0272 帝国使節団団長
帝国北西部、ギルスバッハの街。
現在ここには、退位した前皇帝ルパート六世が居を構えていた。
五十五歳。
数十年に及ぶ書類まみれの生活からようやく解放され、まさに悠々自適の生活を送っている。
そんなルパートは、眉間に深い皺を刻み、非常に難しい顔で目の前の問題を必死に解決しようとしていた。
「むぅ~」
時々、呻くような声が出るのは、まさに難問だからだ。
向かいのソファーには、ルパートの右腕たるハンス・キルヒホフ伯爵が座り、こちらは涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。
「見えた!」
ルパートは、そう小さく叫ぶと、手を動かした。
それに応じて、ハンスも動かす。
合計十数回……二人の手が動き……。
「ふぅ、なんとか引き分けに持ち込んだわ」
「お見事でした。あのまま押し切れると踏んでいたのですが……残念です」
チェスである。
数百戦目の対局は、ルパートが圧倒的劣勢から、なんとか引き分けに持ち込んだのであった。
熱い戦いを終え、ルパートは満足げな顔をしながらコーヒーを飲む。
「それにしても、ヘルムートも存外器が小さい。ハンスを使いこなせずに帝城から追い出すとはな。せっかく、ハンスを残して、我は帝城を出たというのに」
「致し方ございますまい。ヘルムート様にはヘルムート様の側近たちがおりますゆえ。ですが、そのおかげで、こうして陛下のお相手ができております」
「うむ、その点だけはヘルムートを褒めてやろう」
そう言うと、ルパートは大きく笑った。
現在、帝国皇帝は、ルパートの長男ヘルムート八世。
ルパートは院政など敷くつもりは欠片もないため、帝位を譲って帝国の舵取り全てをヘルムートに任せて、楽隠居の身となっていた。
日課として、ハンスとチェスを戦い、ハンスと剣を合わせ、時々魔法で遊ぶ。
その合間に体を鍛えるなどするため、帝位についていた頃よりも圧倒的に健康で、皇帝時代よりも更に引き締まった体になっていた。
「そういえば例の件、ヘルムートは、コンラートを代表として送るつもりらしいな」
「はい、そのようで。コンラート様も公爵家を開かれ、ようやく軌道に乗りつつあるようですが……」
「ふむ……」
ルパートの三男であり、ヘルムート八世の実の弟コンラート。
ヘルムートが皇帝位に上ったため、他の兄弟と共に臣籍に降下し、公爵家を開いていた。
「そもそも西方諸国への使節団のきっかけになったのは、西方教会から送られてきた招待状であったな?」
「はい。西方諸国でも有名なパーティーが届けにきたそうです。数十年ぶりに教皇の代替わりが行われる、しかも今回は百代目とか。その就任式に合わせて大規模な使節団を派遣して欲しいと」
「なんとも胡散臭い」
ルパートがそう言うと、ハンスは苦笑した。
そして問いかける。
「陛下は、今回の件、何か裏があると?」
「当たり前だ。こんなもの、何重も裏があるに決まっておろう。規模や護衛は、もう決まっておるのか?」
「はい。文官百人、護衛は帝国騎士団二十人程度と帝国軍から二百人ほど」
「なるほど……。ヘルムートも、護衛を手厚くしているという事は、途中、あるいは着いた先で何かあるかもしれんと考えているわけか」
話を聞いて、ルパートは何度か小さく頷きながらそう言った。
「だが、そこでコンラートを出す辺り……謀略か……策を弄しすぎだな」
その小さな呟きは、ハンスにすらぎりぎり聞き取れる程度だ。
しばらく無言で考えた後、ルパートはこう言った。
「よし、帝国の代表には我がなろう」
ハンスは予測していたのであろう、苦笑しながら小さく首を振った。
いくつかのすったもんだがありながらも、ルパートは、皇帝ヘルムートに、自身の使節団団長就任を承認させた。
その際のヘルムートの渋面は、かなりのものであったが、ルパートはあえて無視した。
そして、帝国から中央諸国中に発表される。
「西方諸国に対し、帝国は使節団を派遣する。代表は、前皇帝ルパート六世である」と。
「まさかルパート陛下とは……」
王国国王執務室で、アベルは呟いた。
目の前のソファーには、宰相ハインライン侯と、今回の王国が出す使節団の代表となるグランドマスター、ヒュー・マクグラスが座っていた。
ちなみに、涼は部屋の隅で椅子にちょこんと座り、大人しく錬金術関連の本を読んでいる。
ソファーが占拠されている時の定位置だ。
「事前の情報では、皇帝ヘルムート陛下の弟である、エルベ公爵コンラート殿で決まりだと流れていたのですが……」
ハインライン侯ですら小さくため息をついた。
中央諸国において、他の追随を許さない諜報網を持つ彼ですら、捉え損ねた情報だ。
「ハインライン侯、ちなみに連合の代表は誰になりそうなのです?」
渋面を作りながら、ヒューは確認をとる。
「まだ正式発表はありませんが、十中八九、先のカピトーネ国王ロベルト・ピルロ陛下です」
「うげ……。オーブリー卿が殺せなかった男……ですか」
ロベルト・ピルロは、十人会議のメンバーのうち、ただ一人生き残った男として『オーブリー卿が殺せなかった男』と呼ばれることがある。
もちろん、その高い能力は、中央諸国中で知られている。
「まあ、誰が出てきても大変だな」
「陛下が言うべきセリフじゃないでしょうが……」
アベルがのんきなことを言い、ヒューは今まで以上に厳しい顔をしながら反論した。
「先帝と先王……かたやただのグランドマスター……格が違い過ぎますよ?」
ヒューは何度も首を振りながらそう言った。
「大丈夫だ。王国使節団には秘密兵器、『筆頭公爵』が潜ませてある。いざとなったら、最高戦力であること間違いなしだ!」
「道中、戦争でもする気ですか……」
アベルの言葉に、さらに何度も首を振るヒュー。
困難な道のりになりそうであった。
 





