0442 多島海
「アベルさん、リョウさん、こちらが『蒼玉亭』です。どうぞ」
バンヒューが案内した宿『蒼玉亭』は、街の中央にある、二階建てのかなり大きな、立派な建物であった。
先に立って入ったバンヒューが、正面にある受付らしき場所に二人を案内する。
そこには、バンヒューにどことなく似た雰囲気の、おそらく二十代の女性がにこやかに微笑んでいた。
「ကြိုဆိုပါတယ်」
「こちら、アベルさんとリョウさんです」
現地語であいさつした女性に対して、中央諸国語で言うバンヒュー。
すると……。
「いらっしゃいませ、アベル様、リョウ様。こちらで受付をお願いいたします」
女性は中央諸国語で話し始めた。
バンヒューが中央諸国語で言ったのを理解して、二人が現地語を理解せず中央諸国語なら理解できるという事を分かったのだ。
「凄いですね、プロの仕事です」
「鍛えられているな」
涼が呟き、アベルも小さい声で答えた。
「宿帳?」
二人の前に出された紙は、中央諸国語で書かれたものが出されてある。
この辺りも如才ない。
宿泊者の名前や国名、それに街を訪れている理由などを書くことになっているらしい。
国際線で入国するときに聞かれる「訪問理由はお仕事ですか? それとも観光ですか?」というあれみたいだ。
「最近、規定が厳しくなりまして。ご記入いただけないお客様は、お泊めする事ができなくなったのです」
女性が申し訳なさそうな顔で言う。
「ふむ」
アベルは一言そう言うと、書き始めた。
普通に「アベル ナイトレイ王国」と。
ちなみに、街を訪れた理由の欄は「仕事」らしい。
「観光じゃ……ないだろ?」
「あんなに楽しそうにご飯を食べていたのに?」
「リョウに言われたくない!」
お仕事で訪れたのだとしても、ご飯は楽しく食べていい気もする……。
アベルが書き終えて涼が書き始めた。
「リョウ ナイトレイ王国 仕事」と。
だが、書いていて涼は不思議に思ったのだ。
元々、涼は地球から転生した。
そして、いつの間にか中央諸国語は理解できていた。
読み書き会話、全てだ。
ミカエル(仮名)か、あるいは彼が『神』といった存在か。
誰による『設定』なのかは分からないが。
だが、この街の現地語は理解できない。
会話もだし、文字も分からない。
「魔法の全属性適性は無理でも、全言語理解くらいはあっても良かったのに」
言語学者が聞いたら目をむいて怒り出しそうなことを呟くのであった。
手続きが終わり、二人は受付を離れた。
「アベル様、リョウ様、ご宿泊、ありがとうございます」
すぐ後ろで待っていたバンヒューが頭を下げる。
お客様として確定したからであろうか、『さん』から『様』になっている。
「いや、構わない。それで、地図を見せてもらいたいのだが」
「アベルは焦り過ぎです。こういう上質なお宿には、ウェルカムドリンクがあるものなのです」
「うぇるか……なんとかって、なんだ?」
「ようこそいらっしゃいました、まずはお飲み物でもどうぞ、というやつです。宿自慢のお飲み物が、疲れた旅人を無料で癒し、しかもその一杯で旅人を虜にするのです」
アベルの疑問に、涼が自信満々に答える。
だが、アベルは視界の端で捉えていた。
これまでそつのなかったバンヒューが、初めて狼狽した表情を見せたことを。
だが、それも一瞬。
「あちら、宿の食堂の方に、お飲み物と共に、地図もお持ちいたしますのでどうぞ」
「ほら~! さすがいいお宿です。ささ、あっちで座って待ちましょう」
「いや……飲み物の方は、予定していなかったと思うぞ」
涼が嬉しそうに食堂の方に移動し始め、アベルは小さい声で言いながらついていく。
少し離れた場所で、バンヒューは呟きながら地図と飲み物を準備し始めた。
「ウェルカムドリンク……素晴らしいアイデア! そんなお宿もあるとは……。そうだ、それを飲みながら宿帳を記入していただくのもいいかも。さっそく、父さんに提案しなくちゃ」
「失礼します」
バンヒューによく似た顔の、二十代半ばの男性が涼とアベルにコーヒーを出した。
「どうぞ、『蒼玉亭』特製のブレンドコーヒーです」
「おぉ!」
涼は嬉しそうにコーヒーの香りをかぐ。
「コーヒーを飲むのも、久しぶりな気がします」
「まあ、ずっと船を造っていたからな」
涼の言葉に、こちらも香りを楽しみながら答えるアベル。
