0040 人外魔境からの帰還
高度が三千メートル辺りになると、ワイバーンの襲来は無くなった。
代わりに襲ってきたのは寒さ。
だが、アベルのマントと涼のローブのおかげで、二人はそれほどダメージを受けることも無く、尾根に達し、ついに山脈北側の大地を目にする。
連なりの中では低い方の尾根に達し、二人が北側の大地を見たのは、最初の二頭のワイバーンを狩ってから、ちょうど五日目であった。
「なんとか尾根まで来ましたね」
「ああ、晴れてるからか、見晴らしが良いな」
アベルが言う通り、それはある種、絶景であった。
少し仰ぎ見れば抜けるような青空。
視線を戻せば、大地の緑と空の青とが交わる地平線。
そんな中、視界の右端に動くものが見える。
涼がそちらを見ると、上半身裸の女性が……飛んでいた。
でも、腕が羽になっている。
そして足も、鷲とか鷹の様な……。
「アベル……変な女性が来ます」
「は?」
涼が右の方を指さしながら言うと、アベルもそちらを向いた。
「あれは、ハーピー……」
そう、二人に向かってきていたのは女性ではなく、ハーピーというれっきとした魔物だ。
そんなハーピーが群れで……。
「リョウ、急いで北側の斜面を下りるぞ」
「はい!」
二人は急いで下り始めた。
だが、斜面を下りる人間と、空を飛んでくるハーピーでは、速度差がありすぎる。
すぐに追いつかれた。
「<アイスウォール2>」
涼とアベルの頭の上に、アイスウォールを生成してハーピーの足に掴まれるのを防ぐ。
「アベル、あのハーピーって、いい魔石は落とさないんですか?」
「ああ。あいつらは馬鹿力で、空飛んで、ものすげえめんどくさいくせに、ゴミみたいな魔石しか落とさない。だから構わないで逃げたほうがいい」
「なるほど、アベルが戦闘を避けた理由がよく分かりました」
疲労もペースも何もかも無視して斜面を下った結果、夕方になる頃には、ハーピーが追ってこない高度にまで下りることが出来た。
「とりあえず、その木の辺りで休むか」
さすがに体力無尽蔵な二人と言えども、休みなく走り続け、しかも斜面を下り続ければ、かなり疲れる。
「さて、明日には山を下りきれるだろうが……方角がな……」
「そうですね。とにかく、近くの街なり村なりに行って確かめないと、ここがどこなのかわかりませんからね」
「ああ。ナイトレイ王国内ならいいんだが、違う可能性もある」
「まさか、デブヒ帝国!」
涼がものすごく嫌そうな顔で言う。
「いや、帝国は王国よりさらに北側だから、それはない」
アベルがそう言うと、涼は安心して、水を一杯飲んだ。
「よかったです」
「なんでそこまで帝国を嫌う……」
「アベルよ、誤解してはいけません。僕は決して、帝国を嫌っているわけではありません。僕が嫌っているのは、『帝国の名前』です!」
「あ、ああ、そうだったな……」
アベルが涼を見る目は、残念な人を見る目であった。
「まあとにかく、明日山を下りたら、そのまま北に向かってみよう。街や村が無くとも、街道はあるだろうし、街道に出れば、最悪どっちかに行けば街か村はあるわけだしな」
翌日の大まかな行動方針を決めて、二人は交代で休んだ。
翌日。
朝早いうちに、二人は山を下りきった。
下りる途中で地平線を見てみたが、見える範囲には街などは無い。
そのため、決めていた通り、街道に出るまで北に進むことにした。その間、魔物にも全く出会わなかった。
「アベル、暇そうですね」
「魔物を全く見かけないからな。山の向こうと全然違うな」
「あれが普通です。こちらが異常なのです」
「いや、それは違うと思うんだ……」
小さく首を横に振りながら否定するアベル。
「一歩進めばワイバーンが襲ってき、遠くにはベヒちゃんを望み、油断すれば目の前にグリフォンが舞い降りる」
「まったく、どんな人外魔境だったんだよ、山の向こう……。俺、よく生きて還ったな」
「アベル、家に帰りつくまでが遠征です。まだ油断してはダメです」
「お、おう……そうか、遠征……あれは遠征だったのか」
アベルは、遠い景色を見る目になっていた。
元はと言えば、密輸船に潜入したのが始まりであった。
あれからけっこう経った気がするのだが……。実際には一月程度しか経っていない。
「アベル、あれは街道では?」
涼の声に、アベルはハッとした。
見ると、確かに街道らしきものがある。
この時代、中央諸国の主要な街道と言えども、舗装はされていない。
せいぜい、土を固めて馬車でも通れるようにしてあるくらいである。
それでも、街道があるということは、文明の領域に戻ってきたことの証明でもあった。
