0179 脱出
「ダメです……グリーンストーム、効きません」
守備隊長メレディスの報告は、苦渋に満ちていた。
だが、その報告を聞くインベリー公ロリスも、全てのグリーンストームが効かないその光景は見えている。
「城壁からの攻撃を開始せよ」
命令には、すでに覇気は無かった。
それも仕方あるまい。
自らの命令によって、最精鋭部隊を死なせてしまっているのだから。
最も信頼していた軍司令官たる騎士団長スタンリーも、すでにいない。
逆転の目は、もうない。嫌でも、それは理解させられていた。
「公爵閣下」
そんなロリスに、後ろから小声で呼びかける者がいた。
公爵家の侍従長クルナである。
「街を脱出なさり、国を出て、外国から公国の回復を」
「し、しかし……」
国を捨て、民を捨て、最後まで付き従ってくれた兵たちも捨て、国外に逃れてまで生き恥をさらすのは、さすがに今のロリスですら、躊躇する提案であった。
「御身さえ無事であれば、公国の復興は望めます。ですが、御身にもしもの事があれば、これから雌伏の時を経る諸侯たちが、いざ立ち上がらんとした時、誰を戴けばよいのでしょうや」
虐げられつつも、国の復興を夢見るこれからの国民たちのためにも生き残れ……それはロリスの気持ちを決するのに十分な言葉であった。
家族を連れて国外へ。
だが、実際にそれは可能なのか?
「この街からの脱出路は、ゲッコー殿によって準備されております。盆地の端、森の中に出ます。そこにしばらく身を隠せるだけの用意がされております。街中での死の偽装を私共が行いますので、敵の監視が緩んだ隙に、盆地から抜け出ることが可能かと」
「そうか、ゲッコーが……」
インベリー公国の商人ゲッコー。
彼は、このフィオンの街に物資を運び込んで最終反撃地として整備し、もしもの時の脱出路まで準備していた。
「ゲッコーは、もう?」
「はい、ご指示通り、公爵閣下と入れ違いで街を出られ、恐らく王国国境付近に潜んでいらっしゃるかと……」
「ゲッコーにも苦労をかける」
そう言うと、ロリスは深いため息をついた。
そして、侍従長クルナに言った。
「分かった。脱出する」
そうして、インベリー公ロリスは、家族と供周りの者を連れて、フィオンの街から脱出したのであった。
フィオンの街の西方二キロ地点。
フィオン平野に点在する森の一つに、インベリー公ロリスらはいた。
街から長い地下道を通り、地上に出た場所からさらに森の奥へ入り、ようやく一息つくことが出来た。
そこには、風雨を凌げる、かなり巨大な洞窟があった。
明かりが漏れたとしても、街の方からは見えにくい造りとなっており、かなり緻密に計算された造形であることがうかがえる。
洞窟の中は非常に広く、二十人が、優に一カ月以上暮らしていけるだけの食料なども用意されており、準備したゲッコーの有能さを示していた。
フィオンの街の戦闘は未だ続いている。
だが、城門は既に破られ、陥落は時間の問題である。
街のあちこちから煙が上がる光景は、二キロ離れたこの森からでも、見ることが出来た。
そして、インベリー公ロリスは、街から目を逸らすことが出来なかった。
自分を逃がすために犠牲になって戦う者たち。
国が亡びる事を受け入れるのを拒否して戦う者たち。
そして、街を死に場所と決め、死ぬために戦う者たち。
本来、彼ら全てに責任を持つべき立場の自分が、真っ先に街を出た。
もちろん、頭では、生き残ることが自分の役目であることは理解している。
理解してはいるが、それでも、未だ感情では受け入れることが出来ていない。
さらに、現実的な問題もある。
「はたして、王国は私の亡命を受け入れてくれるのか」
ロリスの呟きはあまりにも小さく、他の誰にも聞こえなかった。
