0274 霊呪
本来、常に静謐を保つ王都中央神殿。
だが、その日は、朝から喧騒の中にあった。
神官と双剣士が、ぐったりとした仲間を連れて現れたのが発端となる。
「ん? ジークか? 久しぶり……」
「お願いです、すぐに大神官様をお呼びください!」
「お? おお、わかった」
かつて、この中央神殿で修行していたジークの事は、多くの神官が覚えている。
常に冷静を地で行っていたジークが、これほど取り乱しているのだ、そして大神官様を求めているとなれば、かなり大変な状況にあることは容易に想像がついた。
ハロルドを奥に運び入れると、すぐに大神官ガブリエルが現れる。
挨拶もそこそこに、ハロルドの心臓付近に目を止めた。
「これは……もしや、『霊呪』?」
大神官ガブリエルの呟きに、ジークは訝しんだ。
少なくとも神殿にいる間に、『霊呪』という言葉を聞いたことはない。
王国はもちろん、帝国時代にも、神殿で『霊呪』について学んだ記憶はない。
つまり、中央諸国においては一般的事象ではないという事であろう。
「<解呪>を行います。すぐに準備を。それと、リーヒャ王妃とラーシャータも呼んでください」
「リーヒャ王妃?」
「ええ。ジーク、ついてますよ。今、リーヒャ王妃が中央神殿に来ています」
ガブリエルはそう言うと、一つ大きく頷いた。
ジークも、リーヒャ王妃が『聖女』であることは知っている。
「<解呪>は普通とは違う魔法です。高位神官が多ければ多いほどいい。大神官と聖女が揃った解呪です。中央諸国ではこれ以上の環境は望めません。ジーク、大丈夫です。中央神殿は、どんな人物に対しても、全力で治癒を行います。安心なさい」
そう言うと、大神官ガブリエルは微笑んだ。
その微笑みは、ジークが中央神殿にいた頃にも何度となく見てきたが、その度に心が癒されたものだ。
そして、今回も……。
「はい、よろしくお願いします、大神官様」
ハロルドが運び込まれたのは、中央神殿で最も北に位置する『静の間』。
半径五十メートルもの巨大な円形の部屋、オーバルルームであり、その中央には地下墳墓への階段がある。
その『静の間』の階段脇の、祭壇にも見える場所に、ハロルドは横たえられていた。
地下墳墓から流れてくる、過去の聖者、聖女、大神官らの聖なる力をも利用するため、この部屋での治癒は、最も効果が高いと言われている。
そこに横たえられたハロルドを診ているのは、伝承官ラーシャータ・デブォー子爵。
王国だけでなく、中央諸国でも屈指と言われる伝承官で、特例として、爵位を持ったまま神官としての地位を認められるほどの人物。
大神官ガブリエルは、そんなラーシャータに近付いて声をかけた。
「ラーシャータ、何の霊呪かわかりますか?」
「申し訳ありません、ガブリエル様。これは私が知らない霊呪です」
ラーシャータは、申し訳なさそうに首を振りながら答えた。
「いえ、謝る必要はありません。そもそも、中央諸国においては霊呪自体が多くはありません。もちろん、民間伝承レベルであればありますが、なんというか、こういう……人とは次元の違うものによる『霊呪』は……」
大神官ガブリエルはそう言い、ラーシャータも頷いて同意した。
「大神官様、<解呪>の準備、整いました」
聖女の神官服に身を包んだリーヒャ王妃が、ガブリエルに告げた。
ガブリエルは一つ頷くと、歩き出した。
ハロルドを中心に、ガブリエルとリーヒャを含めた十人の高位神官が円を作って囲っている。
呼吸を整えた後、ガブリエルが詠唱を始めた。
「おお 偉大なる女神よ 汝に伏して願わん 我らと異なる理に囚われし我らの友を 汝と異なる理に囚われし汝の子を 今一度 この世の理に戻さんことを 我らと異なる傷を負いし我らの友を 汝と異なる傷を負いし汝の子を その軛から解き放たんことを 我ら伏して願わん <解呪>」
