0216 開戦
それは、ついに始まった。
涼とアベルがルンの街に帰還し、ヒュー・マクグラスにワイバーン討伐の報告をしている時に、その報告が入った。
ノックも無く扉が開かれ、受付嬢のニーナが入って来て報告する。
「お話し中失礼します。マスター、帝国軍が国境を越えました」
「いよいよか」
ヒューは、これを予期していたのだろう。
一つ大きく頷いて、呟いただけであった。
だが、涼はそうではない。
自分の国が侵略されるのを経験するのは、初めての事である。
うろたえていた。
「負ければ、僕はデブヒ帝国民に……。デブヒ人……デブヒの民……デブヒな魔法使い……魔法使いデブヒ……デブヒりょうのボンサ……」
「リョウ、落ち着け」
隣に座っていたアベルが、涼の肩に手を置いて、ゆっくり、そして力強く言った。
たった一言。
だが、そのたった一言で涼は落ち着いた。
結局、言葉の効果は、言った内容ではなく、誰が言うかによるのだ。
「ありがとう、アベル」
この時、涼は心の底からアベルに感謝した。
「侵攻してきた帝国軍の規模は約八千。この規模の侵攻は、五年おきくらいに何度もある」
「そうなんですか。ああ、それなら対処も慣れていますね、よかった」
ヒューは報告書を受け取り一読した後、そう言った。聞いた涼は、さらに落ち着くことができた。
「たとえ負けたとしても、一戦負けた程度で、デブヒ帝国民になるとかはないからな」
アベルは苦笑しながらそう言った。
だが、そう言った瞬間、アベルは崩れ落ち、胸を押さえた。
「アベル!」
涼は叫ぶ。
アベルは涼の方に右手を広げて突き出し、大丈夫だから待て、とでも言いたげである。
目をつぶり、何度も深い呼吸を繰り返す。
そうして、一分ほど経った頃だろうか、ようやくアベルは顔を起こした。
「大丈夫だ」
アベルは、誰とはなしにそう言った。
そして、ヒューの方をチラリと見た後、扉の側に立ったままのニーナを一瞥した。
ヒューはそれで察したらしい。
「ニーナ、報告ご苦労」
「あ、はい。失礼いたします」
そういうと、ニーナは部屋を出ていった。
アベルには、ニーナがいると話せない何かが起きたらしい。
アベルは一息ついた後、静かに口を開いた。
「今、兄上、王太子カインディッシュ殿下がみまかられた」
その言葉に、ヒュー・マクグラスは言葉を失った。
涼も、さすがに言葉は出てこない。
恐らく、魔法的な繋がりか何かで、亡くなったのが分かったのであろうとは理解できたが。
アベルの兄、王太子カインディッシュ……。
もちろん、涼は、一面識もない相手であり、この国の王太子という、文字通り雲上人である。
人となりも全く知らない相手ではあるのだが、それでも、彼の作成した問題を見た。
アベルが必死に解いていた問題だ。
『問題』というものは、受験生を試すものであり、受験生を評価するものである。
だが、その本質は、問題作成者自身の『質』……クオリティが明らかにされるものなのだ。
バカな問題を作れば、「何だこの作成者、馬鹿じゃないのか」と受験生たち全員の心の中で蔑まれる。
意味の分からない問題を作れば、「こいつ日本語大丈夫か」と受験生たち全員の心の中で罵倒される。
だが、もの凄い問題を作れば、時代を越えて、その問題は残る。
数十年前の有名な大学入試問題は、何度でも話題になったりするであろう?
