0353 共和国出発
涼は、ゆっくりとさらに一泊してから、共和国を出ることにして、ドージェ・ピエトロに再び宿をとっていた。
翌日。
美味しい晩御飯、快適な睡眠、美味しい朝御飯。
当然のように、完璧であった。
涼は、朝食後に、軽くストレッチをこなしてから、受付に行った。
今度こそ、宿を引き払い、共和国を発って聖都に戻る。
「やはり、素晴らしいお宿でした。急に延泊したのに、対応していただきありがとうございました。また共和国に来ることがあれば、こちらに宿泊させていただきます」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
何度でも言う。完璧であった。
その後、涼は、諜報特務庁に向かった。
共和国を発つ前に、以前約束していた『隠蔽』について、分かったことがあれば聞こうと思ったのだ。
だが……。
「公爵閣下、申し訳ありません」
局長ボニファーチョ自らが謝罪した。
チェーザレに脱獄され、さらに他の四人にも自害されるという失態。
その結果、約束した『隠蔽』に関するデータの分析がほとんどできなかったのだ。
「ただ、奴ら全員がつけていたこのブレスレットが錬金道具であり、その『隠蔽』に関わっているらしいという事だけはわかりました……」
「ほほぉ~」
銀か何かのブレスレットだ。
言われてみれば、五人とも左手首につけていた気がする……。
「それで……お約束した隠蔽の情報の収集には失敗したのですが……代わりにと言ってはなんですが、このブレスレットを一つお渡しすることで、お許しいただけないかと」
「なるほど……」
局長ボニファーチョは冷や汗をかきながら提案し、涼は重々しく頷いた。
「それは、共和国政府からの正式な許可が下りているのですか?」
「もちろんです。昨日のうちに、元首公邸の決裁がおりておりますれば……」
「わかりました。それなら、それで手を打ちましょう」
涼が、心の中で小躍りしたのは言うまでもない。
いろいろいじくり回せば、何か分かるかもしれない!
はっきり言って、ただ報告を受けるだけよりも、こっちの方が嬉しかったのは言うまでもないことであった。
涼は、そのまま元首公邸にも立ち寄り、出国の挨拶をして、馬車で首都を発った。
中々に濃い滞在であったと言えよう。
特に錬金術に関して、涼は多くの経験を積むことができた……。
同時刻。
ニール・アンダーセン邸。
「直接出向いてくるとは……珍しいですな」
「ええ。今回は、ぜひともお願いしたいことがございまして」
ニールが問い、訪問客が答えた。
訪問客は、チーロ・ペーペのソファーに座っていた男。
「ほぉ。かのサカリアス枢機卿が、ぜひとは……聞くのが怖くなるわい」
「ご冗談を」
ニールの言葉に、サカリアス枢機卿は朗らかに笑った。
顔は笑っており、目の奥も笑っている。
だがニールは知っている。
心の中では、全く笑っていないと。
このクラスになると、目の奥すら、きちんと笑って見せることができるのだ。
そうしなければ生き残れない組織の中で、頂点付近にまで上がったのだから……壮絶と言うのも生ぬるい経験をしながら。
「それで?」
「はい。聞けば、アンダーセン殿は、共和国を引き払うとか。どちらに行かれるのかはわかりませんが、その前に、ぜひ一度、聖都にお寄りいただきたいと思いまして」
「ことわ……」
「いえ! わたくしではなく、教皇聖下がお望みなのです」
言下に断ろうとしたニールの機先を制し、サカリアス枢機卿は決定的な一言を告げた。
「ほぉ……。教皇が、か……」
さすがに、それはニールにとっても意外な事であった。
そして、ある理由から、その誘いには興味があった。
その理由とは……。
新たな教皇は、人間ではないのではないか、という疑念を持っていたからだ。
(そんな教皇が、わしを招く? 確かに興味深い)
興味深いのは確かだが……それ以上に懸念もある。
「もし、断ると言えば?」
「もちろん、それは残念な事です」
「それだけじゃなかろう?」
「アンダーセン殿が断るというのであれば、わたくしどもにはどうしようもありません。ただ……」
サカリアス枢機卿は、微笑んだままだ。
「こちらの女中さんやそのご家族は、数十日後にどうなるか、わかりませんね」
「まあ、そういうことだろうと思ったわい」
ここで「下劣な!」などとニールは言ったりしない。
目の前の男たちにとって、そんなことは日常茶飯事だ。
意のままにならない者がいるなら、脅すか懐柔するか、そのどちらかしかない。
放置すれば、大きな災いとなる可能性が高いのだから。
だから、脅すか懐柔するか、最悪の場合は、排除するか。
少なくとも、放置はない。
放置しても、何のメリットもないのだから、当然だ。
「そんな面倒なことをせずとも、わしを拉致すればよかろう?」
「いえいえ、そんな恐れ多いこと……。する必要もないでしょう?」
ニールの提案に、サカリアスは首を振りながら答える。
拉致などする必要はないのだ。
どうせ、聖都に来る以外の選択肢はないのだから。
本人そのものへの圧力よりも、家族や大切な人など、周囲の人への圧力を匂わせる方が効果的なのは、いつの時代、どんな世界においても変わらない。
場合によっては、匂わせるだけでいいのだから……コストパフォーマンスにも優れている。
もちろん、誰が聞いても、気持ちのいいものではないが……。
「まったく……」
ニールは一度ため息をついてから、言葉を続けた。
「まあよかろうよ。聖都に行ってやる。じゃから、わしに関係する者たちには手を出すな……いや、安全を保証せよ。事故も病気も何も起きないと、保証せよ。できるな?」
「なんとも大変な保証ですが……よろしいでしょう。保証いたしましょう」
そうして、ニール・アンダーセンは、共和国を発って聖都に向かったのだった。