大神官ガブリエルの詠唱が終わると、囲んだ十人から光が出て、集まった。
その光は、ゆっくりとハロルドを包む。
柔らかく温かいその光は……。
だが、突然弾けた。
「なに!?」
「解呪が失敗した?」
大神官と聖女が参加した解呪の失敗……それは、現状では、誰もこの『霊呪』を解けないという事を意味していた……。
その後、多くの神官たちが中央神殿図書館を中心として、ハロルドの霊呪の手掛かりを探すために過去の記録と向き合い始めた。
『中央神殿は、どんな人物に対しても、全力で治癒を行う』
大神官ガブリエルの言葉は、神殿の神官全員が共有し、誇りを持っている言葉である……そのことを、彼らは行動で示していた。
ハロルドが、何らかの『霊呪』にかかり、中央神殿すらもその解呪ができなかったという報告は、国王アベルの元にも、当然すぐに届いた。
その報告を聞いた時、アベルは文字通り絶句した。
言うべき言葉が見つからなかったのだ。
確かにハロルドは、突然の謁見の時といい、いろいろと厄介な人物である。
問題も起こす。
思慮も深いとは言えない。
いずれは公爵となって、王国や、王室を守り立てて欲しい立場にあるが、現状ではまだまだと言えるだろう。
そうは言っても、亡き兄の忘れ形見であるのは事実だ。
世が世なら、自分の代わりに、この玉座に座っている人物でもあるのだ……多少の後ろめたさが無いと言えば嘘になる……。
そんな様々な感情がない交ぜになった状態のため、言うべき言葉が見つけられなかった。
結局、言った言葉は、
「わかった」
これだけであった……。
その日、涼が話しかけられたのは、おそらく偶然。
涼は、いつものように王城図書館にいた。
もちろん、ハロルドの霊呪に関する資料を探していた……わけではない。
『カフェ・ド・ショコラ』で読む本を探しに来ただけだ。
そのため、本を見つけたら、さっさとカフェ・ド・ショコラでケーキセットを頼む予定まで、頭の中で立てていた。
「新しい季節のケーキセットが出たとか言ってましたから、それがいいかな……」
そんな独り言が聞こえたかどうかはわからないが……涼は声を掛けられた。
「お忙しいところ恐れ入ります、公爵閣下」
「はい? ああ、司書長さん、こんにちは」
司書長ガスパルニーニは善い人である。
そのため、涼はにこやかに挨拶をした。
だが、そこでふと思い出した……。
まさか、もしや、また何か返却忘れの本があるのではないかと。
「もしかして、僕、また返却忘れの本があります?」
その時、背中を冷や汗が伝ったのは気のせいではないはずだ。
だが、帰ってきた答えは、涼を安心させるものであった。
「いえ、閣下、大丈夫です。長期未返却の本はございません」
「ああ、よかった……」
涼は、心の底からそう言った。
だが、それ以外で、司書長さんが声をかけてくる理由は思いつかない。
涼は首を傾げながら問いかけた。
「となると……何か別の問題が?」
「はい。確認したいのですが、今、王城内で、ハロルド様の原因不明の病について噂になっていると伺ったのですが」
「ハロルド? すいません、僕、王城内の人間関係に疎くて……」
涼は、素で思い出せなかった。
きっと、モンブラン小僧とか、できる神官ジークのパーティーの、とか言ってもらえば思い出せたのだろうが。
「C級冒険者の剣士で、国王陛下のご親類の……」
「ああ! モンブ……いや、失礼。ハロルド殿ですね、そうそう、何か探しているみたいです。司書長さん、何かご存じなのですか?」
涼は、ハロルドの件には興味は無かったのだが、リーヒャがずっと中央神殿に詰めているし、アベルも何も言わないが気にはしているようなので、手伝う気が無い、というわけでもなかった。
「はい。実はハロルド様は、半月ほど前にこの図書館を訪れまして、一冊の本を読まれて、そして一部<転写>されて行きました。それがこちらです」
