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000.決別という名の羽化

フォースメラ大陸記、リハビリがてら時系列が一番古い話を...

不定期更新ですが、調子が良ければ遊園地や異世界仙人も更新再開するかもです;

 

 

 

 

 

「お母様――――私はアナタを軽蔑する」

 

 

 

 愛娘、エリスの一言に、母親であるクラリスは大層困惑した。

 エリスは今年で十三の齢を数える。自分譲りの金髪と、父親ゆずりの鋭くも整った顔立ち。いまだ可愛らしいそれは大人になればさぞ氷のような美貌となるだろうことを予想させる少女だった。

 幼き時より手間のかからない娘だった。勉学に励み、とくに武器に並々ならぬ興味を抱いていた。だからといってそれにかまけることなく、軍事にも明るく、物流もきちんと理解し、政治すら理解しているのではと思わせる、まさに才女と言ってもよい。たとえ政略結婚として他の国の豪族に嫁いだとしても、その国を大きく発展させるだけの力があるだろうと、父も母も太鼓判を押していた。

 ただ、母クラリスには一つ気になることがあった。

 昨年、エリスに弟が生まれてから、彼女の態度がよそよそしい気がする。そのことをエリスの自室で訪ねた時のことだ――――。

 まさかこれが、彼女との別れの引き金になるとも思わず。

 エリスは聞いた。最近、昔よく行っていた広間の裏庭にある墓にいっているのかと。クラリスはかつて、日課のようにとある墓へ毎日参り、その主の冥福を祈っていた。それはかつて、エリスを育てていた時も同様であった。だが現在、彼女の弟である、いまだ赤子であるアストルに関しては、手放しをしていない。それこそ墓参りも忘れて、ずっとかわいがって育てている。

 エリスから見たら、自分よりも手をかけられている弟というものに納得がいかないのだろうか。そう思いはしたが、問うてみてもエリスの様子は変わらず、丁寧語で確認をしてきていた。何故行かなくなったのですか。その墓は、お母様にとって大切なものだったのではないですかと。

 それに対し、クラリスは慈愛をもって答えた。自分が腹を痛めて産んだ子供。夫であり豪族の王クィング、その子であり最愛の娘と息子たち。みなに囲まれて幸せだからこそ、それを甘受することがあの人の供養にもなるだろうと。

 エリスには、その墓はかつてとても大切な人の墓だったと教えてあった。だからこそ、その一言で分かってくれると思った。家族を作り、その中で愛をはぐくむ、その大切さと温かさを、娘にも知ってほしかった。

 だが、エリスの反応は大きく予想と違った。

 

「…………所詮、お母様も唯の畜生だったということなのか。あーあ、私、嫌な幻想見ちゃってたわ、気持ち悪い」

 

 突然口調の崩れたエリス。それも、あまりに王女らしからぬその口調。理由を問いただすより先に注意をしようと、クラリスが口を開くそれより早くエリスは言ったのだ。

 

 

 

 私はアナタを軽蔑する――――。

 

 

 

 生まれて初めて、エリスから投げかけられた自分への非難の言葉だった。

 それに衝撃を受けるクラリスを、睨むでもなく、あきれるでもなく、一瞥する愛娘。手塩にかけて育てたと自負できる、まさにどこに出しても恥ずかしくない、愛の結晶。その彼女は、まるで罪人でも前にした復讐者のような、そんな荒んだ目を向けていた。

 

「エリス……、一体、どうしたというのですか? この際、口調はもう問いません。何がありましたか?」

「一つだけ誓って。お母様、これから私との話に、嘘偽りなく答えると」

「……別にかまいません。娘である貴女に、恥じ入るようなことは何一つないのですから――――っ」

 

 そういった瞬間、エリスの指先から光がほとばしる。魔力――――最近になって魔族だけではなく、人間も使えるとわかってきたそれを用いて、エリスは空中に陣形を描いた。円形で、文字や絵が描きこまれたそれを前に、エリスは指をはじく。