フィオンの街に掲げられていた公国旗が降ろされ、代わりに連合旗が掲げられたのは、それから二時間後であった。
その夜、インベリー公ロリスらが潜む洞窟に近付く六つの影。
「止まれ! 何者か!」
小さな声で鋭く誰何するという、なかなかに器用なことをしているのは、ロリスの近衛兵である。
わずか五人の近衛兵であるが、その忠誠心の全てをロリスに捧げた男たち。
誰何する声にも力強さがあった。
「お待ちください、怪しい者ではございません。王国冒険者ギルドマスター、ヒュー・マクグラスと申します」
そう言うと、一人の男が暗がりから出て、月明かりに顔をさらした。
「ま、マクグラス? マスター・マクグラス……ですか?」
公国における、ヒュー・マクグラスの名声は絶大である。
また、似顔絵なども売られ、インベリー公の次に、顔の知られた有名人とすら言える。
そして、暗がりから出てきた男の顔は、公国の民にとって馴染み深い顔、そのものであった。
「はい、マクグラスです。公爵閣下にお会いできますか?」
「私ならここに」
ヒューが近衛兵に問いかけると、洞窟からロリスがすでに出て来ていた。
「閣下……」
ヒューは、ロリスを認識すると、片膝をついて礼をとった。
「いや、マクグラス殿、お顔を上げてください。昼間、オーブリー卿の本陣を少ない手勢で強襲したという報告を受けました。その上、国を失った男を訪れてくださり、汗顔の至り。わざわざ見えられたということは……」
「はい、ご推察の通り、王国への亡命をご検討いただきたく」
もちろんそれは、ヒューの独断ではなく、冒険者遠征軍を率いるグランドマスター、フィンレー・フォーサイスの指示によるものであった。
フィンレー自身が出てこないのは、公国におけるヒューの名声から、彼を表に出した方が問題が少なくなるという計算からである。
そして、その計算は功を奏しようとしていた。
ロリスは一つ頷き、答えた。
「うむ、事ここに至っては、それ以外には無いかと思っていたところです」
「もう一つの道がございます」
森の奥から聞こえた女性の声。
それは、誰も想定していない声であった。
涼ですら、<パッシブソナー>で、街の方を警戒していたために驚いたのだ。
(たとえそうだとしても、これほど近付くまで気付かなかったとは……。これは普通ではない……って、この反応はまさか……)
森の奥から出てきたのは、四人の男女。
先頭は、燃えるような赤い髪、しっかりした意思が表情にまで現れた、非常に凛々しい印象を与える美女。
そして、彼女の右後ろには白髪の、涼が決して忘れることのない『あの火属性の魔法使い』がいる……一般に知られる二つ名は……、
「爆炎の魔法使い……」
小さく言葉を漏らしたのは、リンであった。
「フィオナ皇女殿下、ご無沙汰いたしております。ルンの街のギルドマスター、ヒュー・マクグラスです。ウィットナッシュでお会いして以来ですな」
「マスター・マクグラス、もちろん覚えております。そして後ろのアベルさんと……」
ここでにっこり微笑んで、言葉を続けた。
「私を凍らそうとしてくださった水属性の魔法使いさん」
(女性の笑顔は恐ろしい……なんたる至言)
「その節は、失礼いたしました。全ては、後ろの火属性の魔法使いの方の責任ですので、悪しからず」
涼は、礼だけは非常に丁寧にとった。言ってる内容は不遜極まりないが。
言われた火属性の魔法使い、オスカー・ルスカは一見表情に変化はなかった。
だが、よく見ると、片頬が震えている……斜め後ろにいた二人の副官、マリーとユルゲンには見てとれた。
もっとも、夜であるために王国冒険者たちからは全く見えないが。
(皇女様とあいつ以外の、残りの二人もかなりの手練れ……。何か起きてしまった場合……戦力的には互角か?)