あるいは、数学の七大難問など、歴史の検証に耐える問題すら、存在し得る。
だから、問題を見れば、作成者の思考、あるいは嗜好、知的レベルなども想像がつくものなのだ。
アベルが必死に解いていた問題は、国の本質を問うものが多かった。
『何のために国があるのか』
『王たるものは何をしなければならないのか。そして何をしてはならないのか』
『民と国と王の関係は、どうあるべきなのか』
それぞれの本質に、アベルを向き合わせるための設問だったのだと、涼は思っていた。
恐らく、それぞれの設問に絶対の答えはないのだろう。
よほど変な答えでない限り、この問題作成者は『No』とは言わない。
答えを導き出すこと以上に、考えさせること、現実にその状況に立ち会う前に、一度でも考えたことがある、そんな状況を経験させるための問題……そういうものが多かったように思うのだ。
そう考えただけでも、この王太子が、非常に賢く、それでいて本当にアベルの事を考えていて、同時に、民と国の事にも思いをはせていたのだと、涼には思えた。
(ああいう人が、名君になったのだろう)
大学で、史学科に所属していた涼は、そんなことを考えたのだった。
王国北部デスボロー平原。
かつて、王国軍と帝国軍が、何度もしのぎを削った場所で、また両軍は対峙していた。
すでに、小競り合いは何度か行われているが、本格的な戦闘には至っていない。
帝国軍八千、対する王国軍二万。
基本的に、精鋭たる帝国軍に対抗するために、王国軍は人数五割増しの戦力で抗するのであるが、今回は倍以上の戦力をかき集めることができた。
これはひとえに、危機感を覚えた王国北部の貴族たちが自分の領軍を派遣したからだと認識されている。
王国騎士団、宮廷魔法団、王国第一軍、徴兵した民兵、それと北部駐留部隊、総勢四千。これが王国軍本軍。
これ以外の一万六千が、北部領主たちの軍である。
王国軍指揮官は、軍務卿ウィストン侯爵エリオット・オースティン。
齢六十を超え、今回のように越境してきた帝国軍と、何度も対峙してきた男である。
だが今回、いつもとは勝手が違っていた。
「ベラシス殿、あいつら、やる気あるのか?」
軍務卿エリオットが『あいつら』と呼んだのは、対峙する帝国軍である。
そもそも、越境してからの進軍も、いつもに比べて極めて遅い速度であった。
さらに、デスボロー平原に布陣してからも、全く動かず。
「帝国軍と言えば、敵ながら、その迅速果敢な進軍速度に驚かされてきたものだが……今回の帝国軍は動きが遅すぎる……」
「ですな。何かが……極めて変ですな。何かを待っているのでしょうが……一体何を待っているのか……」
答えたのは、宮廷魔法団顧問のアーサー・ベラシス。
若い頃から冒険者として名を馳せ、七十歳を越えた現在でも後進の育成に力を入れる魔法使い。
王国の冒険者、軍人問わず、アーサー・ベラシスに一目置かない人間はいない。
それは、軍務卿として、王国の軍務一切を取り仕切る最高位のエリオットですら、例外ではない。
実際、宮廷魔法団が従軍し、アーサーが顧問として参戦する場合は、相談相手として重宝していた。
「まあ、我が軍は万全には程遠い状態ですから……理想はこのまま、大きな被害が出ることなく帝国軍が去ってくれることかと」
言ってて、自分でも信じていないということを、顧問アーサーは理解していたが、それでも本当にそうなって欲しいと思っていた。
「そうだな……。『大戦』時は、我が王国軍の主力を担い、二千人からの騎士がいた王国騎士団が、わずか二百人しかおらぬとは……。ほんの十年前だと言うのに、隔世の感があるわ」
軍務卿エリオットは、あごひげを撫でながら渋い表情で言う。
「それもこれも、あのバッカラーが……」
その言葉は極めて小さかったが、顧問アーサーの耳にはわずかに届いてしまった。
軍務卿エリオットと前騎士団長バッカラーの確執は有名であり、王宮政治に疎いアーサーですらも知っていた。
無論、王国騎士団が瓦解したのは、王都騒乱でとどめを刺されたためではあるが、その前からすでに崩壊しつつあった……。
「とはいえ、軍務全てを取り仕切るのが軍務卿たる我が役目……今日の衰退の責任は俺にある……」
「まあ、ここでそれを論じても致し方ございますまい。ハインライン侯爵が騎士団長を辞められた後、後任の方が就任する前日に死亡、転がった団長の座をバッカラーが手に入れたのが不幸の始まりだったのは、皆の知るところ」
本格戦闘の前に、総指揮官が落ち込むのも問題と思って、顧問アーサーはそう言ったのだが……反応は別の方面に出てしまった。
「そうだ。ハインライン……アレクシスが全ていかんのだ!」
「ああ……そっちにいってしまいましたか」
アーサー・ベラシスは苦笑し呟いた。
『鬼』と呼ばれた元騎士団長アレクシス・ハインライン。
軍務卿エリオットは、アレクシス・ハインラインを非常に高く評価し、気に入っていた。
「アレクシスが、騎士団長の職をほっぽりだして領地に戻ったりしたのが全ての始まり! もちろん、先代の急死は理解できるが……あいつの能力なら、領地経営と騎士団長の両立など問題なく……いや、それどころか、俺の軍務卿の職もあいつが引き継いでやってくれれば、こんな苦労をすることも無かった……」
