0488 一礼
アティンジョ大公国新大使、ヘルブ公。
大陸南部において、恐怖と同義とすら認識されている人物であるが、顔貌は優男と言ってもいいほどだ。
全く険もなく、涼やかとすら言える表情は、特に女性を虜にするだろう。
薄い紫の礼服は、光の当たり具合によっては白にも見え、黄昏時、かがり火も焚かれ始めたこの時間帯では、幻想的とすら言える。
長い黒髪を、きっちりと結い上げて、小さな冠で留めている。
尊大さなど欠片もなく、園遊会上に入ってくると、出迎えのために入口に向かっていたスージェー王国大使ランダッサを見つけ、自ら近づいていった。
ランダッサ大使の前に来ると、一礼する。
ただ、一礼だ。
だが、その瞬間、全ての空気をヘルブ公が持っていった。
感嘆の呟きが走る。
誰が呟いたのか分からない。
いや、そこにいたほとんどの人物が呟いたのかもしれない。
その、驚くほど優美にして、綺麗な一礼、ただそれだけ。
ただそれだけで、今日の主人公が、ヘルブ公である事が証明された。
ヘルブ公の一礼を見て、多くの参加者がその虜となったが、そうならなかった者たちもいる。わずかに顔をしかめたのは三人。
コマキュタ藩王国副大使バンスノ。
ローンダーク号副長レナ。
そして、アベル。
彼らは、『一礼』の効果を知っているのだ。
儀礼的に行うもの?
相手に敬意を表するもの?
いずれも間違いではない。
だが、本質はもっと深い。
完璧な一礼をするだけで、その場を支配できる。
人は、無意識のうちに、完璧な一礼をした人物の支配下に入ってしまう。
多くの人物が、抵抗できない。
『あれほど綺麗な礼をする人』 それが、『凄い人』と頭の中で変換されてしまう。
それは、『完璧な一礼』など、ほとんどの人間ができないことを、無意識のうちに知っているからなのかもしれない。
頭を下げるだけなら誰でもできる。
だが、そんなものに感動することはない。
『完璧な一礼』とは、何もかもが違うのだ。
たかが一礼、されど一礼。
そんな、完璧な一礼の効果、効能を知っている三人が、わずかに顔をしかめたのだ。
コマキュタ藩王国副大使バンスノは、小さな頃から実家で仕込まれてきた。
商家に生まれれば、小さい頃から読み書き計算、そして礼節を仕込まれる。
それは、いつの時代、どんな世界においても変わらない。
もちろん、まともな商家ならばだが。
ただ「やりなさい」とやらせる商家などない。
根本は、「なぜそれが必要なのか」を徹底的に理解させてからだ。
そうしなければ、ただ覚える、記憶するだけでは意味がないから。
だからバンスノは、『完璧な一礼』の恐ろしさを知っていた。
ローンダーク号副長レナは、両親ともに海軍に所属している。
軍人は、一礼をおざなりにしない。
それは、『完璧』ではないかもしれないが、少なくとも、相手に侮られるような一礼はしない。
勝ち負けが、自らの生死に直結する仕事。
『一礼』で優位に立てるのなら、これほど楽なことはない。
少なくとも、そこで相手に優位に立たれるのは避けなければならない。
だからレナは、『完璧な一礼』の必要性を知っていた。
アベルは、ナイトレイ王国の国王だ。
幼い頃より、王城にてあらゆる作法を修めてきた。
好き嫌いにかかわらず、一生のうちで、必要と思われるものは全て。
なぜ、それを修めなければならないのか。
そこを、真っ先に理解させられたうえで。
だからこそ、全て手を抜かなかった。
抜けなかった。
手を抜いていいものなどなかったから。
だが……いや、だからこそ理解している。
あらゆるものが、奥が深いと。
剣やヴァイオリン、あるいはダンスはもちろん……。
例えば文字も。
外国に送る親書は、国王直筆が基本だ。
読みやすく、だが美しく、優美でいて気品を備えた文字で書かれる……。
いや、書かれなければならない。
奥が深い。
何もかもが、極めようとすれば、奥が深いものだ。
当然、一礼も。
アベルは、王族の中でも、優美な一礼をする方だ。
だが、『完璧』とは言えない。
生まれてからこれまで、かなりの時間を費やして、訓練をしてきた。
だからアベルは、『完璧な一礼』が、驚くほど難しい事を知っている。
「あの呪法使いの親玉は、交渉相手として非常に厄介ですね」
囁くように、アベルにそう言ったのは涼だ。
「リョウもそう思うか?」
「礼儀の効能、それが交渉の場において、どれほど重要で効果的かを知っている人です。綺麗に礼をするだけで、最初から有利な状態でその場に臨めますからね」
「リョウがその事を知っているのが驚きだな」
「故郷でも、海千山千な人たちの相手をしてきましたからね」
アベルが素直に驚き、涼が日本にいた頃の事を思い出しながら答えた。
厄介な、他社の社長たちとの丁丁発止を……社長のシゲさんと共にこなしてきたのだ。
「ランダッサ大使、この度は園遊会にお招きいただきありがとうございます」
「ヘルブ……大使、赴任したてで慌ただしいでしょうに。招待を受けていただきまして光栄です」
ランダッサ大使は迷った末に、『公』ではなく『大使』呼びにすることにしたようだ。