 はじいた瞬間、一瞬視界が焼かれ、しかしその後には何一つ代わる様子のないエリスの姿がそこにあった。

 

『ちょっとしたオマジナイ』

 

 彼女の声に何か違和感を感じたが、しかしそれが何であるかクラリスにはわからない。


「まじない、とは、エリス貴女――――」

『これくらい、調べて教えてもらえば一人でも出来るわ。「普通は出来ない」みたいだけど、私はなんでか、そういうのが得意なようで。大したものではないから、お母様はいつも見たいに「自分の不都合を流して」ればいいじゃない。

 で、お母様? さっきの質問の回答の続きなんだけど。何でお母様を軽蔑するか、何があったかって話よね。それは、私から見てお母様がひどく汚いものに見えたからです。いえ、実際、汚いと私は断定します。畜生の汚物ほどではありませんが、少なくとも一緒にいて気持ちが良い人物では「なくなった」』

「それこそ一体、何故なのですエリス」

『じゃあ、お母様? お母様にとって、ジャックとはどんな人だったの?』

 

 ジャック、の名前を聞いて、瞬間、クラリスの脳裏には数々の思い出がフラッシュバックする。彼の笑っていた顔、怒っていた顔。巨大な敵から自分を守るために微笑んでいた顔。自分が彼を裏切ってしまい、結果的に傷つけてしまった顔――――。

 

「………ジャックの名前は、墓石の裏で見たのですね」

 

 エリスは、その確認には答えない。

 

「ジャックは、私のかつての、幼馴染でした。……ええ、結婚の約束もしていました。それくらい大好きな相手でした」

『それが、どうして?』

「…………ジャックと私の生まれについて、話さねばなりませんね。私たちは、かつてこの王国に併合される前の、小さな村に暮らしていました。村は特殊な鉄が取れるとよく言われており、鍛冶と武器を使った闘術が発展しました。ふふ、貴女が武器に興味をもったときは、血のなせる業かと思いましたとも。もっとも、私はあまりどちらも好き好んではいなかったのですが」

『――――――』

「ジャックは、その中で武術に秀でた男の子でした。幼い日からずっと、彼の強さは大きくなり、村一番に強くなり。そして、あの日が来ました。――――隣国が攻めてきたとき、私たちは散り散りになりました」

 

 それは、この王国が村を守るために派兵したのだった。

 攻めてきた隣国から村を守るため、王国は果敢に立ち向かった。

 

「隣国の目的は、村というよりも、村が資源として抱えていた武器や鉄でした。いまだにモンスターが跋扈するあの近隣の地帯、それと立ち向かえる我らが村がよほど奇異に映ったのでしょう。

 村は、総出で戦いました。王国も武器のメリットを鑑みて、私たちの下に参じました。

 ジャックは善戦で、私は後方で看病など。それが、半年続きました――――」

『では何故、お父様がジャックさんを「意図的に殺そうとした」と知って肌を重ねたのですか』

「――――っ、他に、道はありませんでした。それに、クィング様も好き好んでジャックを殺そうとしたわけではありませんでした」

 

 当時のことを述懐するクラリス。国は火薬兵器を投擲して隣国に対しようとした。その際、前線で囮になる部隊が必要となった。行き違いがあったのはこの囮の部隊。王国は村の人々に事前に通達していたつもりだったが、通達された村人たちは前線とは無関係の後方のみの者たち。結果、前線の面々は大やけどを負い、あるいは刀傷を含めて死にそうになっていた。

 そんなさ中である――――あまり子供に汚い話は聞かせたくなかったが、しかしエリスから放たれる圧が、それを許さなかった。

 

「誤解があるようだから言っておきます。私がクィング様と肌を重ねたのは、ずっと後になってのことです。その当時、作戦を立てたのはクィング様でしたが、最初に以上に気づいたのもクィング様でした。彼がとめてくれなければ、ジャックのみならず、本当に全員死んでいたかもしれません。

 そして彼の看病をしていた時、私はプロポーズされました――――」

 

