親王には意味が分からない。
拉致しておいて処刑してそれで終わり……狙いがその体にあるとして、そんなやり方をする理由が全く思い浮かばないのだ。
「この件は、まだしばらく口外しないように。いずれチョオウチ帝国が発表して公に知られるのだろうが、それまではダメだ」
「……承知いたしました」
リュン親王としても、コウリ親王に完全に主導権を握られているのは理解している。
一カ月余りとはいえ皇帝の代理を務め、それまでにも足掛け六年にもわたって親王の位にあり、あまつさえシタイフ層の過半数を押さえている……実績も地盤も大きな差があることを感じているのだ。
(どちらにしろ動けぬ)
外交団は解散し、リュン親王らはリュン王府に戻った。
「殿下、申し訳ございません!」
戻る早々、リュン親王の前で両膝をついて謝罪するウェンシュ侍従。
不在の間の王府を任されたのに、コウリ王府軍を防ぐことができなかったからだ。
「よい、ウェンシュ。王府が荒らされなかっただけでも十分。よくやった」
リュン親王はそう言うと、屋敷に入った。
リュン親王が戻ってからは、コウリ王府軍はリュン王府からは出ていった。
そのため、リュン王府の出入りは自由だ。
だが、辻ごとにコウリ王府軍の者たちが立っており、監視は継続しているらしい。
「締め付けが緩すぎないか?」
「殿下のお力を使いたいからでしょう」
リュン親王が小さな声で問うと、傍らのリンシュン侍従が答える。
「私の力?」
「はい。将としてのお力です」
「コウリ兄様が皇帝位に就く……そうなれば、そうそう自分で戦場に出るわけにはいかん。チューレイ兄様は武に優れた方だが、一人でこの広大なダーウェイ全てを守ることはできない。だから私も使うか」
リュン親王は小さく首を振る。
こういう思考に進むこと自体が、コウリ親王が皇帝位に就くことを止めるのが難しそうだというのを心の底で理解してしまっているからだというのは分かっている。
分かっているが、同時に、未来を見る必要がある。
正確に未来を予測するには、正確に現状を把握しなければならない。
「しばらくは、受け入れざるを得んか」
その夜。リュン王府。
王府親王羽林軍のルヤオ隊長は部屋で眠っていたのだが、肩を叩かれて起こされた。
彼女を起こしたのは相棒。
「え? 二号君?」
そう、友好の証二号君が起こしたらしい。
もちろんこれまで、そんなことは一度もなかった。
ルヤオ隊長の目には、決意に満ちた二号君が映っている。
おそらく他の人が見ても、そんな決意は感じ取れないだろうが……。
ルヤオ隊長は外套を羽織り剣を持ち、部屋の外に案内しようとする二号君についていった。
二号君が案内したのは、王府の外壁。
その向こう側は、輪舞邸がある。
輪舞邸との間にある外壁の高さは三メートルほどであり、頑張れば乗り越えられる者もいるだろうが、屋敷の主たるロンド公爵が口を酸っぱくして言っていたことがある。
「絶対に、うちの外壁を乗り越えようとしてはいけません。乗り越えようとしたら凍りついてしまいますからね」と。
水属性魔法の、なんとかすちーむまいだとかの魔法を、錬金術で再現したらしい。
帝都でも屈指の錬金術師と評価されており、師匠であるローウォン卿は有名な水属性の魔法使いのルヤオ隊長であるが、正直、ロンド公爵の魔法はよく分からない。
いや、全く分からないと言ってもいいかもしれない。
それを錬金術で再現できると言われるのも全く分からない。
本当はその辺りも、師たるローウォン卿と語り合ってみたいと思っているのだが……。
とにかく、そんな外壁を三人が飛び越えてきた。
思わず反射的に剣を抜くルヤオ隊長。
「お待ちを!」
低い、音量を抑えた男性の声が聞こえる。
どうも、三人のうちの真ん中の男性の声らしい。
しかもよく見ると、その両脇で一緒に飛び越えてきたのは人ではない。
ゴーレムだ。
それも、二号君と同じ……。
「ロンド公のゴーレム? しかも左は一号君じゃないか?」
そう、ルヤオ隊長も見覚えがある。
頭に『ツノ』がついているゴーレム。
先触れ担当一号君ですと、ロンド公が嬉しそうに紹介したのを覚えている。
一号君は、『おにわばんいちばんたい』の隊長らしい……『おにわばんいちばんたい』が何なのか、ルヤオ隊長にはよく分からない。
ちなみに傍らの二号君が『おにわばんにばんたい』の隊長権限を持っているらしいとは聞いている。
そこから推測するに、他のゴーレムたちよりも高い立場なのだろうとは思う。
そんな一号君が連れてきたということは、真ん中の人物は敵ではないのではないか?
なぜかルヤオ隊長にはそう確信できた。
確かに、彼らはゴーレムだ。
どこまでの判断力を持っているのか、正確には知らない。
だがルヤオ隊長にとって友好の証二号君は相棒。
誰よりも信頼する相棒である。
その相棒の仲間たちが判断したのであれば……へたな人間たちの判断以上に信頼に足るのではないかと思っている。
「リュン王府親王羽林軍ルヤオ隊長とお見受けする。私は、皇宮禁軍統領ティン・メウと申します」
そう言うと、真ん中の人物が歩を進めた。
月明かりに照らされ、顔がはっきりと見える。
もちろん禁軍統領ティンのことは、ルヤオ隊長は知っている。
何度か皇宮内で会ったこともある。
確かに、皇帝ツーインの身を守っていた禁軍統領ティンだ。
しかしこうも聞いている。
禁軍統領ティンは行方不明。
しかも、皇帝ツーインの拉致に関わっていると。
「禁軍統領ティン殿であることは分かりました」
ルヤオ隊長はそう言いながらも剣は下げない。
「ですがティン殿には、皇帝陛下の拉致に関係しているとの嫌疑が掛かっています」
「承知しております。それゆえ、輪舞邸でかくまってもらっていました」
「かくまってもらった?」
「リュン親王にお話ししたいのです、全てを」