「ああ、間違いない。街道だな」
思わず、アベルの声は震えていた。
ようやく、人類の生息域に戻ってきた、その実感によって。
「さて、この街道を……右?左?」
「左、西の方へ進もう」
アベルは山を下り、東西に走る街道に接したことで、下ってきた山を自分たちが何と呼んでいた山なのか推測できていた。
(あれは恐らく、『魔の山』。場所によっては、麓にもオークやオーガが生息する所だ。冒険者ですら、余程のことが無い限り近付かない。つまり俺たちは、魔の山を越えて戻ってきたわけだ……ほんとよく生きてたな)
中央諸国の人間たちが『魔の山』と呼ぶ、南にそびえる山の連なり。
そこを越えた者はいないと言われ、普通の住民は絶対に近付くことは無い。
冒険者ですら、依頼以外では近づかないし、魔の山行きの依頼は、長い間放置される傾向がある。
山の上にはハーピー、あるいはワイバーンがいるのだ……近付くのは愚かであった。
「そういえば、アベルはB級冒険者ですよね」
「ああ、そうだが?」
「冒険者ギルドって、何か登録するメリットってあるんですか?」
涼は疑問に思っていたことを聞くことにした。
一人でスローライフを楽しんでいるのであれば、冒険者ギルドのことなど全く必要のない情報なのだが、こうして街に出てきたからには、少し聞いておきたかったのだ。
冒険者ギルドと言えば、何といっても異世界転生の定番。
自分が登録するかどうかは別として、情報として知っておいても損はない。
「そうだな、冒険者ギルドに所属していると、国内の街への入市税は免除される。どこの街でもフリーパスだ。ギルドカードが身分証明の役割を果たすからな。後は、魔石や魔物の素材を比較的高値で買い取ってくれる。少なくとも、市街で売るよりは、間違いなく高い」
「ほっほぉ、それはいいですね」
「後は、ギルドが余剰金を預かっておいてくれる」
「余剰金?」
「ああ。普段使わないお金、だな。まあ、冒険者成りたての頃とかは入ってきた分、全部出ていく感じなんだが、ある程度ランクも上がって稼ぎもよくなってくると、受け取る報奨金も高くなってくる。そうすると、使い切らない金が出てくる。ギルドはそういうのを預かっておいてくれる。依頼先まで、全財産持って出かけるのは物騒だろ?」
(銀行みたいなことをしているのか。ちょっと驚きです……)
「その預けたお金は、他の街でも引き出せたりするんですか?」
「国内のギルドなら、どこからでも引き出せる」
「なんか凄いですね」
涼は正直驚いていた。
その仕組みを考え出した人は、恐らく相当な天才なのだろうと。
当然、冒険者から預かったお金は、ギルドが様々な分野に投資しているはずである。
ただ預かっておきます、で終わる世界など、どこにも存在しない。
銀行にしろ、保険会社にしろ、お金をプールしておく一番の理由は、『投資資金』としてなのだから。
ヨーロッパ最古の銀行サン=ジョルジョ銀行が1148年創立であることを考えると、この『ファイ』に銀行の様なものがあったとしても決して不思議ではないが……。
「アベル、さっき「国内のギルドならどこからでも引き出せる」と言いましたけど、そもそも冒険者ギルドというのは、国に属する組織なのですか? 多くの国に跨って存在し、国の支配を受けない独立した組織、とかそういうのではないのですか?」
多くの異世界ものでは、ギルドは世界中に支店を持ち、国の支配を受けないことが多いからだ。
「いちおう国から独立した組織ではあるが、それはあくまで建前であって、現実にはどこのギルドも、国と共存しているな。あくまで俺の知識は、中央諸国での知識だから、それ以外は知らんが、中央諸国の中なら、ギルドカードの身分はどこでも通用する。ああ、あと、戦争の時には傭兵として国に雇われる場合もあるらしいぞ。特に王国は、冒険者の数が多いからな。国からギルドに、そういう依頼が出るらしい」
「戦争……まあ、騎士を戦わせるよりは安上がりなんでしょうね」
肩をすくめながら涼は言った。
「嫌な言い方をするな。きちんとした依頼だから、参加しない冒険者もいる。その辺は自由らしい。とはいえ、もし自国が占領されてしまったら、ギルドに預けてあるお金はどうなるかわからんしな……強制的に占領国が持って行く可能性があることを考えると……戦うしかないだろうな」
「くっ、お金を人質にするとは……ギルドも国も、そしてアベルも酷いですね!」
「なんで俺も巻き込まれるんだよ!」
なぜか巻き込まれるアベルであった。




