0318 赤い熊
誰も口を開かない。
ただ、赤い熊が近づいてくる足音だけが響く。
彼我の距離が二十五メートルほどの辺りで、赤い熊は止まった。
体長は二メートル半から三メートルといったあたりか。
四本足のために、正確には分かりにくい。
ベアー系の上位種である、グレーターベアーの体長が三メートル半程度と言われている。
それよりは、若干小さい気がする。
だが、そんなことよりも何よりも、やはり目を引くのは、その体色。
あるいは毛色なのか?
真っ赤。
カーディナルか唐辛子かというほどに、真っ赤。
しかも、それで熊とくれば……驚くのは当然。
「ガアッッッッッッッ!」
赤熊は、雄叫びを上げる。
それは、ただの雄叫びではなかった。
ハロルドとゴワンが、膝をつく。
魔力の籠もった、聞く者の心を折る雄叫び。
「ハロルド! ゴワン!」
ニルスの強烈な叱咤。
それにより、ハロルドとゴワンの目のピントが合う。
だが、赤熊は待ってくれなかった。
火の玉が連続で放たれる。
「<アイスウォール10層> <アイスウォール10層>……」
連続での、氷の壁の生成。
赤熊の火の玉は、二発で<アイスウォール10層>を割る。
であるなら……、
「連続生成でしのぐ!」
合計、十個の火の玉が放たれたが、五枚の氷の壁でしのいだ。
涼は気づいていた。
火の玉が、全て、一行の顔を狙って放たれていたのを。
赤熊は、一行の首から上だけを吹き飛ばし、体は食料にするつもりなのだろう。
そもそも、火属性魔法は、狩りに使うには勝手が悪い。
強すぎれば肉まで焦がす、あるいは爆散し、素材も手に入らない……。
火属性魔法を使う魔物として知られているサラマンダーは、火属性魔法で敵を倒すことはあるが、それは攻撃対象をそもそも食べないからだ。
サラマンダーの主食は溶岩……。
草食性……とはちょっと言えないが、少なくとも肉食性ではない。
だが、目の前の赤熊は、火属性魔法を使う魔物でありながら、肉食性らしい……。
火属性の攻撃魔法を森で使うのは、いろいろと難しい。
木々に火が燃え移って、火事になる可能性があるから。
岩がちな山地とはいえ、木々が全くないわけではない。
この魔物は、その辺りの事を考えているのだろうか……。
十個の火の玉が再び放たれ、それを再び五枚の氷の壁でしのぐ。
その数を見定めて、ニルスは判断を下した。
「よし、次の十連、火の玉攻撃が来たら、俺とアモンで突っ込むぞ」
「はい!」
ニルスの指示に、アモンが返事をする。
涼が『盾』として相手の攻撃を受け、ニルスとアモンが『剣』として相手に攻撃をする。
カウンターアタックを、パーティーレベルで行う場合の、ごく標準的な戦闘法。
これが、かつての『赤き剣』などであれば、盾使いのウォーレンが攻撃を受け、それと入れ違いに、剣士のアベルが敵に攻撃する、といった感じだ。
涼は、それを見越して、<積層アイスウォール>にせず、連続生成で凌いできたのだ。
カウンターアタックを想定した場合、突っ込み過ぎは、逆に、打てる手が狭まる……。
はたして。
赤熊の、三度目の火の玉連続攻撃。
「<アイスウォール10層> <アイスウォール10層> <アイスウォール10層>……」
涼が、<アイスウォール>の連続生成でしのぐ。
十発目の火の玉が飛んでくるのと同時に、ニルスとアモンがそれぞれ<アイスウォール>の両端から飛び出す。
そして、一気に赤熊に向かって走った。
だが……。
赤熊が再び火の玉を生成し、放つ!