ただの愚痴になっていた。
アレクシス・ハインラインと比べれば、バッカラーが小物に見えるのは仕方が無かったろう。
顧問アーサーは、心の中でそう苦笑した。
「なあスコッティー、俺ら、働き過ぎじゃないか?」
「うん、そんな気はするな。ランドから戻ってきたら、今度はこれだもんな」
騎士ザック・クーラーは問いかけ、騎士スコッティー・コブックも同意した。
実際には、ランドから戻って来て長期休暇を貰えたのだが……半年もしないうちに戦場に駆り出されたら、ボヤキの一つも言いたくなるかもしれない。
「まあ、騎士は、高貴なる人と麗しき婦人のために戦うって言うからね。仕方ないでしょ」
整った顔のスコッティーが言うと、けっこう様になる。
「麗しき婦人……そうだな、セーラ様の国を守るために、俺は戦うぞ!」
「お、おう……」
スコッティーは、あくまで一般論を述べただけだったのだが、ザックの中では、変な結びつきがなされたようである。
もちろん、言っていることに間違いはないのだが……。
「メル、あいつら、なぜ動かない!」
帝国軍作戦天幕の中で、主席副官クルーガー子爵リーヌス・ワーナーは苦虫を噛み潰した顔で、そう言った。
リーヌスの護衛隊長であるメルは、数瞬だけ考えると、ゆっくりと答えた。
「様子見をしているのでしょう」
「様子見だと?」
「はい。本当に、寝返るに値するのかと」
隊長メルがそう言った瞬間、リーヌスの顔に一瞬だけ怒りが奔った。だが、それは本当に一瞬。
メルほどの者でも、見間違いかと思うほどの一瞬だけ。
「なるほど。いいだろう。寝返るに値することを示してやろうじゃないか」
「オスカー・ルスカ、お召しにより参上いたしました」
爆炎の魔法使いの二つ名を持つ、帝国皇帝魔法師団副長オスカー・ルスカは、司令本部の置かれた中央天幕に来ていた。
正面には、この遠征の総司令官ミューゼル侯爵が座り、傍らには彼の息子であり、本遠征の作戦のもっぱらを取り仕切っていると言われる、主席副官クルーガー子爵リーヌス・ワーナーが立っている。
「オスカー・ルスカ男爵、よく来てくれた。実は貴殿に頼みがあるのだ」
ミューゼル侯爵はそう言うと、傍らのリーヌスに頷いた。
それを受けて、リーヌスが説明を始める。
「副長殿もご存じの通り、敵軍に『策』を仕込んであります。皇帝陛下と帝国諜報部が数年かけて仕込んだ策ですが……残念ながら、いまだ発動しておりません。それを、副長殿の魔法で『起こして』いただきたいのです」
リーヌスが薄ら笑いと共に説明する。
オスカーは、はっきり言ってリーヌスの事が嫌いであるが、だからといって、それを表情に出したりはしない。
ましてや、言動にその感情が上ることもない。
「かしこまりました。具体的にどうすれば?」
「簡単なことです。『策』たちは、どうも様子見をしているみたいなので、彼らの目を覚まさせるような派手な魔法をぶち込んでやってください」
「なるほど……」
オスカーは、従軍前に仕込まれた『策』について、皇帝から直接説明を受けている。
その他の事についても、いろいろと……。
それら事前情報を勘案しても、様子見をしている連中は、こちらの実力を見せれば行動を起こすであろうということは理解できた。
こういう派手な行動のために、オスカーがこの軍に呼ばれたという面も理解していた。
デスボロー平原に両軍が布陣して、何度目かの小競り合いが終わり、両軍が突出した部隊をそれぞれ自陣に戻した。
そこに、帝国軍からただ一人、男が出てくる。
王国軍からもその光景は見えており、何事かと訝しむ者もいたが、過半数は何の関心も示していなかった。
翻って帝国軍は、完全に静まり返っている。
八千人の帝国軍の誰一人として声を出す者はおらず、咳払い一つも聞こえない……戦場においてはほとんどあり得ない、完全な静寂。
それは、帝国軍全員が、出てきた者が誰なのかを知っていたから。
『爆炎の魔法使い』
生きながらにして伝説。
生者にして死神。
そして……最強至高の魔法使い。
爆炎の魔法使いは、小さく何事か唱えた。
その瞬間、空が割れ、炎を纏った無数の岩が落ち、地を叩いた。
落ちた地面から吹き上がる炎、舞い上がる草木、飛び散る大地。
正確に、大地に地獄が生まれていた。
魔法とは、かくも恐ろしいものであり、魔法使いとは、かくも怖れるべきものである。
それを見た両軍の兵士全てが、嫌でも思い知らされた。
<真・天地崩落>による無数の炎岩であるが、落下地点は完璧に計算されている。
帝国軍はもちろん、王国軍にも、ただの一人の犠牲者も出ていない。
だが、王国軍両翼に配された、貴族たちの軍から良く見える場所に落とされたのは、明確な意図をもっての事であった。
曰く、「さっさと寝返れ」と。
震えあがったのは、貴族軍を率いていた者たち。
自領の軍を自ら率いて参陣した貴族もいれば、フリットウィック公爵軍のように公爵の部下が率いている場合もある。
どちらにしても、この瞬間、彼らに選択の余地も、時間的な猶予も全くなくなったのだ。
こう命令する以外にはなかった。
「全軍進撃。目標は、王国軍本軍」
王国軍本軍は、左右から北部貴族軍に攻撃された。




