0552 殿中でござる
「アベル、大変なことになってしまいました」
「確かにな」
「殿中でござる~をやってしまうと、その後は悲劇しか生まれないのです」
「デンチュ? なんか、そんな響きの言葉を、以前聞いた記憶はあるが……」
以前、トワイライトランドに向かう馬車の中で、殿中でござる~という言葉だけは、涼が言ったことがある……それを記憶していたらしい。さすがは王様だ。
とはいえ、赤穂藩の浅野内匠頭と吉良上野介のお話そのものは、当然アベルには通じない。
殿中でござるは、一般的には、忠臣蔵、あるいは松之廊下の刃傷事件として知られている。
江戸時代、江戸城松之廊下で、浅野内匠頭が、吉良上野介に儀礼用の小刀である、小さ刀で斬りつけた事件だ。
そんな刀で斬りつけても殺せるはずはないし、実際、斬りつけられた吉良上野介も、肩と眉の辺りに傷を負ったが、数針縫った程度の傷であった。
冷静に見た場合、なぜ浅野内匠頭が斬りつけたか理解するのは難しい。
浅野内匠頭が斬りつけた結果、彼が藩主となっていた赤穂藩はお取り潰し。
藩士は全て浪人となり、その家族も路頭に迷った。
赤穂藩のこの結果も、殿中、つまり江戸城の中で斬りつけ騒ぎなどを起こせばそうなることは、誰にでも分かる事だった。
それなのに、斬りつけた。
多くの仮説が生まれ、物語も生まれ、数百年後にまで語り継がれている……。
ちなみに、涼が言う『殿中でござる』の語源は……。
斬りつける浅野内匠頭を、後ろから羽交い絞めにして必死に止めた梶川頼照が、「殿中でござる! 内匠頭、殿中でござるぞ!」と叫んだと言われる場面からだ。
しかし……。
この梶川頼照が残した『梶川日記』には、そんな叫びをあげたなどという記述はない。
後ろから羽交い絞めにして止めたという記述もない。
真実も事実も、歴史の波の前には、簡単にかき消されてしまうものなのかもしれない……。
涼はそんなことを考えたが、今、目の前にいる剣士には、殿中でござるを説明する必要がある。
それも、簡潔に。
「剣を抜いてはいけないところで抜いてしまい、あまつさえ斬りつけてしまう行為です」
「ああ……。だが、フォン・ドボー殿がというのが……釈然としないんだよな」
「そうですね。フォン・ドボーさんは善い人ですから」
アベルの解せないという意見に同意する涼。
「ん? リョウは以前、フォン・ドボー殿の謀略の犠牲になるとか、ダーウェイの皇帝陛下暗殺が狙いで、その罪を俺たちに着せるつもりに違いないとか言ってなかったか?」
「いつの時代の話をしているのですか! そんな懸念は、はるか昔に取り払われたのですよ」
「うん、ほんの三日前の話なんだがな」
憤懣やるかたないという表情の涼に、少し呆れた表情のアベル。
いつものことである。
「フォン・ドボーさんは善い人です。時々、お小遣いをくれたりもします!」
「そういえば昨日、帰りがけに、買い食い用のお金を貰っていたな……」
昨日、皇宮からの帰りの際に、涼が牛串焼き露店をじっと見ながら歩いていたら、フォン・ドボーがお小遣いをくれたのだ。
金貨を渡し、涼の分を含めた全員分を買ってきてくれと。
余ったお釣りは涼のものにしていいと。
涼が喜んだのは言うまでもない。
全員分の牛串焼きを買っても、半分以上はお釣りになったため、涼はいっぱいお小遣いも貰えたらしい……。
奢ってくれてお小遣いもくれる。
そんな素敵な雇い主が、悪い人なわけがない!
「アベルも串焼きを食べたでしょう? 美味しかったはずです。全てフォン・ドボーさんのおかげ。素晴らしい雇い主には、しかるべき敬意を払うべきです」
「うん、まあ、それは否定しない」
涼が力説し、アベルも受け入れた。
一宿一飯の義理は大きい!