 実質的に、ジャックとクラリスは婚約者のような関係だった。それも村公認の。

 しかしそこでクィングは言ったのだ。たとえどれほど恨まれても、今の貴女は聖女のように見える。貴女が隣にいてくれたら、これほど心強いことはない。貴女が他の男の下にいくことに、私は到底耐えられない、と。

 彼女を妻にしたならば、村は王国の仲間として引き入れる。警備も物資も多く入れ、要塞を築き、だれしも貴女の守りたい人々を守ろうと。

 

「村は疲弊していました。それこそ、独力では復活できない程に」

『だから、受け入れた』

「受け入れざるを得ませんでした。私は、クィング様のことを決して嫌っていたわけではありませんでした。そして当然、子を産みたいと思うほど好いていた訳でも。それでも当時は、私は村を守るために、ジャックを守るために」

 

 悲劇はそこで起こった。ジャックは当時、一番重症だった。ゆえに意識もなかったジャックを前に、クィングは暴挙のような行動に出れたのだが――――。違ったのだ。身動き一つとれなかっただけで、ジャックの意識は「あったのだ」。のちにジャックが回復してからつけていた日記を、彼の死後に受け取ったことで、クラリスはその事実を知ることになった。

 

「ジャックは、王国から持ち込まれた癒しの薬などで、身体が回復した後、はっきり言っておかしくなっていきました。私がクィング様に嫁いだという、事実は村の人が伏せていたいたそうですが。私と会えない日々が、彼をおかしくしてしまいました。

 狂人となったジャックはクィング様の暗殺に来ました――――そこで、クィング様によって、ジャックは殺されました。当時、既に貴女は生まれていましたね、今でも覚えています……。私とあなたの顔にかかった、ジャックの鮮血を」

 

 ジャックの遺体は、逆賊として葬られた。すなわち、魔王が作り出した、世界に点在するダンジョン、そこから湧き出るモンスターの陽動用のエサとして。

 そしてそれにより、クラリスもまた精神を痛めた。自分のまいた種のせいで最も守りたかった、大事だった男が壊れ、そして尊厳すら守られることなく、道具のように痕跡さえも消える。後に村から送られてきた彼の日記を手に取り、事実を知り、さらにそれが彼女の精神を病ませ。当時、胎に居たエリスの妹を殺すことにつながった。

 

「壊れかかった私を不憫に思い。またジャックの境遇を聞いてさらに同情もしてくれたのでしょう。クィング様は、墓石だけでもと」

 

 だからこそ、なくなってしまった子と、壊してしまったジャックに、懺悔を続けた。毎日、毎日、壊れそうになる自分を引き止めるように。

 そしてそんな自分を支えてくれたクィングに、クラリスは徐々に徐々に心を開いていった。己を好いて支えてくれる、頼れる男に。己の傷をいやしてくれるその男に。

 件の事以降、なかなか子供が産めなかったものの。ついに、ようやくといった形で産めた、最初の男の子。エリスにかけていた愛情と差があるとすれば、当時はまだ気持ちがジャックにあったことで、後ろめたさに似た気持ちが、エリスの養育時に走っていたからだろう。

 だからこそ、今アストルを育てることに何ら後悔はない。ジャックのことへの負い目も、彼女はその心の傷を消化したのだ。

 

 それが、ごく自然な人間の営みである。だが――――彼女の娘のエリスは、それを許容する気がなかった。それはひとえに、背後にあった一つの事実を、彼女が知っていたせいもあるかもしれない。

 

『お母様は知っているの? お父様が、死に体のジャックさんに言った言葉を』

「日記に、書かれていました――――」

 

 お前の女は俺がもらい受ける。

 たとえお前にどれだけ恨まれても、みんなのために俺と彼女は選択するだろう。

 

「クィング様らしい、責任感のあった当時の言葉かと思います。たとえクィング様のその言葉の裏に、何かよこしまな思いがあったとしても、私を愛してくれたあの方を、私はお慕い申し上げますから」

『ええ、そうよ。だから気持ち悪いの』

 