連続十発まで、というわけではなかったのだ。
「想定内だ」
だがニルスは呟くと、自分に向かってきた火の玉を剣で斬る。
アモンも、向かってきた火の玉を剣で斬る。
さすがの、B級剣士。
そこまでくれば、赤熊はすぐそば。
最後に、ニルスとアモンが同時に、両側から赤熊の間合いに飛び込み、剣を振る……。
空振った。
二人とも。
四足歩行の特性なのか、何なのか……。
赤熊は、ニルス、アモンの想定以上の速度で、バックステップしてかわした……。
二人のB級剣士の必殺の剣をかわす熊……。
そして、間髪を容れずに放たれる二つの火の玉。
ガキンッ。ガキンッ。
ニルスとアモンの前で、新たに生成された氷の壁に当たって、弾けた。
涼が、<アイスウォール10層>で、生成した氷の壁。
ニルスとアモンは、油断せずに剣を構えている。
後方に大きく飛んでいる赤熊と二人の距離は、十メートルほどか。
どちらも、簡単には動けないが……。
赤熊が、四足のまま、少しずつ、本当に少しずつ、後ろに下がっている。
ニルスとアモンは、ちらりと視線を、一瞬だけかわす。
それだけで、お互いに理解しあえた。
重要なのは、赤熊を狩ることではない。
赤熊を倒すことが目的ではない。
で、あるならば……。
じりじりと下がっていた赤熊が、十五メートルほどの距離が開いたところで、後ろを振り返り、一気に駆けだした。
赤熊は、逃げていった。
完全に、その足音も聞こえなくなったところで、ニルスとアモンは、涼たちの元に合流した。
「なんとかなったが……あれはいったい何だったんだ」
ニルスが誰とはなしに聞く。
しかし、それに明確に答えることができる者は、この場にはいない。
「赤い熊というのもびっくりだったけど、火属性の攻撃魔法を使うってのも、もっとびっくりだったね。そんな熊の魔物なんて、聞いた事ないし」
十号室の知恵袋というべきポジションのエトですら、全く思い当たるもののない魔物であった。
「少なくとも、我々には勝てないと理解したら去っていきましたから……生き物としては、常識的な判断ができる奴だったのでしょう」
ジークの言葉に、ハロルドとゴワンが頷く。
そう、野生の生き物というのは、よほどのものでない限り、自分が勝てないとわかった場合は逃げる。
逃げないのは、馬鹿な人間だけ……かもしれない。
「つまり、さっきの赤熊は、敗北を知っているということです。過去に、そんな経験をしたのでしょう。見事な撤退でした。ということは、この山地には、あの赤熊に敗北を味わわせた何かがいるということですね」
涼のその言葉に、大きく目を見張る一行。
「そんなやつ……会いたくないな……」
ニルスの言葉に、涼を含めて、全員、大きく頷いた。
「敗北を知って、強くなっていく……。ニルスも敗北を知った方が……あ、ニルスはいっぱい敗北を知っているかもしれません」
「うるせー。俺より強い奴はいっぱいいるよ! それぐらい知ってるわ! 俺より、リョウの方が敗北を経験した方がいいんじゃねえか? どうせ、ほとんど経験したことないだろ?」
涼のジョークに、ニルスもジョークで返す。
いちおう、どちらも、ジョークですよ?
親しいからこそ、ですからね?
親しくない人に言ったら、喧嘩になりますからね?
「何も知らないニルスに教えてあげますけど、僕は、毎日敗北を経験してきました。ロンド公爵領でも、毎日剣で打ち倒されていましたし、そもそも、領地で僕は一番弱い存在です」
涼が頭に浮かべたのは、セーラとの模擬戦で倒されてきたルンの街での日々。
そして、ロンドの森の湿原で、剣の師匠たるデュラハンに打ち倒されてきた日々。
さらに、ロンド公爵領に住む、ベヒモス、グリフォン、あるいは、ドラゴンたち……。
打ち倒されてきてはいないが、戦おうなどとは一ミリも思わない相手だ。
間違いなく、涼が一番弱い……。
そんな涼の言葉に、驚く六人。
「いや、涼が一番弱いとか、誰も信じないぞ?」
ニルスが、どうせいつもの嘘だろうという表情で言う。
「ニルス……。いつかニルスが、うちの領地に来たら会わせてあげ……ああ、でも、食べられちゃう可能性があります……。ニルス、肉付きがいいですし。で、ご近所さんたちが食べようとしたら、僕ではそれを防ぐことはできません。さっきも言った通り、みんな、僕より強いですからね」
「リョウって……いちおう、領主だよな……?」
「ええ、そうですよ。でも、それって、人間の中で、『領主でござーい!』って言ってるだけですから……ご近所さんたちには何の関係もないですよ? そもそもロンド公爵領って、人間、僕だけですからね」
ニルスの言葉に、涼は事実を述べる。
「ロンド公爵領っていったい……」
将来の公爵たるハロルドの呟きは、涼の耳には届かなかった。
赤い熊さんの顔見世でした……。
本日2021年5月31日18時に、
第二巻『水属性の魔法使い 第一部 中央諸国編Ⅱ』
の書影が公開されました!
この「0318」の下の方にある画像も、第二巻に替わりました。
(今回は、帯付きにしてみました)
赤いですね~!
第一巻と見間違うことのないように、赤です!
その辺、ちょこっと活動報告に書きました。
第二巻発売日は、6月19日(土)です!
もちろん、「外伝 火属性の魔法使い」は、第一巻の続きが載っております。(2万4千字)
はたして、オスカーは救われるのか……。
さらに、合計四万字の加筆もなされておりますよ!
画像の帯に、ちょろりと書いてありますが、
「コミカライズ第一話冒頭収録」
そう、コミカライズの第一話冒頭が収録されております!
その辺りの情報は、6月10日0時に解禁されます。
ですので、その日は、6月9日21時にいつも通りに投稿して、3時間後の10日0時にも、次話を投稿します。
もちろん、10日21時にも、その次の話を投稿しますよ!
いろいろ、楽しみにお待ちください。