宿代も出してくれるフォン・ドボーのために動くのは、涼の中では当然である。
「バシュー伯の宿泊先が分かりました」
探っていた護衛兵たちが戻ってきた。
「聖帝広場に面した、『月下宴亭』です」
ニュアンが報告する。
聖帝広場は、アベルが三色を打ち倒した、時計台のある例の広場だ。
「聖帝広場なら分かる。俺とリョウで行ってくる」
「ああ、頼む」
ウェイ・フォンは顔をしかめている。
自分たちが動けず、新たに雇った二人に動いてもらうしかないのが辛いらしい。
「領主様が打ちかかったというのであれば、家臣である俺たちはバシュー伯の近くをうろつかない方がいいのだろう。とりあえずは、この待機所に詰めるから、ここに連絡をくれ」
「分かった」
ウェイ・フォンを含めて、護衛兵十人が深々と頭を下げる。
アベルも涼も小さく頷くと、待機所を出て、聖帝広場に走るのであった。
聖帝広場は広い。
帝都民の待ち合わせ場所にもよく使われるため、いつも人が多い。
だが、教えられていた『月下宴亭』はすぐに分かった。
『月下宴亭』 の前は、それほど混雑していなかった。
確かに、周りの店や宿に比べれば人の出入りが多いようだが、元々の入口が広く大きいからであろうか。
あまり混雑は感じさせない。
涼とアベルは、頭だけ出して中を見る。
「中はけっこう人がいます」
「そうだな。あれは……言い争いか?」
涼とアベルが中を見ると、入口の少し先で、数人が大きな声で言い合っている。
だがよく見ると、ひとりの人間が両手を広げて、他の者たちが中に入ろうするのを止めているようだ。
「見舞いに来た人たちを止めているようです」
「領主様は、まだ人にお会いできる状態ではありませんとか言っているから、ロシュ・テン殿の家臣なんだろう」
「そうなると困ります。僕ら、お見舞いで会おうとしているので……」
「通してはくれんだろうな」
涼とアベルはため息をついた。
「とはいえ、このまま帰るわけにはいきません」
「その通りだが……どうする?」
「いつもの手でいきます」
「いつもの手?」
涼が自信満々に言うが、アベルには思い当たる節が無い。
そんな、いつも使っているような万能な方法があっただろうか?
「アベルが単騎特攻を仕掛けて注目を集めている間に、僕が裏から……」
「却下だ」
「なぜ!」
「俺が御史台に突き出される」
「それは必要な犠牲……」
「却下だ!」
涼の提案は、アベルに却下された。
世界開闢以来続く、剣士と魔法使いの戦い。
決して相容れる事のない、前衛と後衛の宿命の争い。
仕方ないのかもしれない。
「じゃあ、どうするんですか?」
「普通に、裏口に回ってみる」
「むぅ……仕方ありません」
『龍泉邸』ほどではないにしても、『月下宴亭』もかなり広い宿だ。
大商人や地方領主たちが、供周りの者や護衛を連れて泊まる宿となれば、自然と大きくならざるを得ない。
それはつまり、目の届かない部分も多々あるということ。
「こんな警備だと、暗殺剣士なんて入り放題ですよ」
「何だ、暗殺剣士って」
「暗殺を生業とする、魔剣を持った怖い赤い剣士の事です」
涼は説明をすると、アベルを横目に見る。
「うん、まさかとは思うが、俺のことを想定して、言ったりはしていないよな?」
「も、もちろんじゃないですか。そんなわけないですよ」
そんな会話を小声で交わしながらも、時々二人は身を隠す。
緩い警備ではあるが……宿の警備か宿泊客の護衛か分からないが、宿の庭を歩いてはいるのだ。
もちろん、二人が本気になれば見つからない程度の警備だが……。
『月下宴亭』の建物は、ダーウェイによくある、平屋でいくつもの棟が廊下で繋がるタイプのものだ。
もちろん二人は、探しているロシュ・テンがどこにいるかは知らない。
だが……。
「<パッシブソナー>」
涼の水属性魔法がある。
知った人の反応なら、追う事ができる。
「あっちの奥の部屋ですね」
涼が先導し、アベルがついていき……。
コンコン。
ノックの音が響く。
「はい?」
中から、訝し気な、だが聞き覚えのある声が聞こえた。
涼が扉を開けて、顔を出す。
「え? リョウさん? アベルさんも?」
涼の後ろから、アベルも顔を出した。
そこには、お茶を飲むバシュー伯ロシュ・テンがいた。