『お母様は裏切る、ということの意味を軽く考えすぎ。それは、今まで見ていたものの景色が消えるということ。幸せが終わりを告げ、あとは敵しか残らないということ。それを乗り越えられぬ誰かにとって、それだけ大きな傷を受けた者にとって、世界はもう何も色が消え去るってことじゃない。すべてのものが信用さえできなくなる――――もちろん、自分自身さえも』

「それは……、」

『だから、ジャックさんはおかしくなったんじゃないのかしら。当然、それまでの自分の人生の意味とさえ言われていたお母様でしたら、その意味はわかるでしょ』

「それでも、私は――――」

 

『――――――――じゃあ何で、お父様はジャックさんを殺そうとするとき、あんなに喜んでいたのよ』

「――――っ」

 

 エリスの一言に、クラリスは思考が停止した。

 

『ジャックさんを嬉々として殺していたじゃないの? お父様は、ジャックさんから奪うような形でお母様をとった。それに責任感が、本当にあると思ってるの? もともとほかに欲がなかったかもしれない。現在のお父様も高潔な人物かもしれない。でも、その内側にあったその汚い発露を、お母様はみているわよね。だから、さっき、言ったのよね。その内側に何があっても、って』

「何故、それを知っているのですか――――」

 

『――――当時、言葉も話せなかったけど、私は「すべて覚えているのよ」』

 

「ッ!?」

 

 エリスの言葉は、一言で言い表せない衝撃を伴ってクラリスに刃を立てた。

 いくら子供でも、まだ乳飲み子だったころのことを覚えていられるものはそういない。言葉とて理解しているかおぼつかないものが大半だ。

 だというのに、嗚呼、これほどの才女に育った我が娘は。当時から大人の言葉を解していたというのか。当時から、その内容を解し、何事か胸に秘めていたというのか。

 

『お母様の話。ジャックさんの話。お父様の嘲笑。お母様の懺悔。だから、お母様が墓へ参るのも、寂しいという思いだって私自身押し殺して、ずっと、ずっと、毎日毎日、毎日毎日毎日毎日見送っていたわ。それがお母様の贖罪なのだと。それをしてもなお許されないけど、でもせめて、それくらいしかもうすることが出来ないんだと』

「エリス……、」

『だっていうのに、墓参って心癒されて絆されて、今度はその生まれた子のことで頭いっぱいいっぱいって、その幸せ気分を壊したくないなんて、あーあ、もう、ジャックさんとんだ道化じゃない。わかってるわよね? お母様。ジャックさん、別にお母様のためだけに生まれてきたわけじゃないのよ? お母様がジャックさんの人生を好き勝手してよかったわけじゃないのよ?』

「それは……、」

『選択したのはジャックさんだって言えるけどさ。選択肢を奪っていたのはお母様だとも言えるのは、わかってるわよね。つまりそれって、地獄までの道のりを丁寧に舗装して背中を押して落としたっていう、夫婦共同作業じゃない。あーあ、やってらんないわ。気持ち悪い、気持ち悪い』

 

 気持ち悪いと連呼され、ようやく、クラリスはエリスが母親の何を軽蔑すると言ったのか。気持ち悪いと言い切ったのかを理解できた。

 自分が追い落とした相手を、都合がよくなった「なかったことにする」。その精神性が気持ち悪いのだと。

 

『お母様にできたことはたった一つ――――最初の心持を忘れないこと。その後悔を胸に、その罪を第一に生涯を生きることだと思ったわ。だからお墓参りはそういうことだって、納得してたし、尊敬はしてないけど立派だとは思ってたわよ。ま、それをしてもなお許されるようなことじゃないんだけど』

「許されないというのですか、エリス……っ」

『そもそも、お母様たちのしたことって、肉体も、精神も、どちらの面でも『人を殺した』ことじゃない。あまつさえ尊厳さえ奪い散らして食い散らかしておいて。虫が良い話じゃないの。