涼の頭の中では、『竜虎相討つ』という言葉が躍っている。
英雄マクグラス+赤き剣+涼対帝国の四人。熱い戦いになりそうである。
だが……。
「私どもは、誰とも争うつもりはございません。今日は、皇帝ルパート六世の名代として、親書をお届けに上がりました」
「ルパート陛下の親書?」
インベリー公ロリスは、怪訝な顔をしながらも、フィオナ皇女が差し出す親書を受け取って、中身を一読した。
その瞬間、表情が激変する。
驚きと、疑問と、疑いとがない交ぜになった表情。
合計四度、親書に目を通した。
そして、呟くように言葉が漏れ出た。
「これは……まことか?」
「はい。間違いなく、我が帝国皇帝ルパート六世陛下の親書であり、書かれてあることも事実でございます。帝国は、インベリー公とそのご家族、並びに供周りの方すべての亡命を受け入れることを、正式に決定いたしております」
その言葉を聞いた瞬間、ヒューを始め、アベルもさらには涼ですらも、驚きが顔を染めた。
「お、お待ちください。亡命に関しては王国でも……」
「王国も、正式に決定されているのですか?」
ヒューが慌てて言葉を告げるが、フィオナ皇女が鋭く切り返す。
「帝国は、すでに正式に決定し、皇帝陛下の裁可も下り、親書すらお届けに上がっております。ですが王国は、これから王都にて亡命の可否を審議されるのではありませんか?」
全くその通りであった。
王国は、亡命を拒否する可能性すらあるのだ。
王都は、決して一枚岩ではない。
それはヒューも理解しているし、強力な情報収集力を持っていたインベリー公も知っていた。
だからこそ、自分の亡命を王国が受け入れるか心配していたのである。
だが、それ以外に道が無かったために、王国に向かおうと心に決めていた。
しかし、ここに、別の道が現れた。
帝国への亡命。
帝国では、すでに皇帝の裁可も下りていると。
さすがにここまでお膳立てされれば、帝国への亡命を選ばない理由は無かった。
懸念すべきことはただ一つ。
「フィオナ殿下にお尋ねしたい。この公国から、いかにして帝国まで行くのか?」
ロリスの懸念はそれであった。
インベリー公国と帝国は、国境を接していない。
王国までの道ですらも、非常に困難なのである。さらにその先の帝国までとなれば、どれほどの困難な行程となるか。
「公爵閣下、御心配には及びません」
フィオナがそう言って、後ろのオスカーをチラリと見る。
オスカーは一つ小さく頷いてから、手元に持った何かに囁いた。
五分後。
涼は、空が陰ったことに気付いた。
元々夜であり、雲もかかっているため星も月も見えない空であるが、それでも何かが空に浮いているのである。
<パッシブソナー>によると、全長百メートル超の人工物。
「まさか……飛行戦艦」
涼同様に、空に何かがいることに気付いて見上げていたアベルの口から、思わず言葉が漏れた。
「馬鹿な……ただの噂に過ぎないと言われていたあれか……」
「存在するのは事実だ。だが、帝国ですら一隻しか作ることが出来なかったと言われる船……。それが今、目の前に……」
ヒューが驚き、強力な情報部の力によって存在を知っていたロリス。
「はい。公爵閣下とそのご家族を、安全に帝国までお連れいたすため、皇帝陛下が特別に使用許可を出されました。あの船で、帝国までお連れいたします」
フィオナ皇女はそう言うと、優雅に一礼して言葉を締めくくった。
インベリー公ロリスも、ここまでされては、帝国への亡命を断る理由などなかった。
全ての装甲が黒く染め抜かれた帝国の飛行戦艦が夜の闇に溶け込んでからも、ヒューたちはしばらくその場を動くことが出来なかった。
完全に、そして完璧に帝国に出し抜かれたのだ。
そのショックは、思いのほか大きかった。
(いや、これで良かったのかもしれない。言い方は悪いが、インベリー公は存在自体が猛毒になり得る。今の王国に、それを取り扱えるだけの政略はない)
ヒューは、そう考えて自分を納得させた。
インベリー公の身柄が王国内にあれば、それに対して連合は様々な手を伸ばしてくるだろう。
王国に、それを打ち払うだけの力があるかと言われれば、非常に怪しい。
そうであるなら、いっそ王国にいない方がいい。どこか遠く……そう、帝国などであれば、連合も簡単に手を出すことはないだろう。
(これで良かったのだ)
ヒューは、そう思い、心の中で自分を納得させた。
納得させたのに……。
「グランドマスターに、怒られますかね」
涼の呟きが、ヒューを落ち込ませるのであった。
「そうか」
グランドマスター、フィンレー・フォーサイスが発した言葉は、それだけであった。
怒ることも無く、呆れることも無く、変わらないその表情からは、ヒューをもってしても、何も読みとることは出来なかった。
フォーサイスも、自国の政治中枢の状況は理解している。
王都のグランドマスターなのだ。やもすれば、この中にいる誰よりも王国政治に近い人間である。
現状でインベリー公とその家族の身柄を王国に置くそのリスクの高さは承知している。
承知していながらも、亡命の提案をせざるを得ない状況だったのだ。
だが、帝国の介入によって問題が取り除かれた。
実は、心の中でかなり安堵していることを知る者は、誰もいなかった。