「アベル、お話があり……」
涼はそこまで言って、先客がいることに気付いた。
知った顔であった。
「ああ、伝承官のラーシャータさん。お久しぶりです」
「リョウさん、いえ失礼しました。公爵閣下、ご無沙汰しております」
「いえ、以前通りにリョウで……」
とそこまで言って、涼はここに来た理由を思い出した。
「アベル、こちらは王城図書館司書長のガスパルニーニさん。ハロルドの件で、情報提供があるそうです」
「ふむ。もちろん、ガスパルニーニ殿は存じ上げている。俺が小さい頃から司書をされていたからな。かなり世話になった」
「もったいないお言葉です」
アベルが言うと、司書長ガスパルニーニは深々とお辞儀をして感謝した。
「して、ハロルドの件とは?」
「はい。今から半月ほど前、ハロルド様は王城図書館でこの本を読まれ、一部<転写>されました」
そう言って、司書長ガスパルニーニが差し出したのは、『力を求めた者たち ~天使から魔人まで』という本であった。
「ん? その本の著者は確か……」
反応したのは、ラーシャータだ。
「はい、グースー伯爵です」
司書長ガスパルニーニも、ラーシャータの考えていることを理解したのであろう。
頷いて答えた。
「グースー伯爵の著書は、なんというか玉石混交というか……」
「おっしゃる通りです。眉唾なものもございます。この書籍も、あまり真実味のある物とは……決して言えません。ですが、ハロルド様が<転写>されたのは、このページです」
そう言うと、司書長ガスパルニーニは、該当のページを開き、指し示した。
「……なるほど、魔人の力を手に入れる……か」
ラーシャータはそこを読み、呟く。
横から、アベルも覗きこんでいる。
「これは……『破裂の霊呪』? これが破裂の霊呪か……あれが、破裂の霊呪……」
ラーシャータは目を見開き、額に手を持っていって何がしか考え込んだ。
「ハロルドはその力を求めて、逆に、この破裂の霊呪にかかったということか?」
アベルは顔をしかめて、そう呟いた。
「陛下、おそらくその通りだと思います。『破裂の霊呪』については、いくつかの伝承が残っております。中央諸国ではめったにないのですが、西方諸国においては良く知られた霊呪です。私も見たことはありませんでしたし、『破裂の霊呪』という言葉は知っていても、霊呪に囚われるとどのような状態になるのかは、伝承が残っておりませんでしたのでわかりませんでしたが……。状況から考えると、ハロルド殿の霊呪は、『破裂の霊呪』であろうと思われます」
「ハロルド……馬鹿者が……。安易な方法で力を得ることなど、できるわけがないのに……」
アベルのその言葉は、苦渋に満ちていた。
だが、今は確認すべきことが他にもある。
「それで、その霊呪はどういうものなのだ。この本には、破裂の霊呪の中身については書いていない」
「はい。魔法による解呪は不可能です。状態につきましては、あと三日もすれば霊呪が定着し、以前のように動けるようになります。霊呪によって、動きや感情が制御されることはありません。ただし、『破裂の霊呪』の名の通り、いずれは体が破裂します」
「破裂……」
ラーシャータの説明に、アベルも言葉をつづけることは出来なかった。
それは涼も同様であった。
(体の中に時限爆弾を抱えるようなものか……これは辛い……)
別に、ハロルドに積極的に不幸になってもらいたいとは思っていない涼としては、普通に憐れみを感じたのだ。
「いずれは破裂ということだが、それはいつだ?」
「正確にはわかりません。一年間は破裂しないとの伝承しか……」
アベルの問いに、ラーシャータは首を振りながら答えた。
「それで……解呪の方法は?」
最も重要な質問……アベルはラーシャータに問うた。
ラーシャータの答えは、誰も想像していないものであった。
「魔王の血を、額に一滴垂らす……」