 だから、お母様が何をしたところで、それはもう何も効果がないでしょ。償う相手もいない、償える方法もない。そもそも本当に償えるなら「お母様と関わらなかった人生を用意して」「もう一度最初からやり直させてあげる」くらいの芸当、しなさいって話でしょ」

「そんなこと、でも、無理だから……、」

「だからこそ、それをずっと後悔して、鬱屈して、幸せを幸せとも思えないように生きる必要があるのだと思うのよ。それさえできなくて、何が尊厳ある一人の人間なのか。ただの状況に流されて本能のまま子供ぱーすかぱーすか産み散らかしてって、畜生じゃない。だったら、愛していない相手だったのなら、たとえ子供を産んでも心からその変化を受け入れないべきでしょ』

 

 そう一言で言っても、簡単にままならないのが人間なのかもしれないけど。

 言葉でそう言い切るエリスの目に浮かんでいる感情が何であるか、エリスはそれもようやく理解できた。果てのない諦観。それくらい指摘されなくてもわかれよ、当たり前だろ、そういうスタンスで生きれないなら人間じゃないだろ。様々な感情の入り混じった、やるせなさの混じったその色を前に、クラリスは思わずたじろいだ。

 

「お母様はもう、その傷痕は時間がいやしたと思っているんじゃないの? 贖罪は終わった、子供を幸せにすることが供養だと――――――甘ったれてるんじゃないわよ。わだかまりを抱えて生きなさい、たとえそれがどう表現できる類のものでないのだとしても、せめて精神だけでも苦しみなさいよ」

 

 エリスの指摘に、クラリスは拳を握った。クラリスはエリスのことも当然、愛していた。アストルを産んだ今だからこそ、より一層その想いが強い。だからこそ自分にとって大事な相手で、エリスにとっては無関係に近い第三者の怒りを、罪を、突き付けられることが耐え難く悲しかった。

 

「なら……、エリスはこう言いたいのですか? 私には幸せになる権利はないと。最愛の娘を抱え、最初はともかく私を愛してくれる殿方と、添い遂げることに、なんら幸福感を感じてはいけないと」

『はい』

 

 即答だった。

 

『少なくともお母様の場合は、ジャックさんに何も責任を果たしていない! 放り捨てただけじゃない、こんなんで、罰してくれる相手が誰もいない中、幸せになろうなんて思っていても思っていなくても、幸せに思うことは「罪」じゃなかったら何だっていうの。もちろん誰かが裁けるものじゃないけど、それを胸に秘めることすら忘れたら、お母様は咎人じゃないっ』

「――――っ、貴女が、それを言うのですか!? 私があの人を受け入れなければ、生まれなかった貴女が」

『はい』

 

 これもまた即答だった。

 

『ジャックさんのために、という動機だったからこそ。お母様は私の母であるより、父クィングの妻であるより、ジャックさんの妻であるべきだったと思う』

「でもジャックは、もう、いないのですよ―――――だから、」

『はい、だから私は、この血に絶望しました。お母様が今を幸せだと言った瞬間から、私は自分の生まれが、その周囲の環境が、ただの地獄にしか見えてきません』

「だったら、どうするというのですか。自ら命を絶つとでもいうのですか」

『はい、そして、いいえ』

 

 そして、やはりと言うべきか即答だった。

 もう準備は終わってるし、と。エリスはその場から立ち上がり、一礼。

 

「お待ちなさい、何を――――」

『出ていくのです。もはや私を守れるものは、私の才のみであると私自身痛感しました。私のこの精神性を守れるのは、私のふるまい以外有り得ないものだと判断しました。お母様やお父様には十三年お世話になりましたが、それも今日限り。

 さよなら、愛しのお母様――――さようなら、愛しかったお母様』

「……どこに行くというのです? そもそも、逃げられると思っているのですか? クィング様の手がおよばない域がこの国にあるとでも」

『いえ、もう逃げ切ります――――』

 

 次の瞬間、エリスの姿が彼女の視界から「かき消えた」。見れば、エリスが先ほどまでいた場所には、猫が一匹。エリスが最近よく世話をしていた子猫であったと、クラリスは記憶していた。

