0050 レオノール
世界が反転した。
涼には、そうとしか表現できなかった。
周囲にあった人の気配は、全て消えている。
だが、景色はそのまま。
例えば足元は、ルンの街の石畳のまま。
(亜空間に入り込んだとかそういう感じ……さすがファンタジー)
だが、何かヤバい感じだけはビンビンにしている。
(潜水艦の艦長が言う「ピンガーを一発だけ打て」というあれをやるべきか……何かがいるのは確かだけど、どこにいるかも何がいるかもわからない以上、そうするしかないか……)
涼はひとつ深呼吸をすると、イメージした。
(<アクティブソナー>)
その瞬間、涼を中心に、周囲の空気中を漂う水蒸気を伝って『刺激』が拡がっていく。
(みつけた。前方約二百メートル、大きさは人間とほぼ同じだが、反射の反応が異様……)
そこまで分析したところで、前方からの異常を感じた。
(『アイスウォール10層』)
ソニックブレードの様な、直前で分裂する魔法が氷の壁に当たり弾ける。
(なんという威力だ……)
これまで、多くの魔物の攻撃をアイスウォールで受けてきたが、その中でも圧倒的に高い破壊力。
「ふむ? 人間を取り込んでしまったのか?」
声は、そう遠くない場所から聞こえた。
アクティブソナーでの反応は二百メートル程離れていたはずだが、声はもっと近くから聞こえたのだ。
そして、声は段々と近付いてきて、涼はその姿を見た。
身長は一七五センチ。涼とほぼ同じ。
二足歩行。
腕は二本。
外観は、一見服を着た人間。
だがよく見ると、尻尾がある。
そして何やら、ツノらしきものもある。
身体は、人間の基準で言うと女性。胸が、男性よりは大きいから。
顔は……美女。
美女なのだが……涼は全く魅かれなかった。
その存在を認識して、最初に抱いた感想、それは……。
(……悪魔?)
『魔物大全 初級編』に、ミカエル(仮名)がわざわざ書き加えたらしい「悪魔」の箇所があった。
備考:出会わないことを祈る
(うん、出会っちゃったのかもしれない……しかも普通じゃない空間で……)
その悪魔(仮)の存在感は、半端ないものであった。
ベヒちゃんやグリフォンクラス、と言えばいいだろうか。
この出会いが普通の空間であれば、涼は脱兎のごとく逃げ出したであろう。
そう、それは間違いなく後ろを振り返ることなく、正真正銘の逃げ出すウサギのごとく。
だが、ここは逃げられそうもない空間。
現状、涼の背中は冷や汗が止まらない。
「まあいいか。殺してしまえば問題無かろう」
そういうと、悪魔(仮)の手元に膨大な魔力が収束していく。
(ヤバい! <積層アイスウォール10層>)
涼の前にアイスウォール10層が、重なるように次々と生成されていく。
十重二十重と、悪魔(仮)に向かって。
悪魔(仮)から放たれた業火が、積み重なるように生成されていくアイスウォール10層に激突し、ほとんど勢いを落とすことなく氷の壁を貫く。
(止まるのか、これ)
涼はさらに冷や汗を流しながら、積み重なっていくアイスウォール10層に魔力を込めて強化を図る。
半分まで喰われた。スピードも少しは落とせた。
さらに半分まで喰われた。スピードもかなり落とせた。
最後のアイスウォール10層……ようやくそこで悪魔(仮)の業火が消えた。
(止まった……)
涼は、そこで安心してしまったのだ。
そして……。
一瞬にして、最後のアイスウォール10層が割れる。
直感に従い、必死に体をねじって心臓に向かってきた風の槍をかわす。
だが遅かった。
心臓への直撃は免れたが、左肩に突き刺さっ……刺さらずに砕け散った。
しかし、槍の威力に押され、涼の身体は回転しながら後方へ吹き飛んだ。
「風槍が刺さらなかっただと……」
悪魔(仮)は驚いた。
「業火を防ぎ切ったのも驚きだったが、風槍も、とは……いや、貴様のそのローブ……妖精王のローブか……」
悪魔(仮)は目を細めて、涼が羽織り、自分の風槍を防いだローブを見る。
「間違いない。妖精王のローブとは……。道理でな。直接斬るしかないか」
涼は、吹き飛びはしたが、身体をねじっていたため、ダメージはほとんど受けていない。
(<アイスアーマー>)
どれほどの効果があるかわからないが、ないよりはましであろう。
「まあ、とにかく、お前は死ね」
悪魔(仮)はどこからともなく現れた剣を手にすると、涼までの距離を一気にゼロにして突っ込んできた。
涼も村雨を手に、迎え撃つ。
悪魔(仮)の剣を受ける涼。
涼も、横薙ぎと突きを中心に反撃する。
だが、悪魔(仮)の移動が異常に速い。
(足さばきだけではなく、風魔法を使って移動している?)
