0517 平和とは
世界は平和だった。
少なくとも、涼の周りの世界は平和だった。
「どこかの剣士アベルのように、剣を振り回すばかりではなく、読書に勤しむ事ができる心の余裕は大切です」
「……なぜ、わざわざ声に出して言う?」
屋敷の中庭で、ミーファに稽古をつけたアベルが、涼が読書をしているテーブルに来たタイミングで、わざわざそう呟いた。
呟くの定義が、周りにいる人に、はっきり聞こえる声の大きさであるのなら、だが……。
一般的には、それは呟きではなく、ただ喋っているだけかもしれない。
「僕の故郷に、常在戦場という言葉があります。常に戦場にいるような心づもりでいなさいという言葉です。また、失われた言葉に、Si vis pacem, para bellumというものがあります。汝平和を欲さば、戦への備えをせよという意味です。そして、ニーチェはこう言いました。汝が平和を求めるならば、それは新しい戦いの準備としてのそれでなければならない。永い平和よりも短い平和を求めよ」
「すまん、言いたいことが全く分からんし、言ってる意味も分からん……」
「平和など、仮初のものにすぎないということです」
涼は、いかにも哲学者の風を装って、重々しく告げる。
右手に、あんこのようなものが入ったお餅……大福のようなおやつを持っていなければ、説得力があったかもしれない。
アベルは、小さくため息をついて言った。
「リョウの姿は、平和そのものだがな」
「今日は、これくらいにしておこう」
「はい。ありがとうございました」
アベルが稽古を切り上げ、ミーファは頭を下げた。
それを中庭の隅から見て、嬉しそうに、うんうんと頷く涼。
明日、三人は首都ジョンジョンに向かって出発する。
それは、代官スー・クーが首都に向かうのと一緒にだ。
陸路で七日と、それほど長い旅ではない。
ミーファはもちろん、涼とアベルにも馬が用意されており、ずっと歩くのに比べれば疲労は少ない。
とはいえ、明日から一週間の旅に出ると分かっているのに、前日までハードな訓練をする必要がないのは確かだろう。
部屋に戻った涼は、持っていく荷物の最終チェックをし始めた。
「途中で読む本だけは、いつもの肩掛け鞄に入れておきましょう」
そう言うと、箱型の旅行用鞄から一冊の本を取り出すと、肩掛け鞄の方に移した。
それをチラリと見たアベル。
「リョウ、その本って、街で買ってきたやつだろう?」
「ええ。以前、この屋敷の図書室から借りた『呪符と霊符の歴史と効用』の続編です」
「『実践 呪符と霊符が拓く未来』……? その、呪符とかって、涼は使えないだろう? それなのに、実践?」
「確かに使えませんけど……敵を知り、己を知れば、というやつです」
「『孫子』か」
「さすがアベルです。もう完璧ですね!」
「いや、リョウが呟く部分だけな……」
涼は称賛するが、アベルは苦笑する。
断片的に、涼が呟く言葉だけが頭に残っているだけで、本質は全く理解できていない。
その自覚があったからだ。
「実際問題として、相手が使う技や術に関して、全く知識がないと対処できないでしょう?」
「確かにな。常に後手をとることになる」
アベルはそう言うと、大きく頷いた。
長く冒険者をやってきたアベルは、魔物とも人とも、豊富な戦闘経験がある。
だからこそ、相手の情報が全くない場合の、戦闘の困難さも知っているのだ。
「だが、リョウ……旅は、馬だぞ」
「ええ、そうですよ。歩きだったら……さすがに歩きながら読めませんもん」
「馬なら読めると? 経験があるか?」
「いえ、経験はないですけど……え? もしかして、難しいんですか?」
「慣れてないと、かなりな」
「えぇ……」
アベルの言葉に、涼は打ちひしがれた。
「『東方諸国の錬金術』という本も、面白そうだったから用意したのに……」
涼の呟きは、誰にも聞こえなかった。
翌日。
ミファソシから、首都ジョンジョンに向かって、一行は旅立った。
トップは、ミファソシ代官スー・クー。
彼女の部下たち二十人がついてくる。
護衛隊長は、ミファソシ巡視隊一番隊隊長ソロン。
ソロンの一番隊を中心に、四十人の護衛隊が組織され、一行を守る。
そこに、ミーファ、アベルそして涼の三人も入っていた。
「ミーファ、疲れていないかい? 馬は慣れていないだろう。大丈夫かい?」
「はい、スー様。大丈夫です」