「初めての大使としての赴任です。若輩者でもありますので、いろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんが、ご寛恕を」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
ヘルブ公とランダッサ大使の最初の挨拶は、無難に終了した。
それを見てだろう、一人の男性がヘルブ公の元にやってきた。
「大使にお尋ねしたい。今回のアティンジョ大公国艦隊の暴挙は、どういうおつもりですか!」
声を抑えてはいるが、頭ごなしの詰問。
ちなみに、抑えた声であっても、涼やアベルのいる場所まではっきり聞こえてくる。
問うているのは、自由都市のミシタ港湾副大臣だ。
詰問されたヘルブ公は、涼しげな表情のまま。
少しだけ、首を傾げている。
「ミシタ副大臣! 我が大使館の園遊会の場ですぞ。言葉を選んでいただきたい」
ランダッサ大使が、こちらも声を抑えてミシタ副大臣に言う。
「しかし……」
ミシタ副大臣も食い下がろうとする。
「なるほど。ミシタ港湾副大臣殿でしたか。失礼しました。関係者のお名前と特徴は、全て記憶してきたつもりだったのですが……。申し訳ありません」
「全て?」
ヘルブ公は、ほとんど声を抑えず、普通の会話の音量でそう言った。
訝しげに呟いたのは、ミシタ副大臣の後ろについてたロンファン補佐官だ。
「はい。ロンファン補佐官ですね、ミシタ副大臣付きの」
「え、ええ」
ヘルブ公が、自分の名前を当てたことに驚くロンファン補佐官。
「大使として赴任するのですから、他国の大使館関係者、自由都市政府外務省関連の幹部たちは、分かるようにしておかねばならないと思いまして。初めての大使赴任ですと、色々と勝手がわかりませんね」
ヘルブ公はそう言うと、苦笑した。
それによって、周りにいた参加者たちも微笑む。
『完璧な一礼』で、すでに彼の虜なのだ。
「見た限り、だいたいの方のお名前は想像できます。本国で貰った資料に、肖像画もあれば完璧だったのでしょうが、そこまでは無理でした。ですが、資料の中にあった特徴と照らし合わせると……そう、五人の方以外は、全員お名前も分かります」
「おぉ~」
ヘルブ公の言葉に、驚く参加者。
ヘルブ公の言い方からすると、自分たちの名前を知ってくださっているらしいと感じたのだ。
これほどの大物に自分が知られているという……。
それは、完璧な一礼で虜となって、さらに肯定感も上乗せされる。
「ミシタ副大臣、我が艦隊の件については、後ほどお話ししませんか?」
「に、逃げるのですか!」
「いいえ。むしろ、この場で明らかにしてしまっても大丈夫なのですか? 大公国よりも、自由都市政府の方が困るのではありませんか?」
ヘルブ公も、さすがに抑えた声で言う。
「どういうことですか?」
「自由都市艦隊の動きの件ですよ。もとはと言えば、あれがきっかけでしょう?」
「……何を言っているのです?」
ヘルブ公の言葉を、本当に理解できていないらしいミシタ副大臣。
さすがに、ヘルブ公も、眉根を寄せて首を傾げて言葉を続けた。
「どうも……本当にご存じないようですね。港湾副大臣が知らないというのは……。私としては、ミシタ副大臣が、海軍大臣と自由都市艦隊長官に直接聞きに行くべきだと思いますよ」
「ヘルブ公、あなたは何を言っておられる……」
「そもそも、不思議だと思いませんか? 自由都市艦隊の主力は、今どこにいるのですか?」
「北方海域で大規模演習を……」
「我が二百隻もの艦隊が、首都港に入っているのに? 首都を守らずに?」
「そ、それは……」
ヘルブ公の問いに、いよいよ顔をしかめて考え始めたミシタ副大臣。
「海軍大臣と艦隊長官の元に聞きに行く際には、こう言うといいでしょう。『青い島とは何か』と、『自由都市艦隊主力は壊滅したのではないか』と」
「なっ……」
ヘルブ公の言葉に、絶句するミシタ副大臣。
そして、ずっと傍らにいるランダッサ大使と、ロンファン補佐官も言葉を失っていた。
「もちろん、我が大公国が、大陸南部全域の統一をもくろんでいるのを否定はしません。前王朝以来の悲願と言ってもいいですからね。ですが、このタイミングで大規模行動に出たのは……我が国だけの事情ではないのです」
ヘルブ公は、先ほど以上に抑えた声で言った。
その言葉で、ランダッサ大使は我に返る。
「ヘルブ……大使、大使館内で少し、詳しくお話ししたいのですが。お時間を割いていただけませんか?」
「ええ、構いません。ただ、ちょっとその前に、五人ほどお話をしてきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「しょ、承知いたしました」
ランダッサ大使の答えを聞くと、ヘルブ公は、にっこり笑って、その場を離れた。
ヘルブ公が最初に向かったのは、コマキュタ藩王国副大使バンスノ。
次に向かったのは、ローンダーク号ゴリック艦長とレナ副長。
そして、最後に向かったのが……。
「失礼。お邪魔してよろしいでしょうか」
「どうぞ、ヘルブ公」
「三羽目の、鳥の丸焼きが出てきました。ロゴ・バギルシュ大使館料理長のこのお料理は、絶品ですよ」
ヘルブ公が最後に向かったのは、アベルと涼の下であった。