涼の横薙ぎと突きは、ただの牽制である。
基本は、受けに徹する。
受けに徹した涼は、簡単には破られない。
かつて、進化した片目のアサシンホークとの接近戦も、受け潰して勝ったと言える内容であった。
妖精王たるデュラハンとの稽古でも、受けに徹すれば簡単に抜かれることはない。
それほどに、剣における涼の受けは鉄壁である。
そして持久力は無尽蔵。
さすがに、いつまで攻撃してもその防御を抜けないことに、悪魔(仮)も苛立ちを隠せなくなっていた。
「その剣も妖精王の剣……貴様いったい何者なのだ……」
悪魔(仮)が、右手一本で剣を握り攻撃しつつ、左手に僅かな魔力を集める。
(<アイシクルランス>)
魔法発動前に、中空から生じさせたアイシクルランスをぶつけ、相殺する。
「なんだその生成スピードは……この化物め」
「お前が言うな」
化物と言われて、涼は思わず突っ込んでしまった。
「む……言葉が通じるだと? やはりお前は厄介だな。殺す」
「さっきから殺そうとしてるでしょうが……」
さらに激しさを増す剣戟。
だが、涼は最初に比べて多少の余裕が出てきていた。
それは、悪魔(仮)の剣筋に慣れてきたというのが大きいだろう。
しかしそれは、悪魔(仮)の方でも気づいていた。
そのため、いったん距離をとって仕切り直そうとする。
(ここだ! <アイシクルランス32>)
悪魔(仮)が下がったのに合わせて、正面から氷の槍を放つ。
(<アイシクルランス64><アイシクルランス256>)
最初の32本の氷の槍を、悪魔(仮)は手を横に振るうだけで全て消し去った。
さらに追加で、扇の様に拡がり、途中から急速に悪魔(仮)に向かって収束していく64本の氷の槍。
だがそれも、手を振るうだけで全て消滅させる。
「その程度か……」
悪魔(仮)がそこまで言ったところで、主攻の256本の氷の槍が、悪魔の直上から降ってくる。
意識を前方に引きつけておいてからの、死角からの無音攻撃。
さすがに、これには悪魔(仮)すらも反応が遅れた。
「くっ」
だが、その程度の氷の槍で倒せるとは思っていない。
(<アイシクルランス32>)
意識を直上に向けさせたところで、またも前方から、氷の槍での直接攻撃。
悪魔(仮)は土の壁を生成してこれを防ぐ。
(<アブレシブジェット256>)
そして本命、土の壁の『向こう側』で発生させた、氷研磨入り256本の水の線が、乱数軌道で動き、悪魔(仮)を含めた空間ごと切り刻む。
悪魔(仮)が生成した土の壁も、アブレシブジェットに切り刻まれ崩れ落ちる。
そこに、村雨を構えた涼が突っ込む。
しかし……。
ほんのわずか、一秒いやコンマ一秒、遅かった。
確かに、一度はアブレシブジェットで、ある程度のダメージを与えられたらしい悪魔(仮)であるが、涼が突っ込んだ時にはすでに再生が終わりかけていた。
「再生がはやい!?」
「舐めるな、人間!」
涼は正面から最速の面打ち。
だが、悪魔(仮)はそれを受ける。
深追いせずに、涼はバックステップし、剣を構える。
悪魔の身体は、表面がジュウジュウ言っている。
(再生した個所か? 正面攻撃では倒せなかったが……ならば)
刹那、涼は視線をほんの少しだけ上に向ける。
劇的な反応を見せたのは悪魔(仮)であった。
一気に後方に退いたのだ。
さきほどの、直上からの256本の槍落下を警戒したのだ。
だが、それは涼の予想外であった。
(ちょっと意識を逸らさせるための視線誘導だったのに……あんなに離れられたら逆効果じゃん)
涼と悪魔(仮)との間には、二十メートル程の距離が出来た。
涼には、その距離を一瞬で縮める方法は無い。
だが、悪魔(仮)にはその方法がある。
(これはまた魔法戦か……)
そこまで考えたところで、悪魔(仮)の声が聞こえた。
「ふぅ……。残念ながら時間切れだ。これほどの戦闘、数百年ぶりだ。なかなか楽しかったぞ、人間」
「逃げるのか?」
それを聞いてクククと悪魔(仮)は悪魔的に笑った。
「挑発しても無駄だ。今回の『封廊』は特殊な空間。我にもどうにもならぬ制約ゆえ。我が名はレオノール・ウラカ・アルブルケルケ。その方の名は?」
答えるべきかどうか涼は迷っていた。
名は体を表す……あるいは言霊の国で育ったがために……。
悪魔に名前を言えば、囚われてしまうのではないか、などと考えたのだ。
「なんだ、人間は、名乗ることも出来ぬのか?」
可笑しそうに笑う悪魔(仮)、いやレオノール。
「僕の名はリョウだ。悪魔よ」
それを聞いて、レオノールは驚いた。
「悪魔……我らの正体を知っているとは……無理をしてでも殺しておくべきであったか……」
だが首を横に振る。
「時間も足りず、そもそも簡単に倒せる相手でもない。やむをえまい。ではリョウよ、また会おうぞ」
「いや、二度とごめんなのだが……」
そういうと、またレオノールはクククと笑った。
「そう言うな。それだけの力を持っていれば、嫌でもまた出会うことになるだろうさ。我か、我らの誰かとな。我以外の者に殺されるなよ。リョウを殺すのは我だ。その時は、我も今より強くなっておろうよ。では、またな」
そういうとレオノールの気配は消えた。
そして、世界は色を取り戻した。