ミーファは、代官スー・クーのすぐ隣に並んで移動している。
代官スー・クーももちろん馬なのだが、かなり様になっていた。
「代官さん、乗り慣れてますね」
「ああ。小さい頃から訓練を受けて、その後もかなり乗ってきたようだな。リョウが、以前受けた感じから、熟練の冒険者のような、現場での経験豊富な印象を受けたんだが……。貴族や王族の生まれなのかもしれんな」
「やっぱりロベルト・ピルロ陛下の部類……」
アベルが推測し、涼が連合の先王を思い出す。
「そういえば、ミーファって、シオ・フェン公主という方の侍女になって、ダーウェイに行くんですよね」
「ああ、そう言っていたな」
涼の確認に、アベルは頷く。
「公主ってのが分からなくて調べたんですけど、元々は皇帝陛下の娘さんの称号なんですね。それを、東方諸国各国でも使うようになったそうです」
「ああ、そうだな」
涼が得意げに説明したのだが、アベルは事も無げに頷いた。
「なんですか、その反応。もしかしてアベル、知ってたんですか?」
「昔、王城にいた頃に、習った記憶がある。ダーウェイになる前から、歴代の王朝で使っているそういう称号は、変わらないみたいだな」
「くっ……王子教育恐るべし」
涼は、かくんと首を傾げた。
「そういえばリョウ、結局、本は読まないんだな」
アベルは、馬上の涼が本を持っていない事に気付いていた。
「ええ。出発してすぐに試してみたんですけど、無理ですね。馬ってこんなに揺れてましたっけ……」
「まあな。そもそも、リョウはあんまり馬に乗ってないだろう?」
「以前、ルン騎士団の指南役をしていた頃は、演習とかでけっこう乗っていたんですよ。王都でも、時々馬を借りて乗ったりしてたんですけど」
そこで、アベルは少しだけ目を細めて問うた。
「……どこの馬を借りていた?」
「もちろん王城の。よく訓練されていて楽ちんでした」
「うん、それは越権行為だぞ」
「はい?」
「公爵が、王城の馬、つまり王家の馬に勝手に乗ったらダメだ」
アベルの言葉に、大きく目を見開き驚く涼。
「え? でも、誰もそんな事教えてくれなかった……」
「筆頭公爵に意見できる人間などいないからな」
「なんてこと……」
落ち込む涼。
だが、こういう時、いい方法がある。
「なんでアベルは、もっと早く教えてくれなかったんですか!」
そう、責任転嫁。
「いや、今初めて聞いたしな……」
「そういう報告とかも、手元に届かなかったんですか?」
「そういえば、見た覚えがないな」
「いつも書類まみれになってますけど、実はちゃんと読んでないんじゃ……」
なぜか涼が検事や審問官的な雰囲気で問う。
知らなかったとはいえ、悪い事をしたのは涼なのに。
「全部、ちゃんと読んでいるぞ。考えられるのは……」
「考えられるのは?」
「ハインライン侯が処理したという可能性だ」
「宰相閣下が? なんで? 僕、ハインライン侯に怒られたことないですよ?」
涼が首を傾げる。
怒られたことがないのは本当だ。
「宰相権限で、特別に許可を出した形にしたのかもしれん」
「おぉ……さすがは王国が誇る宰相閣下ですね」
アベルが推測し、涼が嬉しそうに頷く。
涼の中では、宰相アレクシス・ハインライン侯爵に対する評価は、極めて高い。
多分、最上級といってもいいくらいに。
「そういえば、ハインライン侯は、馬上でも書類を読んでいたな……」
「なんと!」
「部下が書類を持ってきて、一読し、何か指示を出していたのを見た覚えがある」
「うちの宰相閣下って、完璧ですよね。文においては行政能力に秀で、武においては元王国騎士団長であり、あまつさえ諜報に関しても中央諸国一とか……どこかの物語の主人公ですよ。いや、完璧すぎて、読者の共感を得られないに違いありません!」
「読者の共感は知らんが、完璧なのは同感だな」
涼の解説に、なんとなくアベルも同意する。
こうして、いつの間にか、涼の罪はうやむやになった。
「ククク、計算通りです」
涼の呟きは、誰にも聞こえていないはずだった。
「罰金刑が適当だろう。ハインライン侯が処理した形になっていなかったら、罰金を払ってもらう。王国では、罰金刑なら前科はつかないから安心しろ」
「えぇ……」
涼は、ハインライン侯がいい感じで処理してくれていることを祈った。
筆頭公爵でも、王様には逆らえないのだ。