 クラリスは二度瞬きをし、周囲を見回す。エリスの姿はどこにもなく、やはりその場は無人だった。

 

「エリス……? これは一体、何を――――」

『お母様。私が魔法を使ったのは見ていたわよね。だから、そう、私、研究したの、一人でだったけど。とりあえずいつでも「空を飛んで」脱出する手段くらいは考えようって。平和っていったって、いつ戦争が起こるかとか暗殺未遂あるかとか、何があるかわからないから。

 だから、もう、私はこの国にいないの』

「ならこの声は、」

『そこの子猫に協力してもらって、お母様と会話をつないでもらっているだけ。この一回が終わったらもうまともに取引する知能もなくなるでしょうから、その子猫には頼れないわよ』

「待ってください、エリス。どこに行くのです、戻ってください、」

『産んでくださったことには、感謝してます。でもそれだけです。すべての事実を私が独力であらまし明らかに知った時点で、私のお母様への感情は黒く塗りつぶされました』

「エリス、待って、嫌――――――」

『生まれたことは奇跡です。この生と、その精神は喜びの本流にあります。ですが、これだけは言い残します――――』


『――――そんな経緯の果てに生を受け、私は自分自身が気持ち悪かったです。もう、生まれてこなければよかったと思いました』

 

 ですから、王女としての私はこれにてオシマイ。

 

『この身が生まれ負った咎はこの身のみで禊できる程に軽いものではなく、お母様が忘れてしまったからこそ、私がそれを引き受けるべきと思ったから。だから、これでサヨナラ』

「エリ、ス?」

『かつての貴女のことは、人間として尊敬できる部分もあります。母としても尊敬できます。でも、一番肝心なことを忘れてしまった今のお母様のことを、私は軽蔑します。人間として、女として、嬲り殺されれば良いとさえ思っています』

「なんで……」

 

 

 

『――――お母様は、ジャックさんの顔をまだ思い出せる?』

 

 

 

 その言葉を最後に、エリスの声は聞こえなくなった。

 寝ていた子猫が立ち上がり、部屋の隅に行ってかりかりと壁をひっかく。

 クラリスはその場で崩れ落ち、茫然として、そしてやがて顔を両手で覆い、肩を震わせた。

 

 

 

 墓参りに行くことをやめてから――――彼女の中で、ジャックの姿は、面影は、何一つ形作ることができなくなっていたのだから。

 

 

 

  ※  ※  ※

 

 

「――――しっかし、勢いで飛び出してきたけど、どうしたものかしらね」

 

 母親を胡麻化して「空中を飛び回り」、とある山奥に来たエリス。

 かつて母親の故郷だった村――――村を併合はしたものの、要塞の陣の外側に回された村の隅。かつてジャックが目の前で最愛のものを奪われ、壊されたその場所。

 エリスは伸びをして、思案顔になる。

 

「お父様が血眼になって探しても、もう国の中にいないのだから、探しようはない。あとは表向きに私の名前が出てくるようなことにならなければいいとして……、んー、髪の色を脱色しようかしら? 容姿もいくらか変えないと、感づくやつは感づくだろうし。

 せめて名前だけでも考えなきゃ―――――って、ん?」

 

 エリスはふと、自分のドレスを見る。着の身着のままで出てきたことを、足が泥だらけになったことを見て早くも後悔したが、ため息を一つつくと、当然というようにそのまま諦めて足を進める。

 

「靴作らなきゃいけないわね。というか、これってしばらく野生生活しなきゃいけないのかしら……、何か対策しないと。とりあえず、どっかのドワーフの人のところに弟子入りとかして……」

 

 そして言いながら、彼女は一度だけ背後を、自らが故郷を振り返り。

 

「さよなら、イスメラの国――――――、って、あ、語感的にいいわね。じゃあ、エスメラで」

 

 そんなことを呟きながら、足を進める。後ろを見ることは、もうなかった。

 

 

 

 

 

 

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