0192 鞄
涼とアベルが王都クリスタルパレスに着いた日。
涼は、王立錬金工房に直行した。
一方のアベルは、ルン辺境伯邸でいくつかの仕事をこなした。
一介の冒険者であっても、A級ともなると様々な仕事の必要が出てくる。
それらをこなした夜、アベルは辺境伯邸を出てしばらく歩き、ある建物に入って行った。
そこは『王国魔法研究所』、別名『イラリオン邸』。
だが、いつも直行する最上階のイラリオンの執務室ではなく、進んだのは地下。
そこは、イラリオン専用の実験室が並ぶ、立入禁止区域。
だが、アベルはそんなことはお構いなしに入って行き、ある部屋の前に立つと、右手を扉の前にかざした。
青白い光が扉に現れ、しばらくすると、扉は音も無く開いた。
部屋の中の扉でも同じことをし、合計三つの扉を抜けて、アベルは現れた階段を下り、そして長い通路を歩いていく。
二十分ほど歩いたであろうか、突きあたりには、上への螺旋階段がある。
迷いなく階段を上がり、石の扉の前に立った。
アベルはその石の扉に手を置き、何事か唱える。
すると石の扉はひとりでに開いた。
そして、五十メートルほど歩いたところで、再び石の扉があった。
アベルは、剣を半ばほど鞘から滑らせ、剣の柄で三回扉を叩く。
しばらくすると、扉の向こうで、三回叩く音が聞こえる。
それを確認して、アベルは今度は七回叩く。
そうしてようやく、扉の向こうで鍵と閂らしきものを外す音が聞こえ、扉が開かれた。
そこには、王太子の顔があった。
「いらっしゃい、アルバート」
「兄上……」
笑顔で迎えてくれた王太子に対して、アルバートと呼ばれたアベルは、言葉を継ぐことができなかった。
それほどに、前回会った時と比べて、やつれていたのである。
「酷い顔だろう?」
王太子は、だが笑顔を浮かべてアベルに言った。
「いえ……」
さすがに、兄とはいえ、正直な感想は言えない。かと言って、気の利いた嘘を言えるアベルでもない。
「自分の身体の事だ。自分が一番分かっているよ。はっきり言って、もう一年はもたないだろう」
「兄上!」
「そんな怖い顔をしないでくれ。どうしようもないのだから」
王太子は苦笑いしながら、怒った顔になっているアベルをなだめる。
「私が死んだら、アベルが王位継承第一位になる。アベルの『武』に関する力は全く心配していない。個人の武に関しても、A級冒険者にまでなったんだからね」
やつれた顔ではあるが、本当に嬉しそうに王太子は言った。
「ただ、冒険者をしている分、実際の国政に関わる経験が少ないのが気になっているんだ」
「はい……」
王太子の指摘に、素直に頷いて同意するアベル。
もちろん、十八歳で王城を出るまでは、王族が学ぶべき全ての内容を、アベルも学んできた。
そのため、基礎的な知識に関しては問題ないのだが……。
「そこで、これから一週間、僕が王太子として経験してきた問題、経験をアベルに引き渡したいと思うんだ」
「え……。し、しかし、それは、その……」
アベルは、王城にいた頃、第二王子として、文武両道を修めていた。
とはいえ、どちらも平等に好きなわけではない……言うまでも無く、武の方が、というか剣に全てを捧げたいとすら思えるほどに、嗜好は偏っているのだ。
「アルバート、この期に及んで逃げてはダメだよ。兄としての最後の頼みだ」
いっそ清々しいほどの笑顔を浮かべて、王太子はアベルに迫った。
こう言えば、アベルが逃げないことを経験から知っているのである。
「はい……わかりました」
さしたる抵抗も無く、アベルは観念した。
「よし。で、必ず受け入れてくれると思って、資料も用意してあるんだ。さっそく今晩からやるよ」
そして、一週間、アベルの勉強漬けの日々が始まった。
使節団出発前夜、王立錬金工房前には、フラフラした足取りの剣士が立っていた。
「ごめんください……」
弱々しいその声は、普段であれば誰も反応しないであろうほどに、か細い声である。
だが、その夜、錬金工房の扉付近には、一人の水属性魔法使いが待機しており、そのか細い声を拾うことができたのである。
「アベル、遅いですよ。連絡があって、待ってはいたものの……もう、勝手に辺境伯邸に行こうかと思っていたところです」
「う……すまん。勉強が長引いて……」
剣士アベルは、かなり大きめの鞄を抱えていた。
また、出てきた魔法使い涼も、いつもの鞄以外に、大きめの鞄も抱えていた。
「アベル、おっきな鞄を抱えていますね」
「リョウもな」
二人とも、お互いの鞄を見て笑った。
アベルは乾いた笑いを。
涼は嬉しそうな笑いを。
その差は、鞄の中身の差だったのだろう。
アベルは、王城から王国魔法研究所を経由して錬金工房へ。
そこで涼と合流して、二人はルン辺境伯邸に入った。
くたくたに疲れていたアベルはそのままベッドへ直行。
涼は、優雅に風呂に入り、少しだけ鞄に入った資料を見てから眠った。
眠りの世界は平等である。
二人は、平和な世界を、堪能した……。
翌朝、一週間の、王太子による集中講義から解放されたアベルは、一晩の睡眠で完全回復していた。
さすがはA級冒険者である。
回復力も、人類最高峰に近いのであろう。
涼も、特に何事も無く起き出して、辺境伯邸が準備した朝食を、しっかり食べていた。
これから長旅である。しかも外国へ。
何があるかわからない以上、食べられるときに食べる。
普段は引き籠っているが、このあたりはさすが冒険者なのであった。
二人は、今回ゲストともいえる立場であるため、馬車が用意されている。
集合場所の馬車に向かうと、そこには見知った顔があった。
「なんだ、ザックとスコッティーじゃないか。二人も使節団に入っているのか?」
そこには、王都の飲み会組織『次男坊連合』に所属し、王国騎士団員でもあるザック・クーラーとスコッティー・コブックがいた。
「ああ、小隊長待遇でメンバー入りだ」
「希望者が多くて、結構な倍率を勝ち抜きましたよ」
ザックとスコッティーは、笑いながら答えた。
だが、突然ザックの笑いが凍り付いた。
「あ、あんた、あの時の魔法使い……」
それは、ザックが涼の姿を捉えた時であった。
あの時というのは、もちろん、王都騒乱時のエルフ自治庁のことである。
エルフのセーラがアークデビルを倒した直後に涼はそこに現れ、他のデビルたちの首をウォータージェットで刎ねていったのである。
ザック憧れのセーラを抱きしめながら。
ザックの目には、若干の恐怖と共に、敵愾心が宿っていた。
そんなとげとげしい雰囲気を、涼も感じ取って、隣にいるアベルに小声で聞いた。
「僕、この人に何か悪いことしたんですかね」
涼の記憶の中には、ザックに会った記憶はない。
だが、敵対的な視線は感じている。
もちろん、アベルは全ての事情を知っているのだが……この場で、正直に答える気にはならなかった。
「さ、さあ……何かわからんが、気にしなくていいんじゃないか」
背中に冷や汗をかきながら、アベルは誤魔化すことにしたのだ。
ちなみに、ザックの隣にいるスコッティーは、小さく首を振って、諦めの表情を浮かべている。最初から、何もする気が無いことを、行動で示している。
結局、涼は何も理解できぬまま、馬車に乗り込むのであった。
その日、外務省交渉官を団長に文官ら二十名、冒険者A級パーティー二名、騎士団二十名、従士二十名、護衛冒険者C級二十名の、総勢八二名が王都を発った。