そして、二人同時に一口目を口に含んだ。
「ほぉ」
「これは……」
アベルも涼も感嘆の声が漏れる。
一口飲んで、美味しいと感じた。
二口飲んで、雑味が全くないことを理解した。
三口飲んで、コクと苦みが、驚くほど高い次元で釣り合い口の中に広がった。
「美味しいですね」
涼は笑顔を浮かべ、素直な感想を述べる。
「ありがとうございます」
隣のテーブルに、二枚の地図を広げていたバンヒューが嬉しそうに頭を下げた。
「最近は、ずっとコナコーヒーばかりだったが、これも美味いな……」
アベルはずっと王国に引きこもっていたため、王国で採れるコナコーヒーの愛飲者になっていたらしい。
「僕は、さすがに途中でコナコーヒーは尽きたので、あっちに着いてからは暗黒コーヒーが多かったですね」
西方諸国に使節団の一員として行った涼は、もちろん、王国を出る際に大量のコナコーヒーを馬車に積み込んで出発したのだが、法国に入った辺りでそれらは尽きた。
その後は、暗黒大陸産のコーヒーばかりであったが……あれはあれで美味しかった。
結論として、丁寧に淹れられたコーヒーは美味しいのだ。
隣のテーブルにバンヒューが二枚の地図を広げ終えると、アベルが飛びついて貪るように見始めた。
涼は、ゆっくりとコーヒーを飲み続けている。
「地図は逃げません」とか、「コーヒーの香りは逃げます」とか呟きながら。
なぜか大物ぶった様子に見える……いや、いちおう、ナイトレイ王国筆頭公爵ではあるので、大物といえば大物なのだ。
でも、地図に飛びついているアベルは、筆頭公爵の上、国王陛下で、一番の大物なのだが……。
涼はゆっくりとコーヒーを飲み干すと、席から立ち上がり、地図が広げてある隣のテーブルに歩いた。
そして、地図を見る。
一つは、この街を中心に描いた周辺地図。
もう一つは、この街の中を描いた地図。
街中の地図は、文字が分からないために理解できない……。
そのため、とりあえず、周辺地図から見ていく。
「島がいっぱい……。諸島というか、多島海?」
涼が少し嬉しそうに呟く。
それをチラリと見て、アベルは呟いた。
「絶対、何かよからぬことを考えている」
正解である。
『多島海』という響きがカッコいいとか、海賊がいっぱいいるに違いないとか、美味しい魚料理を堪能できるのではないかなど……。
よからぬことを涼は考えていたのだ。
……いや、これだけ見れば、別によからぬことではないが。
「これはきっと、海賊が横行している海で、僕らがそれを退治して、海賊のお宝をがっぽりゲットというパターンに違いありません!」
これが、よからぬことだ。
そんな涼の、ラノベ的王道展開の期待に対して、ため息をつくアベル。
もはや何も言わずとも、その顔が、「やはりか」と語っている。
さすがはアベル。
「リョウがいつも言う、そのパターンとか言うやつ、ないからな。まあ、海賊はいるだろうが、俺らが退治する必要は絶対にないから。そのために国は海軍を持っているし、海兵隊を抱えていたりするわけだからな」
「え? 海兵隊? 海兵隊とかいるんですか?」
アベルの言葉に、驚いて反応する涼。
海兵隊とか、現代地球っぽすぎる。
もちろん、海兵隊の始まりが十六世紀あたりであったのは、知識としては知っているが……。
「接舷した後に、敵の船に乗り込んでいって制圧するからな。それが海兵隊だろ?」
アベルが少し不思議そうに答える。
ナイトレイ王国の国王陛下にとっては、海兵隊の存在は当然のものらしい。
そういえば、涼は、王国の海軍や艦隊の類を見たことがない……。
「戻ったら、視察に行かねば!」
涼は固く心に誓った。
なんと言っても筆頭公爵なのだ。
地位を振りかざせば見せてもらえるはずだ。
「ククク……悪徳公爵の強制査察です」
「なに不気味な笑いを……」
涼の笑いを胡乱げに見るアベル。
だが、視線を地図に戻した表情は険しいものであった。
そして、言葉を紡ぐ。
「明らかに、中央諸国からは遠く離れた地域だ」
そうそれが、表情が険しい理由。
これまでは、できる限り早く王国に戻る事を考えていたが……方針を変えなければならない。
「戻るのが難しいなら、連絡だけでも早く取りたいな」
アベルのそんな呟きに、涼が反応した。
「連絡?」
なぜか涼は首を傾げている。
アベルには、涼が首を傾げる意味が分からない。
「国王が不在なんだぞ? いろいろと大変になるだろうが」
「でも、国元には、宰相閣下がいらっしゃいますよ? ハインライン侯がいるのに、何か不都合が生じるでしょうか?」
「そ、それは……」
さすがに国王や宰相という言葉は小さい声で、涼が不思議そうに問い、アベルはうろたえた。
そして考えた。
いっぱい考えた。
ひたすら考えた。
「いや、全ての問題が解決されそうな気がする……」
アベルは敗北を受け入れた。
「まあ、でも、リーヒャとか心配するかもしれないので、いちおう、生きているから心配するな、くらいは伝えた方がいいかもしれませんね」
涼は頷きながら言う。
「そうだな……いちおうな。いちおう……」
「そんなことで打ちひしがれるなんて、アベルは鍛え方が足りませんね」
「誰のせいだ、いったい!」
涼がチッチッチとか指を振りながら言い、イラっとして怒鳴り返すアベル。
だが、すぐに我に返った。
この場は、二人だけではないのだ。
「すまんなバンヒュー、こっちの都合だ、気にするな」
「はい、大丈夫です」
アベルが言い、バンヒューは笑顔を浮かべてお辞儀をした。
十歳程度なのに、なんというそつのなさ。
涼は感心して頷く。
いかにも、第三者的に。
アベルが怒鳴った理由が自分にあるなどと、欠片も感じさせないほどに。
涼とはそういう人物なのだ。
「アベル、一方的にはなるかもしれませんけど、無事であることを伝えるだけなら、方法が無くはありません」
「なに?」
「多分ですけどね。もちろん、王国側で受け入れ態勢が整っていなければダメですが……あっちにはケネスがいますからね。多分、いけると思うんです」
「何を使うんだ?」
涼の言葉に、アベルは問う。
「これを使います」
涼は、自分の左耳に下がるイヤリングを指で弾いて答えた。
『魂の響』の改良の前に、二人はもう一つの地図を見る。
だが、出た結論は同じだ。
「文字が分からないことにはな……」
「何が書いてあるか分からないというのは不便ですね」
アベルも涼も小さくため息をついた。
だが、そこに天の福音が。
「中央諸国語に変換する錬金道具を使われてはどうでしょうか?」
バンヒューが言う。
「え……」
絶句する二人。
「中央諸国語は、なんといっても世界中で通用する言葉の一つです。他の言語から中央諸国語に変換してくれる錬金道具は、かなり一般的に普及しております。この街でも、安価とまでは言いませんが、手に入れることは可能です」
「錬金術万歳!」
バンヒューの説明に、喜ぶ涼。
だが、すぐにアベルの方を向いて指摘する。
「アベルは、そんな事も知らなかったのですか!」
「確かに知らなかったが、リョウも知らなかっただろうが!」
「僕はいいのです。使節団に入っていましたからね。アベルは……お仕事上、知っていないとダメでしょう」
涼でも、さすがに、大きな声でアベルが国王であることを口走るのはまずいという認識くらいは持っている。
だから、『お仕事上』という言い方をしたのだ。
「今思うと、そんな錬金道具があるということを聞いた記憶がある」
「いまさら!」
アベルの言葉に、呆れたように言う涼。
もちろん、使節団に入っていたから知らなくても仕方ない、という涼の論理は破綻している。
周りに、そう感じさせていないだけだ。
「リョウが知らなかったのも、正当化はできないぞ!」
アベルはちゃんと感じていた。
結局、人のせいにしてはいけないのだ。
「言葉は、中央諸国語に変換するやつを、西方諸国で見ましたよ。暗黒大陸の来賓の人たちが持っていましたから」
涼は、暗黒大陸の来賓たちを救った際に、言葉を中央諸国語に自動変換する錬金道具を見たのを思い出していた。
「それと似たようなものかもしれんな」
アベルは一つ頷いてそう言うと、バンヒューの方を向いて言った。
「ぜひ、その錬金道具を手に入れたい」
「かしこまりました。『蒼玉亭』がひいきにしている錬金道具屋が、街にございます。いつでもご案内できます」
「よし、では今から連れて行ってくれ!」
バンヒューの言葉に、即断即決のアベル。
涼は驚きに目を見開いたままだったが……ぼそりと呟くように言った。
「アベル、お金持っていないでしょう……」
「リョウ、支払いは頼んだ!」
 





